「市民社会における「批判」について」/「ふつうの軽音部」92話「ヘタクソが歌う」:友情に熱い漢・野呂あたるのパンク魂/お歳暮など

Posted at 25/12/29

12月29日(月)晴れ

今(朝6時半)の気温はマイナス4.7度。このところコンスタントにこのくらいまで冷え込む感じになってきた。昨夜は居間でうたた寝してしまって1時半ごろ2階で寝床に入ったのだが、寒い。なかなか寝付けなくて3時半ごろ寝室のストーブをつけてから居間に降りてきてお茶を飲み、風呂に入って、寝室に戻って寝たのだが、どうもうまく寝付けなくて結局5時半ごろ起き出した。意識がない時間も多分結構あるので全然眠れていないわけではない(本当に眠れない時は寝床の中にいるのが苦痛になる)のだが、睡眠としては中途半端だなと思う。

昨日は午前中、10時ごろにnote/ブログを書き終えた後、「ふつうの軽音部」の92話を読んで感銘を受けたり、そのほかいろいろやっていたらすぐにお昼になってしまい、ご飯を食べてから少しのんびりして、さてお歳暮に何を買おうかといろいろ検討し、そんなに遠くないところにある寒天・ところてんのお洒落な商品化をしたショップ/カフェがあることに気づく。これは妹が来た時に妹の友達と行ったことがあるという話は聞いていたが、ネットで調べてみると割と手頃な感じで贈答品にもできそうだったので、2時ごろ出かけてみた。

ショップはカフェの入り口にあり、駐車場は川の側にあるのだが、なんだか驚くくらい景色が良かった。この辺りは新興の、と言ってもインターチェンジができてから開発が進んだわけだからもう40年は経っているのだが、その中でも商業地ではなかったところなので、数年前の開店だとは思うが、新しい感じが残っている。ショップではいくつかセット売りになっていたが、レジの人に相談したら中身をこちらで決められるとのことだったので寒天を使った水羊羹とか寒天雑炊、またところてんとそれを食べるためのドレッシングなどを詰め合わせてもらった。

そこからまっすぐ訪問するお宅へ向かったのだが、年末ということもあり日本海の魚を仕入れて売るチェーンの魚屋さんがめちゃくちゃ混んでいるらしく、駐車場に入る行列ができていて他の車も通れず行列になっていたので、用もないのに右折して、さらに左折・左折・右折で元の道に戻ったらガラガラだった。そのまま真っ直ぐ訪問するお宅に行き、お茶でもという話になったので上げさせていただいて少し世間話など。少し長っ尻になったなと思い出した頃に娘さん・お孫さん・ひ孫さんがやってきたので辞した。孫というものは可愛いというけれども、ひ孫はもっと可愛いんだなあとひいおじいさんの顔を見ていて思ったのだった。

家に帰ってきてとりあえず年末の仕事として考えていたものは終わったのでほっとする。そのほか畑の見回り・管理とか正月資金の準備とかあることはあるのだが、絶対年末までにやらないといけないことは終わったので、少し肩の荷は降りた感じがした。まあここからが本当の仕事だ、ということではあるのだが。

少し休んだり、また昨日書ききれなかった「市民社会における批判について」という文章(下に掲載)を書いたり。夕方になってきたので、当初の予定では岡谷のモールと書店に行って本を見たりぶらぶらする予定だったのでまた雑誌をバッグに詰めて作業場に行って降ろし、「ふつうの軽音部」に出てきたHi-Standardの「Dear My Friend」を聴いたりちょっと本を整理していたりしたら気がついたら7時を過ぎていて、これは岡谷まで行けないなと思い、ちょっと切り上げて駅前のスーパーで買い物を済ませた。最近は読むものがたくさんあるということもあり、新しい本をあえて探さなくてもいいという感じになっていて、いいことなのかどうなのか、という感じはある。夕食を食べて少しゆっくりしていたらうたた寝をしてしまった。

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近代的な自由民主主義の市民社会において、国家権力は国民から主権を委任され、国民の人権を保障した上で統治を行なっているわけである。従って、国家権力は委任元の国民には自由に意見を言わせなければならない。それは政府批判であれ、さまざまな対立関係にある相手であれ、批判を通しての意見表明によって討論・議論が行われ、その中でより良いものを見つけ出していくことが市民社会の基本である、ということになっている。

「ペンは剣よりも強し」というが、これは書かれた言論が強大な力を持ちうるということでもある。元々はギリシャにおいて弁論術などが発達したこともあり、直の言葉による言論が主だったのが紙ベースのコミュニケーションが発達したことにより言論=ペンになっていたが、今やネットの動画が発達することによって、誰もがみな自分の意見を口頭で述べて批判し議論することが可能になっている。この辺りはギリシャにおけるアゴラの言論の復活のような性格もあるかと思う。

批判にはいくつか種類があるが、例えば政治的批判がある。これは要するに権力者による権力の濫用を批判することであり、民主主義の基本だろう。これは例えば強権的に苦役を課すことなどに対する批判があるだろう。例えば男性に生理痛を「わからせ」るために電気ショックを強要するような行為に対する批判であるが、こんな原初的な強権行使は珍しいことで、実際には政策実現の見返りに金銭を要求するなどの行為が問題になることの方が多い。これらはすでに犯罪にされているが、日本以外のアジアアフリカなどの多くの国では現実に行われていることは多いだろう。日本ではすでに数十万単位のみみっちい政治資金の記載漏れが極悪人のように批判されるようになっているわけで、これらの批判は行き過ぎと感じることの方が最近は多い。

批判がより鋭く行われるのは例えば科学的批判だろう。学説について批判や反批判を戦わせることは学説のブラッシュアップのためには必要欠くべからざるものであり、批判というものが最も建設的に行われているのがこの分野であると思われる。人文・社会系の学説や論文の批判も含めて、体系の形成のために必要な行為であるから、これらの批判は概ね建設的に行われていると言って良いと思う。

もちろん、STAP細胞の件であるとか考古学の神の手事件のように捏造が行われて批判というより徹底的な非難が行われることもなくはないが、これはまた批判されて当然という形で世間的にも受け入れられているだろう。

より微妙なのが社会的な批判、人道的な批判、宗教的な批判、思想的な批判である。これらの批判は、根本には論敵の思想に対する批判になりがちであり、ということは一部の人間が持つ考え方に基づいて、他の一部の人間の持つ考え方ややり方を批判するということになる。これらは非常に厄介であり、暴走しがちで、魔女狩り的になることも多い。「キャンセルカルチャー」と言われる現象が起こるのもこの種の批判である。本来市民社会においてどんな思想を持とうと自由なわけで、それが思想信条の自由であるわけだが、これらは原理主義的な批判になりがちなので批判というよりは非難や誹謗中傷など、とことん相手を追い詰めてしまうことになりがちなわけである。

そういう意味では政治的な主張であっても、日本の場合は日本国憲法の一部の条文、特に九条が一部の人たちにとってある種の宗教性を帯びた文書になってしまっているために、憲法違反と彼らがみなした主張に対する批判が宗教的情熱によって過大なものになるという傾向がある。

例えば首相官邸の高官の核所有に対する発言も、もちろん切取りによってより問題を大きくした報道側にも問題はあったが、核兵器というさまざまな兵器の中の一つに過ぎないものの所有について宗教的情熱を持って断罪するという異常なことが日本において平気で行われるという現状がある。日本は原爆を投下されて多くの死者を出した側であり、投下した責任が日本にあるわけではないのにこのようなことが行われているというのはある種の認識の歪みがあるからだろう。

こうしたことが起こること、つまり「市民社会における批判」の問題点は、一つには「批判の運動化」という問題がある。metoo運動などによって批判をさらに広範囲に広げていくことによって批判を運動化し、批判の正当化、問答無用化が行われ、暴走していくわけである。こうしたことはwokeと言われる左派的な運動において多発している。

これらの運動の問題点の一つは、例えば権威主義諸国によって政治的に利用され、あるいは彼らによって操られることがあるということである。核所有発言などについても実際に持ってもおらず可能性として低いという言説に対して批判するような人々が、現実に世界を何回も滅ぼせるような核兵器を所有している中国に対して全く批判しないなどの現象がまさにそれを証明していると言えるだろう。

批判は自由民主主義的な市民社会において不可欠なものであるが、権威主義諸国では批判自体が禁止され口を塞がれているために、こちら側が権威主義者国を批判してもそれはそれらの国民には伝わらないし、また伝わっても声を上げることができない。

ここはおそらくは中国などの国々にとっては「民主主義社会の弱点」と認識されているだろうから、いわゆる「認知戦」をしかける「スキ」であると認識されて攻撃をしてくるわけである。我々はそれを十分に認識しておかなければならないだろう。

もちろん、権威主義国の国民の中にはそうした現状を良しとしない人も一定数いる。特に中国の民主派は香港や台湾に、あるいは日本に逃れて政権に対抗するネットワークを築こうとしている。もちろん彼らの中にも北京政府の工作員はいるだろうから、全てオープンというわけにはいかないが、中国民主化の貴重な種という認識も持っていた方がいいとは思う。

もう一つの問題点としては、wokeの運動側がそれ自体、我々の「自由で民主主義的な市民社会」を変えたいという野望を持っていることである。これは共産主義のような自明の形ではないから、逆にキャンセルカルチャーのような攻撃性を持った運動になったり、フェミニズムやトランスジェンダー運動のような科学に基づかない主観的な主張が大手を振るようになるわけである。

これらのwoke運動には明確な到達目標がないのに、批判だけは永続させたいわけで、それらは市民社会に寄生的な運動になり、また「反出生主義」のような人類社会そのものに対する呪詛のような主張になっていく傾向が見られる。日本はアジア諸国の中では比較的常識側に踏みとどまっているので、出生率も低下はしているが他の諸国の方がより低下しているわけで、我々の社会を守るためにもこうした理不尽な主張には明確に反対していかなければならないと思う。

これらの運動は将来ビジョンがないからこそ既存の運動論に固執して彼らが敵とみなす「自由で民主主義的な市民社会」を攻撃し、僅かな利益を掠め取り、自分たちが利益を上げることよりも敵とみなす人々が損害を被ることに嬉々とするような歪みが見られるように思う。しかし思想信条の自由や批判の自由が根本にある我々の市民社会では彼らの言説を根本的に禁止することはできないわけで、そこを原理的に強く批判しより強い声で言論戦を戦っていく以外に彼らを駆逐することはできないのだろうな、とは思う。

日本国憲法第十二条にも「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とあるように、彼らの主張が公共の福祉に反することを粘り強く主張し、賛同者を増やしていかなければならないということになるだろう。

批判の自由を守りつつ、民主主義社会・人類社会を壊しかねない批判についてはより強い理論を構築し、社会の防衛を図っていく必要があるわけで、そうしたことこそがおそらくは本来の意味での「憲法を守るための戦い」になるのだろうと思う。

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https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912913097573

「ふつうの軽音部」92話「ヘタクソが歌う」を読んだ。詳細なネタバレを書いているのでご注意を。今回の構成は最初の5ページが鳩野とレイハのやりとり。帰ろうとするレイハを呼び止めて自分たちのライブを見ていくように頼む鳩野にレイハは最初はつれないが、「怖いの?」という言葉にドキッとして立ち止まり、つい鳩野のいうことを聞いてしまう。それに続く鳩野の言葉は「この鳩野ちひろの才能がそんなに怖いのか?ってこと」と真っ赤な顔をしていて、ネットの言葉の真似だということがこの後わかるのだが例によって挙動不審になり、毒気を抜かれたレイハはむしろ心を開いて自分から「川上純って覚えてる?」と核心に迫る話を始めるわけである。

次の10ページの主役はパンクバンド「カキフライエフェクト」の野呂あたる。これはジャンプラの感想コメントを読んでいてもTwitterでも激賞だった。川上純に絡まれて殴られた夜に鳩野と水尾と出会い、そこから水尾と友達になって、パンクについて語れる関係が築かれる。その水尾が落ち込んでいるのを見た野呂が声をかけ、「詳しくは話せんけど」と言いつつ、おそらくは純がらみで落ち込んでいることは伝えたのだろうと思う。それを聞いた野呂は、自分たちの演奏で水尾を励ますために歌う。その前のMCがカッコいいのだが、これは是非マンガで読んでもらいたいと思う。

https://amzn.to/4sfok23

カキフライエフェクトが演奏するのは、Hi-STANDARDの「Dear My Friend」。この曲は私は初めて知ったが、「ハイスタ」と略称されるこのバンドの代表曲の一つであるとのこと。1999年の曲で、この曲の入ったアルバムはインディーズからの発売ながらCD100万枚を売ったというからすごい。ジャンルとしてパンクに入れるべきなのかはコメント欄でも議論があったが、野呂たちが演奏しそうな曲だしもちろん野呂が水尾に歌う曲としては最高のものなので、これは納得感があった。

今回特に印象深かったのは、この曲が「ふつうの軽音部」の中で演奏されたことについて、すでに3本のnoteが書かれていることだった。更新時間順で以下の3本である。

https://note.com/toramomo/n/n749fc08058c3

https://note.com/survivelifedx777/n/n625578d5c8c2

https://note.com/manga10212/n/n7b32ced238f1

野呂あたるは初登場が5巻46話(現在92話なので、ちょうど半分ということになる)というある意味新しいキャラ(カキフライエフェクトというバンド名はすでに1巻6話で登場していて話題になっていた)なのだが、不器用でヘタレでヘタクソなパンクロッカーとして一部で人気を呼び、クローズアップされた58話から、また鳩野と絡み始めた80話から急激に話題に登るようになってきた。特にパンク好きの人から見るとまさにパンクを体現したキャラであり、作画の出口さんも「野呂あたる良いキャラすぎるから」と書いていて、愛されているなと思う。

https://x.com/675pixel/status/2004934512816652312

ファンにとってはおそらく野呂がまさに「my dear friend」のためにハイスタを熱唱するというところがたまらないのだろうと思う。曲を聞いて水尾が涙を流す場面はやはり最高だった。

先ほどあげた三つのnoteのうちの一番上のものを読んで知ったのだが、人類学者のデヴィッド・グレーバーは人間の自由の基本形態として「移動する自由」「命令に従わない自由」「友だちをつくる自由」があると言っているのだそうだ。調べてみるとこの人は2011年の「ウォール街を占拠せよ」という運動の中心になった活動家でもあるのだそうで、なるほどと思うところはあるが、「友達を作る自由」というのは面白い考え方だなと思った。

確かに、親がどんなに苦労して環境を整えても、「友達」というのは基本的に結構ガチャだから、親にしてみればとんでもない悪友ができたりすることも珍しくない訳である。逆に言えば、子供にとっては親に与えられるもの以外で得られる初めての自由であることも多いだろうから、これはなるほどと思った。

また、Freedomの語源はFriendから来ているという指摘もあり、調べてみると(AIだが)

「「freedom(自由)」と「friend(友達)」は、どちらもゲルマン祖語の「*frijaz(愛する、自由な)」にルーツを持ち、「愛すべき人=友達」、「自由に振る舞える状態=自由」という概念で繋がっています。」

とあり、そうなのか、と思った。逆に言えば、「友達を大事にする=自由」ということでもあるなと思ったし、野呂あたるはまさにそれを体現しているからカッコいい、ということになるということだなと思った。

余談だが、少年ジャンプの古の標語が「友情・努力・勝利」であり、その路線が大きな支持を得たのは、まさにその全てが「自由」につながるからなのだなと思ったし、初期のジャンプに連載されていた「ハレンチ学園」のキャラクター、アユの最後のセリフが「自由に!自由に生きようとしていただけなのに!」であることを思い出したりした。

話を戻すと、残りの4ページが次のステージのプロトコルの準備段階ということになるわけだが、ステージに上がってきたギターは藤井彩目かと思いきや猫頭の被り物を被って出てきた覆面ギタリストだった、という次回の波乱を予想させるオチで締められているわけである。これで2025年を占めるという展開がもうゲラゲラ笑わされた。

最初は田口の七道高校野球部ユニと彩目の猫頭、それに鷹見の「どうも〜!はじめまして!プロトコルで〜す!」という軽いノリのMCから、ハロウィンライブであれだけイキったカッコつけだったプロトコルがイロモノのコミックバンド化した!とおかしかったわけだが、コメント欄をよんでいて「MAN WITH A MISSION」というオオカミの被り物を被ったバンドがあることを知り、ある意味リスペクトでもあるのかなという気もした。この辺はどういうオチをつけるのか全然見当がつかないのだが、こうやって訳の分からない方向に話を広げるのがこの作品は本当に上手いなと思った訳である。

他にも書きたいことはあるのだが字数も増えたし時間も遅くなってきたので今日はこの辺りで。

「我々の市民社会が何か別のものに「進化」するという幻想」を打ち砕いた高市首相の功績/「意味のあること」について考える/「学問が実際の現場で生かされる」ことの素晴らしさ/年末の忙しさ

Posted at 25/12/28

12月28日(日)晴れ

社会的に意味があることというのはどういうことなのか、どういう立場にいればそういうことができるのか、ということを少し考えていて、まあここのところ平安時代の宮中の話(「謎の平安前期」)とか中国との外交の話(「日中外交秘録」)とかを世でいることもあり、国によって時代や社会によってやれることは変わってくるしやれる立場も変わって来るよなと考えたりしていた。君主制国家、ヨーロッパの国家、要はイギリスなどを例に社会構造を考えたり、アメリカのような貴族のいない大統領制国家について考えたり、一党独裁の中で自由経済を一部導入した中国のような国家について考えたりして、それでは現状の日本はどういうことになるのかと考えたりする中で、どういう立場が意味のあることをできるのか、ということを考えたりした。

意味のあることというのは自分が意味があると満足するだけでなく、他者や場合によっては世界からも意味があると評価されることであるだろうと思うし、人が生きていくためには「生きていくための仕事」をしなければいけないことが多いわけだけど、それだけではなく「楽しいこと」もしたいわけだし、でも楽しいだけでは足りない感じはあるわけで、例えば「人にものを教える仕事」も意味はあるし楽しくもあるのだけど、もっと意味のある仕事をしたい、という気持ちも出て来るわけである。この辺はマズローの欲求の五段階説みたいな話だが、まあ少なくとも自分はそうだなと思ったわけである。

で、こういう社会構造みたいなことについては、高校の頃に世界史を勉強するときに階級構造みたいな話を学んだ、というか本を読んで知った時から考えているわけだけど、古代世界で宗教的に思想的支配を行う神官階級と軍事的に支配を行う貴族階級がいて、メソポタミアとかエジプトとかでその相互の争いがあったりしたわけだが、インドにおいては神官階級がバラモンとして最上位階級に、軍人・貴族階級がクシャトリアとして二番目になった、みたいな感じでそれぞれの地域・国家の社会構造を理解していくのに使ったりしたわけである。

これは例えば日本においてはもともと軍事的な支配階級であった天皇や貴族がより新興の軍事階級である武士に政権を奪われて棚上げされ、祭祀や文化を担う階級として固定されていった、みたいな感じで理解するのにも応用していたりしたわけである。まあ最近の研究ではそんなに単純なものではないことは明らかにはなってきているのでそういう意味でも新しい研究を読むのは刺激的で面白いのだが、今読んでいる平安時代の話も日本の社会構造の原型みたいなものを理解するには役に立つ、というかどこかで繋がって来るよなという感じが出てきている。

まあそういう感じで、こうした「社会構造を解き明かすこと」は意味のあることだと思うし、つまりはそれは大きくいえば「世界の秘密を解き明かすこと」でもあり(言い方が怪しくなってきた)そこに本来の「学問の意味」もあったりするわけである。「社会の秘密を解き明かすこと」が人文社会系の学問であり、「物質世界の秘密を解き明かすこと」が自然科学であるわけだけど、それらはまたその先に「応用」がある。自然科学を応用して「役に立つもの」を作るのが「工学」であり、人文・社会系の学問を世の中の人に伝えるだけでなく「自分で世の中を動かす」仕事をしたり「世の中を動かす人たちに伝える」ことによって間接的に「世の中を動かす」のが政治であり経済でありその他の政策や企画の実現であるわけである。

学問をする人が実際に政治家と密に交流を持って政策の立案や実施に協力していけばその人は政治家の「ブレーン」と呼ばれたりするし、シンクタンクなども基本的にはそのための役割を果たしているわけである。ただその行為はその政治家の反対派からは「御用学者」などと揶揄や批判を浴びたりもする。

ただ、明治以来の伝統的な学問は、というか孔子以来の中国の、またその学問体系を導入した日本においてはその学問を政治的に生かすことがいわば学問の使命であったわけで、「末は博士か大臣か」などというのも「お国のために役にたつ」からこそ尊敬を集めたわけである。その辺は「より価値中立的な近代の学問」、つまり「学問には学問自体の価値があるのであり、それがどう役に立つのかを考えるのは邪道」みたいな考えが出てきたのは純粋化・孤高化であり、なんかすごい感じはしなくはないが、やはり学者もまた社会の一員という考え方から言えば少し原理主義的・至上主義的なものではあるだろう。

またその学問の成果を実際に政治に生かすのとは別に、それを後代の子供たちに伝えていくための教育という鋭意もあり、まあ基本的に私はこの仕事をやってきているわけであるけれども、そういう意味では社会との関わりは間接的なものになるという面もあるので、そこが基本的に物足りないのだろうと私としては思う。大学の研究者も「研究と教育の両立」ということに悩んでる人は多いが、どうも研究者という人種と自分が違うなと感じるところは、研究自体は面白いとは思うけれどもそれが全てとは思わないし、自分のやっていることがどうビビッドに社会に影響するかの方に興味がある、というところなのだろうと思う。

「日中外交秘録」で、若い頃の垂さんが外務省の先輩に「中国をやるなら毛沢東・レーニン・キッシンジャーを読め」と言われたという話が私はかなり面白い、重要なことだと思っていて、中国との外交をやるためにはまず彼らを知らなければいけないし、彼らとの付き合い方を知らなければいけない、という考えがその背景にはあるわけである。

で、その「彼ら」というのは具体的には一党独裁で政権を握っている中国共産党ということになる。中国共産党の考え方を知るには毛沢東の著作を徹底的に研究しなければならない。そして、それに加えて「共産党」というものを知らなければならないが、そのためにはレーニンの著作を徹底的に研究することが重要である、というわけである。そして、マルクスは割合どうでもいい、というのが面白いが、つまりは「外交官が知らなければならないのは「共産主義」ではなくて「共産党」だ」、ということであり、この辺りの切り分けの凄みがもちろん外交官としての経験もあるだろうけどこれこそが真の意味で「学問を仕事に生かす」ということだよなと思った。キッシンジャーの著作はもちろん冷戦期のリアルポリティクス外交の教科書のようなものだが、冷戦が終わった今も、中国は権威主義国と言われるように我々自由主義社会とは異なる存在であるということからも、「付き合い方」については変わっていないと考えるべきだということだろう。

まあそんなふうに、「学問が実際の現場で生かされることに対して、私は最も強い知的興奮を覚える」のだなと書いていて思ったのだけど、自然科学においては当たり前のように研究開発現場や生産現場で生かされることが必ずしも十分に政治や社会、生活現場には人文・社会的学問(この場合は教養と表現されることが多いが)が生かされてないのではないかということが、ある意味不満なんだろうなと思ったりもした。

外交でもそうだが、そんなに徹底的に学問に取り組まなくてもとりあえずなんとかなったりはする(実はなってない場合も多いが)わけだし、教育なんかでも正直いって教育学というものは現場では極めて軽視されている。現場で困っていることに対して屁理屈のようにしか聞こえないことが多いからだし、ヘタをすると生理痛電気ショックみたいなとんでもないものが導入されかねなかったりする危険すら感じるのが実情だろう。つまりは役に立たないかwoke的偏向があるかどちらかという感じがすることが多いわけである。

実際には、我々のような市民社会での教育というものをどう考えていくべきかとか、教育学が果たさなければいけないことはなくはないのだが、どうも危なっかしいのが現状であるというのが現場経験者の感想ではある。ただ、教育学部を出ている教員は良くも悪くも「先生」であるなと思うし、教育実践の研究など、我々一般大学出身の高校教員経験者とは違うことを多く学んで理想的な教育というものついての考え方はあるのだろうと思う。

それはともかく、政治にしても経済にしても教育にしても外交にしても、学んできた学問だけによってできるものではない。その辺りは自然科学や工学よりもその割合が大きいだろうとは思う。

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我々が宇宙について考えるとき、私たちは日本のどこかにいて、それは地球上にあり、それは太陽系の一つの惑星で、それは銀河平面で銀河中心の周りを公転していて、それは局部銀河団に属し、それは超銀河団に属して、それらが分布する宇宙を形作っている、みたいに考えるだろうと思うが、それは自然科学が世界認識の中心にあるからで、宗教が世界認識の中心にあるなら神が天地を創造し、その中に人間や生物が創造された、と考えるわけで、ダンテなどは当時の最新の自然科学知識を使って天国世界を描いていて、地球の上に月天があり、その上に水星天、その上に金星天、その上に太陽天、その上に火星天木星天という多重構造に描いているわけである。こういうのはさまざまな宗教において地理的・物理的認識が利用されていて、日本でも西方に極楽浄土があるとか、さまざまな世界観として知識が利用されていたわけである。

同じように国家観においても市民社会で契約的国家観を採用している日本などでは基本的に国家権力と国民の間には国民が権力行使を国家に委任し、国家権力は国民に人権を保障した上で統治している、という世界観で成り立っているわけだけど、伝統的な国家観では神や天が国王や天皇に統治の権限を与え、国民はそれに従うという見方で成り立っているわけである。いずれにしてもこれらはある意味ナラティブ(物語)であることは認識しておくべきことで、日本は天皇という存在が憲法に規定されている以上、完全な契約的国家観だけで成り立っているわけではない。

そしてさらに前衛的とされる(た)共産主義・社会主義の国家観においては「科学的真理」に基づいた前衛党(共産党)の「指導者」が思想的にも運動的にも共産党組織を指導し、軍などの実力組織においても党の「政治委員」が派遣されて精神的指導を行って、人民全体を指導・統治するという構造になっているわけである。

これはある意味、「我々の市民社会が将来より進歩・進化するという幻想」に基づいて成立しているとも言える。これをある意味否定したのが冷戦の終結の頃に一世を風靡したフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論であって、「自由民主主義的な市民社会こそが歴史の最終形態であり、それを実現した現在はこれ以上歴史の変化はない」と宣言したわけである。しかし現実はそうならなかったわけで、共産主義国家は破綻した、ソ連は解体してロシアになり、中国も共産主義的経済観を放棄して市場経済を導入したにもかかわらず、それらの国家は自由民主主義社会にはならなくて「権威主義」と総称される「似て非なるもの」に変貌していったわけである。

その意味でフクヤマの「歴史の終わり」論は間違っていたわけだが、そこでは別に「我々の自由民主主義的な市民社会」が少なくとも現状で一番マシな社会であろうことは否定されていないわけである。つまり、社会の進化がここで止まり、また「共産主義に逸脱したような国家も最終的には自由民主主義的な市民社会国家になる」、という点では誤っていたが、「我々の自由民主主義社会がこれ以上は進化しない」、というのは正しいかもしれないわけである。

また一方で我々の自由民主主義社会にとっての脅威というのは権威主義国家軍だけではないわけで、wokeと言われる集団が我々の社会の根幹の一部ではある民主主義や人権思想をより過激化させて社会を強制的に「進化」させようという勢力があるわけである。これらの集団に対する反発が市民社会においていわゆる保守化・右翼化・排外主義などと言われる動きを生み、社会に分断をもたらしているというのが現在の市民社会における病理であろう。

日本において、社会を変えていこうとする勢力は「日本はまだ遅れている。北欧を見よ」とか「日本はもうオワコンだ。韓国や中国の方が進んでいる」とか「日本は小国だ。アメリカや中国に従うしかない」とかさまざまな言説を行使して「日本を変えていこう」としてきたししているわけだが、現状において、日本はさまざまな問題を抱えていることは確かであるにしても、社会政治システム全体を根本的に変えなければいけない、つまり日本国憲法を一から変えなければいけないとか天皇制を廃止しなければいけないとか共産主義を導入しなければいけないとかそういう必要はないと思う。というか、簡単に言えば日本が進化すべき方向のモデルとして言われている北欧や中国や韓国やアメリカに比べて、日本ははるかにマシなんじゃないかと思うし、そういう認識は割合多くの人に広がっているのではないかと思う。特に北欧はフィンランドがアジア人差別の強い国だということが明らかになり、今年になって大きく得点を落としているように思う。

2025年の日本で一番大きなニュースは高市早苗首相が女性初の総理大臣になったことに「決まっている」と私などは思っていたが、先ほど「今年の十大ニュース」で検索してみたら読売新聞が「大阪万博」を第1位に挙げていて、ちょっと驚いた。私は万博に行ってないしあまり関心がなかったということはあるが、まあ大きいと言えば大きいニュースだなとは思った。ところでこれは何を意味しているのだろうか。

フェミニズムやwoke勢力は「女性の社会進出」を強く主張し、日本は首相など重要で決定的なポジションに女性がついていないから「遅れている」と主張してきた。逆に言えば、女性が首相になるということは「ガラスの天井を破る」ことであり、つまりは「革命」である、という期待を持っていたのだろうと思う。

しかし、実際に高市早苗氏が首相になると、彼ら彼女らは全く逆の反応をしたわけである。それは高市さんが保守的な政治姿勢で知られる女性だったからであり、彼らの理想であろう「フェミニスト=リベラル=woke首相」ではなかった、ということだろう。

つまり、「女性が首相になっても革命は起こらなかった」のである。これは、我々のような市民社会を擁護する側から言えば大変喜ばしいことだと思う。つまり、「市民社会」は何か別のものに「進化」することなく、粛々と女性首相を受け入れ、何事もなかったかのように日本政治は保守を中心に動いている。そこにいわば左派勢力の失望と市民社会の安堵があり、逆に言えば女性首相の誕生は「大したことではなかった」から、今年の重大ニュースのトップが「大阪万博」になったということなわけである。

そういう意味で、フクヤマの「歴史の終わり」論は、実は部分的には正しいのではないかと思ったわけである。

wokeの問題の裏には、市民社会において重要であり必要不可欠な「批判」の問題があり、それを中国やロシアなどの共産主義国に利用されている面があるわけだが、それについてはまた改めて書きたい。

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ここまで、30分でメモした内容を7割くらい文章化したわけだが、それに2時間半かかっているので、小さな発想の含む膨大な内容というものは現実の生活時間の中で形にしていくのはなかなか大変だなと思った。

画家の友人が天から頭の中に降りてきたものに満足してしまってなかなか筆を取る気にならない、みたいなことを言っていたけれども、確かに小さなものであっても実際に描いてみるとかなり膨大なものになるということはあるのだろうなと思う。

人間の頭の中というのは実は海よりも深く広い、みたいなことがインドの諺にあった気がするが、インスピレーションは一瞬でもそれを物理的に言語化とか絵画表現にするのにめちゃくちゃ時間がかかるわけで、こういう生産的なことができるのはそれこそ「意味がある」ことだと思うのだが、それを多くの人に伝わる形で書くのには時間もそれを支える環境も必要なんだなと改めて実感している。

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昨日は午前中にお歳暮を配ったり、銀行で資金を調達したり。今回の年末年始は主に使っている八十二銀行が旧相互銀行の長野銀行と合併して1月1日に八十二長野銀行になるために銀行のシステムが止まってしまうので、1日から4日までATMが使えないので、その期間に必要なお金をおろすか他の金融機関に移しておかないといけないということになっている。まだ全部はやっていないので明日29日に移したり引き出したりしておかなければいけない。

こういうことは都市銀行でもあるが、地方銀行だと他に取引先がないことも多いと思われるので、大変な人もいるのではないかと思う。地元の場合は都市銀行は三井住友銀行(昔は太陽神戸銀行だった)しかないから、普段あまり使わないが今回の年末年始には念のために三井住友に少し入れておこうと思っている。あとは特に世話になった方のお歳暮を用意して今日明日にでも届けて年末までの仕事は大体終わるかなという感じである。

これは上に書いたこととも同じなのだが、大体頭の中で考えていることを言葉にしてみるとずいぶん長ったらしくなるのでちょっと驚くのだけど、まあそういうことは実は多いのだろうなと思う。

動くたびに雑誌を作業場に運んでいるのだが、時間がないのであまり整理できていない。今日やろうと思っていたが考えているうちにいろいろやりたいことが出てきたので気分転換程度にできたらいいかなという感じになってきた。

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まだ今日更新の「ふつうの軽音部」を読んでいないのだが、なんだかどんな展開になるのだろうか。楽しみだが、まあ今日はまずここまで頭の中を形にできて良かったということを先に書いておこうと思う。


年の瀬に仕事を片付けたり仕事が増えたり/最近の専門家批判について考えた/「和歌は出世に結びつかない」とか「香港民主派は親日とは限らない」とか

Posted at 25/12/27

12月27日(土)晴れ

今日は冷え込んでいる。最低気温の予想でマイナス9度が出ているが、5時20分現在の気温はマイナス6.9度。それでも今季最も寒いのではないだろうか。二日続けて雨が降り、昨日は雪がちらついて、今日は低音。注意報が出ているが濃霧注意報か。さてどんな感じなんだろうか。

昨日は母を松本の病院に連れていく。雪の予報だったので戦々兢々としていたが、実際には降りはしたが積もりはせず、特に問題なかった。今回も新しいスマートインターから乗って長野道に入り、塩尻北で降りて行ったが、下道もあまり混んでなくてよかった。割合早めについてトイレに行ったりしたが、中の構造がエレベーターがトイレに遠く、何度も往復するのが大変だというのはあるが、イオンの3階屋内の駐車場についてエレベーターから直行ということ自体は楽でいい。天気が気にならないのがありがたい。

診察・処置後に店内を見て回って母のスケジュール帳を買ったりお供えを買ったり、私のお昼ご飯を買ったり。途中で母がゴタゴタいうのでつい大声になったりしてしまったが、帰りの車の中で「今年はありがとう」と何回も言うのでちょっと申し訳ない気持ちになった。母としてもこちらに負担をかけている気持ちはあるのは伝わってくるので、まあやれやれとは思うのだけど、年末である。

帰ってきて昼食後、ツタヤに出かけてコミックゼロサムと「ミワさんなりすます」15巻と「フットボールネーション」20巻を買った。多分これで今年もマンガの買い納めだろう。今年もよく買いました。忙しくてちゃんと読めてないものもある気がする。じっくりマンガに耽溺できる時はいつになるのか、ちょっとわからない。まずなんとかしないといけない、ということが多いなあと。

ここまで書いて5時半を過ぎたので車のエンジンをかけて暖房を入れ、フロントガラスを解凍して、上座敷においてある雑誌をスポーツバッグに詰めて、車で出かけた。雑誌は基本的には作業場に置いてあるのだが、最近忙しくてなかなか作業場に行けないので、買ってきて読んだものを上座敷に積んであるのがもうだいぶ溜まっているから、最新号を除いてなるべく作業場に持っていこうと思って運んだわけである。今回はジャンプとヤンマガとスピリッツとサンデーを運んだが、まだかなり残っている。

作業場では父の蔵書を移した部屋で「日中外交秘録」に出てきた「大東亜戦争の総括」を探してみたのだが、見つからない。父なら買っていそうだと思って探しているのだが、ない。自分が見た覚えがないのであまり期待はできないが、著者陣を見たらいかにも父が買いそうな著者が多いので、ちょっと期待してみたのだが、やはりないかもしれない。帰ってきてから自宅の父の本が置いてある部屋も探したが、やはり見つからなかった。amazonでも品切れのようだしマケプレでもとんでもない値段がつけられているから、図書館で探すしかないかもしれない。

職場に出て少し準備をし、国道を飛ばして隣町のセブン併設のガソリンスタンドへ行く。途中で母から電話がかかってきて、何度目かに繋がったので話を聞いていたら歯が抜けたという。こんな年末になって言われても困るので年明けに行くよ、ということを伝えたが、通っている歯科医のサイトを見ても年末年始の予定が分からないので困った。こういうのは個人医院だと書いてないことはままあるので、後で電話か直接聞いてみようと思う。ガソリンを入れてパンを買って帰ってきた。

***

学者批判というと、左翼の人たちによる政府に関わる仕事をしている学者に対する「御用学者批判」というのがあったり、偽科学的なものの看板になっている学者に対する批判みたいなものがあったりするわけだけど、最近は「専門家」に対する批判が結構強くなってきている。

これは昔から、専門バカという言葉があって、専門は詳しいけれども他のことは世間知がないので学者のいうことはあまり間に受けない方がいい、みたいなことは以前から言われていた。しかし逆に言えばそういう人でも専門は侮れない、というふうには思われていたわけである。

その辺りについても切り込んだのは西部邁さんだったかと思う。「学者 この喜劇的なるもの」でそのあたりに切り込み、学者たちの生態について批判し、それ以降、知のあり方について基本的に保守の立場から大衆への迎合の問題を主に論じておられたと思う。

最近の専門家に対する不満というのは、與那覇潤さんがよくnoteで話題にしている。私は基本的にnoteで読むだけで動画や雑誌記事についてはあまり熱心には拝見していないから見当違いのところもあるかもしれないのだが、特に強く批判しているのはコロナ対策に関する疫学者の西浦博氏やウクライナ戦争の東野敦子氏であるかなと思う。

私は與那覇さんの著作もそれなりには読んではいるのだが、最も読んで面白く勉強になったと思ったのはオープンレターの問題に対するフェミニストの学者たちへの批判で、これはほぼ同意という感じだった。ただその他の著作についてはピンとくる部分とピンとこない部分があり、最近の「センモンカ」批判についても同意できるところと同意できないところがあるし、何よりなぜこんなに熱心に「センモンカ」批判をしているのかが見当がつかないところがあった。

最近いろいろ見たり読んだりして思ったのは、それは與那覇さんが基本的に左翼リベラルだからではないか、と思い出した。これは私の感覚だが、昔から左翼が政府の仕事をする学者を御用学者として批判するのと同様、「体制側」の「専門家」たちをいわば「新たなる御用学者」として批判しているのではないかという感じである。

ただ、体制側と言っても数十年前とは違い、フェミニストやLGBT運動家のような過激な運動家も体制にかなり食い込んできている。だから、フェミニストやその応援団のようないわば極左言論弾圧集団の「専門家たち」に対して強い批判を持つのは私も共有できるが、そうでない「体制側の専門家」たちの批判についてはそれはどうかな、と感じることが多いということなんだろうと思う。

そもそも、「専門家」と言えるということはそれが権威として認められているということであり、そういう意味で言えばフェミニズムなどもかなり権力側の公認思想になってきているわけで、そういう意味では強く体制的であるわけである。だから快刀乱麻を断つような與那覇さんの批判が目覚ましく保守側にも映るということはあるわけである。

しかし例えば、コロナの専門家たち、疫学的な根拠に基づく人流の制限の提案などは、まあ学者としてはそれによって起こるさまざまなリスクを考慮してもやむを得ないんじゃないかと思うし、その様々なリスクを勘案して政策として打ち出すのは本来政治家の役割だから、専門家を矢面に立たせるのは酷なんじゃないかと思っている。私は基本的に日本のコロナ政策は少なくとも感染症の流行に対してはうまくいったという立場だということもあるが、あまりちょっとその批判には乗れないなとは思う。もちろん、これから学際的に政権側からも対策全体を批判も含めて総括していくべきだとは思うが、現時点ではあまり乗れない。

これはまた、ウクライナ戦争に関してもそうである。最近、垂秀夫氏の言説が取り上げられる中で、「中国やロシアのいうナラティブに乗せられては行けない」というものがあり、私も当然そう思うが、一方で「アメリカやウクライナのいうこともまたナラティブではないか」という批判もある。私もそれ自体はそう思うのだけど、私自身としては、アメリカやウクライナのいう「自由主義世界を守る」というナラティブには、日本としては乗るべきだと思っているわけである。

とは言えアメリカはトランプへの政権交代によって必ずしもゼレンスキー政権の完全な味方ではなくなったから、そのナラティブ自体が成立が少し危うくなってきたところもあるのだけど、極東において中国やロシアに対峙していく上では、「自由主義世界を守るためにウクライナを支援する」ということ自体に意味はあると思う保守リベラルは多いのではないかと思う。

私も立場を言えば右派から保守だが表現の自由の問題などもあり、やはりリベラル要素はかなり強いと思う。だから半分は仮の立場として保守リベラルと言っておけばいいかと思うが、つまりは本来のリベラルの部分で極左フェミニスト批判に対しては乗れるが、保守と左翼の体制観の違いによって與那覇さんの言説には乗れない部分が多いのだろうなと考えるようになったわけである。

この辺りは、西部さんの学者批判と與那覇さんの専門家批判がどこがどう同じでどこがどう違うのかについてはもっと考えてみたいと思った。西部さんは自分が保守だというのは明言し保守の思想家についての著作も多いので拠って立つところはわかりやすいのだが、與那覇さんの思想的バックボーンは加藤典洋さんに共感するということは分かったがその先がまだよくわからないところがあり、また読んでいければと思った。

***

昨日は「謎の平安前期」も「日中外交秘録」もそれなりに読んだのだが時間がないので少しだけ書いておくと、平安前期は漢詩文の才能によって出世することはできた、それはつまり漢文が公式文書である律令制においてそれはプロの学習であり仕事であったのだが、和歌の才能によって出世することはできなかった、つまりそれは知識がなくても誰でもわかるアマチュアの趣味に過ぎなかった、という話である。確かに歌学の最高峰である紀貫之でさえ、同じ紀氏の紀長谷雄のような出世はできず従五位の土佐国司が限界だったわけで、他の歌人たちも和歌の才能は認められても身分は低かった。それは、平安時代の終わりに権中納言などの官位に上った藤原定家らが和歌の権威になった時代とは違うわけである。

「日中外交秘録」では、香港の民主派というのは周庭さんらのように親日だと思われがちだが、大きな勢力である香港民主党は反大陸ではあるが反日でもある、という指摘は大事だと思った。自由と民主主義を守る香港民主党=親日=応援しなければ、みたいなのもまあもちろんナラティブなわけであり、そこら辺はしっかり認識しないといけないが、ナラティブであったら乗ってはいけないということはないわけで、そこは自覚的な選択だなと思ったわけである。

対中ODAの戦略的な使い方:「日中外交秘録」/年の瀬の忙しさ/藤原北家の家系の荘厳と「源氏物語」の世界:「謎の平安前期」

Posted at 25/12/26

12月26日(金)雪が降ったり止んだり

昨日は午前中に外でいろいろ済ませようと思っていたのだけど9時ごろにはブログを書き終えていたのだけど結局出かけたのは11時くらいになり、銀行に出す書類を書きに職場に行ったら事務の人と話し込んでしまい、結局書類を書き終えて出たのが12時半くらいになってしまって、それから銀行に行って書類を提出したり資金を補充したり。昨日はビッグガンガンの発売日だったので少し離れた書店まで車を走らせたが、いつも通る道が工事中で通れなくて違うルートを通ることになったり、そもそもあまり適当でない道を通ったりしてしまって、なんだかあまり調子が出ていない感じである。書店でビッグガンガンと「綺麗にしてもらえますか」11巻を買い、車に戻ってイオンまで走って三菱UFJ銀行の口座に資金を補充。お昼の買い物をして郵便局に行こうと思ったが、もう1時半近くになっていたのと通帳を忘れていたこともあって後にすることにし、家に帰った。年の瀬だからか車が多く、思ったより時間がかった。

お昼を食べてから少し休んだらもう出かける時間で、目的地についてから郵便局に行き忘れたことを思い出して通帳を持って郵便局まで歩いて往復した。切手を買おうかと言う気持ちもあったが入金する通帳とお金しかなかったのでまたの機会にした。

まあこうして買いてみると忙しくて疲れているのか結構判断が鈍ってるなと思う。今日は雪だけど松本の病院に母を連れていくので気をつけていくようにしたいと思う。

昨夜は12時前には寝たが目が覚めたのが4時前で、もう少し寝ようかと思ったが寒いので寝室のストーブをつけたがあまり寝付けなかったので4時半前には起きた。居間のファンヒーターの灯油が切れていて、赤タンクから補給しようとしたら赤タンクにもない。昨日給油しようと思って忘れていたことを思い出した。暗い中懐中電灯をつけて外のタンクで赤タンクに給油。雪の予報だったがまだ星が出ていた。家の中に戻ってファンヒーターのタンクに給油。いろいろと手間はかかるが仕方がない。

いろいろやっていたら時計を見たら5時半で、ゴミを捨てに出かける。外に出たら雪が降り始めていて、車にもうっすら積もっていた。セブンへ行って週刊漫画Timesを買い、職場に出てゴミを処理し、お城の近くのファミマまで行ってスペリオールを買って帰ってきた。まだ暗くても6時を過ぎていたので歩いている人がいて、注意しないと危ないなと思いながらゆっくり走った。

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「謎の平安前期」171/273ページ。今まで読んできて思ったのは、平安時代というと一般には藤原氏(北家)が娘を天皇の妻にして天皇の子供を産ませ、祖父(外戚)として権力を握る、と言う構図が語られているけれども、それだけではないのだなと言うことである。逆に、藤原北家は天皇や皇族の娘を妻に迎え、それによって家系を荘厳していると言うことも大きいなと思ったのである。

例えば藤原良房の正室は嵯峨天皇の娘の源潔姫なのだが、天皇の娘、特に内親王は基本的に皇族の妻になることになっていて、例えば幕末の有栖川宮と和宮の婚約などのような感じであるわけである。しかし実際には内親王は結婚しない例がだんだん増えていたのだけど、良房の場合は天皇の娘を妻にしているわけで、これは一応源氏に臣籍降下したから、と言うことのようだ。しかしそのために他に妻を持たなかったので、娘が一人しかいなくて甥の基経を後継者にし、またその妹の高子を清和天皇の中宮にすることになったのだという。

基経は仁明天皇皇子の人康親王の娘を妻にしているが、名前はわからないようだが二世皇族なので立場としては女王ということだろう。そしてその間に生まれたのが時平・忠平の兄弟であり、ここから初期摂関家が皇室の血(仁明天皇曾孫)を引くことになる。忠平の妻で師輔の母は文徳天皇の子源能有の娘昭子で、師輔は文徳天皇の曾孫でもあることになる。師輔は醍醐天皇の三人の内親王を妻にするという当時としても破格の婚姻関係なのだが、摂関家を最終的に継承する兼家の母は藤原氏だが、後に三清雅家の祖となる公季の母は康子内親王で、公季は醍醐天皇の孫ということになるわけである。

兼家も正室は藤原氏の娘だが、その子道長は妻は二人とも源氏であり、正室の倫子は宇多天皇三世の孫、明子は失脚した醍醐天皇皇子の源高明の娘なので二世の孫ということになる。倫子の子の頼通の正室は村上天皇の孫の降姫女王である。

読んでいてへえっと思ったのは内親王が結婚しにくいという話で、源氏物語でもその辺が反映されていて、内親王として出てくるのは藤壺中宮と女三宮の二人であり、二人とも不義の恋に悩むという話になっているというわけである。兵部卿宮の娘の紫の上は女王ということになり、また常陸宮の娘の末摘花も女王ということになるのだろう。これは調べてなるほど思ったのだが、常陸宮の父の帝が誰だかは書いてないようだが、藤壺中宮や兵部卿宮の父の「先帝」は桐壺帝以降の当時の皇統とは別の流れという感じで描かれているといい、そう考えるとこの「先帝」というのは光孝天皇即位以後主流から外された陽成天皇的な立ち位置と考えるとわかりやすいようには思った。

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「日中外交秘録」162ページまで。昨日読んだところで印象に残ったのは、対中ODAの使い方について。垂さんによると、対中ODAはただ単に中国側に利用されていたわでではなくて、戦略的に活用した例もある、とのことである。

中国共産党においては省や市などの地方の幹部がのちに党中央で出世の階段を登ることが多いというのは江沢民にしても胡錦濤にしても習近平にしてもそうだったわけだけど、地方都市の幹部は日本からのODAを歓迎しているので全人代で北京に来るとき、日本大使館に来てもらって大使と会食するという形で関係を形成していったのだという。これはなるほどと思ったのだが、中央政府同士の関係で二進も三進も行かなくなることが日中関係にはよくあるわけだけど、そうしたより若手との、あるいは若手同士の関係がそれなりに形成されていくことは結構重要だろうなと思った。またそういう資金を使って若手幹部を日本に留学させたりもしていたようで、そういう形で日本通を作るということ自体は悪くないだろうなとは思った。現在のようにこれだけ日本に来る中国人が増えてくると別の問題は起こってくるわけだが。

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今日は母を松本の病院に連れていくのでここまでで。

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