「右翼雑誌の舞台裏」を読んでいる:保守言論界のスターの不足/「あの戦争への反省」:「社会主義≒全体主義への高評価」と「軍隊は本当に解散すべきだったのか」
Posted at 25/08/16
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8月16日(土)晴れ
今日はお盆の最終日。昨日は終戦の日で、お昼のご飯を食べるときに防災無線で黙祷の呼びかけがあったのでテレビをつけて、黙祷の後天皇陛下のお言葉を拝聴した。夜は諏訪湖花火大会で、下の妹と姪は湖畔まで見に行ったが、私と上の妹は近くの中学校のグランド横の道から少しだけ見たのだが、地元の人たちが数十人きている感じで、子供の頃花火を見たのはここだったので、50数年たっても変わらないものは変わらないよね、と思ったりした。
昨日から「ふつうの軽音部」を読み返したりもしながら、積読になっていた梶原麻衣子「右翼雑誌の舞台裏」を読んでいて、今158/202なのだが、ここでも感想として取り上げたいことはいくつかあるのだけど、やはり自分も保守の立場でずっと雑誌を読んだりブログを書いたり、あるいはネットバトルを読んだりしてきたけれども、見ている風景がかなり違うなと思った。もちろん保守系雑誌編集者という立場はかなりあるし、もともとWillの読者だったそうだから、「Willが出てきた頃に保守系雑誌を読むのをやめた」世代との違いというのはあるなと思った。正論や諸君はまだ左派にも紙面をさいて議論をしていた感じが自分の中にはあったのだが、WillやHanadaは「決めつけ」系のタイトルが多いし逆にいえばタイトルだけでお腹いっぱいになる感じがあって、中身はほとんど読んでなかったので、とても真摯にこうした雑誌が作られていたのは逆に驚いた感じがあった。
まあおそらくはそういうタイトル重視の編集姿勢というのが自分の感覚と合わなかったということで、まあ私は敏腕編集者とか出版経営者の「売れる手法」みたいなものの現れがどうも合わないところがあるので仕方ないかなとは思うのだけど、自分の感覚としてはひと世代前の石原慎太郎や渡部昇一、西部邁ら「保守界言論人のスター」がいた時代はまだ読む気がしたのだけど、今はどうも人材不足というか、90年代にはあれだけ読んでいた小林よしのりさんも反ワクチンと女性天皇論に行ってしまって「大局と関係なくね?」みたいな感じになってしまった。私自身は野口整体の考え方で自分の体調に向き合ってるし、ワクチンは4回接種したがこれは「国家の政策への協力」だと思ってやったことなので、政府がとった危機対応としてのコロナ政策については批判すべきところはおそらくあるとは思うのだけど、まあ打つべき手が全然わからない中でなんとか対応していた政府を攻撃するのも非人情だよなという感じである。
女性天皇に関しては私は絶対排除するものではないけれども、やはり男系継承が基本で女系は男系でも皇族の系統を引く形でならいいのでは、という感じではある。現在の内廷や宮家以外の男子が皇室に入るならば旧宮家が一番抵抗はないだろうと思うけれども、男系で(南北朝時代の崇光天皇の子孫の旧宮家)より近い系統も実際には江戸時代の東山天皇の子孫に存在する(養子として摂家を相続した皇子の子孫)ので、イギリスの王位継承法などではそちらの方が優先されるのではないかという気はするが、つまりは日本の皇室は男系でも純粋に系統が近ければいいというわけではなさそうなので、難しいなとは思う。
まあそういうものが確保できる形ならいいとは思うのだけど、小林さんは敬宮殿下の皇位継承とそこから女系でも継承されればいいという考え方のようだから、あまり賛成できないなとは思う。
いずれにしても、昔は煌めいて見えた保守論壇人が次々と退場し、いわば「保守本流」と言える人がいなくなっていることが、保守系雑誌に魅力を感じられない最大の理由なのだとは思う。
いずれにしても中国やアメリカの歴史と違って一つの思想が完全に滅ぼされるということがあまりないのが日本の特徴だから、細かい対立まで含めて分かれてしまった左右それぞれの思想がときに先鋭に、ときに適当に離合集散するのは避けられないし、SNS状況というのもそんなに本質的に議論を(悪い方向に)変化させるものなのかというのもどうかなとは思う。まあ本当に頭の悪い極左的なツイートなどを読むと困ったな、と思うことは多々あるわけだけれども。
最後まで読んでから、この本に対する全体的な感想を書こうと思う。
***
https://www.asahi.com/articles/AST8H3CCTT8HUTFK016M.html
石破首相が戦争への反省を戦没者追悼式典で口にしていたが、大東亜戦争においてよくなかった点、反省すべき点はどこなのか、というのを少しだけ考えてみた。
もちろん最大の反省点は「負けた」ことであって、「戦後問題」と言われるものはもちろんほとんど全てがそこに由来している。ただ、これは相手にしたアメリカのルーズベルトの極端な排日思想など、日本の側だけではどうしようもない部分もあったし、この点について反省すべきなのはルーズベルトの日本観を日本側が十分に把握していなかったことだと言えるだろう。
その他について、細かいことでいくつか考えられるのは、海軍において艦隊決戦思想という時代遅れの戦術が海軍を死にいたらしめたことは間違いないだろうということがある。「技術」に「利権」が生じることで古い技術者とその後援者たちが新しい技術を潰そうとする、というのは軍事においては決定的にまずいことであるのは間違いない。先の戦争で本当に反省すべき点の一つはそこだと思う。軍事組織の中での風通しの良さ、みたいなものだろうか。
https://x.com/cheetaro3/status/1956285547485315282
もう一つ大きいと思われるのが、上のツイートを読んで思ったのだが、「社会主義≒全体主義への不当な高評価」ということはあるだろうと思う。ただ、1930-40年代のような日本政府(と革新官僚・無産政党・軍部など関係者)によるこの高評価というのは、日本だけでなく世界的な傾向(アメリカでもニューディーラー左派が席巻していたから日本国憲法がああなった)なので日本だけ批判するのは難しいのだけど、社会的不正義を解決する手段が他に発想として出てきていなかったというのは大きいとは思う。
もともと永田鉄山ら軍部改革派が主導した満洲事変・北支事変以降の展開の底流にあるのは「軍備の近代化」に対する指向であって、そのために「国家総動員体制」が必要であり、資源の確保が必要だ、というのがある。1850年代にアメリカの西部開拓・開発や工業力の爆発的な発展を80年後にやろうとしたわけだけど、インディアンは抑えられたが中国はそうはいかなかった、という感じではある。その辺の認識が甘い、つまり調査不足は否めない。
特に国家総動員という考え方はやはり統制経済を前提とすることになるからそこで強く社会主義的要素が入ってきたことが失敗だったということは渡部昇一さんなんかもよく書いていた。
第二次大戦に至った理由の一つは財閥の横暴に対する批判というのがあったわけだけど、財閥を抑える独禁法体制とかに行かずにいきなり国家総動員に行ってしまったのは財界を抑えられる勢力が軍部しかなかったということなのだろうなと思う。歴史のイフとして、政府が財閥を抑え込んで独占禁止法体制を作ったり利益を吐き出させて社会政策を打ち出せたりしていたら軍部は動く大義名分は削減されていただろうと思う。ただ当時の日本の統治機構として、帝国憲法において内閣の持つ権限が日本国憲法よりはるかに小さいため、そうした改革を行うのは困難だっただろうとは思う。
つまり、日本の戦前の大きな失敗の一つは、財閥が利益を漁ることに専念するようなむき出しの資本主義を抑えて修正資本主義的な改革ができなかったということではないかということ、そしてそれが可能になるような内閣への権力集中が行えなかったことがあるわけで、やはり大日本帝国憲法自体が改正が必要だったのだろうとは思う。
戦争にどうしたら負けずに済んだのか、どうしたら戦争自体をしないで済んだのか、ということを考えていくと、「外交力の不足」「新技術への対応についての反発」「政府の権限集中に対する反発」「無軌道な資本主義」などがあり、全てを軍部の責任にして軍を葬って終わりにしたことが戦後問題を封印してしまった大きな原因であったようには思う。そういう意味では戦後の軍部の解体の是非はもう一度考え直してもいいテーマではないかと思った。
「私は果たして選挙権を有するに値するか」:政治参加と「正しい」判断能力ー安藤薫さんの論考をめぐって/「地方に「美」は存在するのか」:美術界のアカデミズム偏重と一般の「自由な美」への幻想
Posted at 25/08/15
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8月15日(金)晴れ
今朝は朝からよく晴れている。最低気温は22.3度、まあこんなものか。今日は終戦の日、諏訪湖花火大会の日だが、無事に運営されることを願いたい。
https://digital.asahi.com/articles/AST881J1DT88UPQJ00WM.html
安藤馨さんの論考。書いていることは、「主体的で熱心な政治参加」と「科学的・合理的な正しさ」の両立は難しいという「感想」のようなことなのだが、現在かなりネット上に強く現れている「参政党批判」と「参政党擁護」のコンテクストの中に置かれると、「参政党批判側の記事」と読め、参政党の熱心な支持者や運動家たちへの批判、という側面が強く感じられて、「頭の悪い奴は政治に参加するな」と読める、という側面はあるだろうと思う。
実際、私自身も最初に読んだ時の感想はそうで、「人々の政治参加の幅を最大限に取る」ことで「正しさも担保される」というのが「民主主義が前提とする効能」であったはずだと思う。もちろんこれは結果的に見て歴史の選択肢として良い方向にいかなかったことも数あることは確かなのだが、「参政党の主張は間違っている」ということを前提に「間違っている人たちの意見を政治に反映させるのは問題だ」と言っていると感じられてしまうと、「参政党の意見が正しいかもしれない」あるいは「参政党の意見は今は未熟だがやがて正鵠を得たものになる可能性がある」という「可能性は排除できない」と多くの人は考えるようになり、「学者の傲慢な結論」と思われてしまうようには思った。
https://x.com/konoy541/status/1955644739434524836
この河野さんの解説はまあ簡単にいえばこの言説全体を現在の政治状況というコンテクストを廃して価値中立的に読めば「政治参加」が進めば進むほど「事実に基づいた科学的合理的正しさ」を重視しない人たちの意見も反映されるようになることをどう考えるか、政治参加を進めるためにそうした不合理な意見の反映も受け入れるべきなのか、というある立場表明ではあり、少なくとも「政治は科学的合理的に正しく進められるべきである」という考え方が前提に置かれているのは確かだし、また「多くの人が政治参加するのは良いことだ」という考え方も前提には置かれている。
その先に、「科学的合理的に行われていない政治を受け入れるべきか」ということで言えば、これは参政党だけの問題ではなく、電力需要が逼迫しても原子力発電所の稼働を認めない左派系の影響力の強さなどもあるわけで、そのあたりに触れないのはやはり一定の政治的偏見があるように感じられるのは仕方ないとも思うが、掲載媒体が朝日新聞だから読者層へのサービスなのかもしれないという気はしなくはない。
だから河野さんの解説にもかかわらずやはり一定の党派的バイアスは感じてしまうのだけど、「有権者はもっと勉強すべきだ」という主張は左右共にあり、勉強しろ要求する内容が左派はフェミニズムだのジェンダーだの環境主義だのであることが多く、右派は経済合理性であること(参政党支持者だと日本に関する考え方なども強いと思うが)が多い傾向はあるだろう。
そしてその勉強すべきだという内容について対立する相手の要求は双方とも理不尽であるとか排斥すべきだと感じていることが多く、会話自体が成り立ちにくいという現状があって、結果的に投票結果を突きつけられてこれが民意だ、ということになりがちだから、「民意は理不尽だ」と感じてしまう人が多いということなのだろうと思う。自民党に投票しなかったのに石破内閣を支持する、と世論調査に答える人が多いのは、投票は全年齢だが世論調査のバイアスが高齢者に傾きすぎである(固定電話にかけるというスタイルに固執し続けているため)ということもあるけれども、自らも加わって決定された「民意を反映した精力分布図」を「修正したい」という気持ちが強い人が多いということではないかと思った。もちろん、民主主義制度によって政治的決断の基礎となる議席分布が決定されるのは、選挙であって世論調査でないわけだが。
「私は果たして選挙権を有するに値するか。」
という言葉がつまりはこの文章の主眼なのだと思うが、これは「自分個人についてさまざまなことを考え、様々なことを学んだ上で投票行動を決定する、自分として後悔のない投票を行う」ための一つの心構えとしては理解はできるし、「だから勉強しましょう」、という呼びかけであるのは理解できるのだけれども、その問いを常にバイアスのかかったコンテクストに満ち溢れている社会に解き放ってしまうと「政治や科学がわかっていない奴は投票するな」という「上から目線」に感じられてしまうわけで、まあ結論としては「もっと言い方があったんじゃないですか」という気はするなあとは思った。
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https://x.com/vismoglie/status/1955902275391774820
https://x.com/Ten88neT/status/1955638401656570092
「地方には美術の美の字も存在しない」と「美術手帖」の編集長氏が書いていた、ということが炎上しているようなのだけど、イオンモールの明かりしかない地方都市、というのを調べてみると三重県鈴鹿市のことらしく、私の友人の画家が住んでいる街なので、「美術は東京にしか存在しない」という認識自体がカワイイというか微笑ましいというか、下のツイートのようなことを感じた。鈴鹿にはイオンモールだけでなく、多分画廊もあるとは思う。
https://x.com/copinemickmack/status/1955920235716038749
一方では地方に住んでいる時間が長い立場としては下のツイートのようなことも感じるわけである。
https://x.com/fukiteasobiki/status/1955793218983092691
https://x.com/kusakashinya/status/1955811747853689011
これは実は結構色々な問題を提起している、ということがあるのだけど、消費者と作り手という問題から言えば、これらの指摘がその通りだなと思う。
https://x.com/PKAnzug/status/1955793434108944861
https://x.com/_0ranssi_/status/1955881501796786442
マンガやアニメなどで「聖地巡礼」というのが生まれるのは、そこで描かれている多くは地方の風景がその作家の心象風景を形作る重要なファクターであることが多いからで、そういう意味での「資本」は地方にも、というかどこにでもあることは確かだろう。
多くの人が指摘はしているが、「美術手帖の編集長」という立場の人が、さまざまな批判や賛同から耳を塞ぐのは残念な気がして、自らの「美術」観や「美」に対する考え方を返答として発信していけばいいのにとは思う。
しかしおそらくは問題の本質は美術界の「藝大偏重体質」「アカデミズム偏重体質」みたいなものにあって、そこから外れる不規則な出現の仕方をするアーチストたちには「アウトサイダーアート」であるとか「アール・ブリュット」のような評価をしがちだということが大きいのだろうなという気はする。
この辺は「ブルーピリオド」でも「権威主義の藝大教授」として描かれている人がいて、彼は足繁くさまざまな美術展や個展に足を運ぶのだが、「どこの大学を出たか」を必ず聞くらしく、主人公の八虎は「そんなこと聞く必要ある?」と反感を感じるのだが、つまりはこのシリーズでは反権威主義の「アートコレクティブ」と「藝大アカデミズム=権威主義」の対立について書いているのだけど、この編集長氏の感覚は、より大きな意味での権威主義であるようには思う。
美術界の権威主義=アカデミズムというのはやはり結構すごくて、尖ってて反体制的に感じらる村上隆さんや会田誠さんも藝大大学院を出ている。地方美大を卒業したスターといえば奈良美智さんだが、彼も愛知県立美大を卒要した後はドイツの18世紀に設立されたデュッセルドルフ芸術アカデミーで5年間学んでマイスターシューラーを獲得していてるわけである。
逆にいえば、現代の美術界というものがいかにそういう方向に向かって閉じられているか、ということを一般の人はそれほど認識していない、という問題もあるのだろうと思う。ネット時代になり、特にマンガなどの大衆芸術においてはいかに広い裾野から才能を見つけ出すか、が勝負になっているが、アートは相変わらず倍率100倍を超える藝大油画の学生の中から原石を見つけ出す、みたいな仕事になっていて、一般の人の美というものに対する感覚からかなりかけ離れているということもあるのだろうという気はする。
日本人は西行にしろ啄木にしろ良寛にしろ「陋巷」にあってすごいものを作っている人たち、みたいなのが好きなので、ジャンプルーキーで描いていた漫画が見出されて本連載になり、大ヒット!みたいな話はいいけれども、「美術のない田舎」で苦労して学んで東京に出てきて都会でいっぱしの仕事をし、故郷に帰ってきて故郷をディスる、みたいな物語に対しては共感度はやはり高くはないだろうな、ということなのだろう。
まあ「美」というものはできればもっと自由なものであってほしいわけだが、実際には社会システムの中に組み込まれているものでもあるから、そのシステムが極めて薄くしか存在しない「田舎」というものを残念に思ってしまう、ということが、一般の人々の「アートに対する幻想」みたいなものを損なってしまった、と解釈しておくのが妥当なのかもしれない。編集長氏が鍵を閉じてしまったのも、そういう一般の幻想によって美術という業界が成り立っている面もあるから、身も蓋もないことを言って仕舞えば自分の飯の種にも影響するという側面もあるということだろうとは思う。なんだか世知辛い話になってしまった。
お盆=誕生日/神道における「死後の救い」と「生者を守るという役割」/靖国問題の最終的解決としてのA級戦犯の名誉回復
Posted at 25/08/14
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8月14日(木)
昨日はお盆の初日で、朝のうちにお墓を掃除に行って、まあまあお参りに来てもらえるくらいにはなったかと思う。帰ってきて部屋の片付けと掃除、玄関も農具などをとりあえず片付けて棚経を上げにくるお坊さんを迎えられるくらいまで掃除をした。お坊さんが来たのは10時くらいでその時は私しかいなかったので後ろで1人でお経を聞いて手を合わせる。最近ちゃんと正座ができなくなっていて大丈夫かなと思ったが、昨日は割とすんなり座れたしずっと座っていられた。先祖の加護があったのだろうか。
朝東京の方を出てくるまで家に向かっている妹からかなり渋滞がひどいというLINEが入り、昼ごはんも1人で食べることになるなと思ったり。Twitterを見ていたらJ・S・ミルの「功利主義」が光文社古典新訳文庫で出ているらしいことを知り、調べてみたら出てこない。あれ、と思って文章をよく読むと、これは学生が書いてきたレポートの参考文献の話で、「実際に存在しない本」の名前が書いてあったという最近よく聞くネタの例として上がっていたのだということがわかった。で、そういえばミルの「功利主義」は読んでないなと思い、お昼ご飯を買いに行くついでに楓樹文庫まで車を走らせて「功利主義」(岩波文庫)を借りてきた。お昼は何を食べるか迷ったが、最近食べ過ぎな気もしていたので餃子の小さいサイズのを買ってメインにすることにした。
午後は少しゆっくりとした後、5時前から少し草刈りをし、入浴して作業場に行って何かしようと思ったが、作業場にはまともなミニコンポがあるので「ふつうの軽音部」に出てきた曲をずっと、特にGLAYの「誘惑」を何度も繰り返して聞いていた。Blutoothで外部スピーカで聞くために実家や車の中では携帯用のスピーカで聞いているのだが、作業場だとちゃんとステレオで聴けるのでつい没入してしまった。今は東京でもステレオのアンプが壊れていてまともに音楽が聞けないということもあり、なんというかちゃんとした音に飢えていたんだなと思った。
夜は妹が誕生祝いをしてくれて、よかった。もう漬けてから1ヶ月経つから大丈夫かなと思って梅酒を出してみたが、まだ味が尖っていてもう少し時間がかかりそうだなと思った。
***
前田勉「近世日本の支配思想 兵学と朱子学・蘭学・国学」(平凡社ライブラリ-、2025)、だいぶかかったのだが「付論」6編を除いてようやく読了した。かなり面白かったし勉強になった。それぞれの思想=学問の「かたち」を腑に落とすために付論は飛ばして読んだのだが、先崎彰容氏の「解説」によれば付論の最後の「大嘗祭のゆくえ」が重要だそうだから、付論も少しずつまた読んでみようと思う。
それにしても戦後の日本思想史、特に近世・近代史は丸山眞男の存在が大きいのだなと改めて思った。私は丸山という人はあまり好きでないのであまり読んでいない、まともに読んだのは「日本の思想」(岩波新書)だけなのだが、やはり戦後思想の支柱というか彼を乗り越えなければ戦後を超える思想は確立できないなとは思うので、彼の思想に対抗・批判できるものを得てから出ないともう読めないなという感じがある。
昨日は「近世日本の支配思想」の中でもラストの「国学」のところを読んでいたのだが、垂加神道のところから本居宣長・平田篤胤の復古神道・明治国家への受け継ぎというあたりを読んでいたのだが、特に今まであまりちゃんと理解できていなかった垂加神道について自分なりに理解できたのはよかった。
読んでいて思ったのは、日本において「人は死んだら神になる」という割と素朴な感覚がこの辺りの教説に由来しているのではないかと感じた。もちろんこれは「死んだら仏になる」でもいいし「死んだら霊になる」でも根本的にはあまり変わらない気がする。
キリスト教では死者たちは「最後の審判」ののちに天国行きと地獄行きが再選別され、永劫の楽しみと苦しみが約束される。また仏教では「極楽往生」とか「解脱」とかをするのでなければ「輪廻転生」して再び六道(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のどこかの世界に生まれ変わる。
垂加神道が面白いと思ったのは、死者は「天皇を守護する八百万の神々」の「末座」に加わり「天皇と国を守る神」になるということなので、これはなるほどと思った。つまり、靖国神社の「英霊=戦死した兵士たち」が「護国の鬼」となって「天皇と日本を守る」という考えのルーツは基本的にこの線から出てきたのだろうと理解したわけだ。
で、我々は誰かが死んだあと、その人の気配を感じたり、あるいは「お父さんが見守っていてくれるよ」と言ったりすることがある。唯物論的に世界を理解している人はそうでもないだろうが、私などにはそういう考えというか感覚はあるし、その感じ方とか自体に豊かなものを感じる。つまり「死者」は「神=仏=霊」になって生きている我々を守ってくれる、守護してくれる存在なのである。
これを一家族で考えれば「先祖の霊」が「家」を守ってくれるということであり、そのための「礼」が先祖祭祀であり、墓参りであり、仏壇や神棚への崇敬であり、地域社会で言えば氏神や産土神への、神社仏閣への参拝であり、国単位で言えば靖国神社や伊勢神宮への参拝であるわけである。
これはエドマンド・バークのいう「保守主義とは暖炉・墓標・教会・国家を大事にすること」ということとも重なる。バークの主張は保守的伝統を守るための生者の義務としての尊重、という部分が強いように思うが、日本の場合はむしろ「死者=先祖たち」が「生きている我々」を守ってくれる、という意味での「感謝」として、死者たちを祀り慰める、ということなのだと思う。
こうした考え方は基本的に日本人である我々には馴染んだ考え方であるわけだけど、今までそういう考え方がどういうものに由来するのかよくわからないでいた。しかし垂加神道とそれを受け継いだ本居宣長の国学、また平田篤胤の復古神道が唱える青人草の思想などから近代国家神道に至る系譜の中に死んだあとはそういう形で神になって個人にしろ国にしろ天皇にしろ「守る立場」になるというのは、「人間の救済」において大きな意味があると思った。
これはこの本でも指摘されていたが、先に書いたようにキリスト教でも仏教でも死者たちは天国なり極楽なりあるいは輪廻転生して「世界」の一部であり続けることは確かだけれども、キリスト教の神なり仏教の法なりの力は圧倒的に強くて、我々自身がその世界の構造に関与することはできないわけである。
しかし垂加神道以来の日本の神道の考え方ならば、生きている間に世界に貢献することは勿論、死んだ後も家族をはじめとする日本および日本人を守るという役割が与えられ、世界に貢献する誇りが与えられるわけである。これは読んでいてすごいことだと思った。
これが垂加神道以降の考え方なのか、吉田神道などの中世神道から受け継いでいるのかはわからない。しかしそういう通俗的な神とか霊とかの理解について、ちゃんと由来があるという理解ができて非常に腑に落ちた感じがあった。
これはダンテの「神曲 天国篇」を読んでいて感じたことに近い。「神曲」といえば地獄篇の描写が近代文学の先駆けとなったということが評価されていて、そういう線で考えると煉獄篇とか天国篇とかは付け足しみたいに取られてしまうけれども、私は地獄篇も面白いとは思ったが、修行することで罪を償い、天国に行けるという設定の煉獄篇=浄罪篇もかなり面白いと思っていて、特にダンテが煉獄を旅するのに額にPの文字(PenaltyのPである)を7つ刻まれて、煉獄を回る間に罪が一つ一つ解消されていくが、そうなると自分の存在がだんだん頼りないものに感じる、というあたりが好きだった。
私は「神曲」は好きなのでいくつかバリエーションを持っているのだけど、最初に読んだのは社会思想社の「ダンテ神曲物語」であったと思う。その後はギュスターブ・ドレの作画の銅版画をふんだんに使った宝島社の大型本、その絵を元にさらに永井豪が漫画化した講談社コミックスの上下版を持っていて、今は読み返すときはドレか永井豪を読むことが多いので、彼らによる脚色の部分が頭に入ってしまっているところもあるから、原著とはかなり違う理解をしている可能性もある。
いずれにしても「神曲」では地獄は現世で重い罪を犯した人々が永遠に救われることなく、その罪に応じた罰を受け続ける場所であり、永井豪版では明示はされていないがそのことに対する疑問、「罪とは何なのか」みたいなことも描かれていた。そして煉獄は現世の罪を償って天国に入るための修行をする、しかしそれは本人の努力だけでなく、地上の人々が彼のために祈ってくれれば浄罪にかかる時間が少なくなる、という話で、こちらは死者のために生者ができることがある、という発想があって、ある意味合理的だと思った。
地獄・煉獄と案内人を務めるのはローマの詩人・ヴェルギリウスであったのだが、彼はキリスト教徒ではなかったので天国に入ることはできない。そして天国を案内してくれるのは、ダンテ自身の理想の恋人であったベアトリーチェということになる。彼女の案内で天国を回るが、当時の天動説的な世界観に従い、低い天から高い天へ、月天・水星天・金星天・太陽天・火星天・木星天・土星天と登っていき、さらにその上の原動天、神のいる至高天へと上っていくわけだが、そこでダンテは神学上の疑問が次々に解決していくのを心の中で自動的に感じ、至高天ではついに「三位一体の玄義」まで完全に理解することになる、という展開になっているわけである。
ここで面白いと思ったのは、永井豪編の月天での記述に「天のさらに高いところへ上りたい、ということはなく、私たちはここで光るのです」とあり、天国の末席こそが自分たちのいるべき場所として、ここで光り、神の栄光に貢献する」という思想が感じられたことである。つまり、死してのち、天皇を中心とする八百万の神々の世界の末席に数ならぬこの身「も」加わり、天皇と日本を守る、というイメージと近いものを感じた、ということである。
***
この辺りは、再びかまびすしくなっている靖国神社の問題にも関わることだなと思う。
https://note.com/yonahajun/n/neb118f8f6044
靖国神社は日本を守るために戦って戦場で散った兵士たちが祀られている神社で、まさに彼らは死してのちも日本を守る護国の鬼となって我々生きているものを守ってくれているわけだけど、現在ではそれ自体にはあまり問題がなくて(もちろん問題にする人たちはするが)、現在の問題として取り上げられるのはそこにA級戦犯が合祀されている、ということになっているわけである。
この合祀は1978年に行われ、それ以降は昭和天皇、上皇陛下、今上天皇陛下の御親拝はない。そういう意味では毎年例大祭には勅使が派遣され、戦場で散った兵士たちの霊への顕彰は行われ続けているわけだが、御親拝がないということはもちろん大きなファクターであろう。
與那覇潤さんの議論は、このことを極東軍事裁判と関連づけて論じているわけだが、つまりは日本がサンフランシスコ講和条約で「極東軍事裁判の判決を受け入れる」という条文の解釈にも関わってくる。日本語原文は以下の通りである。
https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19510908.T1J.html
「第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。」
この条文を読むと、A級戦犯として処刑された人々に対しても、「裁判所に代表を出した政府の過半数」すなわちアメリカ・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・中華民国・フランス・オランダ・インド・フィリピン(ソ連の後継国がロシアであることはあまり異論はない気はするが、中華民国が台湾なのか中国なのかは微妙、また途中でボイコットしたニュージーランドの扱いがどうなるかもわからない)の10または11の国、すなわち6カ国が賛成すれば名誉回復は可能だということになるだろう。
それはともかく、「裁判を受諾」するとはどういうことか、ということで、この辺りも「判決を受け入れる」といういわば当たり前のことから、裁判の主導原理を承認するというちょっと大きい話まで現実には判断が分かれているようである。
與那覇さんの論旨としては、「A級戦犯は「戦争の惨禍」の原因を作った「罪を背負った存在」であり、その名誉回復は許されない」という前提に立って述べられているように思う。ただ、上の思考実験のように、サンフランシスコ平和条約も国家間で結ばれた条約に過ぎないのだから、A級戦犯の地位の回復は原理上は可能である。むしろそうしたスタンスから考え直すべきではないかということは一つある。
そして問題を先鋭化させているのは、本来極東軍事裁判に参加していない中国共産党政府が殊更にA級戦犯についての非難を繰り返している点であり、そこは奇異といえば奇異である。逆にいえば中共政権は自らが参加していない戦犯法廷の結果を受け入れることで日本と平和条約を結んでいるわけだから、その前提を崩すな、というのが中国の主張だと與那覇潤さんは言っているわけである。
日中平和友好条約の全文を見た限りではそのようなことは書かれていないのだが、政府間協定のどこかに書かれているかもしれないのでそこは保留しておこうと思う。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html
要はこの条約が結ばれた年にA級戦犯合祀が行われているわけで、おそらく中国はそういうこともあってこの問題に神経質になっているということはある気がする。つまりメンツの問題である。
ただ日本の法制上は靖国神社は民間の宗教法人であり、與那覇さんがいうように、数度にわたる国家護持の法案は全て廃案になっている。だから国がこの問題に干渉することは原理的に(少なくとも今のところは)できない。だから中国としては靖国神社に文句を言うしかないが原理的にそれもナンセンスなのでやっていないと思うが、中国人が靖国神社を穢す行為が今まで何度も繰り返されているのはそうした背景もあるのだろうと思う。
靖国神社にA級戦犯が合祀された理由はまあ割とシンプルだと思うのだが、彼らは戦勝国によって処断された人たちで、それはつまり国に殉じたと言うことであり、日本のために戦って死んだ兵士たちと同列に扱うべきだ、と言うのが靖国神社側の考え方だろう。
しかし、裏のテーマとしては、極東軍事裁判でも水面下で問題になっていた、「天皇の戦争責任」と言う問題があるのだと思う。結局、日本の統治を穏便なものにしていくためには昭和天皇に戦争責任を負わせるべきではない、と言うのが最終的なマッカーサーとGHQの判断だったわけで(当然トルーマン大統領も関与しているだろうが)、ただ誰も処罰しないわけにはいかない、と言うことがあったのだろう。
しかしながら、本来「勝利した国が敗戦した国を裁く」と言う裁判が正当かといえば、強い疑義はそこにあるだろう。だからインドのパール判事の「全員無罪」と言う判決が日本国民の心に強く響いたわけで、特に原爆投下や日ソ中立条約の一方的破棄によるソ連の侵攻、シベリアや中国への抑留、捕虜収容所での日本人兵士たちに対する虐待などは不問に付されたことに不満を持つ日本人たちにとって大きな感銘を与えたわけである。
こうした軍事裁判の構想はおそらくはルーズベルトが当初から持っていたもので、強硬に日独に「無条件降伏」を求めるなど戦争を長引かせた責任も彼によるものが大きいわけだが、ルーズベルトの死によって対日条件はかなり緩和されたものの、ルーズベルトの定めた戦争指導の前提が引き継がれた部分はなくなりはしなかっただろうし、正直いえば連合国側の復讐感情や処罰感情は良くも悪くも相当強かっただろうとは思う。
だから連合国側としては、天皇に戦争責任を問わず、A級戦犯7人の処刑で済ませたことは「大きな妥協」であると解釈している面は大きいだろうし、與那覇潤さんの指摘の通り、中国もまたそれに乗っているわけである。(中国は彼ら以外に岡村寧次大将ら中国戦線の将官への非難はしているし対日非難を続ける路線自体に変更はないが、中国もまた妥協している、と言う指摘はまあそうだろうなとは思う。)
しかし「A級戦犯は昭和天皇の身代わりに処刑された」と言う認識があるからこそ、靖国神社としては彼らを評価し、殉難者として兵士たちと同様に崇敬すべきだ、と考えるのは賛否はともかくおかしいことではないだろう。
これはまさに先に述べた垂加神道以来の日本の考え方、天皇と国を守るために死に、死んだのちも国を守る存在として靖国神社で多くの兵の英霊たちとともに神となって日本を守っている、と考えられるからである。
日本は現場主義の強い国であるから、エリートが勝手に建てた戦略で国民大衆を振り回して失敗を重ねているが、現場の声を聞けばうまくいく、と言う観念が強い。そうしたエリート批判の立場からA級戦犯たちを批判する人たちは当然いておかしくないと思うし、そう言う彼らと兵士たちを同列に並べるな、と言う主張もあり得るだろうとは思う。
ただ垂加神道自体がもともとは公家たち(つまり地位上のエリート)のものであったのが、平田神道によってより一般化され大衆化された面があることから考えると、この主張も弱い面があるようには思う。
昭和天皇がA級戦犯合祀以降、靖国神社に親拝されていないのは、松岡洋右や白鳥敏夫も合祀されてしまったからだ、と言う主張もあるようで、そう言う天皇ご自身の感情の問題もないとはいえないとは思うが、原則的にはA級戦犯処刑を天皇制=国体護持の見返りにすると言うことを連合国との約束とみなし、それを守られていると考えるのが妥当ではないかと思う。
要は靖国問題というのはそういう国際関係上の問題と国内感情の問題が深いところで亀裂が生じている問題だと考えるべきで、したがって我が国の国民感情に即した形での解決策としてあり得るのは、上に述べたように「旧連合国に働きかけてA級戦犯の名誉回復を図る」ということではないかと思う。
これはもちろんそう簡単なことではないし、不可能だと思われるだろうと思うけれども、「A級戦犯指定」そのものが歴史の産物であり、そうである以上は変更は原理的に不可能ではない。第二次世界大戦で日本軍の稚拙な作戦指導によって大被害を受けたフィリピンで日本の「安全保障上の責任を果たせ」という声が高まっていたり、靖国神社そのものに関しても、「中華民国大総統」であった李登輝氏がすでに参拝していることを考えれば、周辺諸国の考え方が変化していく可能性はないわけではないと思う。
また、A級戦犯として処刑された人たちに対しても、唯一の文官であった広田弘毅に関しては「落日燃ゆ」など検証する小説が書かれヒットしたりしているわけだし、極悪人扱いが続いていた東條英機に関しても再評価しようという動きもなくはない。大東亜戦争は「異常な戦争」ではなくある意味「普通の戦争」であった、と思う。倫理や善悪を超えたところでより客観的に評価していくことが、未来のためにプラスになることなのだと思う。
(ただ、逆にいえば中国もおそらくその可能性には気づいていて、我々にとってはうんざりするくらい南京事件を擦り続けるのは、A級戦犯の名誉回復などによって第二次世界大戦の位置付けが相対化されてしまうことによって中華人民共和国建設の意義そのものが相対化されてしまうことを恐れているという面はあるとは思う。)
いずれにしても、日本の死や救済についての考え方にある種の特殊性があるとしたら、「死者が私たち生者を守ってくれる存在であり、死んでも無になるのではなく生きている人や国を守る誇りがある」というところではないかと思った、ということを書いておきたい。外国にこの考え方がないかまでは調べ尽くせたわけではないのだが、少なくともこの考えはとても魅力的なものだと思ったのだった。
***
朝日新聞に掲載された安藤馨氏の寄稿が色々と物議を醸しているようだが、今日はもうだいぶ長くなってしまったのでこの辺りにしたいと思う。
https://digital.asahi.com/articles/AST881J1DT88UPQJ00WM.html
お盆の準備/誕生日に思うこと/「高野連の組織」と「学生野球」の特殊性/部活動の脱学校化と情熱と冷静のバランス
Posted at 25/08/13
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8月13日(水)薄曇り
昨日はお盆前の最後の営業だったが、割合忙しかった。朝のうちにお盆の準備をある程度やろうと思って昼前にお墓へ行ったらあまりにも草がたくさん生えていて、このままではどうにもならないと思い完全武装して出直して、それなりに頑張って取ったが雨が時々降ったりして取り切れてはいない感じ。お盆前に完全に綺麗にして花を生けたりしておくのが理想だが、やり切れなかったので今朝行ってなるべくちゃんとしておきたいと思う。
家の方では13日(つまり今日)午前中にお坊さんが棚経をあげに来るので仏壇に飾る精霊馬(胡瓜の馬、茄子の牛)を作り、盆茣蓙を敷いたりした。盆茣蓙を買った時に麻がらがついてきて何に使うのか分からないままただ置いてあるのだが、調べるとこれは精霊馬の脚に使うらしく、もう割り箸で作ってしまったので来年は覚えておこうと思う。
あとは部屋の中と玄関の片付けだが、これは日記/ブログを書いてからやりたいと思う。朝の仕事が多いわけである。
***
今日は誕生日でもあるので、63歳。なんだか知らないうちに歳をとってしまい、人の話を聞いていると人生の締めに入るような話が多いのだが、私としてはまだまだこれからいろいろやりたいと思うし、目標もある。気になることも多いし、ただそれをきちんとまとめて誕生日の回にしたいところだったのだが、日々が忙しくてそれどころではないという感じである。
基本的にやりたいことは、「ものを作る」ということ。梅酒をつけたり梅ジャムを作ったり、そういう先祖がいろいろやってくれたことを生かしたいという気持ちもあるし、自分自身が本を作ってみんなに読んでもらいたいという気持ちもある。この辺りは今のところはネットに文章を書いてあげるにとどまっているが、物理的な本を作りたいという気持ちは前からある。
気になることといえば日本(と世界)の行く末であって、まあだから保守主義というテーゼがあり、その選択肢が日本と世界をより良くするのではないかと思っていろいろ書いてはいるのだが、そのあたりはまだまだ蟷螂の斧だなあと思う。これも物理的な本を作って読んでもらうのが一番いいのだろうと思っているのだが。
理想は、作ったものをたくさんの人に買ってもらってそれで収入を上げていくことなのだが、まだいろいろ見えてこないので試していきたい、というのがとりあえずの現状だろうか。
あとは人の輪を広げていきたいと思っているのだけど、これもどのようにしていくのが良いのか、まだあまり見当がついてないのが実情だなと思う。結局のところこれまで生きてきた中での仕事というのは「人にものを教える」ということがほとんどなので、その他のことについてあまりわかってないことが多いのだよな、と自分を振り返って思う。自分はまだまだだなと思うが、前に進んでいきたいと思っている。
***
今日は誕生日ということもあり、あまり問題的なことを書きたくないなという気持ちもあったので少しだけにしようと思うが、高校野球と高野連の問題について少し。
高野連のトップは会長だが、組織図にはその上に最高顧問が4人と顧問が7人いる。これはどういう人たちなのかと思って調べてみたら、最高顧問のうち2人は元高野連会長で、残りの2人は朝日新聞社と毎日新聞社の社長だった。顧問の7人はノンフィクション作家が1人。アメリカ野球のことをずっと日本に伝えてきた人らしい。残りは5人が元副会長で、1人が元事務局長。
元会長の2人は高校野球畑というよりは大学野球に関わってきた人のようだ。元副会長の5人のうち3人は朝日・毎日からの出向組、残りの2人が高校野球の監督上がりのようだが、2人とも滋賀県出身だった。21世紀枠の選出が滋賀県が多い、というのが言われていたことがあったが、こういうのは確かに李下に冠を正さず、ということはあるようには思った。
全体に共通していたのは「学生野球の独立」ということにこだわる人が多いということ。これらの人々は結構インタビューに答えているので、またその辺りのところは読んでこういうことがあるのではないか、みたいなことはまとめてみたいと思うのだが、まだちゃんとは読んでいない。
ただ流し読みした感じでいうと、「同じ高校の部活動」において、その上部組織が「高野連」と「高体連」の二つがあって、それぞれの指導理念や指導方針が違うことで同じ学校の内部での部活動全体のあり方が少しギクシャクしたものになっていることがあるのではないかということ。戦前からの人気スポーツである野球は人脈も多いし、ボランティアで動ける人が多いから、高野連の資金も潤沢だが、高体連の方は主に文教予算からの支出なので限界がある。
また、中学の軟式野球は中体連なので学校スポーツとしてはそこに断絶があり、むしろ野球を始める子供はリトルリーグ・シニアリーグ・ボーイズリーグなど学校スポーツとは別の範疇で始めることになり、そこには学校教育とは別の論理が働くわけで、他のスポーツとの異質感というのはそういうところでもあるのだろうと思った。
それなら野球も他の学校部活動と同じ高体連にまとめられるべきかというと、そこは難しい。その一つの理由は野球という競技の国家からの干渉を排除する、というのが「戦後の民主化」の一歩として始まり、強大な独立体になっているというのが一つ。
二つ目は、昨今の教師の働き方改革の側面から、中学や高校の部活動の脱学校化が始まっているということである。そういう意味で言えば、学校に頼らずにやってきた中学以下の野球のシステムがむしろ先進的になるという面もあるわけだ。シニアやボーイズは保護者の負担も多い(高校の野球部もそうだが)のでその辺りは改革されるべきところもあるだろうとは思うのだが、学校ができなければ保護者に負担がかかることはある程度はやむを得ないし、その辺りの全体的な方向性というのはどう考えるべきか難しいところはあるようには思った。
ただ部活動内で起こる「いじめ」などの問題というのは、内部への凝集力が強い集団にやはり起こりがちなことであるし、そこの風通しの良さというのも必要だとは思うし、一定の第三者が見守れる体制のようなものは必要であるようには思う。子供がスポーツを楽しめ、大人にも負担になり過ぎないように運営できるような仕組みができると良いと思うが、野球は特に大人の側が「情熱」が強い人が多いので、ついそういう人たちに頼り、またそういう人たちが主導する形で進むようにはなってしまいがちではあると思う。まあこれは音楽でも文学でもなんでもそうだと言えばそうだし、世の中から情熱がなくなって仕舞えば世界はつまらないものになってしまうことも確かなので、情熱と冷静のバランスの取れた、より良い方向性が出てくると良いなと思う。
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