「ふつうの軽音部」98話を読んだ:嘘がない鳩野に感じた嫉妬とバンド=「仲間」の発見/「仲間」を語る先行作品はマンガのみ/衆院選で「サナ」が圧勝した理由と仲間意識/マンガから疎外されている左翼インテリ

Posted at 26/02/15

2月15日(日)晴れ

昨日は午前中ブログ/noteを書いたあと、金曜深夜に寝落ちして見られなかった「葬送のフリーレン」を録画で見て、少しいろいろやっていたらすぐお昼の時間になり、あるものを食べた、のだと思う。毎朝こうして昨日のことを思い出しながら書いているのだが、あまり変化のない部分については「昨日どうだっけ」と思ってしまうことが最近増えている。買い物のレシートは取ってあって金銭出納帳につけているのだが、最近はそれをよすがに前日のことを思い出すのだが、昨日のレシートは早朝の分と夜の分しか出てこなかったので、午前中の行動がはっきりしないのだが、多分出かけなかったのだろうと思う。

夜は西友に行って夕食の買い物。最近は駅前のスーパーに行っていたのだが、終了時刻が近づくと品数が減っていて、値引き品が多くはなっているがなんとなく行動の色を変えたくて西友に行ったわけである。そんなには変わらないけど。それでも24時間営業だから夜でも品数は一定以上あるし、惣菜や刺身も安くなっているのもいくつかあり、1000円以下で済んだ割にはいろいろ買えたと思う。帰ってきて少しニュースを見ながら夕食を摂って、少し日本酒を飲んだが空になった。オリンピックは見てないのでテレビも見るものが少ないのが最近寝られる時間が増えている感じはある。うたた寝をしていたら深夜になっていて、時計を見たら12時ぴったりだったので、「ふつうの軽音部」の更新を読んでから寝ることにした。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094914280980288

「ふつうの軽音部」98話「真打登場する」。冒頭は谷九高校の2年生の比較的上手なバンド「フォレストチアガール」の演奏。合同ライブ演奏順ラストに登場する七道高校の二楷堂まわりたちのバンド「とがなくてしす」の出番に向かって、鳩野は「空気が緊張してきた気がする」といい、七道高校の顧問は「最後のバンド人選ミスったかも」と考えている。人格者?の墨田部長以下「一年生の問題児三人」のメンバーが揃い、ベースとまわりとドラムの行成が癖強の会話をする中、現れたレイハが鳩野の首をぐいっとやって「あんなの見なくていいから」と中坊並み感全開で鳩野を連れ出す。

外に連れ出された鳩野はバンドの演奏を酷評されると思いきや、レイハはいきなり「水尾のことが好きなのか」と聞いてきて鳩野は焦るのだが、レイハは「鳩野は正直そんなに上手くないと思ったし、音楽は技術がないとダメだと思う」と言いながら、「鳩野の歌は嘘がなく、感情が伝わる気がした」という。

鳩野の歌で鳩野の恋愛感情に気づいたのは厘と同じだが、レイハはそれが水尾に向けられたものだと気づいていて、「昔付き合っていた」と水尾に聞いたレイハ自身から聞かれたことで鳩野は答えに迷うのだが、答えられない鳩野を見てレイハはニタリとして「ハトノさんって結構かわいいね」という。この場面がオチとしてはかなりイケている。鳩野が心中「なんなんだよこの女・・・もう俺はお前に心乱されっぱなしだよ・・・」とオタクっぽい反応をするのも笑う。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912731880567

「嘘がないっていうか、感情が伝わってくる感じがした」というレイハの評は、レイハ自身にとってはかなり重要なことなのである。90話「嘘を歌う」は「飛び抜けて歌がうまい」ために心の中に何を抱えていようと聞くものを感動させてしまう実力を持つレイハの歌とその心中と、そのレイハの心中に悲しみを見てしまう鳩野の下りが描かれていて、その答えがここにきたのか、という感じである。

純のことを忘れようとレイハが水尾に好きだったと告白する場面が回想されるが、それがレイハが自分の心に「嘘」をついた結果であることを暗示される。水尾もそれに最初は気づかず付き合ったのだけど、「知っていたはずのレイハの思い」に気づいて分かれた件は89話で描写されている。

そしてレイハの鳩野の歌に対する本当の評価は、鳩野のバンド「はーとぶれいく」と結びついていて、「バンドがどうとか考えたことなかった」というレイハに対し、鳩野は「レイハさんはバンドマンっていうよりシンガーって感じだもんね」とフラットに答えるのだが、それにレイハが「ハトノさん私ね、実は結構負けず嫌いなんだよ。意外とね」と強キャラライバル感全開で応える横顔がとても良かった。

つまりは「嘘がなく感情を伝える鳩野のうた」と、「バンドのボーカルとして歌う鳩野の歌」に、レイハは思うところがあった、ということなわけである。

レイハと鳩野の関係は中学の同級生なのだが、当時はそんなに深い関わりはなかったのだけど、鳩野が高校入学後の最初のライブで失敗したのを取り返すためにボーカル修行として夏休みに毎日公園で弾き語りをしていたところにレイハが来て、圧倒的なパフォーマンスを見せつけたのが2巻19話であり、鳩野はそれをきっかけに「もっとわがままにもっと傍若無人に」歌う「弾き語りの核心」を掴めるようになったという経緯があった。しかしこの時はただレイハのパフォーマンスに圧倒されてしまったので、レイハは「ああいうできない子が頑張ってるってなんか感動しちゃうんだよね」というある意味見下した心情であったのに対し、鳩野は「多分レイハさんは私のことを完全にナメている。もしいつかまた会うことがあったらその時は目にもの見せてやるぜ」と心に思うわけである。

つまりは、レイハの「負けず嫌いの心に火をつけた」ということは、鳩野が79話ぶり(19話の初出は2024年4月であるので1年10ヶ月ぶり)に「目にモノを見せてやった」わけであり、この辺はまさに少年マンガで、ついに「強キャラの一人が主人公をライバル認定してきた」という場面なのである。

90話で心中は純の逮捕でどん底にあったレイハが外側は笑顔で聞くものの心に響く歌を歌うのだけど、レイハの心中は「私は歌に気持ちなんて乗せてない。嘘しか歌ってない。でもみんな感動する。私には音楽の才能があるから。音楽なんてそれだけ。それが全てだから」と思いながら歌っている。純の弱さに背を向け、自分の気持ちに背を向けて歌い続けるレイハの心中の悲しみに気付いていたのは鳩野だけで、鳩野はレイハの心中に涙を流し、92話で歌い終わって帰ろうとするレイハを引き留め、自分の歌を聞かせたわけである。

レイハの心中は、「嘘のない歌を歌う」鳩野に歌い手として嫉妬を感じただけでなく、水尾に対するストレートな思いを叫んだ鳩野に対して、純に対する自分の思いをまともに伝えられず、純の弱さを見てしまって怯んでしまい、自分の気持ちに背を向けてしまった自分とを対比して、人間としての「負けず嫌い」を奮い起こしたということもあるのだろうと思う。

この辺りは「鳩野の歌が全てを前向きに展開させる」という「鳩野の神っぷり」の表現でもあるのだが、その「鳩野の神が神であるゆえん」が、彼女の歌にあるだけでなく裏表のないそのストレートさとか、「バンドという仲間たちと一緒に演奏している」ということにも支えられているのだということが明らかにされていて、この作品が本当にいい作品だなと改めて思ったのである。

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「ワンピース」60巻589話で「兄」エースを失い、「俺は弱い!」と絶望のどん底に沈むルフィに、590話でジンベエが「失ったものばかり数えるな!無いものは無い!確認せい!お前にまだ残っているものは何じゃ!」と言われ、ルフィが「仲間がいる゛よ!!!」と答える場面があるのだが、レイハのような強者に「私には仲間=バンドがいない」と気づかせるというのは、「ふつうの軽音部」は本当にジャンプマンガだなと改めて思わされた感じがする。

で、レイハのバンドメンバーとして候補に上がりそうなまわりたちの演奏がついに始まる、という展開になっているわけだけど、その演奏を周りが聞かせたい桃は聴いているが鳩野は聞かなそうだということ、また自分のベースに足りないモノを感じているがそれが掴めていない厘がまわりの演奏に何を感じるのか、というあたりが気になるわけである。次回もまた目が離せない展開なのであった。

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読み終えてから感想コメントを書いたり他の人のコメントを読んだりタイムライン上のさまざまな感想を読んだりして、結局寝たのは1時半ごろになった。早く寝た方ではあるのだが。起きてからも何度か読み返し、7時前から感想を書いているがもう8時20分を過ぎた。朝ごはんを食べたから続きを描こうと思う。

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朝食了。塩パン目玉焼きを食べカフェオレを飲みながら考えていたのだが、上記のようなことを考えていても連想として出てくるのはマンガなのだよな、と思う。テーマによってはもちろん小説や子供・少年向けの物語が出てくることもよくあるわけだが、「仲間」というテーマとして出てくるのはマンガなのである。

よく知られているように、一時期の少年ジャンプ(集英社)は「友情・努力・勝利」というテーマをスローガンに爆発的に発行部数を伸ばし、私が少年時代の70年代にはすでに先行のマガジンやサンデーを抑えてトップに立っており、時々しか読まなくなっていた80年代にはキン肉マンやドラゴンボール、北斗の拳など、また90年代にはスラムダンク・ハンターハンターそれにワンピースなど、圧倒的な作品群で凄まじい売り上げを上げていた。21世紀になってからもトップの座を守り続けたが、私が再び読むようになった2010年代以降においても「僕のヒーローアカデミア」「鬼滅の刃」「呪術廻戦」「チェンソーマン」などの爆発的ヒットを放ち続けている。

その中で、友情・努力・勝利はさまざまに形を変えつつもある種鉄板の集客源であり続けたわけで、「仲間」というある種の共同性の意識を強く日本人に植えつけもしたのでは無いかということを思ったわけである。

その起源を考えてみると例えば「鬼平犯科帳」や「銭形平次」などに見られるある種の仲間意識があったが、それらは江戸時代が舞台ということもありある種の封建的上下関係から逃れられない部分もあった。さらに遡ると「三国志演義」の劉備・関羽・張飛の義兄弟たちの友情関係というものがあるが、これは悲劇的な結末を迎えるわけである。また同じく中国の作品としては「水滸伝」があり、これは「アウトローたちの集まる梁山泊」という意味では「ワンピース」に通じるものがあるが、後半はなんだかよくわからない方向に拡散していく感じがあった。

欧米の作品では一番思いつくのは「十五少年漂流記」なのだが、これは民主的な共同体作りみたいな行儀の良さがあり、ワンピースのような普段はハチャメチャでしょっちゅう喧嘩したりしているのだが戦いになると団結し、それぞれが弱さを抱えながらもリーダーであるルフィの元で仲間の力を信頼して困難を乗り越えていく、というような自由奔放さは無いわけだ。だから「十五少年」には途中で分裂騒ぎがあり、まあこれは「ワンピース」でもウソップが一時グループを抜けるという展開があったりはするが、素直に謝ることで復帰できている訳である。「十五少年」には「蝿の王」という凄まじいネガ作品があり、そこが近代文学の侮れないところではあるが、友情や仲間というものを無条件には信頼できないという近代人の哀しさの表れでもあるような気はする。

それに比べると、ジャンプに代表される日本の少年マンガはかなり無条件で「仲間の素晴らしさ」を説いていて、その系統での名作は多い。そういう作品がヒットするというのは日本人の幼さの表れだ、みたいなシニカルで冷笑的な批評も左翼方面からは昔からよくなされていたが、そんな批評がいくら現れても日本人がそういう作品を求める心性に水をかけることはできないのが面白いなと思う。

ただ、逆に言えば近代文学や現代文学で正面からそういう仲間意識のようなモノを称賛する作品は自分が知る限りではないわけである。これは考えてみたら不思議なことなのだが、それだけ日本の少年マンガが突出した存在だということは言えるだろう。だから「仲間意識」のようなモノで先行作品を考えても、ストレートなものはマンガしか出てこないのである。

ただ、現代のような民主主義社会において、仲間意識というのはかなり重要なファクターだろう。国家という共同体に仲間という意識が持てなければ、老人福祉や障害者福祉などを現役世代負担することに対して説得力が持てない。左翼はそれを人道主義や社会的正義のような理屈で説得しようとするから信頼されないのである。

日本には古くから「一揆」という伝統があり、これは本来は「一味同心」ということを表すわけだが、領主への反抗という面が強く捉えられて民衆的なものと捉えられているが、オープンレターではめられた呉座勇一氏の「日本中世の領主一揆」という本にもあるように、領主層もまた一味同心してより上の支配に対抗することはあった。「国人一揆」が一番わかりやすい例だろう。

江戸時代にも町人や武士の垣根を越えた同好の士の集まりが文化を支えていたことは研究にもよくあり、秋田蘭画の佐竹義敦や小田野直武は主従の垣根を越えて共に写生をしたりしていたという話もある。鎌倉幕府自体が将軍という共通の主人を形の上では頂いた御家人たちの共同体的な部分があったということもある。

そうした原初的な共同性というものは明治以降も個人的な友情関係や、戦時中の「同期の櫻」みたいな感覚、「戦友」という概念の強さとして、現代の友情の源流のようなものになっているのだろう。特に「戦友」的なものが例えば60年・70年の安保闘争にも尾を引き、それらが現代のマンガの中にも反映されている部分はあるようには思う。

こうしたものはある種普遍的なものではあるのだが、そういう物語=ナラティブが繰り返し繰り返しヒットしているのが日本の特徴なのではないかという気がする。階級格差化が進行しているとか、国際情勢の悪化などの外的な要因もある中で、これらのナラティブが日本において強い力を持っていることは決して無視することができないことだろうと思う。

直近の衆議院総選挙で、高市早苗首相が率いる自民党が圧勝したのも、同じ面があるのではないだろうか。「サナ活」とか「サナ推し」という言葉が飛び交い、左派メディアはこれを有権者の幼さの表れだと冷笑するのに余念がなかったが、つまりは若い人たちをはじめとして、国民の多くは高市さんを「仲間」だと認識したということなのだと思う。

女性初の総理大臣だというのももちろんあるがそれだけではなく、一般家庭に生まれて「女だてらに」と言われながら国立大学に通い、政治を志して松下政経塾に入って、夜の席も断って地道に政策の勉強を続け、安倍元首相ら重鎮に評価されて頭角を表し、はっきりすぎる物言いで時に波紋を呼びながら、自分の信じる正義と日本のあるべき姿を提げて総裁選で勝利し、少数与党の困難の中で好機を逃さず勝負に打って出た高市さんを、若い女性だけでなく多くの国民がある種の理想的なロールモデルとして受け入れたからこそ、このような地滑り的な大勝を収めたのだろうと思う。「学者3代目だからといって恵まれてるとかいうな」とか「翻訳はセレブバイトが多いとか批判するな」というような人たちとは違うのである。

日本人の7割はヤンキーで3割はオタクだというような言説があるが、共通しているところは「マンガを読む」というところだろう。だからそこで繰り返し語られるナラティブが日本人のメンタリティに影響していないはずはないのである。左派インテリの弱点はそこから疎外されていることであって、その一角である出版界においてもマンガを低俗なものだと呪いながら、マンガの売上でなんとかその他の出版も維持されているというのが現状であるわけで、だからこそさらにマンガを敵視する視点も生まれてきてしまうのだろうなとは思う。

左派インテリがどうしても「民衆=国民」を理解できず、意味不明な陰謀論で国民を語ったり果てには罵倒したりするのも彼らがマンガというナラティブ世界から追放された、いわば「楽園追放」の状態にあるからではないかと思うので、彼らがそれを受け入れ再び国民と歩むことができるようになるのかは、そこにかかっているのではないかという気がしたわけである。

考えてみると高市首相がドラマーでもあり、韓国の李在明大統領とドラム外交を繰り広げたのは、ある種の象徴かもしれないと思った。リューマチの持病もあるし警備上の事情もあるから色々難しいとは思うが、ドラム演奏やバイクや車の運転などの趣味も楽しむ心の余裕も忘れないでもらいたいとも思う。

総選挙の高市内閣大勝と予算の年度内成立/「期待される日本」になってきた/ポッドキャスト/「シテの花」:父親の取り合いという情念溢れるドラマ/年齢不詳/noteの「いいね」と「ビュー数」

Posted at 26/02/14

2月14日(土)晴れ

昨日は午前中母を岡谷の病院に連れて行く。昨日はなぜか病院も空いていたし診察も治療も順調で、トラブルなく帰ることができたのでよかった。母の車椅子を押していたら近くに座っていたおばさんに「いいご夫婦ですね」と言われたので「母です」と言ったのだが、母は90を超えているし私は母が26の時の子供なのだが、母が若く見えたのか私が老けて見えたのか。最近時々そういうことを言われる。まあ母はまだ髪が黒いところがあるが私は真っ白なので、そういうふうにも見えるのかもしれないと思った。若い頃は妹と歩いていると「お姉さんですか」と言われたものなのだが。

近くのスーパーで買い物をし、母を施設に帰してから近くのドラッグストアでトイレットペーパーを買って施設に届け、家に戻って昼食。帰ってから朝のnoteの更新で終わっていたのをブログの方も更新した。最近は比較的noteの「いいね」が増えていて、8日間連続で10を超えている。ビュー数も一日600を超えているので2012年ごろかな、ブログでアクセスが平均500行ってた頃を思い出すのだが、まだこのあたりに壁があるのかなと思う。フォロワーさんが633なので妥当と言えば妥当なのだが、Twitterの方は最近ようやく900に戻しているけど個別のツイートのアクセスは二桁止まりということも多く、まだまだだなと思う。一時期の騒動で鍵をかけた方のアカウントはまだ3000フォロワーあるのだが、もうしばらくは様子を見ようと思う。

こちらは日記形式で書いていて、それは2000年ごろにウェブ日記で書き始めたのが私のネットの初期の発信だったので、それが今でもスタイルとして残っているということなのだけど、一つ一つの記事の内容を一つに絞って書いた方がいいのかな、ということはあるのだが、そうすると毎日一つというのは縛りが大きすぎるし、いくつも書きたいことがあるけれどもそれだけで一つの記事にするにはボリュームも首尾も足らせられない、ということが往々にしてある。だから今のように毎日いくつかの話題を取り上げるというスタイルにしているのだけど、これは時間に追われながら尚且つ言いたいことはとりあえず一通り書く、という書き手の呼吸としてはそれなりに良いのだが、読み手にとっては雑多な印象になるだろうなとは思っている。ただ執筆を生活のメインにするには収入的に無理があるので、その辺の工夫をしている暇がないという感じになっている。痛し痒しである。

夜は仕事が終わって帰ってご飯を食べて少し横になったらうたた寝をしてしまい、寒かったので入浴してから寝た。金曜の夜は寝るのはフリーレンを見てからにしたいのだが、昨日は体力的に難しかった。

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https://www.jiji.com/jc/article?k=2026021300996&g=pol

8日の衆議院総選挙が自民党の圧勝に終わったのを受けて、18日から特別国会が開かれるが、特別国会では首相指名選挙に続いてそのまま施政方針演説など政府4演説、各党代表質問と続いて来週後半ないし3月頭から予算審議が本格化ということになるのだろう。高市総理としては超短期決戦で衆院選挙をやったのは中道が態勢が整わないうちにというのもあっただろうが予算審議の時間をなるべく確保して年度内に予算成立を図りたいというのはあったと思うので、迅速な審議を求めて行くのは当然だろうと思う。

ただ自民党が大勝しすぎて自民党内にも非主流派・反主流派が大勢いる情勢になったこと、また特に中道(というより元立憲民主党)が壊滅状態なので国会審議の態勢がなかなか整えられないということもあり、返ってモタモタしてしまう感じになっているようである。

予算を年度内に自然成立させるのはもう物理的にほぼ無理なので、参議院でも予算が可決されなければ年度内成立は難しいが、当面は迅速な予算審議だけでなく暫定予算も詰めながら国会に臨んでいくということになるのだろう。高市さんはスピード感を重視する人に思えるので日程がなかなか前倒しできないことにイライラしているのではないかという気はするのだが、衆参両院の議員たちだけでなく多くの官僚や事務職員を加えれば数千人の人が関わって行くだろう予算審議を慣例よりもスピードアップして進めるのはそう容易いことではないようには思う。野党や党内野党の人たちだけでなく、高市内閣の方針に反感を持っている官僚たちなども少しだけ消極的反抗をすれば審議を遅らせるくらいのことはできるわけで、小泉元首相のように「小泉内閣に少しでも反対する人は全部抵抗勢力」みたいなある意味強権的なやり方はできないしやるべきでもないから、なかなか困ることもあるだろうと思う。

今回の予算は既に石破内閣の元で概算要求が始まったものだから本格的な高市内閣の予算ではないので早く処理したい思いはあるだろうと思うが、焦って小池百合子さんの「排除します」発言のような強権的と見える発言をしないようには気を付けてもらいたいと思う。

それを考えるとある程度は暫定予算を用意しなければならないのは当然で、アメリカのようにしばしば政府機能停止というわけにはいかないから、それは両面から進めていって貰えばいいと思う。まあ特に言えるのは、焦りは禁物だ、ということだろうか。

https://x.com/russianblue2009/status/2022151421035229450

ただ、経済市場の様子を見ていると、高市政権大勝で株価が上がるのは予想通りにしても、為替も円高傾向が出てきて、再建も長期金利が低下(債券高)の傾向になっていて、「高市政権=積極財政=財政悪化=円安債権安」の等式が崩れつつあるのも興味深いと思う。考えてみたらG7や国連安保理常任理事国の国々、つまりは「大国」の中で、日本ほど政権基盤が安定し、対外的にも問題が少ない国はないわけで、一時期の中国の強硬姿勢もレアアース輸出も解禁されたり中国の漁船拿捕にも強硬な抗議がなく、日本との軋轢を避ける傾向に出ているので、そうした状況を踏まえると「日本買い」はある意味当然である気はする。安倍元総理は「Buy my Abenomics」とよく言っていたが、高市総理も期せずしてSanaenomicsが買われているわけで、環境は整いつつあるということはあるだろう。

というか、いろいろな意味で日本は再び期待されるようになってきている感じがある。総選挙の前から、台湾では高市総理の対中姿勢が高く評価されていたのはもちろんだが、韓国でも「右派政権」に対する警戒感がドラム外交で緩みつつあり、アメリカは高市政権支持を異例なまでに打ち出しているし、イギリスやイラリアの首相も来日し、フィリピンなどの中国との間に問題を抱える国も日本に接近しようとしている雰囲気がある。経済だけでなく外交や安全保障の面でも、日本が再び注目され、見直されている感じがあるわけである。

https://mainichi.jp/articles/20260213/k00/00m/010/203000c

ヨーロッパで高市首相がどの程度評価されているかはわからないところもあるが、ウクライナとの友好議連の会長でありロシアから永久入国禁止を突きつけられている麻生派の森英介議員が衆院議長に就任する方向のようなので、これがそれなりにインパクトを持って受け止められるのではないか、という気はする。

「日本はやりそうだ」という期待感が高まるだけでなく、違法な外国人の取り締まりなども進んでいるようで、タガが緩んだ日本社会という印象も少なくなっている感じはする。内閣が変わるだけでこれだけの変化が起こるのだというのはすごいことだとは思うが、その最も期待の根源は、高市さんが周りを戸惑わせるほどの「やる気」に満ち溢れているからだ、ということなのだと思う。

健康に気を配り、焦らずに大きな仕事をやり遂げてもらえると良いなと思う。

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現在の民主主義というのは保守派が担っていて、それを破壊しようとするのがエリート主義の左翼であり、また話し合いも拒否し原理主義的な主張を押し付け反対者には暴力的に振る舞うwokeやいわゆるしばき隊が民主主義を破壊しようとしているという雰囲気は、多くの若者が感じ取っているようには思うのだが、その辺りのところを書くのはもう少し用意が必要な感じがするので、また改めて書きたい。

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マンガに関しては昨日聞いたポッドキャストが面白かった。

https://note.com/hap_pia58/n/n05ef52aceddb

「ふつうの軽音部」について語っているのが面白かったのだが、語り口もよくこういう発信の仕方もあるのかと感心した。繰り返して2回も聞いてしまったが、他にも「ハイスコアガール」について語っているのも良かった。私もいろいろ工夫したいと思う。

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あとマンガについて一つだけ書いておくと、今日更新の「サンデーうぇぶり」の「シテの花」55話が大変良かった。

https://www.sunday-webry.com/episode/12207421983383916914

錬成会の名の下にお能のシテ方の流儀の家元の息子である至龍と家元の弟である理事長の息子の世鳳(よだか)が采配を振るって二組に分かれて技を競う催しになっているのだが、ついにクライマックス手前の世鳳の舞台になっている。舞台の舞と謡に合わせてそれぞれの演者たちの今までの歩みや心の中が吐露されて行くのだが、今まで腹が見えなかった世鳳がついにその重い情念の由るところを吐露したのが、ある意味衝撃的な内容だった。

実父である理事長サイドに立ってその野望のために動いているように見えて、実は家元を心の底から慕い、天才児らしく勝手に振る舞う至龍に嫉妬して、家元を真に支えていこうという強い気持ちを持っていて、「あなたの息子に生まれたかった」と心情を吐露(もちろん舞と謡でであり言葉にするわけではない)するのだが、こういう情念というのは言われてみたら文学などではどこかで読んだ気もするが、マンガで表現されたことは初めてなんじゃないかと思った。

つまりはこの錬成回における対立は至龍と世鳳の「父親の取り合い」なのであり、ふつうに考えれば世鳳の負けが最初からわかっている戦いになるわけで、その辺りがなんともまた情念が濃い。主人公の琥太朗はそうした「人の思い」を鏡のように映し出してしまう能役者なので、それがどのように影響するのかはわからないのだが、この「対決」がこんなに盛り上がるとは思わなかったので、凄いと思ってとりあえず書きたいと思ったのだった。

能に興味がある人にも、マンガに興味がある人にも、人間ドラマに興味がある人にも、おすすめできる作品だと思う。

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リベラルが嫌われるのは敵味方の感覚を曖昧にし信義則を蔑ろにするからでもある/世襲と社会的流動性について/「憲法」とは何か/政策について少しだけ

Posted at 26/02/13

2月13日(金)晴れ

昨日は午前中車の定期点検があり、ディーラーに持っていったが、特に異常はないとのこと。2007年製だからもう19年目になるが、カーナビがいかれたり運転に支障がないところではいろいろあるけれどもなんとかまた付き合わせてもらいたいと思う。この車は父が生前に買ったのだが、乗っている期間はごくわずかだったので、そう言う意味では父から受け継いだ遺産の一つだなと思う。先祖の恩徳を感じる今日この頃である。

帰りに書店に寄り、店外のATMでいくつか記帳して、「新九郎奔る!」の22巻を買い、裏手のスーパーに回ってお昼の買い物をして帰った。

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いろいろ考える。世襲について、「憲法」の位置付けについて、政治における敵と味方について。政策についていくつか思ったこと。

日本で世襲と言えば問題になるのは「世襲政治家」であるが、確かにこれは大久保利通から数えて5代目に当たり祖父が吉田茂元首相である麻生太郎氏のように世襲される例が多いのは確かだ。安倍晋三元首相も祖父が岸信介元首相、小泉進次郎氏も父が小泉純一郎元首相で政治家としては4代目である。これらは一部の人々への権力の集中という意味で弊害も指摘されるが、民主主義社会においては職業選択の自由の幅広いため、一般の人々は必ずしも政治家を選択肢として選ばないわけで、政治家の家系に生まれた人たちが幼い頃から政治の空気を吸い、自然に志して勉強するということもあり、また政治家の資質としてもアドバンテージを持つことも多いので、必ずしも否定されることではないと思う。

ただし、重要なことは「世襲でない政治家」、つまり一般家庭で育った人が政治家になること、特にトップに立つことも民主主義を活性化させるために非常に重要なことだということで、明治政府の主な政治家もたたき上げの下級武士層の出身だったことを考えると、社会の上澄みのみが政治に関わるようになることは危険だということはある。それが社会階層の再生産と階級差の固定という問題につながるからである。

そういう意味では、高市早苗氏が全く世襲ではない、会社員の父と警察官の母の子として生まれ、国立大学に進学して松下政経塾を経て政治家になるという経歴であることはやはり特筆すべきことだと思う。彼女が女性であることは有利に働いた面も不利に働いた面もあると思うが、その時々での彼女の選択の確かさが今日の地位につながっているのだろうと思う。

「女性が初めての総理大臣に」というのはよく「ガラスの天井」と言われるが、全く政治家のいない家系から政治家になり首相にまで上り詰めた例は男性でもなかなかいない。苦学の人である菅義偉元首相も、父は町会議員を務めている。安倍さんはもとより、その後の岸田さん・石破さんも世襲政治家であり、そうでない人は同じ松下政経塾出身で当時民主党の野田佳彦元首相まで遡らなければならない。高市さんの首相就任は、そういう意味では日本がまだまだ階級流動性のある社会であることの一つの証左でもあるわけである。

彼女が人気があるのは、もちろん憲政史上初の女性総理大臣であるということは大きいが、彼女の経歴がロールモデルとして、特に女子に対してであることはもちろんだが、男子に対しても十分機能するところがあるからだという指摘があり、それはその通りだと思った。

海を隔てた北朝鮮では、共産主義国であるに関わらず、3代目の金正恩の後継者として娘の金主愛(13歳)が内定したという報道があった。

https://www.47news.jp/13857122.html

これがまさに「世襲」の典型例だが、共産主義国家においてこれだけあからさまな世襲は珍しいにしても、中国でも革命第一世代の子弟が中国共産党内部で出世する「太子党」と呼ばれる人たちがいて、習近平もその一人である。彼らは共青団(日本共産党で言えば民青のようなものか)出身の胡錦濤らと派閥争いをして、権力を握るようになってきているわけである。

昨日は「学者の世襲」が話題になっていた。学者の場合は権力者ではないけれども、社会的に上位階層にあり、また一定の発言力を持つある種の階級を成しているとは言えるだろう。「学者一家」というものは確かに存在するし、湯川秀樹・貝塚茂樹・小川環樹の兄弟もよく知られている。

これももちろん一概に悪いことではないが、特に社会について研究するような学問においては視野が狭くなる可能性はあるわけで、その辺りは学者の人たちのツイートを見ていると本人が気づかず周りから突っ込まれることもよくあるように思われる。文化資本を受け継ぐという意味では私も父の膨大な蔵書(読む気にならないものが多いが)があるのでそうしたアドバンテージは陰に陽にあるのは確かである。

https://x.com/kiya__na/status/2021794348363596195

学者は自ら研究対象にされることを嫌うけれども、「お前が深淵を見ているとき、深淵もお前も見ているのだ」というがごとく、大衆を研究者の目で見ているときには大衆からも様々な目で見られていることは自覚しておいた方がいいと思う。

それはともかく、学問の世界にもこうした世襲的な学者だけでなく、そうした人たちが増えることによって閉鎖的な「アカデミア」の世界になりがちなところに、全く違うタイプの学者が参入してくることも大事なことだし、そうしなければ学問の、特に人に関する学問の活性化はないだろう。

これらは「推薦入試」という彼らの流儀にあった人たちを採用しがちな傾向の人材発掘の問題点の一つであるわけで、「アカデミア」が欲しい人材が必ずしも社会に役立つとは限らない。「コミュ力が強い」などの「求められる人材の型」から外れていても優秀な人間にチャンスを与えることがなければ、アカデミアも社会も活性化はしていかないだろう。

また、そうした「求められる人材」ばかりを優先することは階層格差の再生産にもつながる。社会の流動性、特に階層上昇のチャンスを幅広く確保することは国家社会にとっても重要である、ということで、世襲と社会の流動性については常に、左派リベラルの人たちの好きな言葉で言えば、「監視」していくことは必要だろうと思う。

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あとは少しメモ程度に。論点だけ書く感じだが、「憲法」という存在の性格について。

https://x.com/ishizakinyaoon/status/2021900713341989170

https://x.com/tebasakitoriri/status/2021539495796187610

https://x.com/7Znv478Zu8TnSWj/status/2021796130036887690

御三方とも言いたいことは、憲法は国を縛るだけのものではなく、国の基本的な成り立ちを定めるもので、現在の日本のような契約国家観から言えば、つまりは社会契約における国家と国民の契約内容である、ということになるわけである。これは違う成り立ち(立て付け)の国家間を持つ国々ではまた違う性格を憲法は持つわけだが。日本の場合は、

「憲法はまず国家権力を構成し(構成原理)、しかるのちに構成された国家がやってはいけないことを定める(抑制原理)という二つの原理に基づく諸ルールの組み合わせ。」

という石崎さんの指摘が妥当だと思う。しかし木村氏のいうような「憲法は国民でなく国家を拘束するもの」という見方は根強く、それは憲法学の大家である芦辺信喜の主張が根拠になっているらしい。しかし「国家の基本法」であるというところを外してしまうと、社会契約の中身が不明瞭になり、あまり意味がなくなる。また契約であるからこそ常に更新されるべきものではあるから、民主主義国家の基本法である日本国憲法が大日本帝国憲法のような不磨の大典であることはあまり望ましいことではないだろう。

自民党は結党大会以来憲法改正を主張してきたわけだから、高市首相がそれをやるというのも何もおかしいことではない。より良い内容にするように議論した方が生産的だと思う。

憲法改正の方向性としては自衛隊の憲法明記がよく語られるが、総理大臣の衆議院解散権にしても七条と六十九条の双方に規定があり、より明確な規定があった方がいいかもしれないとは思う。

https://x.com/lawyersuzuki/status/2021532958780543048

個人的に思うのは、憲法七十九条の最高裁裁判官の国民審査に関する規定で、審査対象になるのは判事になった次の総選挙とその10年後としているのだが、近年は10年も在職する裁判官はいなくなっているので、ほぼここが空文化していることである。最近、「×」がつけられる数が増えているというのは、その裁判官に対してというよりも、国民の「司法に対する不信任」が表明されてるのだと思う。国民審査の周期を10年より短縮すべきではないかと思うし、また下級審の裁判官も国民の批判対象にできるようにすべきではないかと思う。

***

政策について少しだけ。

高市早苗「国力研究」でも食料自給率は農水省的にカロリーベースで計算しているのだが、この考えだと野菜や果物はいくら生産しても自給率アップに貢献しないのだよね。金額ベースの考えも入れていくべきだと思うのだが。

あと、連合の芳野会長が今回の総選挙で政策論議が深まらなかったと言っているが、高市首相はほぼ政策の話しかしていないわけで、対抗する中道の側が満足に政策を訴えられなかったことが問題なのだろうと思う。これはもちろん、合併した直後で公明と立憲の間で十分に政策のすり合わせができていなかったことが大きいが、それならば無理に合併せず、選挙後に合併しても良かったわけだからあまり言い訳にはならないように思う。

https://x.com/tetsuya_00x/status/2021705747034456546

***

それより中道改革連合について私がよくないと思うのは、野田代表と斉藤代表の間で新党への統合が進められたことはそれとして、結果として唯々諾々とそれに従った立憲の議員たちから不満の声が聞こえてくることだと思う。それならば無理に従わず、党を出る方がまだ筋が通っていたと思う。

実際に、公明の議員はほとんど比例で当選し、立憲の議員は小選挙区で七人しか当選していないわけだから失敗であったことは間違い無いのだが、それも自分たちの選択であったわけで、公明のせいにするのはおかしいし失礼だろうと思う。

代表戦に出てきた二人も公明との連携の継続に後ろ向きな雰囲気があり、一度組んだ仲間に対してそのような態度を取ることは結構致命的であると思う。これは先日も書いたが、選挙の実働部隊や組織票の担い手である創価学会の人たちとの交流を持とうとしない態度は全くよく無いと思う。

味方にしたはずの創価学会を批判する立憲の人たちにとっても、原則は原則としてあるだろうが、一度政治の世界で妥協して手を結んだなら、それに基づいて行動しなければ信義則にもとるのは当然であり、有形者に対しても「野合」の批判を浴びるだけでなく「不誠実」という批判も加わることは覚悟しなければならないだろう。

良くも悪くも、政治の世界において「敵と味方」の概念は重要だと思うし、そして現実の政治の世界ではその敵味方が絶対的なものであることはよく無いわけである。あまり尻軽に敵味方を取り替えるのは軽薄だが、一度変えた敵味方をすぐまた変えようとするのは軽薄以前に人間性が信頼できない。

https://x.com/kameiakikoweb/status/2021949767266578913

これが少なくとも大人の態度だろう。

同じようなことは国際関係にも言える。現状どこの国が敵でどこの国が味方か、というのは十分認識しておかなければよくない。今の国際関係はアメリカと同盟関係を結び、韓国やオーストラリア、台湾、その他を巻き込んで「自由で開かれたインド太平洋」の枠組みの中で中国やロシアと対峙していくというコンセプトになっているわけである。日本は英仏の核を持つEUとは違って「核カードを持つ国家」では無いから、現代世界においてそれなりにしっかりした戦略を持たないと生き残れないし、現在はアメリカとの連携がうまくいっているわけである。

共産党や左翼はそれを曖昧にして、「核所有国家の横暴」の範疇の中にアメリカのトランプ政権を加えてロシアや中国と同列に、ときには中露の方が良いという雰囲気さえ漂わせながら批判するから、そうした姿勢が非難されるわけである。

これは戦後民主主義的な前提、「みんな仲良く」を悪い方に使っているからだと思う。「みんな仲良くしよう」ということ自体が悪いとは言えないが、現実問題としては実際にみんなが中良いわけでは無い。(もちろんそういうこともあるかもしれない)しかしそれをいうあまり対立をないことにしようとするといじめなどの陰湿な形で噴出する。仲良くすることも大事だが、仲良くできないまでも相手に敬意を払うことができる人間である(国際関係で言えば国家である)ことの方が重要なわけである。例え敵味方に分かれていてでも、である。(この辺、イスラエルがパレスチナをあくまで国家と見做さないのは敬意を払わないためで、この問題はまた別に論じる必要はある)

国家として、あるいは個人として独立し、自立するということと、国家同士、あるいは個人同士、個人と政党間の、あるは政党間同士の信頼関係を持つということは、両立させなければいけないのである。手を組んだ間同士がそれなりに批判し合うのはあっていいことだけれども、それが「味方としての信頼関係」を損なうものであってはならないし、それは「相手を恐れるから」ではない。「信頼関係が壊れることを恐れるから」なのである。その辺りのところはちゃんと押さえておかなければならないと思う。

この辺りの最も良い例は、こちらのnoteかなと思う。

https://x.com/honnokinomori/status/2021880908870279630

安倍元総理の国葬に出席した政党は今回の選挙で勝ち、出席しなかった政党は負けているという話である。安倍元総理は選挙運動という議会制民主主義の根幹に関わる仕事に従事しているときに銃撃され暗殺された。だから彼の死は、民主主義を擁護する立場からは絶対に哀悼(例え形式的であっても)しなければならないものであり、それを生前の政治的対立関係から欠席することは民主主義の否定である。

「リベラルが嫌われる」というのは、こういう原理原則を蔑ろにする、というところにもあるのだと思うし、議会制民主主義を字義通りに学んできた若者たちにとっては、「ママ戦争止めてくるわ」などという情緒的な(そして現在の国際情勢においては無理がある)表現よりも寄り重要なことだと思っているのだと思う。


「リベラル」という言葉の栄光と汚辱:リベラルという言葉の混乱をいろいろな面から考えてみる/「政策」について:高市早苗「国力研究」と自民党衆院選パンフレット政策集を読む

Posted at 26/02/12

2月12日(木)曇り

昨日は建国記念の日で、いろいろなことがお休みだったから午前中かなりゆっくりブログ/noteを書いて、更新してからありあわせでご飯を食べ、午後車で出かけてツタヤへ行って高市早苗編著「国力研究」(産経新聞出版、2024)を買い、スーパーに走って夕食の買い物をして帰った。

***

これは以前からそうなのでが、現在も問題になるのが「リベラル」という言葉の意味する内容である。現在の「左翼リベラル」というような使い方が出てきたのはいつ頃からかはっきりとした記憶はないのだが、冷戦時代、つまり昭和の終わり頃までは社会党や共産党に対して使われる言葉は「革新」であり、自民党に対して使われるのが「保守」だった。だから1970年代に自民党がロッキード事件などをきっかけに議席を減らし、過半数ギリギリになった時代には、その国会の状態は「保革伯仲」と言われたわけである。

現在のように立憲民主党だけでなく社民党や共産党まで下手をすると「リベラル」の範疇に入れられるのはここ10年くらいのことかと想うが、新聞などで用法を調べてみないとはっきりとは言えない。

日本において、基本的に「リベラル」というのは「封建的」の対義語として使われてきた時代が長いとおもう。つまり、「うちの親父頑固で古臭くてさあ」の対義語が「うちはリベラルだから」であったわけである。もちろん、この「封建的」の用語も江戸時代的でも「御恩と奉公」みたいなニュアンスでもないので正しくはないのだが、漠然と「古臭い昔の考え」について「封建的」と言われていたわけである。今流行りの言葉で言えば「家父長制的」という言い方になるだろうが、当時はそんな洒落臭い言葉は使われなかった。まあ逆に言えば上野千鶴子氏らがそういう言葉遣いを引っ提げて登場したことで注目を集めたというようなことである。

ついでに言えば、「革新的」が「左翼」であるということを指すようになったのも戦後のことで、戦前に「革新」といえば、国家主義的に国家運営の合理化を進めようとする人たちのことを指し、岸信介らが「革新官僚」と言われていたわけである。平成になってから近代氏の立場からそういう指摘がされるようになったこともあったからか、左翼に対して「革新」という言葉が使われなくなり、代わりに使われたのが「リベラル」であったように記憶している。

本来の日本におけるリベラルという言葉の用法はそういう意味で「自由主義的」、「進歩主義的」、「明るい近代的な考え方」みたいな意味で使われていたわけだが、戦中・戦後は政治的にはあまり使われなくなった。それは戦時中(というか昭和のある頃から)自由主義的であることは反国家的であることだとみなされたり、戦後は共産主義・マルクス主義の言論が敗戦と同時に言論界を風靡したからで、主導権を握った左翼言論人は彼らに否定的な自由主義的な言論人を「オールド・リベラリスト」と読んだわけである。これは「オールド」に重点があるわけで、すでに「リベラリズムは古くさい、これからはコミュニズムやソシアリズムの時代だ」と考えられていたわけである。

戦後民主主義というものはこの時代に育っているので、色濃く左翼的な影響を受けているし、日本の共産主義がコミンテルンの32年テーゼに強く影響されたために天皇制を絶対主義と見做して強く否定し、日本の国家体制自体を悪であるとみなす風潮が強くなったわけである。

ただ、当然ながら多くの国民がそれに同調したわけではないが、当時の「意識高い」若者たちがそうした思想に取り込まれていったことは事実であり、そうした人たちが現在の「老害左翼」の起源でもある。

当時の「オールド」リベラリストたちはそういう意味で言えば戦後も色濃く残った「封建的な」勢力に対してだけでなく、左翼(社会主義・共産主義勢力)にも否定的なスタンスを持っていた。それはソ連や中国、東ヨーロッパなどの体制が人権抑圧的であり、自由のない世界であることが少しずつ知られるようになっていったからで、日本の左翼の教条的な主張を強く否定するのがリベラリストであったからである。

しかし「意識高い」人たちからはそれは「保守反動」であるとみなされて攻撃されたり、また攻撃はされないまでも「軍国主義に対立して投獄された勇敢な共産党員」に対して「のうのうと娑婆で生きて軍国主義に有効な反対もできなかった腰抜けども」みたいに批判されていたわけである。

また、共産主義的な考えから言えば市民革命後の世界はブルジョアジー(資本家、金持ち)とプロレタリアート(労働者、貧乏人)の階級対立の世界であり、リベラルな考え方は「ブルジョア的」「プチブル的」と批判されていたわけだが、高度成長を実現した当時の経済の担い手の多くは保守的でありまたリベラルであったから、マルクス主義に染まった意識高い若者たちを「青臭い」「現実を知らない」と批判していたわけである。

したがって、今の人々でも比較的年齢の高い人たちの間で使われる「リベラル」という言葉はそうした意味での風雪に耐えた「リベラル」の観念がその言葉の裏にあるのだが、平成になって使われ始めた「リベラル」という言葉には別の意味づけが行われるようになったわけである。

世界的に見れば、イギリスの保守党と自由党の古典的な対立の時代においては、自由党はブルジョアの政党であり、貴族的な保守党に比べて進歩的と言われる政策を打ち出していたわけである。古典的な自由主義というのは市場を開放し自由競争を奨励し、機会に応じて自由に生きられることを目指す思想であった。

しかしそこには今から見れば欠けている視点があって、それは「貧しいが故に機会すら与えられない人たちがいる」ということだった。そしてそうした人々が社会的な不安定要素になってきたわけである。そこで実行されたのが「富の再分配・所得の再分配」という考え方で、つまりは所得の多い人から徴収した税金を所得の少ない人たちのために使う」という考え方が実行された。これはアメリカでは「有効需要の創出」「雇用の創出」といった形でニューディール政策で実行されたことがよく知られているが、古典的自由主義者たちは強く反対し、社会主義者たちは歓迎するということになった。そしてこうした「進歩的な」考え方に同調する人たちを「リベラル」と呼ぶ用法がアメリカで確立したわけである。

だからこうした意味での「リベラル」は「左翼」と相性がいいわけである。日本で従来使われていた意味での「リベラル」の人たちは左翼思想を「反自由主義である」として否定的に捉えていたし、左翼の側もリベラルの人に対して「ブルジョア主義である」と批判・軽蔑するというのが一般だった。

この構造に日本で変化が起こったのがポスト冷戦の1990年代、つまりはバブル崩壊後の金融敗戦の時代に、アメリカ初の新自由主義が日本でも席巻し、それに「対抗」する左翼的な傾向を持つ人を「リベラル」と呼ぶ用法が日本でも広がったのだろうと思う。

だから現在の日本ではリベラルの意味が非常に混乱していて、古典的な自由主義者=反福祉主義者でも自らを「リベラル」と呼べるし、福祉国家は受け入れるがwokeは受け入れない、という現代において常識的と思われる人たちも自分をリベラルだと考えているし、現代の意識高いwoke傾向の強い人たちも自らをリベラルと呼ぶし、極端な例では党首選も行わないような反自由主義的な日本共産党の支持者まで自分のことを「リベラル」と呼びだしているわけである。

このような混乱状況の中にあって、左派系の人々が「リベラル」を自称するのに嫌気がさした人たちが自分たちを「保守」であると称するようになり、「リベラル」がまるで罵倒語のように使われる傾向さえ出てくる中、リベラル左翼の中核である立憲民主党までが「中道」を称するという、「若者のリベラル離れ」ならぬ「日本社会のリベラル離れ」まで起こっているわけである。

ただ、比較的保守的な傾向を持つ人や左派に対しては批判的だが福祉国家は支持するくらいの人々の中にも自らを強く「リベラル」であると主張する人もまだそれなりに残っているので、「リベラル」という言葉によって一体何を表現しているのかはその人次第、という感じになっている。

少なくとも、現代は戦後の一時期に次いで「リベラル」という言葉の株価暴落時代であることは確かだと思う。

今後「リベラル」という言葉をどう救うべきか、それとも汚辱に塗れたまま放置した方がマシなのか、その辺りは議論されていっていいとは思うが、名が体を表さない時代にあってはこれまた「リベラル」という言葉の逆境は今後も続きそうだなという感想はもっている。

**

https://www.sankei-books.co.jp/m2_books/2024/9784819114417.html

高市首相が政策通である、ということはだんだん認識されるようになってきたが、考えてみると私は「政策」というものをちゃんと勉強したことがなかったな、と思い、昨日は高市早苗編著「国力研究」を買い、また「日本列島を強く豊かに」と題された先の衆院選の自民党のパンフレットもダウンロードして読み始めた。「サナ活」と冗談めかしていっているが、読んでみるといろいろと面白い。(ちなみにこの本はアマゾンのアソシエイトから除外されているようだ)

https://storage2.jimin.jp/pdf/pamphlet/202601_manifest.pdf

政策とは「政治的な解決策」といっていいと思うが、つまりは何か問題があるから、それを政治的に解決していこうというのが政策ということになる。その問題の種類は国際関係から治安状態、安全保障、社会保障、法の支配、経済の円滑な運営、地域の発展の不均衡、富の格差、個人間に社会的に存在する非合理的な不平等状態、公衆衛生、医療、介護、エネルギー問題そのほか膨大なものになる。だから当然ながらその政策というのも膨大なものになるわけで、これらの全て、あるいは少なくとも重要なものを押さえるだけでも相当勉強しなければならないことは確かである。

高市さんはおそらく、自分の政治家としての強みを政策を理解しそれを推進することと見定めていると思われ、そういう意味でも彼女の打ち出す政策や国民に向けての発信に力がこもっていることは確かだと思う。

私は問題解決学としてKJ法を多少やっているのでそれに即して考えてみると、まず社会にある問題を認識する「問題提起」の段階から始まり、「状況把握」つまり調査を行い、その状況の影にどんな本質的な問題があるかを検討する「本質追求」の段階を経て、その問題の全貌本質が把握されたらその解決を行うかどうかの判断が行われ、解決を行うという決断が行われたら「問題の本質」に基づいて「方針」を決定し、その方針に基づいて「構想計画」が行われ、それに基づいて「具体策」が策定され、スケジュールやロードマップなどの「手順化」が行われ、予算がついて実行される、ということになるわけである。もちろん大きな問題は調査の段階から予算がつくこともあるし、それは問題によってさまざまなわけである。

政策は狭義で言えば「具体策」に当たると思うが、もっと漠然とした「方針」として打ち出される場合もあるし、「問題解決のために調査を行う」という決定自体が政策として取り上げられる場合もある。

私自身は今まで歴史を主に勉強・研究してきたから、「過去の様々な出来事や有様、行動からヒントを探る」のが主な活動であったために、これからのことを具体的に解決していく「政策」についてはあまり考えて来なかったのだけど、政治について考えるためには歴史の教訓だけでなく現実に展開されている様々な社会の出来事や政府が行おうとしている政策について考えていくことがより必要だと思うようになってきている。

歴史の重要性が自分の中で落ちることはないと思うけれども、政策についても学ぶことでより世界を深く理解できるように思うので、少し勉強してみたいと思ったのだった。

その内容についても書きたいことはあるが、時間がないので今日はこのくらいで。


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