「日中外交秘録」:「国家の安全」=「徹底的な監視国家」を構築した習近平/「謎の平安前期」:桓武天皇の文官登用政策が明治維新につながること/慌ただしさとうっかりミス

Posted at 25/12/18

12月18日(木)うす曇り

少し曇っているせいか冷え込みは緩めで、今朝の最低気温は0.2度。昨日の午前中に植木の作業が終わったのでホッとしていたら、クリーニングを出しに行った時に申告ミスをしたり、昨日行くはずだった松本の整体を忘れていたりしたことが発覚し、余計な手間が増えるという私が忙しい時には必ず起こるミスがいくつも発生した。電話して平謝りで今日に予約を取り直したり。いやあまいったまいった。

年賀状の絵柄を今持っているものの中でできないかと思って考えてみたがやはり物足りないなと思い、午後蔦屋に出かけて年賀状本を一冊買った。だいたい候補は揃ったのだが印刷の設定などで少し苦労したり。少しずつ前進はしているのだが。

今朝はセブンに車を走らせてヤンジャンの3号と水素焙煎コーヒーを買い、職場に出て置き忘れてきた予定ノート(バレットジャーナルもどき)を取りに行き、帰ってきた。資源ゴミの日なので雑誌をまとめて出しに行った。しばらく前にだいぶ整理して出せるのをまとめておいたのだけど、もうだいぶそれから時間が経っているのでもう一度チェックしないといけないのだが、それをやっている時間がないので溜まっていた分だけ(3〆くらい)出した。それからプラごみ、缶、ペットボトル、電池、ビンと金属など出したが、もうこの地区では今日が年内最後の収集日なのだなと思ったり。本当に忙しさに紛れて日々が過ぎていくが、今年は結構勉強も進んでいる(研究というほどでもないので勉強と言っておく)ので例年に比べれば充実感はある。

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榎村寛之「謎の平安前期」、読めば読むほど面白さがわかってくる。今は第二章の第二節、9世紀における文人官僚の進出についてのところを読んでいるのだが、第一章の桓武天皇の革命的な政治、いわば奈良時代を象徴する聖武天皇の影を振り払って新たな王朝を創始し、「軍事と造作」中心の政策で新しい王権を作り上げようという気概とその蹉跌、みたいなあたりは今までも読んだことがあるが、この本では井上内親王に焦点を当てて斎宮との関係などから聖武天皇の作り上げた宗教的世界は仏教や大仏だけでなく伊勢神宮との関わり、仏教的な神仏習合的な方向があったのを、桓武天皇がそれを排除して中央政府が神宮をコントロールできるような方向に変えていったというのは面白かったし、またそれを行う理論的な武器として中国思想を場当たり的ではあるが取り入れていったというのもなるほどと思った。

第二章ではあまり高位でない中央や地方の貴族たちが漢学を武器に文官として成り上がっていく群像みたいなものが描写されていて、この辺りは井上内親王の周りの人たちとかの描写もそうだけど、西洋近世史でいうところのプロソポグラフィ的な手法が見られると思った。西洋史におけるプロソポグラフィでは例えば法服貴族の例を多数検討したり貿易商の群像を描くことによってその時代のその階級やグループ像を描いていくという感じで、特に社団国家と言われる西欧近世においてはこのようなグループの形成とともに階級的な実像を描いていくというのが面白いわけだけど、9世紀の文官たちの例として大江音人や清原夏野などをはじめとする下級貴族や傍系になった天武天皇系皇族の子孫の貴族たち、惟宗氏などの渡来系文官たちを描き出していて、なるほどそういう人たちが活躍したある意味階級上昇が可能な時代だったのだなという感じがした。

9世紀というのは謎の10世紀の前の時代だからその時代にそうした人々が政府中枢に進出することで実務的な充実というものもあったのかなという感じがするし、菅原道真などはもちろんそうした階層のトップなわけだけど、「菅原氏と藤原氏の対立」「藤原氏による他氏排除」という側面だけではなくて伝統的官僚貴族層と新興の文人官僚たち、という対立軸もあるなと思った。惟宗氏はのちの島津氏の祖先であり、大江音人は毛利氏の祖先であるから、この時の桓武天皇やそれに続く時期の登用がある意味明治維新にまで影響したということも言えるわけである。

そして、このトップに君臨するのが実は官僚だけでなく学僧もいたわけで、それが伝教大師最澄と弘法大師空海ということになるのではないかと思う。そういう視点でのこの時代の見取り図みたいなものもまた描いてみると面白いのではないかと思った。62/271ページ。

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垂秀夫「日中外交秘録」も62ページ。あまり進んでいない。ただ第一章第四節の「トッププライオリティの変化」に入ったのでその辺に面白いところがあった。

鄧小平以降、江沢民・胡錦濤と基本的には「経済建設」「経済成長」の路線できていたのが、胡錦濤時代の終わりごろになると中国共産党中央でも危機感が生まれてきたのだという。これは経済成長に伴う格差の拡大や社会不安の増大ということで、胡錦濤は2008年に「中国共産党の統治は永遠でも不変でもない」と述べているわけである。これはちょっと聞くとすごいことを言っていると思う。

習近平もその危機感を受け継いで、2013年の幹部向けの重要講話で「なぜソ連は解体したのか」と問いかけたのだという。

その結論は「党が軍をしっかり掌握しなかったから」というものだったというが、実際には「党の指導」を徹底しなければならないということで、それは軍に対してのみでなく国民全般に対して行われるようになった、というわけである。胡錦濤時代には暴動やデモが毎日300件近く起こっていたというのも驚いたが、それだけ自由があったということであり、習近平政権では警察力の強化とハイテク機器での監視の強化、またネット上の検閲の徹底によって、デモや暴動が起こせなくなったというわけである。民衆の力を信じて民主主義を徹底させようという方向でなく、民衆から自由を完璧に奪うことによって体制を守ることを選択した、ということなわけで、これはロシアや北朝鮮も同じ方向だろう。これが習近平のいう「国家の安全」だというわけである。

この辺りのところ、我々はわかっているようでわかっていないのだなと改めて思ったのだけど、こうした国家の監視体制の延長線上に外国に対する対応もあるわけで、中国が直接間接に揺さぶりをかけてくる裏には、国内におけるある種の成功体験もあったということなのではないかという気がする。

日本の左派の人たちが高市政権を否定したいあまりに中国や中国の言説、ナラティブを支持するというのはそういう意味で本当に肉屋を支持する豚のようなものであり、国家的問題に対してはちゃんと団結していくという意識をちゃんと持ってもらわないと危険だなとは思う。まあそういう国家を危うくするレベルで言論が自由なのも日本の良いところではあるわけだが。

垂秀夫「日中外交秘録」を読みながら:対米依存を隠す中国のナラティブと反腐敗という習近平粛清/マンガの絵柄の進化と4巻保証/「謎の平安前期」:王朝成立期の暗闘/年末

Posted at 25/12/17

12月17日(水)晴れ

今朝は起きて居間に降りて時計を見たら12時半くらいになっていて、流石におかしいと思ってスマホを見たら4時半過ぎだった。この時計は電波時計なのだが、時々ちゃんと電波を受信せず明後日な時間を指すことがある。電池を外してリセットすると針が動いて12時になるのだが、しばらく置いておいても動かなかったから縁側に出して電波を受信しやすくし、いろいろやってから再度時計を見たら5時20分くらいになった。その時時計は動いた、というわけである。(ふつうずっと動いている)

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912913091021

スマホでマンガを見ていたらこの絵柄はチェンソーマンに似てるなと感じ、最近は藤本タツキ系の絵柄が結構多いなと思ったり。あんなに売れたのに鬼滅の刃系の絵柄が少ない。チェンソーマンの絵柄が「新しい」という印象の人が多いのだろうと思う。

この辺りのことを書いてTwitterに投稿していたので読み直してnoteにアップしようと思ったら、書いた内容が消えていた。特に問題のあることは書いてないのだがどういうことなんだろうか。

こういうことがあるとメモがわりにTwitterに投稿するということができなくなるし、なんだかTwitterの本旨と変わってきてしまう感じがするのだが、なんだかしっかりしてもらいたいなという感じである。

それはともかく、鬼滅の刃というのは特に鬼の描写などはNARUTOの影響を受けていると思うのだが、同じ系統ではカグラバチもそうだと思う。ただ鬼滅の刃はかなり独自な方向に絵柄を進化させているので、模倣は難しいだろうなと思った。

ふつうの軽音部はよくスキップとローファーに似ていると言われるが、これは主人公が四白眼であるという共通点があるだけで、スキローが主人公以外は正統的な少女漫画的描写である(コマ割りは男マンガ系だが)のに対し、軽音部はドラえもんやサイボーグ009以来の正統的な「マンガは線画である」という路線を踏襲しているというところがいいと思う。

マンガの絵柄の系統論というのはかなり意見が分かれるところだろうとは思うのだけど、特に漫画家さんの初期の描写は誰かの影響が強く表れていることが多く、しばらく連載しているうちに独自性が確立されていく、という傾向はあると思う。そういう意味では「連載がマンガ家を育てる」ということはあると思うので、できれば新しい作品は一年くらいは連載してもらえると良いのだがと思う。週刊で単行本にしたら4、5冊というところだろうか。

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ジャンプ+の漫画家マンガ「モノクロのふたり」では「通常連載作品は単行本4巻分が保証されてるが今回はまず2巻分の連載で」という話が出てきて、なるほどジャンプラ作品は4巻くらいで打ち切りのものが多いのはそのせいなのかとは思った。

読者としてはもっと続いてもらいたいと思うけれども、編集部としてはとりあえずこの辺りで区切りをつけて、ということになるのかなと。逆に言えば5巻以上の連載になったものはその壁を突破したということなわけで、好きな作品が5巻を超えたら寿いでいくべきなんだなと思った。

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昨日も一日植木の手入れの人が入っていたので午前と午後にお茶を出しに行く。午前中にいろいろできなかったことがあったので昼食を食べてから出かけてツタヤへ行って本を見たのだがどうもなんだか最近マンガが大事にされていない感じがして、欲しいものも見つけられなかったのでそのまま近くのスーパーに行って、水曜日のお茶出しの分のお菓子を買ってATMでお金をおろし、別の書店に走って「このマンガがすごい!2026」と「ちひろさん」10巻を買った。「ハプスブルク家の華麗なる受難」1巻はどうもなさそうだったので聞かずにamazonで注文した。

両方で年賀状のデザインの本を探したのだがいいと思うのがなく、昨年まで買っていた既存のデザイン集をまずみようと思ってセブンイレブンでお茶を買った後一度家に帰り、本棚を探したが見つからなかった。時間が押してしまって慌ててお茶菓子を出しに行った。夜帰ってきてからもう一度調べると、図案集は紙袋の入れて置いてあるのを見つけ、時間がない時に探してもわかるようにしておきたいものだなと改めて思う。一年に一度しか使わないものはそれが難しいのだが。

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昨日読んだのは榎村寛之「謎の平安前期」(中公新書、2023)と垂秀夫「日中外交秘録」(文藝春秋、2025)。前者はどうもノリが違うと思いながら読み始めて途中になっていたのだけど、後の方を抜き出して読んだりしながら再度最初から読み直して、いま42/273ページ。ノリが違うと感じたのは、やはり博物館員としての経験が反映されているというその文体なのだろうと思う。研究的側面と啓蒙的側面の双方があるからだろうと思う。また斎院についての注目が多いのは著者が三重県斎宮歴史博物館の学芸員という立場も反映されているのだろうなと思う。

今読んでいるのは井上内親王に関するところなのだが、斎院の持っていた権威と権力と経済力、みたいなものに今まであまり注目していなかったので、ここはなるほどと思って読んでいる。それにしても井上内親王が他戸親王を産んだのが45歳というのは古代としてはかなりの高齢だろうと思う。光仁天皇から桓武天皇の時期、つまり王朝交代の時期に起こった様々な政変を改めて考えさせられるが、その中心にいたはずの井上内親王という人の人物像があまり見えてこないところが大きかったので、少し理解が進んだ気はした。

そしてその背後には聖武天皇という巨大な存在がいたということになるが、この天皇も安積親王という男子がいたのに女性皇太子(安部内親王=孝謙天皇)を立てるなどずいぶん変わった人(女性皇太子は史上唯一)で、奈良朝から平安朝への移行はもっと注目しても良いようには思った。私は大伴家持中心の歴史物語を子供の頃に読んだ印象が強い(おそらく折口信夫「死者の書」の翻案のような内容だった)のだけど、空海と最澄を描いた「阿吽」ほかマンガや小説もそれなりにあるけれども、まあ天皇家内部のあまりもろな権力闘争すぎて活字にしにくいというところはあるかも知れない。

他王朝というか他系統から皇位を継ぐ際には従来の系統の皇女と結婚してその子を後継者にするというのが継体天皇から欽明天皇の継承にあったわけだけど、称徳天皇から光仁天皇の継承では称徳天皇の妹の井上内親王とその子が排除され、帰化人の系統の母を持つ桓武天皇が新たな王城を開いたというのも割と不思議な話で、そこらへんの思惑について分析するのもありだろうなとは思った。

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「日中外交秘録」の方は第1章第3節まで(58/538ページ)。垂氏といえば「中国畑=チャイナスクールには珍しい硬骨の外交官」という印象で語られることが多いが、垂氏自身、そうしたチャイナスクールの「媚中」という印象を変えようという意識を強く持っていたことが書かれていて、これはなるほどと思った。

もう一つ印象に残ったのは、習近平の目指す国際秩序は「中華帝国の冊封体制」だという指摘。つまりアジアの周辺諸国やアフリカなどのグローバルサウスに「中国のナラティブ」を受け入れさせ、その見返りに経済的援助を与えることで影響力の拡大を図っているとみているのだと。これも前大使という人がそんなに直接的な言い方をするというのが意外だったので印象的である。

「日本の外交官が中国で勤務するということは、武器こそ持たないものの「戦場」にいるようなものだ。これは冷戦時代のソ連で西側外交官が置かれた立場と似ている。」

冷戦時代の西側外交官のモスクワにおける苦労はよくネタになってたし、日ソ漁業交渉の時に河野一郎がモスクワのホテルで全て盗聴されているという前提でどう打ち合わせをするのか苦労している描写が「小説吉田学校」の漫画版にあったことを思い出した。なるほど、やはりそう考えていいのかと思う。

垂氏は大使になるまで中国政府関係者に裏人脈を築いたので、大使になってからはそういう活動はしなかったが中共にとって望ましくない事件が起こると「背後に垂秀夫がいる」と勝手に思い込まれていた、という話がちょっと可笑しかった。外交官にとっていかに人脈が重要かという話は立場は違うが佐藤優氏も書いていたのを思い出した。佐藤さんの主張はともかく状況描写は参考になるんだなと改めて思った。

今の中国共産党は「中国は上昇気流、アメリカは下降気流でぶつかれば乱気流が生じるが、中国は必ず上昇気流に乗ってアメリカの上を行く」と考えているのだとか。インドも似た感じのことを言ってたな。そんなフラグを立てないでも、と思うけれども、フラグは立てている時には本人たちには気付かないものなのだろうとは思う。

毛沢東の正統性は日本に勝利した建国者という虚構(実際に戦ったのは国民党だしアメリカのおかげだった)にあり、鄧小平以降の指導者は経済発展に正統性の根拠を置いた。1990年代以降の発展はアメリカが日本を差し置いて市場を中国に開放したからで、これも実質的にアメリカのおかげだろう。

習近平の掲げる正統性は強国理念、「中華民族の偉大な復興」という物語に置かれ、それが戦狼外交に直結していると。そして背後にあるアヘン戦争以来の被害者意識が力への信奉を強めていると。時代錯誤な帝国日本の模倣のように感じた。

中国の南シナ海に関する論調は、「我が国の海が小国に食い荒らされている!」というものだったというのはおかしかったが、外交当局者としたらゾッとするだろうなと思う。台湾だけでなく沖縄やその周辺についても同じような考えなのだろう。妄想の巨大帝国だなと思う。これは被害者意識というよりは自己認識の歪みというべきだろうと思う。第一アヘン戦争時の中国は中国人の国ではなく満洲人の征服王朝である。

習近平が政治局員七人の集団指導体制を覆して個人独裁を実現したのは反腐敗闘争によってだったというのはなるほどと思った。つまりは腐敗排除という名の毛沢東の実権派批判とか文化大革命、鄧小平の四人組裁判などのむき出しの権力闘争と見るべきなのだと。今でも軍部の粛清が続いているが、それで中国が強化されるかはやや疑問ではある。ただ思想的に台湾侵攻で「純化」したいのだろうなとは思った。全く反対の立場だが台湾の頼清徳も同じような傾向があることが懸念されているようだ。

垂氏の鋭い舌鋒は返す刀で日本側も切りつけていて、「日本でも戦後長らく霞が関の中央官庁が強大な権限を握ってきた。官僚は失敗することがないとされ、失敗を決して認めない「無謬性」が頑なに信じられてきたが、結局のところ失敗だらけであったことは論を俟たない」とあったのは笑った。主に財務省に対する批判ということになるのだろうけど。

日本にもまだこういう官僚・外交官がいたのかというのはちょっと嬉しい話でもあり、今後も活躍を期待したいと思いながら読んでいる。


フィンランドをめぐる騒動:日本人の嫌うアンフェアさと忠臣蔵/「たとえば「自由」はリアティか」読了:微妙な概念的ずれを克服することで開ける広大な世界/文学の新しい可能性/謎の10世紀と史料

Posted at 25/12/16

12月16日(火)晴れ

昨日は朝から作業場の方に植木の人が入ったので、朝打ち合わせをしたりお茶を持っていったり、別の場所の植木の管理のために駐車スペースを確保するために草を刈ったり。これは昼ごろ朝のお茶の片付けに行ったついでに別の場所に出かけてそこで草刈りを始めたのだが、蔓草が異常に伸びていたり結構手強いということがわかって最初に少し刈った後に家に戻って道具をさらに追加して持っていったりした。草刈機でバーっと刈ってしまえば済むような感じだと楽なのだが、ツルになる草は本当に面倒で、いちいちぶった斬ることになる。結局1時間くらいかかった感じで、久々に肉体労働をした実感があった。

こういう時というのは進行状況を見に行ったりお茶を出したり、挨拶をしたりもろもろ、やることが小出しになるので本を読んだり文章を書いたりしていてもすぐ時間になって中断される感じになるから、面倒と言えば面倒なのだが、逆に短い時間に集中したり一度集中が外れたのをなるべく迅速に元に戻したり、みたいなことが関心の中心になったりする。いずれにしても機敏に対応しないといろいろなことがやりきれないということはあるので、読んだり書いたりしながらそういう対応もしていくことになるわけである。

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フィンランドの問題はそれなりに収束しつつはあると思うが、ただもう一度日本人に植え付けられた不信感はかなりの間拭えないだろうと思うし、これはフィンランドだけでなくヨーロッパ全体の問題でもあるというのは確かだろうなとは思う。

これはアジア人差別の問題だけでなく、ヨーロッパ文化にある「冗談に対して本気で怒るのは無粋」というところにも関わりがあるから、今まで「謎の微笑」でスルーしてきたアジア人が本気で怒り出すと「冗談なんだ」と言い訳を始めるということになるわけである。

そういう点に関しては逆に相手を侮辱する行為も冗談に紛らわせば許されるという風潮を生む部分があり、そういうところがヨーロッパ自身が世界から白眼視される傾向を生みつつあるということはあるようには思う。

https://x.com/SonohennoKuma/status/1754997385330303121

こうした知的に怠惰な態度が不信を招くということがある一方で、同情もできる点があるとすれば、これも文化的な要因からポリコレに厳しく従わざるを得なくなっているということに強い不満もあるという現状もあるのだろうと思う。これは日本においても同じような問題が噴出し、参政党の躍進にもつながり、高市内閣を生む原動力になった部分もあると思う。

結局ヨーロッパは自らの内なる差別がまだ解決がついていない状態であり、その一方で自らの取り組みを誇るだけでなく日本などに対しても干渉をしてくるので、それに対して日本人が強く反発したという面が大きい、という主張をネットでよく見たのだが、これは確かにそうだと思う。

日本人は偽善やダブルスタンダードあるいはアンフェアであることを嫌う、というのは日本でリベラルが嫌われるようになっている大きな原因でもあるわけだが、それは今回のフィンランド、ひいてはヨーロッパ全体に当てはまることだろう。

日本人はこういう状態を「片手落ち」である考えるし、「喧嘩両成敗」、すなわち一方だけが歪に得をする状態は是正されなければならない、と考えるわけである。ヨーロッパは、普段いい人ぶっていい人アピールをし偉そうに日本にご指導しようとさえするのに実際は差別根性の塊でありそれを冗談として誤魔化そうとすらした、ということに日本人は怒ったわけで、つまりは赤穂事件における片手落ち処分への批判と同じ、つまり忠臣蔵の精神なわけである。

12月と言えば昔は忠臣蔵だったが今はずいぶんそれも廃れてきてしまったのだけど、こういう本質的な部分には実は忠臣蔵の精神が残っているのだなと改めて思ったのだった。

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渡辺浩「たとえば「自由」はリバティか」ようやく一通り読了した。しかしせっかくならもう一度読み返したい、という感じもある。今年読んだ本では一番印象に残ったかもしれない。まあ今年のことといっても1月頃のことはもう忘れているので他にもあるかもしれないのだが、少なくとも今思い浮かぶ範囲では一番読み応えがある一冊だった。

自由や権利、法や自然観、公私の感覚、そして社会に対する考え方など、わかっているようで自分の中でも落ち着きが悪いところがたくさんあり、それが社会科学を敬遠する大きな理由に自分にはなっていたのだけど、その辺りがかなり解決した感じがするし、また様々なこのジャンルのテクニカルタームやジャーゴンも、このように考えて本質をとらえていけば腹に落ち着く感じでの理解可能なんだ、と思えたことは大きかったなと思う。私は歴史を専攻して勉強してはきたのだが、人文系や人物像に傾きすぎなところがあり、最近になって経済的な部分や自然との関わりなどについてようやく考えられるようになってきていたのだけど、法や制度について正面から捉えようという気持ちがあまり起こらないでいた。

この本を読んだ今になって考えてみると、そういう微妙な概念的なズレのようなものが気になって仕方なくて、それでそういうものについてあまり考えたいと思わなかったのだなとはっきりしてきた。まあ歳は取り過ぎてしまったが、今からでも改めて社会や法や制度、あるいは理念というものについて腰を据えて考えていければ良いなと思った。

昨日読んだのは第6講の「社会」についてだが、日本語の「社会」という概念はもともとあった「世間」という概念に引っ張られすぎであり、自分を取り巻くものとしての自分を含まない概念である「世間」のイメージが、社会あるいはsocietyという語に反映され過ぎている、という説明はなるほどと思った。

「西洋でいうsociety...には「何らかの共通の目的や資質を持つ人々が交流し、交際し、協力する集まり」という意味合いがあります」

という説明はわかりやすく、「つきあい・仲間・交友関係・団体」を指すという。つまり、日本語でいう「世間」よりも「社会=society」の方が温かい概念だということになり、そういう意味では「英語で言えば無機質で冷たく堅苦しい感じになるが日本語だと柔らかく温かい感じになる」という一般論のまさに逆なんだということを思ったのだった。

日本語の社会はなんとなく「冷たい他人の集まり」という感じがするが、これは実は日本語の「世間」を反映したイメージであって、社会というのはむしろお互い助け合ったり協力したりするものなわけである。だから社会主義というのがもともとは空想社会主義、温かい理想で大変な人たちに手を差し伸べる考え方、みたいなものだったわけで、それが必然的に科学的に達成できるんだよとする科学的社会主義≒共産主義の理想みたいなものに多くの人が被れてしまったわけである。民間療法に科学的説明を導入するとインチキになるような感じで、人道主義に科学の説明を持ち込んでカルト化させたのがマルクス主義だったのかもしれない。まさに地獄への道は善意で敷き詰められていたわけである。

社会主義に対する私のイメージも官僚的で冷たく、また巨大ロボット的な非人間性があるのだけど、逆にそういうものを否定して本来の人間性を取り戻そうとしたアナーキズムのようなものも変に暴走して醜い形で欲望が解放された感じになってしまうのもまた歪なものでもあるなと思った。

またキリスト教的社会主義とかいうのは宗教を否定している社会主義なのにおかしいだろうと思ったりしたが、マルクスが宗教を否定しているだけでそういう意味での社会主義は人道主義的要素を主にいっているのだとしたら特におかしくはないということになるのだなと思った。

私は本質を捉えるのにどうしても論理だけではなく感覚でも捉えるところがあるので、この辺のズレというのは結構致命的な問題だったのだなと思う。この辺りを克服しつつ、さらに知見を深めていきたいと思った。

また公共意識という問題がまさに現代の外国人問題の根幹にあるのだということが分かったというのも良かったと思う。中国人は我々と文化的に公共意識というものが違うので思いがけないことをやってくるということは常にある。クルド人やベトナム人、ナイジェリア人など他の外国人の公共意識というものも社会分析して理解を深め、対策を立てて行く必要はあるのだろうと思う。もちろん日本側の公共意識の前提も理解していけるように啓蒙していく必要があるが、それを受け入れない場合の罰則もきちんと整備していくべきだろう。というように、具体的な政策課題にもつながり得る内容だったと思う。

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https://x.com/hazuma/status/2000381970963161468

「全ては政治につながっている」というのはその通りで、だからこそそれへの反発が80年代には強くて政治と距離を置く人が多かったんだけど、そこで政治をちゃんと意識しつつやるかどうかというのは結構大事な話だとは思った。

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https://note.com/yonahajun/n/n729d4eb30196

なぜ與那覇潤さんが歴史を離れて文学に行ったのかよくわからないでいたのだが、これを読んでちょっとわかった気がした。

先細りが続き、傾いている文学の領域で生きていくために、とるべき道は卑小な道と高尚な道が考えられ、前者はベストセラーを出してビジネスの領域に引き上げてもらったり社会正義を主張して必要性を訴える道なのだ、という。つまり文学それ自体の再興を図るのではなく、ビジネスとして、あるいは社会正義としての必要性によって拾ってもらおう、という戦略だというわけである。

これは必然的に作家個々人が上手く立ち回って評価されていくことに汲々とするということであり、つまりは最近出てきた「令和人文主義」というものがビジネスとしての生き残りを図るもので、社会正義として生き残ろうとするのがマイノリティ文学とキャンセルカルチャーである、という感じで與那覇さんは捉えているようだし、概ねそういうことなのだろうと思う。

一方で後者は文学の領域を丸ごと救おうと連帯する道だ、という。これはマンガのように表現規制と戦っている領域の人たちの連帯というものとまた違うところはあるにしても、ジャンル全体の価値を主張していくところは共通していると思う。そんな中で興味深いものとして取り上げられたのが「人の書いた手帳を読む」という企画である。

https://techorui.jp

「人の書いた手帳を読む」というのは確かに極めて文学的な行為であって、こういう新しい可能性を見つけようとすることも文学の再生に繋がる道ではあるかもしれないとは思った。

で、多分そういう「連帯」ということを與那覇潤さんはやりたいのであって、歴史学や社会科学の領域では難しいと考えるようになったのかなという気はした。私などは今からもう一度そちらの方にトライしようという感じが強いので、違う方向には行きそうだが、しかし表現規制の問題については今後もしっかり見ていかないといけないと思っているし、多分そんなに離れているわけではないのだろうなとは思った。

卑小、高尚というのは前者が自分のことだけしか考えないさもしさみたいなものがあるのに対し、自らの鋭意に対する誇りを持って現実を克服していこうとするところにあるからなわけで、どうなるかはわからないが今後も見ていきたいとは思ったのだった。

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本棚を漁っていたら榎村寛之「謎の平安前期」(中公新書、2023)という本が出てきて、このところ頭の片隅で引っかかっている「謎の10世紀」の問題と関わりのあるところなので、少し読み出してみたのだが、ちょっと自分の読みたい方向と違う感じがしなくもなかった。

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まず10世紀の社会経済についてもう一度見てみようと思って伊藤俊一「荘園」(中公新書、2021)を読んでみたのだが、こちらの方がやはり自分の知りたいことに近い。ただ、10世紀に関しては記述が少ない。当然ながら10世紀は六国史の編纂が終わった後で、基本的な資料が極端に少ない時代だというのは知っていたから、まあそれは仕方ないなと思いました。

いろいろネットで検索してみると藤原忠平(880-949)の残した日記である「貞信公記」(907-948、子息の実頼による抄本)であるとかその実頼の書いた「清慎公記」などがあるが、これが甥の藤原公任が部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたために反故になってしまい、またその部類記も火事で焼けてしまったとか割と過酷な運命にあっているようである。まあそういう形で群書類従であるとか大日本史料であるとかを見たら結構出てくるのだろうなとは思った。読みたいものがどれだけ出てくるかはわからないが。

フィンランド吊り目問題というバイトテロレベルの炎上を鎮火できない差別意識の根深さ/中国で公共意識や民主主義が難しい理由:「たとえば自由はリバティか」/肌寒い日曜/メガソーラー支援打ち切り

Posted at 25/12/15

12月15日(月)小雪まじりだが月と木星は見えた

昨日は1日ぐずついた天気で、朝も冷え込まない代わりに1日肌寒い感じだった。昨日は一日本を読んだりネットを見たりして家の中にいた。東京に行かない週はだいたい夕方あたりに煮詰まってきて岡谷のモールや書店に気分転換に出かけることが多いのだが、昨日はどうしようかと思いながらどんどん時間が経ってきて、夕方7時を過ぎたからもうあるもので済ませようと思い始めていたのだけど、8時前になって翌朝のパンがないことに気がつき、重い腰を上げて24時間営業の西友まで車を走らせてパンと夕食と、人に出すためのお菓子などを買ってきたりした。

ある意味集中して本を読み、またネットを見たりしていたので、気分転換を必要としないくらい集中してやれたのかなという気もしたのだけど、ただ単に出不精だった気もしなくはない。外に出ると寒いので家の中にいる時間が長くなるのだけど、暖房効率を考えてあまり襖や障子の開け閉めをしなくなると、外に対する関心が薄れてきて外仕事をやろうという気持ちがなくなるということもある。まあ、昨日の場合はあまり天気が良くなかったから気が進まないということも大きかったのだけど。

ただやらないといけないことはあるので午前中はブログ/noteを書いたあと留守中に届いたお歳暮のお礼の電話をしたり、必要な連絡を何箇所かにしたりして、お昼はあるもので済ませ、1時前に支度して近所の人のお葬式の弔問に出かけ、お寺で記帳してご親族に挨拶し、本堂の前の祭壇でお焼香して帰ってきた。お寺は隣の町内なので歩いても行けるのだがいいかと思って車で出かけたら、駐車場がかなり混んでいた。地元の人たちは歩いていたから、歩いていってもよかったなと後で思った。

出かけるのが嫌にならないうちにと思って月曜から始まる植木の手入れの下準備を少し。車の入れ替えをしたり少し草を刈ったり。別の場所の通電を確認しにいったり。思ったより枯れた草が生えていて荒れた感じになっていたから、月曜日に少しやっておいた方がいいかなと思ったり。本当はもっと早くやるつもりだったのだが、やることが多くて後回しになってしまっていた。

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ミス・フィンランドが吊り目ポーズの写真、つまり中国人を馬鹿にした写真を投稿して炎上したのだが、それにフィンランドの国会議員たちが彼女を擁護するために同じような写真を投稿したことがきっかけになって、日本のツイッターで激しくフィンランドを批判する炎上が起こった。

このヨーロッパにおけるアジア人差別の明らかな現れである「吊り目ポーズ」だが、ヨーロッパに行ったことのある日本人でこれをやられなかった人はほとんどいないだろうと思われるくらい蔓延した差別行動であることは確かである。私も40年ほど前に1ヶ月ほど旅行した時、ドイツやフランスでは差別的な行為がなかったわけではないが吊り目はやられなかったが、スペインでは子供たちに「チーノ、チーノ(中国人という意味)」と囃し立てられたり、ポルトガルではやはり子供たちに囃し立てられ吊り目ポーズをかまされたことはよく覚えている。

まあこういうあからさまな差別をするのは独仏のような国ではなくむしろ周辺の小国なのだなというのは今回のフィンランドのケースでも明らかなのだが、日本人が強く憤激したのは単に彼らが差別的な行動をしているということではなくて、フィンランドをはじめとする北欧が「人権を守りましょう」という取りすました発信を盛んに行なっていることと今回との矛盾に「ダブルスタンダードの偽善ではないか」と憤ったというのが一番大きいだろう。

元々のバカにされた対象である中国人より日本人の方が強く反応したのは、中国は人権を強く意識する民主主義国ではないけれども日本人は常にヨーロッパからのそういうモラルハラスメント的な人権的非難に耐え忍んできたという感覚があるからだろうと思う。

ミスフィンランドの人は父親がコソボ系アルバニア人だそうで、そういう人をミスに選ぶということ自体がフィンランドの多様性重視の姿勢を誇示したところがあったわけだと思うが、国会議員が彼女を擁護したのも彼女を擁護するのがポリティカルにコレクトだという感覚があったのだろうという気がする。そのためにアジア人蔑視のポーズをSNSにあげるというのは「アジア人差別」という観点が欠けている全く本末転倒な行為なのだが、それだけ彼らにとってアジア人差別は空気のような、というか息をするように差別をしたのでそれをいきなり非難されて息をすることを非難されたような驚きを感じたのではないかという気はした。

もともとミスフィンランドが吊り目ポーズをSNSにあげたというのはいわゆる「バイトテロ」のようなレベルの低い炎上だったのが、国会議員がそれに参戦したことで国家レベルのバイトテロになった、というか国会議員がバイトテロレベルであるということを明らかにするという醜態を晒した、ということなのだと思う。

フィンランドという国はロシアの隣であり、常にロシアやソ連に圧迫されて領土にされていた時期もあるし、スウェーデンの領土だった時期も長い。そこから独立して戦ってきたことでロシアに勝利した日本に対しては親近感があったらしく、東郷平八郎の名前をとった東郷ビールなども売っていたりするなど、少なくとも日本人の多くは「親日国」と見做してきた国だった。

それが今回のことでイメージは暴落し、フィンランドを含む北欧の「人権先進国」と称する国々、またその国々を持ち上げる日本の左派人権派の人々に対してもダメージになったと思われるし、また彼らに対する信用も大きく毀損された。

https://x.com/yasemete/status/2000211678391328856

フィンランドの首相はようやく「子供じみた行為は良くない」程度の反応を示したようだが、実際にはあまり何が起こったのか今でもちゃんと認識していないのではないかという気がする。黒人差別や女性差別のようなオフィシャルになった差別と違い、アジア人差別は目に見えない形で行われているのは確かで、フィンランドの学者が「フィンランドにはアジア人差別はない。なぜならそういう研究も行われていないからだ」と表明したという話もあり、本当に見えない差別だということもある。

しかし一方で、これは日本でも同じなのだが、人々の中には「ポリコレ疲れ」というものがあり、そうした鬱屈した感情をこうした形で発散したのではないか、だから彼らに「反省」が生まれにくいのだ、という指摘もまたその通りだろうと思う。これは同じようなことが日本でもあって、参政党の勢力が伸張したということと結局は同じような話ではあろうと思う。ただ問題は、今回の差別意識が我々日本人を含む東アジア人に向けられたということであるわけである。

逆に言えば、人々の差別感情がある程度のおおらかさを持って許容される社会であればあいつも差別するがこっちも差別してやる、という呉智英さんのいう「差別もある明るい社会」で行けると思うのだが、日本人の差別的に見える現象は批判するが自分たちの差別は「冗談だからあまり真剣に捉えるな」というのではダブルスタンダードの偽善だと批判せざるを得ない、ということにはなるだろう。

この問題自体は東アジア人がフィンランドやヨーロッパで暴動を起こしたりすることは考えにくいので落ち着くべきところに落ち着いて貰えばいいとは思うのだが、この騒動も早速ロシアに利用されていて、日本人の反ヨーロッパ感情を煽るような動きも出てきているように思われる。

国際社会の対立の中で、日本は今まで概ねヨーロッパの側に立ってきたし、近代化を主導してきたということで尊敬もしてきたわけだけれども、こうした形で「価値観の共有」が怪しくなってくると、中国やロシアなどの権威主義国側からすれば日欧の連帯に楔を打ちやすくなってくる感じはある。またアメリカもトランプ政権の動きはヨーロッパを切り捨てる方向に動いている感があり、世界の落ち着きがさらになくなりかねない。世界がどうなっていくかはヨーロッパの側も考えていかなければならないと思う。もちろん日本ももっとちゃんとした国家戦略を持って国際社会に対応していく必要はあるわけであるが。

***

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「たとえば「自由」はリバティか」、第5講まで読んだ。第5講は日本語の「公私」と英語(ヨーロッパ語)のpublic/privateの共通点と相違点という話なのだが、毎回そうなのだが話の展開はヨーロッパ語での意味の解説の後、中国での、つまり漢字の原義としてのその概念が取り上げられ、そして日本ではどうか、という話になる。第4講までは「西欧と日本の違い」にほとんど目が行っていたのだが、今回は中国の特殊性という下日本やヨーロッパとの違いが強く印象に残った内容だった。

明清には江戸時代の日本のような村落共同体はなかった、というのが通説で、幇というのはあったけれども、これは結社組織で多くは同族組織という感じかと少し調べて考えた。読んでいくと本当に明清以降の中国には明確に区分できる共同体がないということがわかり、そうなると「共同体の中のみんな」という概念が元になる西欧のpublicの概念が成立しない、という指摘は結構重要なことだと思った。

私は中国は春秋戦国や古代のものの印象が強いせいか、中国というと古代の都市国家の国という印象なのだけど、それが解体されて個人単位になっていき、巨大な流動が生まれやすい状態になったから黄巾の乱やら太平天国の乱やらのビッグウェーブがしょっちゅう起こる状態になったということなのかなと思った。

都市国家が解体して後漢末以降荘園制の身分制社会になり、さらに唐代後半にそれも解体したあとの宋代には、「万人の万人に対する戦い」の状態になったという指摘は驚いたが、逆に言えば宮崎市定先生などが中国は宋代から近世になる、と主張するのはその辺りもあるのかなと思った。ただもちろん西洋近代と違って産業革命がないから近代とは言いにくいなとは思うのだが、宋代の読書人階級の成立をある種の市民革命の成果と見做せば近代的と言えなくはないかもしれない。しかしその後にモンゴルの征服があって社会は混乱するわけだけど。

中国には農民という法的身分がなかったというのは驚いたが、逆に言えば人は何にでもなれたのだということで、確かにそれはある意味近代的だ。ただ江戸時代の篤農家みたいな意味での公益を追求するある種市民性は生まれなかったということではあるのかなと思う。

日本で江戸時代の村落が共同体になったのは入会地などの共有財産があったということもあるが、年貢が村請制で共同責任を負わされたから、というのが大きいのだろう。土地は平安時代までは領主のもので開発領主たちが農民を集めて開発するというスタイルだったが、それが軌道に乗ると農民は比較的土地に定着するようになり、鎌倉時代には地頭が年貢の徴収を請け負う地頭請が成立し、室町時代には荘園内の村落が惣村化すると村自体が徴収を請け負う地下請に発展し、荘園制が解体された江戸時代には村切りされた小規模な村落自体が年貢を請け負う主体となって村請になる。そうなると村を構成する百姓たちは家ごとに年貢の額が決めらて村に対して責任を負うようになったということなのだろう。

これはつまり村落共同体ということであって、それはお互いに牽制し合うという意味で五人組制度的なムラでもあるがある種の自治組織でもあり、また大名や幕府側にとっては統治を容易にするというものであった反面、農民たちにとっても村や家という居場所が確保されたということでもあると思う。

中国人にとっての世界は自分を中心とした同心円構造になっていて、修身・斉家・治国・平天下という考えがそれを産んだということなのだが、あくまで自分が中心であって「共同体」というものは存在しないという世界の捉え方になるということだろう。ここは日本とも「社団国家」とも言われるヨーロッパ近世とは全く違うことがわかる。日本人みたいに「居場所」とかいう「甘えた」ものは最初からないということだろう。それが中国人のある種の逞しさ、アナーキーさにつながっていると考えると理解しやすいとは思う。

しかしそういうふうに考えるとこういう人たちの集まりに「共同体」とかその中での「民主主義」とかを説くのはかなり難しいことだなというのは読んでいて実感してきた。東アジアでは日本支配下にあった台湾や韓国で日本的な統治が行われることで少し変化はあっただろうと思うのだが、中国ではそういうこともなかった。

そう考えると中国というのは我々が考えているような世界観とは全く違う認識を持った人たちだということになるわけで、ある意味世界に進出しやすい、資本主義に非常に順応的な人々だったからこそ、アメリカに贔屓されたクリントン政権以降の新自由主義時代に経済大国化を成し遂げることができたということなのだろうと思う。

しかし自分自身とその延長という形でしか世界を認識しないスタイルは欧米的な国民国家共同体のような考え方はあまり発展しなかったと考えられるから、権威主義的な覇権国家思想が発達することになったのだろう。この辺りはイスラム世界やロシア、あるいは中南米、アフリカ諸国などの共同体意識みたいなものもまた考えていくことによって世界の把握の仕方がよりきめ細やかになっていくだろうという気はした。

残りは第6講、「society/社会」について。後40ページ弱である。

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https://news.yahoo.co.jp/articles/e2d8801855c7c3fe0c7e3cd3fa8b6f711aebd60f

政府がメガソーラーに対する援助を打ち切るとのこと。遅すぎるくらいだが良いことだと思う。

これが拡大したのは東日本大震災後の原発事故への対応というか原発を廃止して再生可能エネルギーへ、という発想の延長線上に出てきたもののようだ。しかし山林を切り開き自然を破壊して再生可能エネルギーというのはどう考えても本末転倒であり、こういう自然破壊的な発想は本来環境保護の立場から出てくるはずがないと思うのだが、原発を止めるためには山林の犠牲はやむを得ないという判断がどこかにあったのだろう。その辺りのところはこれから明らかにしていってもらいたいとは思う。

***

書いている途中でゴミを出しに行きがてらジャンプを買いに行ったのだが、勘違いしていて今日はゴミの収集日ではなかったので、セブンに行ってジャンプとカフェオレを買った後、ゴミは出せずに持って帰ることになった。なんかいろいろアレである。

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