フィンランド吊り目問題というバイトテロレベルの炎上を鎮火できない差別意識の根深さ/中国で公共意識や民主主義が難しい理由:「たとえば自由はリバティか」/肌寒い日曜/メガソーラー支援打ち切り
Posted at 25/12/15
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12月15日(月)小雪まじりだが月と木星は見えた
昨日は1日ぐずついた天気で、朝も冷え込まない代わりに1日肌寒い感じだった。昨日は一日本を読んだりネットを見たりして家の中にいた。東京に行かない週はだいたい夕方あたりに煮詰まってきて岡谷のモールや書店に気分転換に出かけることが多いのだが、昨日はどうしようかと思いながらどんどん時間が経ってきて、夕方7時を過ぎたからもうあるもので済ませようと思い始めていたのだけど、8時前になって翌朝のパンがないことに気がつき、重い腰を上げて24時間営業の西友まで車を走らせてパンと夕食と、人に出すためのお菓子などを買ってきたりした。
ある意味集中して本を読み、またネットを見たりしていたので、気分転換を必要としないくらい集中してやれたのかなという気もしたのだけど、ただ単に出不精だった気もしなくはない。外に出ると寒いので家の中にいる時間が長くなるのだけど、暖房効率を考えてあまり襖や障子の開け閉めをしなくなると、外に対する関心が薄れてきて外仕事をやろうという気持ちがなくなるということもある。まあ、昨日の場合はあまり天気が良くなかったから気が進まないということも大きかったのだけど。
ただやらないといけないことはあるので午前中はブログ/noteを書いたあと留守中に届いたお歳暮のお礼の電話をしたり、必要な連絡を何箇所かにしたりして、お昼はあるもので済ませ、1時前に支度して近所の人のお葬式の弔問に出かけ、お寺で記帳してご親族に挨拶し、本堂の前の祭壇でお焼香して帰ってきた。お寺は隣の町内なので歩いても行けるのだがいいかと思って車で出かけたら、駐車場がかなり混んでいた。地元の人たちは歩いていたから、歩いていってもよかったなと後で思った。
出かけるのが嫌にならないうちにと思って月曜から始まる植木の手入れの下準備を少し。車の入れ替えをしたり少し草を刈ったり。別の場所の通電を確認しにいったり。思ったより枯れた草が生えていて荒れた感じになっていたから、月曜日に少しやっておいた方がいいかなと思ったり。本当はもっと早くやるつもりだったのだが、やることが多くて後回しになってしまっていた。
***
ミス・フィンランドが吊り目ポーズの写真、つまり中国人を馬鹿にした写真を投稿して炎上したのだが、それにフィンランドの国会議員たちが彼女を擁護するために同じような写真を投稿したことがきっかけになって、日本のツイッターで激しくフィンランドを批判する炎上が起こった。
このヨーロッパにおけるアジア人差別の明らかな現れである「吊り目ポーズ」だが、ヨーロッパに行ったことのある日本人でこれをやられなかった人はほとんどいないだろうと思われるくらい蔓延した差別行動であることは確かである。私も40年ほど前に1ヶ月ほど旅行した時、ドイツやフランスでは差別的な行為がなかったわけではないが吊り目はやられなかったが、スペインでは子供たちに「チーノ、チーノ(中国人という意味)」と囃し立てられたり、ポルトガルではやはり子供たちに囃し立てられ吊り目ポーズをかまされたことはよく覚えている。
まあこういうあからさまな差別をするのは独仏のような国ではなくむしろ周辺の小国なのだなというのは今回のフィンランドのケースでも明らかなのだが、日本人が強く憤激したのは単に彼らが差別的な行動をしているということではなくて、フィンランドをはじめとする北欧が「人権を守りましょう」という取りすました発信を盛んに行なっていることと今回との矛盾に「ダブルスタンダードの偽善ではないか」と憤ったというのが一番大きいだろう。
元々のバカにされた対象である中国人より日本人の方が強く反応したのは、中国は人権を強く意識する民主主義国ではないけれども日本人は常にヨーロッパからのそういうモラルハラスメント的な人権的非難に耐え忍んできたという感覚があるからだろうと思う。
ミスフィンランドの人は父親がコソボ系アルバニア人だそうで、そういう人をミスに選ぶということ自体がフィンランドの多様性重視の姿勢を誇示したところがあったわけだと思うが、国会議員が彼女を擁護したのも彼女を擁護するのがポリティカルにコレクトだという感覚があったのだろうという気がする。そのためにアジア人蔑視のポーズをSNSにあげるというのは「アジア人差別」という観点が欠けている全く本末転倒な行為なのだが、それだけ彼らにとってアジア人差別は空気のような、というか息をするように差別をしたのでそれをいきなり非難されて息をすることを非難されたような驚きを感じたのではないかという気はした。
もともとミスフィンランドが吊り目ポーズをSNSにあげたというのはいわゆる「バイトテロ」のようなレベルの低い炎上だったのが、国会議員がそれに参戦したことで国家レベルのバイトテロになった、というか国会議員がバイトテロレベルであるということを明らかにするという醜態を晒した、ということなのだと思う。
フィンランドという国はロシアの隣であり、常にロシアやソ連に圧迫されて領土にされていた時期もあるし、スウェーデンの領土だった時期も長い。そこから独立して戦ってきたことでロシアに勝利した日本に対しては親近感があったらしく、東郷平八郎の名前をとった東郷ビールなども売っていたりするなど、少なくとも日本人の多くは「親日国」と見做してきた国だった。
それが今回のことでイメージは暴落し、フィンランドを含む北欧の「人権先進国」と称する国々、またその国々を持ち上げる日本の左派人権派の人々に対してもダメージになったと思われるし、また彼らに対する信用も大きく毀損された。
https://x.com/yasemete/status/2000211678391328856
フィンランドの首相はようやく「子供じみた行為は良くない」程度の反応を示したようだが、実際にはあまり何が起こったのか今でもちゃんと認識していないのではないかという気がする。黒人差別や女性差別のようなオフィシャルになった差別と違い、アジア人差別は目に見えない形で行われているのは確かで、フィンランドの学者が「フィンランドにはアジア人差別はない。なぜならそういう研究も行われていないからだ」と表明したという話もあり、本当に見えない差別だということもある。
しかし一方で、これは日本でも同じなのだが、人々の中には「ポリコレ疲れ」というものがあり、そうした鬱屈した感情をこうした形で発散したのではないか、だから彼らに「反省」が生まれにくいのだ、という指摘もまたその通りだろうと思う。これは同じようなことが日本でもあって、参政党の勢力が伸張したということと結局は同じような話ではあろうと思う。ただ問題は、今回の差別意識が我々日本人を含む東アジア人に向けられたということであるわけである。
逆に言えば、人々の差別感情がある程度のおおらかさを持って許容される社会であればあいつも差別するがこっちも差別してやる、という呉智英さんのいう「差別もある明るい社会」で行けると思うのだが、日本人の差別的に見える現象は批判するが自分たちの差別は「冗談だからあまり真剣に捉えるな」というのではダブルスタンダードの偽善だと批判せざるを得ない、ということにはなるだろう。
この問題自体は東アジア人がフィンランドやヨーロッパで暴動を起こしたりすることは考えにくいので落ち着くべきところに落ち着いて貰えばいいとは思うのだが、この騒動も早速ロシアに利用されていて、日本人の反ヨーロッパ感情を煽るような動きも出てきているように思われる。
国際社会の対立の中で、日本は今まで概ねヨーロッパの側に立ってきたし、近代化を主導してきたということで尊敬もしてきたわけだけれども、こうした形で「価値観の共有」が怪しくなってくると、中国やロシアなどの権威主義国側からすれば日欧の連帯に楔を打ちやすくなってくる感じはある。またアメリカもトランプ政権の動きはヨーロッパを切り捨てる方向に動いている感があり、世界の落ち着きがさらになくなりかねない。世界がどうなっていくかはヨーロッパの側も考えていかなければならないと思う。もちろん日本ももっとちゃんとした国家戦略を持って国際社会に対応していく必要はあるわけであるが。
***
「たとえば「自由」はリバティか」、第5講まで読んだ。第5講は日本語の「公私」と英語(ヨーロッパ語)のpublic/privateの共通点と相違点という話なのだが、毎回そうなのだが話の展開はヨーロッパ語での意味の解説の後、中国での、つまり漢字の原義としてのその概念が取り上げられ、そして日本ではどうか、という話になる。第4講までは「西欧と日本の違い」にほとんど目が行っていたのだが、今回は中国の特殊性という下日本やヨーロッパとの違いが強く印象に残った内容だった。
明清には江戸時代の日本のような村落共同体はなかった、というのが通説で、幇というのはあったけれども、これは結社組織で多くは同族組織という感じかと少し調べて考えた。読んでいくと本当に明清以降の中国には明確に区分できる共同体がないということがわかり、そうなると「共同体の中のみんな」という概念が元になる西欧のpublicの概念が成立しない、という指摘は結構重要なことだと思った。
私は中国は春秋戦国や古代のものの印象が強いせいか、中国というと古代の都市国家の国という印象なのだけど、それが解体されて個人単位になっていき、巨大な流動が生まれやすい状態になったから黄巾の乱やら太平天国の乱やらのビッグウェーブがしょっちゅう起こる状態になったということなのかなと思った。
都市国家が解体して後漢末以降荘園制の身分制社会になり、さらに唐代後半にそれも解体したあとの宋代には、「万人の万人に対する戦い」の状態になったという指摘は驚いたが、逆に言えば宮崎市定先生などが中国は宋代から近世になる、と主張するのはその辺りもあるのかなと思った。ただもちろん西洋近代と違って産業革命がないから近代とは言いにくいなとは思うのだが、宋代の読書人階級の成立をある種の市民革命の成果と見做せば近代的と言えなくはないかもしれない。しかしその後にモンゴルの征服があって社会は混乱するわけだけど。
中国には農民という法的身分がなかったというのは驚いたが、逆に言えば人は何にでもなれたのだということで、確かにそれはある意味近代的だ。ただ江戸時代の篤農家みたいな意味での公益を追求するある種市民性は生まれなかったということではあるのかなと思う。
日本で江戸時代の村落が共同体になったのは入会地などの共有財産があったということもあるが、年貢が村請制で共同責任を負わされたから、というのが大きいのだろう。土地は平安時代までは領主のもので開発領主たちが農民を集めて開発するというスタイルだったが、それが軌道に乗ると農民は比較的土地に定着するようになり、鎌倉時代には地頭が年貢の徴収を請け負う地頭請が成立し、室町時代には荘園内の村落が惣村化すると村自体が徴収を請け負う地下請に発展し、荘園制が解体された江戸時代には村切りされた小規模な村落自体が年貢を請け負う主体となって村請になる。そうなると村を構成する百姓たちは家ごとに年貢の額が決めらて村に対して責任を負うようになったということなのだろう。
これはつまり村落共同体ということであって、それはお互いに牽制し合うという意味で五人組制度的なムラでもあるがある種の自治組織でもあり、また大名や幕府側にとっては統治を容易にするというものであった反面、農民たちにとっても村や家という居場所が確保されたということでもあると思う。
中国人にとっての世界は自分を中心とした同心円構造になっていて、修身・斉家・治国・平天下という考えがそれを産んだということなのだが、あくまで自分が中心であって「共同体」というものは存在しないという世界の捉え方になるということだろう。ここは日本とも「社団国家」とも言われるヨーロッパ近世とは全く違うことがわかる。日本人みたいに「居場所」とかいう「甘えた」ものは最初からないということだろう。それが中国人のある種の逞しさ、アナーキーさにつながっていると考えると理解しやすいとは思う。
しかしそういうふうに考えるとこういう人たちの集まりに「共同体」とかその中での「民主主義」とかを説くのはかなり難しいことだなというのは読んでいて実感してきた。東アジアでは日本支配下にあった台湾や韓国で日本的な統治が行われることで少し変化はあっただろうと思うのだが、中国ではそういうこともなかった。
そう考えると中国というのは我々が考えているような世界観とは全く違う認識を持った人たちだということになるわけで、ある意味世界に進出しやすい、資本主義に非常に順応的な人々だったからこそ、アメリカに贔屓されたクリントン政権以降の新自由主義時代に経済大国化を成し遂げることができたということなのだろうと思う。
しかし自分自身とその延長という形でしか世界を認識しないスタイルは欧米的な国民国家共同体のような考え方はあまり発展しなかったと考えられるから、権威主義的な覇権国家思想が発達することになったのだろう。この辺りはイスラム世界やロシア、あるいは中南米、アフリカ諸国などの共同体意識みたいなものもまた考えていくことによって世界の把握の仕方がよりきめ細やかになっていくだろうという気はした。
残りは第6講、「society/社会」について。後40ページ弱である。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/e2d8801855c7c3fe0c7e3cd3fa8b6f711aebd60f
政府がメガソーラーに対する援助を打ち切るとのこと。遅すぎるくらいだが良いことだと思う。
これが拡大したのは東日本大震災後の原発事故への対応というか原発を廃止して再生可能エネルギーへ、という発想の延長線上に出てきたもののようだ。しかし山林を切り開き自然を破壊して再生可能エネルギーというのはどう考えても本末転倒であり、こういう自然破壊的な発想は本来環境保護の立場から出てくるはずがないと思うのだが、原発を止めるためには山林の犠牲はやむを得ないという判断がどこかにあったのだろう。その辺りのところはこれから明らかにしていってもらいたいとは思う。
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書いている途中でゴミを出しに行きがてらジャンプを買いに行ったのだが、勘違いしていて今日はゴミの収集日ではなかったので、セブンに行ってジャンプとカフェオレを買った後、ゴミは出せずに持って帰ることになった。なんかいろいろアレである。
恫喝を繰り返す中国とどう付き合っていくか/「ふつうの軽音部」90話「嘘を歌う」を読んだ/尾瀬あきら「呑んでゴメン」と尾瀬さんのラベルの日本酒/「たとえば自由はリバティか」:日本語の自然と自然権の自然
Posted at 25/12/14
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12月14日(日)雨
日付を書いてから思ったが、今日は赤穂浪士討ち入りの日か。書こうと思うことがぐるぐる頭の中を渦巻いていて整理しようと思って書きはじめたのだが、返って情報が増えてしまった。最近では12月だからといって忠臣蔵、ということがなくなってきているので余計不意打ちの感がある。年末ももう半月過ぎた、というふうにも言える。今朝は雨。いろいろ外仕事をしようと思っていたこともあったのだが、あまりできなそうだ。
その代わり、と言ってはなんだが朝の気温が高い。最低気温がプラス3.4度。ただ天気が悪いから日中は気温は上がらないだろうし、居間にいると寒さはそんなに感じないが、廊下に出るとしんしんと冷える。冬は冬である。
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https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912731880567
今朝は4時過ぎに起きたのだがいろいろやっていたらもう9時を回ってしまった。ジャンププラスも「普通の軽音部」第90話「嘘を歌う」が良かったので、そのことをいろいろ考えている。
「私は純ちゃんの弱さから目を背けた」
それに対するレイハの罪意識が今回の物語の柱なのだが、それについて書くにはまだ整理されていないところが多いので、またまとまったら感想を書こうと思う。鳩野だけがレイハの本当の気持ちに気付いている、という描写がすごく良かった。
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マンガとしてはもう一つ、「呑んでゴメン」という尾瀬あきらさんの短編が良かった。
https://comic-days.com/episode/2551460909889125903
酒に蘊蓄を傾ける彼氏の行動を待ちきれず、先に酒を飲んでしまうという失敗から始まる話なのだが、「夏子の酒」の尾瀬さんだから酒造りの話へと展開していく。
https://comic-days.com/episode/10834108156629765903
酒造りの文化についての描写もいいが、物語の展開も小気味良くてさっと読んでしまう。主人公たちの関係にやる気をなくした杜氏とその亡くなった妻の話が重なっていくのもいい。最後は酒の神様がもたらした福音、みたいな閉じ方も、酒が飲みたくなるものだった。
先日関西に行った際に友人にもらった「るみ子の酒」のラベルも尾瀬さんが描かれていたので、二重の意味で出会いだったなと思う。こちらも美味しかったです。
https://shop.morikishuzo.co.jp/?pid=158744856
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「たとえば「自由」はリバティか」を読んでいる。自由、権利、法に続いて「自然」が第4講。明らかに法文化の問題である前の三つに比べてなぜ「自然」が取り上げられているのか、と思いながら読んでいたのだが、つまりは「自然法」とか「自然権」という意味で使われるnatureと日本でいう「自然」の意味のずれ、というのがテーマだということに途中で気がついてなるほどと思った。
natureの訳語候補として「天」とか「性」が考えられてきた、というのは面白かった。その元は「中庸」の「天命謂性 率性謂道 脩道謂教」天の命じたものが性であり、性に従うことが道であり、道を修めることが教である、というあたりからきているのだという。余談だが、私は「中庸」は「礼記」の一部と考えていたのだが、むしろ「中庸」などを寄せ集めて編集したのが「礼記」という成り立ちだと再認識。
やや疑問に思ったのが次の内容。
「日本国憲法第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
Article 11.The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights.These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights.」
とあるわけだが、基本的人権は憲法が「保障 guarantee」するものであり創出したのでも与えたのでもないものとこの本にあるのだけど、それでは「現在及び将来の国民」に基本的人権を「confer与へる」主体は誰なのだろうか、ということだった。
「生まれながらにして自然に持っている」という人権の基本的定義に従えば「現在及び将来の国民が有している」でいいと思うのだが、わざわざ「shall be conferred=与へられる」とした意味はどこにあるのか、と思ったわけである。天「賦」人権のニュアンスを残したということのように私は思ったが、これは逆に「国家が与えた」と解釈する余地を残したというふうにも解釈できるなとは思った。
第4講まで読み終わったが、返却期日が明後日に迫っていたので、ちょっと厳しいなと思って図書館に電話をして延長してもらった。28日の日曜日までなら読み終えられるし、この本は自分で買ってもいいなと思った。
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高市首相の台湾有事発言で中国の恫喝が続いているが、垂秀夫元中国大使のインタビューが参考になるものだった。
https://courrier.jp/news/archives/425254/
「一般の中国人と中国共産党を一緒くたにして中国全体を敵に回すのは日本の国益にかないません。中国が日本にしたのと同じように、一般の中国人と中国共産党を意識的に区別し、後者に対しては感情論やナラティブに騙されることなく「攻める」アプローチをとるべきです。これが、対中国共産党における最も効果的なアプローチです。」
これは全くその通りだと思った。
「日本の外交には、戦略も戦略的思考もありません。起きた問題に対し「モグラたたき」のように対処し続けているだけで、国家目標に準じた対応ができていません。そもそも、国家目標そのものがありません。欧米の外交には当然ながら戦略的思考があり、中国共産党にも西洋的なものとは異なるものの、独自の戦略的思考があります。
日本には戦略も戦略的思考もないから、日米・日中関係に「友好」や「相互理解」などというウェットな理屈を当てはめ、米中から切り捨てられるのです。」
「日本において戦略的思考が育たない理由は、学校教育で政治や国際問題について主体的に考えることを「タブー」としてきたためです」
確かにこれは重要な話で、中国とどう付き合っていくかという民間レベルの話ではなく国家レベルの話としてそういう議論が教育的場面で行われてこなかったということが大きいだろうと思う。
垂さんが言っているように、中国が戦略的に「旧軍部・日本の支配層(高市さんなど)」と日本民間を分けて民間とはやれる、みたいに言ってるように、日本も「中国共産党及び支配層」と中国人民(日本で犯罪とかマナー違反とかしない普通の人達)と分けて「良い人たちとは仲良くできる」というナラティブを構築することが戦略的ということかなとは思う。
https://x.com/YSD0118/status/1999886469490770400
中国共産党の統治実績を評価することはもちろんできるのだが、それに取り込まれる必要はなくて暗黒面は暗黒面として指摘したらいいし、もちろん共感したり同情したりする必要もない、ということだと思う。
日本や台湾ではほぼ当たり前にできていることが中国では困難だというのは中国の事情であってそれを強権的な手段で実現していることはうまくやっているということもできるし批判することもできる。日本としては日本の利益が出る部分では改革を手伝えばいいしだからと言って深入りすることはあまり良くないことは、今回の事態のようにあっという間に扉を閉ざすという側面も持っているということから自明だろうと思う。
中国のナラティブに乗ることはなく、日本政府として独自のナラティブをちゃんと構築し、またその前に日中関係や国際関係において何を目指していくのかをちゃんと考えておく必要があるということだと垂大使の文章を読みながら思ったのだった。
なので、この辺のところも読んでおかなければとは思っている。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h11155?ref=innerLink
令和人文主義の新自由主義性と自由に生きるための「法」の重要性/柳田國男の憲法に賭けた思い/ガソリン価格の低下と高市内閣の高支持率
Posted at 25/12/13
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12月13日(土)晴れ
いろいろ朝やっていたのとマンガを読んだりしていたのでブログの書き始めが遅くなってしまい、あまり時間がない。いろいろと根本的に考えていたりすることもあって、何を書くかの考えがまとまらないまま考えたりネットでいろいろ探したりする感じになっている。
今朝は寒くて、最低気温はマイナス4.4度だったのだが、予報ではマイナス7度だった。朝起きた時にはそのくらい下がっているかもと思ったのだが、それほどでもなかった。洗濯機でタオルを洗ったのだけど水が出ないということはなかったのでまだ本当の真冬ではないという感じ。
6時ごろに出かけて隣町にガソリンを入れにいくついでに職場に出て少し仕事を片付ける。そのまま国道を走ってセブンイレブン併設のスタンドまで行って給油。5円引きチケットを使って154円。だいぶ下がった。今日は25リットル弱いれたが、例えば170円の時と比べて16円安いから400円違う。週に一度より少し頻度が高いくらいで入れているから、年に60回給油するとすると年で2万4千円違うことになる。ガソリン暫定税率廃止は本当にありがたい。国民民主党や高市内閣の支持が高いのも、こういうことをちゃんとやってくれているということは大きいだろうと思う。
「法と自由」ということを考え始めて、それがなんというか自分の割と深いところを動かしている感じがする。これは「たとえば「自由」はリバティか」を読んでからのことなのだけど、それまでは法というものは個人を縛るものだという固定観念が強く、法が人を自由にし、正義が実行されるなどということはどちらかと言えば綺麗事というか、お為ごかしだとどこかで思っていて、法の研究に自由が深く関わるなどということはまともに考えてこなかったのだなあとこの歳になって反省しきりである。経済についてもまともに考え始めたのはここ10年くらいの話だし、この歳まで生きていてようやくそういうことに思い当たるというのは遅いと言えば遅いのだがまあ生きてきた意味もあったということかもしれないと思う。
それに関連していろいろ考えさせられているのが「令和人文主義」の問題である。いくつかnoteなどを読んで考えたのだけど、主なところをリンクを張っておく。
https://note.com/bungakuplus/n/n7f809eebf081
https://note.com/yonahajun/n/n9f8fac28b86e
https://note.com/yonahajun/n/n82a48bf0755a
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n0a580b532f3f
https://note.com/nenkandokusyojin/n/ne9d96ad49c53
下の三つは令和人文主義とキャンセルカルチャーの問題、またこのワードの炎上に関する話、令和人文主義の軽さについてなのだが、より根本的な批判は一番上の小峰ひずみさんの論考である。
「市民」やその予備軍と考えられた「学生」を対象にするのではなく、「会社員」を受け手と設定するのが令和人文主義の特徴、ということを言っているのだけど、会社員は自立した市民ではなくて「手足」に過ぎないから、令和人文主義というのも結局は資本主義に文化を切り売りする存在になってしまう、ということが批判の中心なのだと思う。
そして、会社員でありながら市民としての法的主体に立つのは労働者として会社と対峙する局面になるから、人文学が労働者の立場に立ってきたという歴史があったのだけど、それを弱めるネットなどの発展がその可能性を弱めてきた、みたいな話はなるほどと思ったし、だから「人文学=左派」にならざるを得なかったのは「国家に代わって統治の主体になりつつある資本主義大企業」と渡りあわなければ主体としての市民性が得られなかったからなのだ、というのはなるほどとは思った。
「『なぜ働』は、新自由主義批判を行いつつも、新自由主義の考え方を無意識のレベルで広める本だと思います。三宅さんは教養主義の歴史から市民的な側面をカットすることで、「会社員」たちに「誰も市民などではなかった」と甘言を弄しているのです。」
私は三宅香帆さんの作品はフェミニズム用語が鼻について途中で挫折したのだが、フェミニズムの本質は市民主義というより新自由主義的な男性差別主義に過ぎないんじゃないかという気が最近してきていて、なるほどそういうことかと思ったりはした。
「もし、強きにおもねらず、長い物には巻かれないという矜持を持つならば、「市民」あるいは「群れ(マルチチュード)」に向けて書くという一線を絶対に揺るがせてはなりません。だから、谷川さんの言う「令和人文主義」を、私は次のように表現したくなります。
正社員様の哲学」
この辺は著者の「左翼としての矜持」みたいなものを感じるが、私は保守の立場ではあるが、こういう言説は全くその通りだと思う。
そうだなと思うのは、確かに自分が一体誰に向けて書いているかと考えてみると、少なくとも「会社員」に向けてではない。書いているものによって違うけれども、やはり基本的に「市民」に向けて書いているのだなと思う。主に「保守的市民」ではあるが。ただちゃんと聞く耳を持つ人であれば左翼的市民であっても読んでもらう意味はあるし、共感をできれば広げたいとは思う。
そしてもう一つの発見が柳田國男。
「創始者である柳田國男は民俗学を日本に「民主主義」を根づかせるために創りました。そして、後続の批評家である大塚英志が、民俗学を「公民の学」であると声高に言い続けなければならなかったのは、まさに民俗学が「知」としてあまりに面白く役に立つために、それが「市民」(公民)を形成するために創られたことを、誰もが忘れてしまうからではないでしょうか。」
民俗学を柳田國男が創始した意味、というのは読んだことはあったが、ここまで彼の「民主主義観」に根ざしたものだということは理解していなかった。
その関連で柳田國男と憲法について少し調べたら、大塚英志さんの文章ができた。
https://book.asahi.com/jinbun/article/13186801
大塚さんの文章というのは必ずしも全て賛成するわけではない(もちろんスタンスが全然違うので)のだが、この辺りは全く腑に落ちるというか読んでいて感動すら覚えた。
特に感動したのは柳田が書いたという次の文章である。
「人々の希望と政治
たれでも、健康で働けることを、のぞんでいるでしょう。
みんなの健康をまもってくれるために、保健所、水道、下水など、いろいろなしせつがあります。このようなしせつの費用は、どこから出ているのでしょうか。郷土や国の費用で、まかなわれているのです。
だから、健康で働けるようにというみんなの希望と、郷土や国の政治とは、きりはなすことのできない関係があります。
よい政治が行われるようになってから、病気で死ぬ人もだんだんへってきました。伝せん病をふせいだり、赤んぼうの死ぬのをもっと少なくしたりすることなど、医学の進歩ばかりでなく、政治の働きを必要とすることが、まだたくさんあります。
私たちには、国や県や町や村に、こうしてほしいといういろいろな希望があります。それは、自分のためだけのかってな願いではなく、みんなのためになる希望でなければなりません。クラスの生活をよくするために、郷土の生活をよくするために、国ぜんたいの生活をよくするために、どんなことを希望したらよいでしょうか。
学校、公民館、図書館、道路、橋、汽車、電車、郵便、電気、ガスなど、私たちの身のまわりのどれ一つをとってみても、郷土や国の政治と関係のないものはありません。
みんなのえらんだ地方議員、国会議員と、村長、町長、市長、知事などが、みんなの希望をもとにして相談して、これからする仕事をきめます。きまったことは、役場や県庁や官庁が実行します。
だから、国民の生活がよくなるのも悪くなるのも、おもに政治のよしあしによるのです。選挙と政治(小学校社会科教科書)「4 りっぱな議員をえらぶために」より」
こういうのは、今でもそのまま小学校の教科書に載せてもいい文章だと思う。
小峰さんの文章の終わりに、こういう記述がある。
「そこで最後に、人文学を担う学生のみなさんに訴えます。
たしかに人文学は厳しい状況に置かれています。その理由は先に述べました。そこで、もし人文学ではやっていけないなと思ったら、研究歴や業績をすべて投げ捨てて、法律を勉強してください。法の支配を立て直してください。もちろん、マーケティング会社やコンサルティング企業はみなさんの若さと人文知を高値で買い取るでしょう。しかし、安易に企業の側に入らず、ゼロから出発するべきです。そのうちの何人かは法務につくことができるでしょう。こちらは私がいま現在選んでいる道です。」
人文学と法の問題、特に「法の支配」の問題である。つまり、「人間を自由にするものとしての法」というものの根本的な思想に立ち返れ、ということを言っているわけである。
「会社員」にとっての法は「コンプラ」という企業活動を円滑に進めるためのアイテムでしかないが、市民にとっての法は自分たちがより自由に行動するためのものであるわけだから、特に表現の自由の問題など、うかうかしていたら奪われる可能性があるものと常に対峙する必要が出てくる。表現者であろうとすることは、必然的に法的な主体者である「市民」であることが要求されるということである。
その自由を奪おうとするものは左右問わず枚挙にいとまがないが、そこをしっかり考えて対処していくことはこれからを生きる人間にとっては必須になっていくのだろうなと改めて思った。自由を巡る戦いというのは、法をどのように考えていくかの問題になるのだということがはっきりしてくる。柳田國男が想定した未来をディストピアに終わらせないことは、自由を奪う無数の敵と戦っていくということでもあるのだなと思った。
ちょっと時間がないのでやや整合性にかける面もあるが、とりあえず今日はこれで。
「トリリオンゲーム」最終話を読んだ:「鬼滅の刃」にも「進撃の巨人」にもできなかった最高の着地/安倍元首相暗殺事件の被告擁護勢力と民主主義教育の敗北
Posted at 25/12/12
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12月12日(金)晴れ
忙しいのだが昨日は懸案が一つ終わったのでやれやれという感じで早く寝たつもりだったのだが、起きたらもう6時前で朝が忙しくなった。ゴミをまとめて出しに行きがてらセブンで週刊漫画タイムズを書い、お城の近くのファミマまで走ってスペリオールを買い、職場に出てゴミをまとめ、出して帰ってきた。帰ってから漫画の読みたいところだけ読んだが、「浪人生の彼女とスーパーで」が次回最終回、「トリリオンゲーム」が今回最終回ということで、なんとなくしみじみしてしまう。
「浪人生の彼女とスーパーで」は30代の冴えない自信のない男性と浪人生の19歳の彼女が付き合う話なのだが、現代のコンプラに挑戦している感じが良くて読んでいたのだけど、そんなには展開しないまま終わりになりそうだが、まあ毎回やることはやっていたしこんなものかなと思ったり。この男性が「成長」するところを見たかったのだけど逆に言えば成長しないところが魅力なのかも、という解釈もできるのかなと思ったり。
「トリリオンゲーム」は前回主人公が行方不明になり、今回はどういうエンドになるのだろうと思っていたが、期待通りのエンドだった。こういうエンドがビシッと決まるのは実は結構難しい気がする。鬼滅の刃も進撃の巨人もちょっと着地が乱れたんじゃないかという感があった。素晴らしい。さすが稲垣さんと池上さんだと思う。この組み合わせ、思ったよりすごく上手くハマった。最終回のアオリ?に「令和の絶対エース原作者・稲垣理一郎」「進化し続けるレジェンド・池上遼一」とあったがまさにその通りという感じ。次回作があるなら期待したい。
https://x.com/satoruishido/status/1999054455929803132
日本の歴代首相で殺害された者、というのは伊藤博文、原敬、濱口雄幸、犬養毅、高橋是清、斎藤実、安倍晋三の7人か。明治に一人、大正に一人、昭和に四人、平成がゼロで令和に一人。実質的な総理大臣という意味で内務卿の大久保利通を入れたら明治は二人になるが。
それにしても、昭和は四人とも戦前だから、安倍首相の暗殺というのは本当に時空を超えたあり得ない出来事が起こったというのは良くわかる。前回の暗殺は二・二六事件の1936年。安倍暗殺事件は3年前、2022年だから86年の空白である。
この憲政史上起こってはならない暗殺を引き起こした山上被告を援護する声があるというのは、民主主義というものを根幹から理解していないという人がいるということだろう。日本の教育の敗北とはこのことかもしれない。特に民主主義教育の。
今日は母を病院に連れていくのでこのくらいで。もう少し早くから書き始めるつもりだったのに出遅れてしまった。
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