「映像の世紀」:台湾の存立に日本ができること/アニメ「正反対な君と僕」第1回をみた:原作に忠実なアニメ化に愛おしさを感じた/「知性の復権」:テクノリバタリアンとアメリカ国家/不順な天候

Posted at 26/01/13

1月13日(火)曇り

昨日は一日そんなにいろいろやったつもりはなかったのだが結構疲れが溜まっていたらしく、夕飯を食べた後少し横になったら起きられなくなって時計の8時半を確認した後何とか起きたら11時をすぎていて、それでも何とか起き上がって入浴して寝たのだが、夜やろうと思ってやり残していたことがあったので何だかそれが気になって変な眠り方なのに眠ってしまうという感じになっていて、結局4時に目が覚めた、というか起き出した。

居間に降りてきてお茶を飲もうとして仏壇にご飯をあげようと思っていたのに忘れていたことを思い出し、炊飯器の保温は切ってあったので少し茶碗に取って温めてから仏壇にあげて水と線香をあげて手を合わせた。部屋が何となく寒いので見るとつけたはずのストーブが灯油がなくて消えていて、ポリタンクから入れようと思ったらポリタンクにもなくて、外の灯油タンクに入れにいくにはパジャマでは無理なので着替えて長いコートまで着て給油。空は曇っていたけどところどころに星が見えていた。その時はマイナス0.7度だったが今見たらマイナス2度。今日は曇りのようだけど、曇っていてもマイナスというのは本格的な冬という感じ。最高気温は6度の予想だし夕方には雪ではなく雨が降るようで、どうも天気がよくわからないのだが。

https://sh-anime.shochiku.co.jp/seihantai_anime/

4時半ごろからアニメ「正反対な君と僕」の録画を見た。これを見るのが気になっていたというのはまあアレなのだが、夜見ようと思って寝てしまったから変に宿題みたいになってしまったのだった。第1話はアヴァンが長く、かなり状況説明的にいろいろなキャラの朝の様子を出してきて、主人公の鈴木の最初のコマに繋がり、マツエクとかマスカラの話を渡辺と佐藤としているときに隣の席の谷に無茶振りする、という原作通りの展開になり、「正直、大好きです」というモノローグでOPに入るという展開は見ていてちょっと感心してしまった。

作者の阿賀沢紅茶さんの少し個性的な絵柄も忠実に再現されていて、これは見ていてかなりアガる。今期のアニメの他作品を見ていて絵柄がいわゆるアニメ絵寄りになっているものがあり、ちょっとがっかりしたので特によかった。鈴木の声は最初は少し意外だったけどだんだん気にならなくなったのだが、谷の声が良かった。ぼそっという返しの絶妙さというか、鈴木の話しかけに「聞いてんのかな?」と思い始めるような絶妙なタイミングで返ってくるのを聞いてると、この「間」こそがこの作品の魅力なんだなと初めて気がついた思いがした。

偶然放課後昇降口で出会い、勇気を出して声をかけて一緒に帰ることになって、鈴木の好き好きオーラもあるけど谷が鈴木の手を握り、「夢?」と思うところなどは何というか気持ちが通じるという瞬間はこういうものだよなあと思ったり。興奮して眠れず返って寝坊して慌ててリビングに降りると朝ごはんと書き置きが置いてあって返って落ち着いて、ばっちり化粧してから出かけたのなら多分もうお昼休みかなと思ったり。

ピンク髪でばっちり化粧、爪もピンクでキラキラギャルな鈴木が実はそれまで無遅刻無欠席の健康優良児だったというのも面白いのだが、谷と歩いていたところを山田にいじられて「そんなんじゃないから!」と言ってしまった途端に谷が現れ、言い訳できないまま放課後に谷に「昨日のこと忘れて。ごめん」と言われる展開から、「私、谷くんのことが好き」とみんなの前でいい、「片想いしてんの。で、昨日一緒に帰ろうって私が誘ったの。それって、何かおかしい?」という時の鈴木の顔が何とも言えず、こうした表情が本当に原作通り再現されているのがとても良い、というか愛おしいものを感じた。

そして佐藤や渡辺や山田に背中を押されて谷を追いかける鈴木が、「なんだ。自分の気持ちをいうのってこんな簡単なことだったんだ」という場面の音楽や演出がよく、原作では「言いたいことはわかるけど気恥ずかしい」みたいな感じで読んでいた部分が「そうだよなあ」と思えて、アニメになってさらに良くなった部分だなと思う。

https://shonenjumpplus.com/episode/13933686331787337964

そこから先は最後までとてもよかったけれども、原作1話、というか実はジャンプラでも元々は読切で2021年に掲載されていた部分までがフルでアニメでも第1話になっていて、とてもよかった。原作で44ページ分、アヴァンでキャラ紹介、本編では心理描写を丁寧にしてちょうどこの時間で収まるのだなあと思う。来週以降の分がどのような構成になるのかはわからないが、とても期待が持てる作品だなと思った。

読み切りから考えるともう5年前のマンガが今アニメになっても十分面白いというのは、いいものはいつ読んでも(見ても)いいのだなあと改めて思ったりした。

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https://www.web.nhk/tv/an/butterfly/pl/series-tep-9N81M92LXV/ep/ZYJPGYQ1J1

昨日は「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「激動 アジアの隣人たち 台湾 130年の傷痕」の録画を見た。

台湾の歴史、というのは小林よしのり「ゴーマニズム宣言 台湾論」などいくつか読んだことはあったが、これも初版発行が2000年でまだ李登輝が健在な頃だから現在とは既にだいぶ状況が違うので、昨今の台湾有事についての状況も併せて考えるといろいろ見どころのある作品だなと思った。

「台湾」という存在の難しさは、台湾を一つの主体として考えるのか、中国の一部と考えるのか、というところから論者の立場が違うわけで、それは帝国主義時代に日中の戦争によって日本に割譲された時から始まっていて、1895年から1945年までは日本の一部であり、この50年の間に日本化がかなり進んで、中国語(特に北京官話)が話せない人が多数になったことが、国民党進駐後及び蒋介石政権下において「本省人」が政治行政から排除された理由にされたのだ、ということはちゃんと認識してなかったなと思った。

最初の場面が蒋介石の銅像を倒すところから始まっていたのはちょっと驚いたが、2023年に台湾各地で行われたことらしく、逆にそれらを集めて展示する公園も作られたとのことで、現代史において蒋介石という存在はいまだに矛盾に満ちた賛否の渦巻く人物なのだなと思う。これは毛沢東ももちろん同じなのだけど。特に蒋介石は中国スケールで考えた場合と台湾スケールで考えた場合で全く見方が変わってくる人物ではあるなとは思った。

蒋介石の国民党軍が台湾に進駐し、政治や行政から排除された不満から二・二八事件が起こり、無差別に殺傷されるなどの歴史を踏まえれば台湾社会にとって外省人の存在はかなり負の存在なのだろうなあと思っていた部分はあるが、彼らもまた国民党軍に自分の意思かどうかもわからず連れてこられて台湾に来て、40年後にようやく故郷を訪問することが許されたがその地は全く変わっていて知っている人も誰もいなかった、という話はやはり悲劇だなと思った。「人を生まれた土地から連れ去る」ということがどれだけ非情なことか、というのは拉致被害者の話にしてもそうだが、あまり同情されにくいだろうという意味では外省人の兵士たちの悲しみや苦しみは想像にあまりあるものはあるなとは思った。

そして本省人たちは政治や行政から排除されたために返って経済で活躍することになり、国民党軍と共産党軍が散発的な戦闘を繰り返したり、蒋介石の大陸反攻が失敗したりして、中国が国連で議席を占めることによって台湾が国際的に孤立した後も、本省人の作り上げた経済力が底力になって台湾は生き残っていき、本省人初の総統となった李登輝が1989-90年代に民主化を行なって台湾を民主主義社会にして、「共産党=毛沢東」vs「国民党=蒋介石」という構図を超えて「大陸」vs「台湾」という構図に変えたわけで、「台湾問題」は新たなフェーズに入ったわけである。

国際的に見て、台湾は清朝の時代は清朝の一部だったし、日本に割譲されてのちは日本の一部になり、日本の敗戦後は事実上中国に返還されたわけだが国共内戦の結果「国民党の本拠地」となっていわば国民党政府に植民地的な支配を行われたわけだが、国民党政府が国際的な地位を失ってのちも経済力で生き残るということになり、国共それぞれの「一つの中国」を超えた「台湾」という新しい国民主体が生まれたわけである。この辺りは小林の「台湾論」でも描かれていたが、その象徴がTSMCであり、それが台湾が生き残りをかけて作った企業だということは21世紀もかなり進んだ現代になってははっきりしてきたことで、最後の締めとしてはなるほどと思わせるものがあった。

中国共産党政権としては台湾は存立の正統性に関わる存在なので「独立」は許さないにしても、すでに事実上の独立国家として国家承認する国は12に止まりながら190の国々と貿易関係があるというのは強かな生き残り戦略が成功していると言えるわけで、この辺りはすごいなと思う。

逆に言えば台湾がこのまま生き残るためには世界の国々との関係があって初めて中国の侵略を免れているという部分もあるわけで、日本もまたかつての宗主国としての責任も含めて、台湾の存立にできることをしていくべきだとは思った。

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昨日は午前中、「正反対な君と僕」のアニメを見るのに備えて作業場に単行本を取りにいき、最初は1・2巻くらいでいいかと思ったが結局全8巻持ってきた。それからホームセンターに行ってスイッチを買い、洋菓子店でお菓子を少し買って帰宅して昼食。午後は少し休んでいたが、職場に出てスイッチをつけたり、また作業場に行って音楽を聴いたり、ネットで調べ物をしたりややダラダラしたのだが、マンガ単行本や雑誌の整理も少しはした。日があるうちに結構部屋の中も暖かいのだが、日が落ちると急に寒くなり、特に暖房の入れてない部屋はすぐいられなくなるので、冬は何か作業場でやるなら午後だなと改めて思ったり。最近はずっといつもは実家の居間で文章を書いているのだが、作業場でやるとやや自由な感じになる。それぞれに一長一短はあるが、上手く使えると良いなと思う。

日が暮れてから出かけて買い物に行き、夕食や朝食の買い物など。駅前のスーパーはいつも混んでいる印象があるが、この時間には比較的空いている。日本人らしきお母さんに連れられたミックスルーツっぽい子供を見かけたり。最近はこんな田舎でも増えているなあと思う。

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先崎彰容「知性の復権」149/269ページ。第四章「アメリカと世界の分断」のところを読んでいる。この辺りはまさにリアルタイムのことを書いているので、著者の分析がどこまでの事実を踏まえているかで評価が変わってくるから、難しいところなのだけど、トランプ政権が主に二つの知的集団、ヴァンス副大統領を強く支持するシンクタンク「アメリカン・コンパス」(代表はオレンキャス、以下のnoteで取り上げた人物)と、イーロン・マスクやピーター・ティール(PayPal創業者)らに代表されるテクノ・リバタリアンによって支えられているところに注目したい、と著者は述べている。

https://note.com/kous37/n/n7dc577ef1e9d

著者はまずテクノ・リバタリアンについて分析していて、マスクやGAFAMらの提供するスマホに支配されている我々は「デジタル荘園の小作人」であり、彼らに支配・搾取されていながら気が付かないし、その支配範囲はプーチンのロシアの支配範囲を遥かに超える、と言っている。なるほど、そう考えてみるとGAFAMは荘園の本家、院や女院、摂関家や鎌倉殿みたいなものであり、その中間のシステムを提供しているIT企業たちが領家、コンテンツを提供している一般企業や個人は荘官や在庁官人みたいなものだと言えそうにも見えてくる。

しかしどうもその発想は労農派的な印象があるし、行政もまたそれらに依存しようとしているというのは中世国家が権門体制になっている感じではあるが、国際的な国家以外の領域をドメスティックな荘園に例えるのはちょっとわかりにくい感じはする。アメリカの圧力によって国家が支配しきれない領域が経済において成立してきたというのは90年台の日米経済戦争、構造協議による経済敗戦以降はずっとそうではあるし、もう少しわかりやすい整理の仕方があるような気はした。ただ、アメリカ政府とGAFAMの関係としては言える部分はあるように感じるし、マスクが一企業家を超えた大統領トランプに匹敵するような存在感を見せてきたことは確かではあるなと思う。

テクノリバタリアンのリバタリアニズムについては、マスクの「地球からの脱出」、ビットコインの「政府の信用が支える通貨からの脱出」など、「透明な可能性としてのアメリカ」を体現し、保守主義やリベラリズムの共同体主義を否定し、徹底的な個人主義を唱えるという特徴があるとしている。この方向性はいわゆる保守主義とは違うが、権威主義諸国やイスラム諸国の民主化は彼らにとっても利益も個人主義的方向も合致しているから、ウクライナやシリアやイランにスターリンクを提供するなどの手段をとって民主化運動を支援し、アメリカに利益をもたらそうとするトランプの路線とも共闘していけるところはあるのだろうと思う。ただマスクがDOGEをやめてトランプ政権とその面では決裂したように、彼らがともにwin-winな関係であるうちは共闘するだろうが、割とドライな関係ではあるだろう。

「アメリカンコンパス」についてはまだ読んでいないので、このことについてはまた改めて。

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また雪が降ってきた。

「公共心と公正さの復活」こそが保守派および一部勝ち組以外の多くの日本人の要求なのではないか:「知性の復権」を読みながら/「豊臣兄弟!」の時代の尾張の農村/スピリッツとか「正反対」とか「軽音部」とか

Posted at 26/01/12

1月12日(月・祝)成人の日 雪のち曇り

昨日はいつもと違うペースになってしまったこともあり、ブログ/noteを書き終えたのが午後になってしまって、いろいろと予定が変わった感じ。というか疲れが出ているみたいで、あまりいろいろなことに手をつけられなかった。ずっと家の中にいたのだが、一休みしてからようやく動き出して身辺を片付けたが、洗い物をしたり溜まっていた未整理のものを片付けただけで、新しい何かに着手するというところまではいかなかった。時々外を見たが雪が降ったり止んだりしていた。

月曜日が休日なのでマンガの発売日が変わっていることに気がつき、ジャンプは合併号で休刊、ヤンマガは13日火曜に出るがスピリッツはもう9日金曜に出ていたことがわかって、5時ごろ出かけた。その前にレコーダーが録画の赤ランプをつけているので確認したら「正反対の君と僕」の初回だったらしく、少しだけ見たが良さそうだった。というかかなり私の好きな作りになっている。また時間がある時に録画で見たい。

https://sh-anime.shochiku.co.jp/seihantai_anime/

岡谷に行く途中のセブンでカフェオレとスピリッツを買う。道には少し雪が積もっていて、溶けているところも溶けていないところもある。気温が零下だったから、なかなか溶けないのだろう。雪が降らないとスタッドレスタイヤの意味がないから少しは降っても良いのだが、かと言ってやはりスリップも嫌なので降らない方がいいよなとも思ったり。書店を少し見て、モールで夕食等の買い物をした。ラーメンが残っていたのでもやしでも入れて食べようかなと思ったり。

帰ってきてから、昨日は鏡開きだったのでお供え(とはいってもプラスチックのお供えの中に餅が入っているものだが)を開いて餅を取り出し、どうやって食べようと思ったけれども、トースターで軽く焼いてから鍋で茹でて、インスタント味噌汁の具を用意した中にお湯ごと入れて餅入りの味噌汁にして食べた。餅はやはりお腹に溜まるのでラーメンは昼にでも食べることにしてまた餅を入れようと思う。

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https://www.nhk.jp/g/ts/P52L88MYXY/

夜は「豊臣兄弟」の第2回を見た。前回は兄・藤吉郎の中に潜む冷酷な恐ろしさみたいなものに気づいた小一郎だが、今回は幼馴染の直が祝言をあげるという日に家に帰ったら直が祝言を嫌がって逃げてきたかと思ったら、村が野盗に襲われ、さらに鉄砲を撃ったりするより強力なのが押し寄せたから、これは今川勢なんだろうかと思っているうちに祝言の振る舞い酒を一緒に飲んでいた百姓仲間が首を斬られて死んでいたり、小一郎が慟哭していたらそこに藤吉郎が現れて再び清洲に来るように誘ったり、自分がいなくなったら母も姉も妹も困るという小一郎に姉のともが実は婿を取ると言い出したり、藤吉郎の「盗み」は自分の薬のためにやってくれたのだと母が仄めかしたり(本当は違った)して清洲に行くことを後押ししたりするのだが、どうも惨事の後にしてはこのファミリー明るすぎるなという感じで、なんとなくファンタジーっぽく見えてしまった。

結局小一郎が直に一緒に来てくれということになり三人で清洲に出て行くことになるわけだが、仲間の死の慟哭からの侍になることを決める流れがわかりにくかった。信長=領主に対する不満を並べたてる小一郎に四の五の言わずに来い、という藤吉郎の主張はわからなくはないが、百姓であることの限界みたいなものを悟ったのか、あるいは本当はもともと侍になりたかったのか、もしそうならそれはやや説明が足りない気はした。

ドラマの時期としては信長の岩倉城攻めが出てくるから永禄2年(1558)ということになり、ともは1534年生まれとされているから24ということになる。藤吉郎は21、小一郎は18ということになる。ともは1568年に秀次を生んでいるのでそこから10年後ということになり、この時入婿したのが後の三好吉房なのかはよくわからないが。

https://www.steranet.jp/articles/103717

と思っていたら上の文章を読むとやはりこの時結婚した弥助はのちの吉房だったようで、役名も出てくるのでこの後劇中でもいろいろな活躍はあるのだろう。

小一郎秀長が信長に仕えた具体的な時期はよくわからないようだが、藤吉郎秀吉が信長に仕えたのはWikipediaによれば1554年ごろだとのことだが、「明智軍記」によれば「盗賊の疑いをかけられた秀吉が発憤して盗賊を捕らえ、それを知った信長が自らの直臣に取り立てて30貫文を与えた」という1話のエピソードが出てくるが、これは1562年のことだそうで、この辺りはいろいろな話を混ぜて物語を成立させているのだなと思った。

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2026/01/11/articles/20250521s00041000123000c.html

こちらを読むと最初に村を襲ったのは「野盗」だが、その後にきた鉄砲を使うより凶暴な集団は「野武士」とのことなのでなるほど戦国時代の農民はいろいろ大変だなと思ったが、少し調べてみると彼らの出身地である中村は今は名古屋市西部だが、当時は「中村郷」の一部で上中村、中中村、下中村とあり、そのうちの中中村であったようだ。AI調べなのでそんなに当てにはならないが、当時の尾張の支配は中世荘園や国衙領の郷村の支配を超えた形で村落が形成されていたとのことなので、農民がどういう形で定住していたのかとか、もう少しこのあたりの郷土史を読み込まないと難しいなとは思う。

彼らのファミリーが近年の研究にあるような村の中でも一定の上位層の出身なのではないかというあたりも藤吉郎は勝手すぎるし小一郎は卑下しすぎているのでこのドラマでの設定はよくわからないところがあり、とはいえ小一郎が銭を貯めるのに熱心な描写があり、貨幣経済が相当発達していたのだろうことは察することはできた。

また、村の描写が近くに山があるように描かれているが中村は広大な濃尾平野の一角であって「あれじゃ守山だ」という声をTwitterなどでも読んだが、広大な平地では絵にしにくいのだろうなとも思ったのだけど、平地だからこそ野盗や野武士の襲撃には弱いということもあるわけで、そのあたりも実情に即して描いた方が良かったのでは、という気はした。

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「ふつうの軽音部」94話の更新を受けて昨日はその感想を書いたのだけど、昨日はなんとなくバックナンバーを読み直していて、ちょっと先週のブログ/noteに書いた自分の見方が違うかなということに気がついたので書いておきたい。

https://note.com/kous37/n/ndee483c0a551

ヨンスが1年8組であることは1巻118ページの自己紹介に出てくるのだが、学年280人で8組だと1クラス35人になってしまい、本当は後で7組編成だと考え直していたのでは、ということを書いたのだけど、昨日6巻を読見直していたら番外編192ページに8組の女子生徒が鷹見に話しかけてくる描写があり、やはり8組編成は間違いなかったのかと思った。またこれは先週コメント欄で指摘を受けたのだが、鳩野と同クラの矢賀緑がヤ行なのに出席番号が33番(2巻150ページの自己紹介)なので35人学級と考えられるのではないか、ということもあり、やはり35人8学級という編成でいいのかと考え直している。

実際の大阪府立高校について少し調べてみたらやはり40人学級のようなので、作中の谷九高校は現実より配慮された高校であると考えて良いのかもしれない。まあ、なんでも予算を削りがちな維新政権の大阪府がそんな配慮するわけないという先入観で考えていたのだが、あんまり外れてはいなかったのかと思ったり。いやまあこんなことに拘るのは無粋であることは分かっていて書いてはいますが。

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今朝は起きたら4時20分ごろだったのだが、トイレに行ってもう少しだけ寝直して、5時前には起きた。道に雪がうっすら積もっているので竹箒で掃いたのだが、8時前の今になってもまだその時の掃き跡が残っていて、寒いのだなと思う。

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スピリッツ7号を読んだが「ダンス・ダンス・ダンスール」では潤平が生まれ変わったかのような華麗な踊り。前回までの流鶯の物語と交互なので、ブランコの教えのところからちゃんと続けて読み直したいなと思った。「ありす、宇宙までも」はNASAでのキャンプを終えて帰国。第二章にイン、という展開。さてさて。

「新九郎奔る!」はいよいよ伊豆討ち入り。堀越御所急襲の場面だが、これは第1巻第1話の冒頭の場面でもある。これは2018年に月刊スピリッツに掲載されているので、もう8年も続いているのだなと改めて思う。「俺は俺の主人になる」というのが1話の冒頭のセリフで、討ち入り前の149話だったか、頼るべき抗議が弱体化したいま、自分で伊豆を仕置きする決意を妻子に語っていたが、ようやくそれが語られるのだなと楽しみにして読んでいたけれども、その場で茶々丸を捉えるないし討ち取る予定だったのが逃げられる、という展開になりそうで、その後の将軍義澄とのやりとりがどうなるかが難しいなと思ったり。展開を待とうと思う。

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「知性の復権」。119ページ以降、堺屋太一の遺著「三度目の日本」に基づいて議論が進められる。第二次世界大戦の敗北の遠因は、日本が産業革命には成功したものの、大量(大衆)消費市場の成立、つまり内需拡大に失敗したこと、そのために対外進出に頼らざるをえず、大陸に進出していくことになったと指摘している。これはまあなるほどと思った、というか、この時期の日本の困難を主に資源の側面で考えていたけれども、消費の側面でも弱かったというのは確かにそうだろうとは思う。ただアメリカ以外にそれに成功した国があったかというと英仏などに限られていたとは思う。ドイツもまたナチス時代になって初めてフォルクスワーゲンやアウトバーン、ラジオの普及などがあったわけだし、当時の日本でも都市では消費が盛んになってはいたが、まだ限定的だったのは確かではある。

戦後はその教訓から大衆消費社会を実現したが、そのために東京への一極集中、スーパーなどにみられる流通の無言化、小住宅持ち家主義、終身雇用制と職場単属人間化、つまりは日本全体の人間の規格化が政府によって推進された、とする。

その結果日本は「天国」になってしまい、現状維持的な夢と冒険のない社会になってしまっている。このままでは流動化が進む世界の中で日本は生き残って行けず、第3の敗戦を迎えてしまうのではないか、というわけだ。

その処方箋として堺屋が挙げているのが「更なる自由化」と「楽しい日本の復活」だそうなのだが、更なる自由化はより貧富の格差を拡大させ、より少数の勝ち組とより多数の負け組を生み出して社会を不安定化させる、という指摘を著者はしている。これはまあその通りだろう。そして思想的な意味でも自由化による超富裕層の出現とマイノリティ重視のポリコレリベラル政策は「ふつうの人々」の反発を大きく買うことになっているわけである。この辺りのところは「世界秩序が変わるとき」でも取り上げられていたが、アメリカ自体の方針がトランプ政権の誕生によって大きく変わる今こそが日本のチャンスだ、という指摘と重なってくる。

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そこに起こってくるのが「保守思想の復活」ということになるわけだけれども、ここでの保守思想というのはつまり「多数の負け組」にとっても「楽しい日本」を復活させる、ということにつながるわけで、その意味で「日本人に生まれただけで価値がある」という考え方を普及させた「国学」に通じるものがあるわけである。

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「近世日本の支配思想」によれば、兵営国家である近世日本の本当の支配思想は兵学であり、儒学は現実的には力を持ち得なかったが看板としてはかけられ続け、むしろ明治政府になってから影響力を強めた、ということだが、この辺りは元田永孚の明治天皇への影響力や教育勅語を通しての日本国民への影響力を考えると頷けるところはあると思った。

一方で新しい思想である蘭学と国学のうち、蘭学はエリートたちに日本を変える夢を与えたわけだけど、国学はいわば負け組の幅広い日本人たちに「日本人であることの誇り」や「日本人であることの価値」を与えたという点で大きな存在だったということで、そういう意味での現代の保守思想にかなり通じるものがあるように思った。

現代のような流動性の高い社会の中で個人主義的な自由化を進めても対立は深まるばかりだから、著者としては現代への処方箋として、明治初期の保守主義者たちのように「道徳」を処方したい、というわけだ。

この「道徳」というのはつまりは「公共心」ということだということのようだけど、まあこの辺りのところに異論はないというか、異論を唱える余地はもともと特にないだろうと思う。Twitterで行われている議論も保守主主義的な人たちが主張しているのは主に外国人やリベラルの公共心の欠如についてであるわけで、リベラルの側のマイノリティの権利拡大の主張に対しても要求するならやるべきこともやれという主張になるわけである。

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考えていて思ったが、確かに保守の立場からの主張で最もリベラルが反論しにくいのは「公共心を持て」という主張だろう。著者もまた公共心を貫くことの方が人間を自由にする、と言っているが、これはつまり西洋的な意味でのリバティということである。関係性から切れることの自由ばかり重視しても「楽しい日本」は実現しないだろうという著者の主張は理解できる。

一部の勝ち組以外の人たちが望んでいるのは、公金が支給されることではなく、誰に対しても公正に扱われることだ、ということはおそらくははっきりしているので、公正に扱われるということが自分が人間として扱われている実感となってその意味での承認欲求は満たされるわけだけれども、人を公正に扱うということは自分自身の行動を粛正しなければならない、特に権力を持つ者にとってはそれは言えるわけで、リベラルや学者やマスコミがそれに相応しい行動を取ってないことが批判されるのはそういうことだろう。

高度経済成長の時代は何億という賄賂を取ったり実弾と称して数百万のお金が選挙で動いたりするのも世の中を良くするためのある意味での必要経費だとみられていたが、今では数万円の不記載がリベラルの保守政治家に対する格好の攻撃材料になっているわけで、「公正さ」に対する国民の要求が厳しくなっているのは決して政治家に対してのみではないわけである。

とりあえず136ページ第三章まで読了。これが保守主義だ!と言えるようなまとめにはなってないが、少しわかってきたことはあるかなと思った。

ハプログループ分析は新たな血液型診断か/「ふつうの軽音部」94話:得体の知れないヤツを普通に見せるという方向の主人公補正/「知性の復権」:天皇制を批判する保守主義者たち/明治と昭和の連動

Posted at 26/01/11

1月11日(日)曇り

今朝は曇っている。今日は大荒れの天気だという予想だったから警戒の気持ちはあったのだが、逆に気温は高い。朝起きた時(7時を回っていた)は6度くらいあった。今(9時)の気温は3.8度なのでかえって下がっている。これから雪の予報になっているので、寒冷前線の通貨中ということのようだ。予想を見ると、午後から氷点下になるようで、確かに普通の日の天気ではない。

https://www.nhk.jp/g/ts/RQQ16KG694/blog/bl/pB4Egql2A5/bp/pr7gkjgvwr/

昨夜は風が強くて、就寝した2時ごろは2階の寝室で外の風の音がかなりすごかった。昨日は午前中に銀行へ記帳に行った後西友で昼夜の買い物をし、クリーニングを出して帰った。夜はそのまま帰ってきて、7時のニュースからタモリの番組で「日本人らしさはどこからくるのか」という番組をやっていて、火山の大噴火とY染色体ハプログループのD-M55(Wikipediaで調べたらD1a2aとして出てきた)という遺伝子からくる人種的民族性みたいなものが原因なのでは、ということをやっていてへえっと思った。途中で寝てしまったので最後の結論はわからないが、一時は非科学的と言われていた民族性とか国民性とか県民性、あるいは血液型性格診断みたいなものがまた科学的研究の進行によってより精緻な形で同じような感じの分析が行われるようになったのは面白いなと思った。

まあそれを「非科学的」で片付けてしまうのもある意味左翼的な平等絶対史観、ホモ・サピエンス一元主義というか、中国の「中国人全てはモンゴル人もチベット人も中華民族で黄帝の子孫」みたいな政治性の産物でもあるので、こうした議論が政治性をなるべく抜きにして行われると良いとは思うが、「黒人侍・弥助」のナラティブの問題もあるようにこういうものを政治的に利用しようとする勢力は左右を問わず常に機会を窺っているので、なかなか面倒なものではある。

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もう9時前には動けなくなっていてソファで爆睡してしまったが、11時半ごろ起きられたのでとりあえず風呂に入ることにし、あったまったところで歯を磨いて、さてと時間を見たら12時直前だったので、昨夜は0時の更新を待ち構えて「ふつうの軽音部」94話「会いにいく」を読んだ。(以下ネタバレあります)

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094913049140838

今回はまず、扉絵の鳩野のイラストが赤背景でめちゃくちゃかっこよく、はーとぶれいくメンバーのちみキャラのシールを貼り付けてHBRふつうの軽音部というロゴが入ったテレキャスを抱え、黄色い画面(ふつうの軽音部のテーマカラーだ)のスマホから有線イヤホンで何かを聞いている鳩野がとてもよかった。HBRとはどういう意味なのだろうか。

最初の3ページがサポートに入った彩目の気持ち。自分がなぜギターを続けているのか、それはただの意地だ、というのを理解し、そして楽しい、ということも理解できて、それができる場所がはーとぶれいくなんだ、と自分で納得したのがよかったなと思う。次の2ページが七道高校のメンツのプロトコルに対する評価。レイハが何を思ったのかよくわからないが、鷹見の評価が高く遠野と彩目に対するモテの予感が見られた。次の2ページが彩目のプロトコルに対する挨拶。鷹見に礼を言われて「キショ」と答えながら、「お前はどこに向かうつもりなんや」とボソッという彩目が何かを察知しているみたいで意味深だなと思った。水尾が幻視したプロの舞台を彩目も垣間見たのだろうか。

次の3ページは水尾がメンバーに礼をいい、もう大丈夫だと言って、プロトコルが幻視させてくれた純とレイハと自分の仲直りの未来を信じて純に「会いに行こう」と思う水尾の吹っ切れ方がよかったなという感じである。

次の3ページははーとぶれいくの面子に戻り、桃が彩目をいじっているが、キョロキョロしている鳩野に対し、「外にいるかもしれんやろ はよ行け!」と背中を押す。「もしかして気づいてる?」という彩目に対し、ちょっと寂しそうな笑顔で「多分最初に気づいたの私やで」という桃の顔は、恋愛がわからないという自覚があり、前のバンドもそれから来るトラブルで解散した記憶から、「2度と他人の恋愛を邪魔しない」という気持ちが感じられ、感想欄でもこの桃の反応に対するコメントが一番多いように思った。

次の4ページは外に出た鳩野の自問自答から水尾との遭遇。水尾に声をかけられて振り向く鳩野の顔が私はとてもいいなと思った。その後の水尾との会話で水尾の気持ちの整理がわかるとともに、水尾もまたレイハが純の話を鳩野にしたことに「ぎょっ」という擬音付きで驚いている場面がよく、ふだん表情の変わらない水尾がこれだけ素直な気持ちを見せられる相手に鳩野はなっているんだなあという感慨があった。

このページのラストで「まあ見ててよ水尾くん プロトコルよりアガるライブやるからさ」と柄にもなく親指を立ててカッコつける鳩野の「恋してるが故のダサさキモさ」がリアルで、でも半分は(少なくともレイハや鷹見に対しては)本心なわけで、ただ水尾に対しては「いいところを見せたい」というのが先行してしまうのがおかしいと思った。

で、最後の2ページでは案の定そうした自意識が爆発してしまう。桃に頼まれた飲み物(濃厚ココア)を自販機で買うのはいいが、こういう時にはいつも出てくる自意識アニマルがハアハアしていて、ついには爆発してなかなか「闇ハトノ」が出てくるという展開には大笑いした。

https://note.com/survivelifedx777/m/maf02aac28de8

大体鳩野は「なんか私ってヤバい女(鶴、レイハ、厘)に無茶振りされること多くない?変なフェロモン出てるのかな・・・」とかいう割には(76話)自分自身も相当得体の知れないやつなのであって、「ふつうに見えるのがむしろ主人公補正」という存在なのだなとこういう場面を見ると改めて思う。これは上の方のnoteの一連の「ふつうの軽音部」の感想を読んでてそういう解釈が書かれていたことがあり、なるほどと思ったのだけど、そういえばすでに原作者のクワハリさんは鳩野について「次に来るマンガ大賞」のウェブ漫画部門で一位になった時、「カグラバチ」とのコラボイラスト(鳩野ちひろが刀を持ち六平千紘(ちひろ)がギターを持っている)に対する感想で鳩野のことを「一番刀を持たせたらいけない人間」みたいなことを言っていたことを思い出した。

「闇ハトノ」は鳩野の自意識の暗黒面だと思うのだけど、鳩野自身の欲望の浅ましさや恋するが故にカッコつけてしまう滑稽さのようなものをグサグサさしてきて、「とんだピエロだねえ・・」と舌をぺろっとするわけである。桃の背中押しもそうだが、この展開は流石に予想の斜め上で、いつも想像以上の展開を出してくれるこの作品はいつも感心させられる。

ここまで読んだために結局2時ごろまで眠れなくなり、それから外の風の音を聞きながら寝たので起きたら7時、という仕儀になったわけである。

***

雪という予報だったが日が出てきた。

***

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昨日は時間がある時に先崎彰容「知性の復権」を読んでいたのだが、119/269ページまで。

大事だと思ったことの一つが、マンハイムの「保守主義的思考」の中での二つの定義で、「伝統主義」と「保守主義」の違いについて述べている部分。伝統主義は「古くからあるものを墨守し、変化を嫌い、未知を恐れる人間にもともと備わっている精神的な構え」であり、保守主義は「急激に進んでいく近代化を意識した極めて自覚的な運動」であり、これが起こった原因は「近代的世界が動的になったこと」、言い換えれば「流動化」し「不確実性」に飲み込まれたこと、であるとし、日本についてそれを見ていくために明治国家の歴史を参照する、というふうに話をつなげる。

保守についての議論の中心をどこに据えればいいのかというのは私も常に迷うところがあり、戦後に限ると射程が浅いなと思うし、かと言ってバーク以降のイギリスやアメリカの保守主義の歴史を追っても日本の現在は見えてこないわけである。日本で言えばやはり江戸時代以降の思想の流れは押さえておく必要があり、その意味で「近世日本の支配思想」は参考になったが、明治の思想史はいろいろ読んではいるが押さえきれていない感覚が大きかった。最近読んだ「たとえば自由はリバティか」はかなり本質に迫るものがあったとは思うのだが、

ここで著者が取り上げるのは「日本の近代化の問題」と「天皇存在の問題」という二つのテーマで、これらは前者は要は歴史学だからまあ自分のフィールドに近い。自分は本来西洋史、フランス革命で修士論文を書いているが自分の本当の関心は日本にあり、それを知るために革命の理念と実際みたいな観点からフランス革命をテーマにしたのだけど、今は明治維新前後から令和に至るまでの歴史も常に関心を持っている。後者の方は「国家神道」の問題とも絡んでくるので、深めたいテーマの一つではある。

日本の近代化の問題として著者が取り上げたのは一つは西南の役で活躍した谷干城が明治12年に出した恩給制度に対する意見書で、ここで谷がフランスから導入された軍人恩給制度について、恩給の受給者を妻子としていることを「急進的である」と批判し、人間は「家」に所属するという伝統的な立場からは「両親」に与えるべきだ、としたわけである。これに対し山縣有朋は妻子に与えるという合理的な立場を貫いたわけで、ここに山縣の意外な先進性が感じられたのには驚いた。谷は徴兵制を始め武士の特権であった武装を国民化する明治政府の急進性について、特に家制度の維持の点から反対したわけで、その背景には「家」という存在の歴史性を重視し、伝統の流れの中の個人という考え方を、妻子に支給することでその所属先を「夫婦」という一世代にのみ関心がいく形にしてしまうという批判があった、というわけである。

「明治国家の近代化」というのはいろいろな面でドラスティックではあったわけだけど、保守反動の権化のように言われる山縣有朋が実は近代国家確立の急進派であったというのは面白いし、また「家」というものがどのようにして軽くなっていったのかという過程を実際に垣間見た感じで興味深いなと思ったわけである。

もう一つは経済の過度の自由主義化によって経済発展の可能性をつぶしてしまった失敗例が挙げられているのだけど、それは綿花輸入の自由化によって河内や大和の綿工業が大打撃を受け、金銀が流出し、澁澤瑛一の国立銀行制度が大インフレを起こし、松方財政によって帰って恐慌を起こした、という記述がちょっと混乱があると思った。

というのは、綿工業の発展により河内の綿花栽培が大打撃を受けたのは明治30年台の話で、松方財政は明治14年の政変ののちに大隈重信が政府から追放され、それを受けた松方正義がデフレ政策を行なったという経緯であるからである。

国立銀行制度が大インフレを起こしたというのは国立といっても民間銀行である国立銀行が紙幣発行の権限を持っていたことが原因であり、初期はその資本が金銀でなければならなかったが、明治9年の法改正で武士の家禄の廃止のよって武士に支給された金禄公債を資本にして紙幣が発行できるようになったからで、事実上の不換紙幣が大量に流通したことが原因なわけである。これはいまだに職のない士族の困窮化の原因でもあったが、農民にとっては好況期であり、それゆえに豪農民権と言われる民権運動が盛んになった一つの理由でもあったわけである。

日本の綿花栽培や手工業としての綿工業が打撃を受けたのは明治30年台、つまり日清戦争後の第一次産業革命の頃の話だから、この二つを関連づけて記述するのは混乱していると思われても仕方がないと思う。

余談として書いておくと、河内の綿花は毛足が短く、輸入された紡績機械にはうまく合わなかったので、輸入綿に押されて壊滅したとのことである。それまでの手工業によって作られた綿織物の着物は庶民にとっては財産であり、その時代までは質草に入れられるものの最も多いものは綿の衣服だった、というのは調べていてへえっと思った。これらの着物は労働着として着やすい丈夫なものであり、輸入綿花によって作られる新しい綿織物の着物はもっと薄く多様な降り方が可能になったからいわばお洒落着として普及した、というこれもまた近代化の物語が背景にあったようである。

まあそうした記述の瑕疵はともかく、著者が言いたいのはこうした法治主義と経済的自由主義の徹底は、法治によってそれまでの共同体の論理を解体し、経済的自由主義が地場経済を破壊して市場経済に呑み込ませるという大衆化が明治政府の基本政策だったということである。

だからこうした政府の方針に対する反発は、自由民権運動としてだけではなく、保守主義としても起こってきたということで、この辺は著者は触れてはいないが初期の自由民権運動には頭山満をはじめとしたのちの「右翼の大物」なども絡んでいて、近代化を推進する政府に対する異議申し立てもまたこの運動の中には含まれていたということはあったわけである。

頭山らも基本的にはそうなのだがより江戸時代の流れを汲む勢力で言えば、儒学者を中心とする勢力が明治にも一定の力を持っていたということがある。

明治政府の初期の課題の一つには、明治天皇をどう教育するか、ということがあったわけである。江戸時代の天皇は御所の奥深くにいて女官や公家に囲まれて生活していたわけであり、そのままでは近代国家の君主となるには様々な問題があったわけである。実際、明治天皇は死ぬまで皇居にガス灯や電灯を入れさせず、江戸時代そのままの灯火で暮らしていたという話があり、決して近代化を体質的に好んではいなかった。明治天皇の皇后は一条美子(はるこ)、昭憲皇太后であるが、大正天皇の生母は柳原二位局と呼ばれた女官・柳原愛子である。大正天皇以降は宮中も原則一夫一婦制になるが、江戸時代までの在り方が急激に全て変わったわけではなかった。

明治天皇の教育係として有名な人は何人もいるが、旧幕臣で江戸無血開場にも関わった山岡鉄舟もその一人で、彼は西郷隆盛の要請で明治5年から15年まで侍従として教育係を務めた。また明治8年から28年まで天皇の側近として仕えた元田永孚は「宮中と府中(政府)の分離」を進めようとする伊藤博文らと対立して「天皇親政運動」を展開したわけである。

これは結局は明治19年(内閣制度発足の翌年)に明治天皇と内閣総理大臣・宮内大臣伊藤博文との間で「機務六条」が確認され、天皇と内閣の関係が規定され、明治天皇は天皇親政を放棄する、ということになって挫折したわけである。明治維新の理念は王政復古であるから当然天皇親政だろう、と考えていた人は多かったわけで、実際に行われた藩閥政治や有司専制に対しての批判としても、「天皇を蔑ろにしている」という批判は常に付き纏っていたわけであるが、ここで一応の落着を見た。

しかしこれは当時、一体どのくらい知られていたのかということには疑問があるなと思った。Wikipediaなどを見ても引用元は「明治天皇紀」であり、これが公刊されたのは昭和40年代であるから、元老などの政治のトップクラスの人々はともかく、一般の官僚などがどの程度認識していたのかは謎だなと思った。

そして元田は天皇親政運動には敗れたが、国民教育に関しては井上毅とともに「教育勅語」を起草したわけで、その影響力は結果的には絶大なものになったわけである。

「機務六条」はまだ憲法も起草中の明治政府において、天皇が政府の機関としての存在たることを認めた文書であるわけで、この存在を理解していれば「天皇機関説」が問題になることもなかったのではないかと思うわけである。この辺りのところを考えてみると、国家の近代化推進の立場からは「宮中と府中の分離=天皇機関説」が当然の前提となり、保守主義の立場からは天皇親政が当然となるが、政治面では前者が勝利したものの、国民教育においては保守派の思想が大きく取り入れられた「教育勅語」が柱になったわけで、その辺りが昭和によく言われた「顕教と密教」みたいな話にもつながるし、逆に言えばこの挫折した「天皇親政運動」のエッセンスでもある「教育勅語」によって国民的合意となった世代が引き起こしたのが「天皇機関説問題」と「国体明徴運動」であったとも言えるのだなと思った。

結局この件では明治天皇の立憲君主としての姿勢を受け継いだ昭和天皇が「機関説でいいではないか」というのを押し切って「国体」という理念が暴走したわけで、生身の天皇が親政するという明治のビビッドなテーマが昭和には概念としての国体が巨大化した怪物のようになった感じがある。

ここにおいて国体というものがどういう意味があったのか改めて考えてみると、天皇個人は立憲君主制でいくべきだと考えていた以上、天皇個人が求めていた方向性ではない。この運動を支えたのはいわゆる精神右翼と軍部であり、軍部としては統帥権の独立から政府の干渉を廃して独自に作戦を進める自由を得たいと考えていたわけで、この辺りもまた天皇個人の意思とは遊離していることは明らかだろう。満洲事変における「軍部の暴走」が抑止できなかったのが最大の組織不全だったわけだが、これもある種の組織としての鬱屈がこういう形で現れたのだと言えなくはない。

明治天皇の教育の問題から話がかなりずれたが、元田永孚という人が保守主義者として儒教の東アジア的普遍価値を天皇が体現すべきだと考えていて、政府が自らに都合の良い(藩閥的な意味で)近代化を促進し、天皇をそのために利用していることは間違っているということになるわけで、つまりその政府の都合の良い「明治の天皇制」を保守主義の立場から批判しているという現象もあった、ということが言いたいことの眼目だろうと思う。

***

お昼を過ぎて、曇っていて、風が吹いている。不穏ではあるが、風が吹いているが故か、青空も一部に見える。気温は0.9度。午後にはもっと下がる予報になっている。


平成の「失われた30年」と日露戦争から二二六までの「30年の鬱屈」:鬱屈青年とテロリズムと「保守」:「知性の復権」/統一教会もピースボートも避けて通って演劇を選ぶ/寝過ぎた/3秒ルール

Posted at 26/01/10

1月10日(土)晴れ

今朝も冷え込んでいる。昨日は午前中に母を耳鼻科に連れて行って耳垢を取ってもらって聞きにくいのを少し解消し、そのまま整形に回って痛み止めと膝の注射などをしてもらって、懸案が解決した感じがあり。その後ツタヤに回って「36」3巻を買い、スーパーでお昼の買い物をして帰った。夜はなんだか疲れが出て夕食後うたた寝をしてしまい、1時半ごろなんとか起き出して入浴して歯を磨いて就寝。最近は寝る前に風呂に入れるようになったが、要するにそのまま寝るには寒すぎるのである。最近は寝る前に入り、起きてからも一息ついてから入っている。

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今朝は起きたら6時20分で、私にしてはもう寝坊と言っていい時間。カーテン越しの外がなんとなく明るくなっているのを感じて、これは結構遅いなと思って居間に降りて時計を見たら。寝ている間も何か考え事をしていた感じなのだが、懸案が解決したから肩の荷は降りたということなのだろう。支度ものろのろしてしまったが何とか7時前には家を出て、職場に行ってちょっと用事を片付け、そのまま隣町のスタンド併設のセブンまで走る。時間が遅くなってしまったので国道が混んでいたからルートを変えてサンリッツロードの方を走ったのだが、多分こちらの方が早かっただろうとは思う。

7円引きのチケットがあったのでそれを使おうとしたら違うスタンドのもので、とりあえず5円引きで入れた。30リットルくらい入れたので60円の違いだが、まあいいかと。151円だったから以前に比べるとかなり割安感はある。175円の頃と比べれば700円くらい違うわけだから。高市政権が支持される理由だなと思う。

それからいつものパン屋へ行って塩パンを買ったが、一つ床に落としてしまったがそのまま袋に入れて買って帰った。3秒ルールである。家に帰ってよくその面を焼いてから食べたが、その後も卵を強く割りすぎたりトースターにパンを入れようとしてテーブルの上に落としたり、手があまり思うように動かない。寒さで縮こんでいるせいだなと思ったり。

***

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先崎彰容「知性の復権」104/269ページ。最初に第三章「保守という言葉の混乱」を読んでから最初から読み直し、また三章に入ったのだが、最初に読んだ時とかなり印象が違う。まあ前提となるものがあるかないかで印象は変わってくるのは当然なのだが。ただ、テロリズムについて考察した後で保守の話を持ってくる構成はちょっとどうかなという気はしたのだけど、まあ自分とは違うものの見方をしている人が保守というものについても違う見方をしていることは当然なので、その辺りを踏まえながら読もうと思って読んでいる。この方は保守とは言われているけど、いわゆる「保守の論客」とはかなりスタンスが異なる感じがする。

読んでいて引っ掛かる、というかそういう意味で逆に印象に残ったのが、日露戦争後(1905)から二・二六事件(1936)までのかなり長い時期をひとまとめに「鬱屈した青年の時代」というような捉え方をしていることだった。日露戦争後の社会の閉塞感というと代表的な例は一高生・藤村操の華厳の滝での「人生不可解」という遺書を残した自殺だが、これは1903年なので日露戦争の前年ということになる。これはかなり当時の青年には大きな影響を与えていて、岩波書店の創業者である岩波茂雄の伝記を読んでいても、これはかなり巨大なショックだったのだなとわかるところがあった。

藤村は明治19年生まれだが、同じ頃の生まれというと例えば太平洋戦争の指揮官の一人として有名な今村均が同年である。戦後の指導者である吉田茂や鳩山一郎、石橋湛山より若い。憲法調査会の芦田均が明治20年なのでほぼ同年である。二・二六事件の首謀者の一人である野中四郎は明治36年だから彼らよりずっと若い。高度成長期の総理大臣である佐藤栄作が明治34年生まれなので野中は彼より若い。ちなみに昭和天皇も佐藤と同年の生まれ(佐藤は3月生まれで早生まれなので学年は一つ上。昭和天皇は4月生まれだから一月しか違わないのだが)である。

つまり藤村は第二次大戦の戦争指導者や戦後復興の指導者と同じ世代であり、二・二六事件の主体になった青年将校たちは昭和天皇や高度成長期の指導者である佐藤栄作らと同じ世代である、というあたりの捉え方をしておくのが良いと思う。30年の幅というのはそれだけの違いがある。

ただ、平成時代という「失われた30年」の現代を生きた我々からしたら、「この30年の閉塞」という感覚は私たちにもあるので、バブルからバブル崩壊後の大不況、金融機関の大リストラやアジア通貨危機、就職氷河期から年越し派遣村、リーマンショック、東日本大震災、原発騒動と続き、アベノミクスでようやく明るい兆しが見えてきたところにコロナ禍のパンデミックショックで再び混乱する、という「乱世」の感覚はあるよなとは思う。

現代でも初任給はかなり高騰してるがこれはいわば「少子化バブル」であって、全世代に恩恵があるわけではないだろう。また不動産も高騰しているが、これもまた「インバウンド・移民バブル」みたいなものであって、「東京に不動産を持てない」層が増えているということでもある。さらに女子枠などの問題もあり、平成の閉塞感というのはかなりの部分令和にも受け継がれていて、その時代その時代で様相や要素が違うとは思うけれども、「青年の鬱屈感」というのは現代でも十分理解できるものだろうと思う。

ただ現代においてもアベノミクスによって自民党支持層が増えたり、ポリコレDEIの攻勢に対して表現の自由を主張する人たちがそれなりに出てきたりもあり、またマンガアニメ表現などにおいては昭和や平成初期に比べてもかなりの隆盛を示していたりなど、プラスに捉えるべき現象もかなりあると思う。

同様なことは日露戦争から二・二六事件の時代にも言えて、白樺派の理想主義から共同体運動、赤い鳥運動などの児童文学、アール・ヌーヴォーからアールデコへの都市生活の彩りの華やかさ、エリート層での教養ブームや勤労層での修養ブームなど、自己鍛錬への渇望などもあって、「鬱屈した青年たち」の一言で片付けるには多様すぎる若者現象が多様にあったこともまた視野に入れておかないと片手落ちであるようには思う。

ただ逆に言えば、そういう多様性の中で橋川文三に依拠しつつ、「中間者=鬱屈した青年」というテーゼを掲げ、自己破壊衝動の例として安田善次郎暗殺犯である朝日平吾という人物について集中的に論じることで、そのキャラクター形成に安倍晋三元首相の暗殺犯である山上徹也の人物像が重なってくることに注目するという論じ方はある意味印象深い描き方ではあるなと思った。

鬱屈青年がテロリズムに走るというのはナロードニキ運動に挫折したロシアの青年たちがニヒリズムに走り、皇帝暗殺などのテロリズムに走るというような古典的な例を含め、現代のイスラム移民の青年たちが欧米での差別的取り扱いに対する鬱屈から「ホームグロウンテロリスト」になっていくという例まで、珍しい話ではないのだけど、そうした鬱屈青年の系譜のようなものを日本で考えれば、「戦国の乱世における出世のチャンスに乗り遅れた青年たち=傾き者」に始まり、部屋住の旗本の次男三男たちの鬱屈、井伊直弼の埋木舎の例などから、「日本人に生まれただけで素晴らしい」ということを唱える国学の隆盛、それが産んだ尊王攘夷運動からの明治維新、士族の反乱、自由民権後期のテロリズムなどいろいろあるが、初期議会の頃の自由民権の成れの果ての民党の人たちの猟官運動から山縣有朋が文官任用令を出して政治任用を締め出したあたりは、学生運動世代の「団塊の世代」が年をとっても反権力・反政府を騒いでいるのと似たものを感じる。

そういう意味で、「鬱屈青年の系譜」みたいなものをそれなりにまとめてみた方がこういう議論に付き合う際には分かりやすいような気はしたのだが、逆に言えば自分自身があまりそういうものに深い関心を持ってきたとは言えないなとも思った。

https://x.com/tsujimotokiyomi/status/2009482687787270511

自分自身の青年時代も相当迷走していることは事実だが、それは時代とか社会のせいだという感じもあまりしない、というかそういう意味では傍観者的なところが結構強い。ピースボート出身の辻元清美議員が長島昭久議員が統一教会の信仰を持っていたことについて擁護とも批判ともつかない言及をしていたが、読んだ後の感想としては、「私自身はピースボートも統一教会も避けて通っていたが、正解だったな」という印象だった。

ただ、そういう「自己解放の活動」をやりたい、と思っていたくらいには鬱屈はあって、それで「演劇」を選び参加していったんだなということに今書いていて気づいた。絵を描けたら「コミックマーケット」の運動に参加していったかもしれないし、小説が書けたら芥川賞を目標にする作家ワナビーになっていたかもしれないわけだけど、たまたまそういうものもなく、体一つである意味誰でもできる演劇というものが東大駒場という空間にあったからそれに走った、というふうに言えるとは思う。政治運動ではなく身体的な可能性の開発や芸術表現に橋をかける形での演劇への参加は、自分の人生を結果的にかなり豊かにしてくれたなとは思っているので、やってよかったなと改めて思っている。ただ現在の食い扶持にそんなに関係ないのは残念だと言えば残念ではあるが。しかし、「人前で舞台に立つ」ことができるんだという経験が「人前で教壇に立つ」教職の可能性を開いたという面は自分にとってはあるので、そういう意味で役に立ったと言えなくはないわけではあるが。

元に戻すと、自分にとっての「保守」というのは左翼運動に対する幻滅から始まっているので、鬱屈青年の不満からネトウヨになった、みたいな左翼のいいがちなナラティブは頭からバカにしているのだけど、「保守派の知識人」であると思われている先崎氏がそれに乗っかったような構成の本を書いたことにはやはりちょっと不満を感じているわけである。まだ読みかけなのでその不満の根源を一応確認した上で、さらに先を読んでいきたいと思う。

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