イデオロギー

Posted at 21/05/11

最近思うところがあり、というか「小林秀雄の政治学」を読んで、イデオロギーというものについて考えるところがあり、自分が最近付き合っていたのもこれだなということを改めて思って、これからはちょっと物事に違うアプローチをしていこうと思った。

小林秀雄の政治学 (文春新書)
中野 剛志
文藝春秋
2021-03-18

 

現在猖獗を極めているイデオロギーは、ポリティカルコレクトネスやフェミニズムが最右翼であるけれども、それだけではなくて多くのイデオロギーがスローガン的に用いられていて、知らず知らずのうちに我々の思考を縛っている、というか不自由にしている。

イデオロギーというものあそれを使うとある種の魔法の切れ味のような威力があって、自分の力が強くなったような気がしてしまうが、使い続けると自分の力が衰えて、自分自身の力では行動できなくなるような、そして自分自身がそのイデオロギーを封じる運動体に取り込まれてしまうような、まあそういう危険性を持ったものだなと思う。

それに関してはおそらく保守というものもそうであって、保守というもののイデオロギーは左翼のように記述された体系的な設計主義的なものではなく、フェミニズムが反男性、ポリコレが反伝統主義であるとしたら、反・反男性、反・反伝統主義みたいになることは多い。もちろんそれは理由があってのことなのだが、世の中の動きというのはそういう表に出てきたところだけではなく、もっと粛々と動いている部分もあるので、その辺りのところをもっとちゃんと見ていく、考えていく、感じていくことが必要で、イデオロギーの厄介なところは、全てがイデオロギー対立のように見えてくる、そして実際にもともとそういう話ではなかったところにイデオロギー対立が生じるというところがある。

政府がなんとしてでもオリンピックをやろうとしているのもどうかとは思うのだが、それに反対するあまり出場が予定されている選手の人たちに「出場を辞退しろ」と脅迫するのはやはりまともなやり方ではないだろう。そういう人たちは最初は左右どちらにもいたのだが、左翼側が反五輪ということで気勢をあげ始めるとあっという間に左翼の人たち、特に中年男性の有力な左翼アカウントのかなりの部分がアスリートに対して出場辞退を求める声を上げ始めた。これは今みたところは少し収まった感があるが、少しどうかしているのではないかと思うようなことでもやってしまうところが怖いところではあるなとみていて思った。

こういうのをみていると普段からそういう危ない考えを持った人なのかと思ってしまうが、恐らくは私がフォローした時にはもっと有用なことをいうまともなアカウントだったと思うので、それはやはり何かイデオロギー的なものに浮かされてしまったのだろうなと思う。

正直言って、コロナ禍で大変な思いをしているのは誰も同じだ。個人的にはオリンピックはワクチン接種が進んだ来年であれば開催は可能だと思うので、また各所の調整が難しくはなるけれども、もう一年延期するのが良いのではないかと思う。もちろん私の見えていないところでの困難はあるだろうから絶対というわけではないが、来年もっとおおらかな気持ちで開催できると良いと思う。

私個人の話としては、「日本の保守思想」というものをもう少し体系化して強度を持てるようになるといいなと思っていたので、そういう方向で過去の保守思想についても調べていたのだが、だんだんどうもこれでいいんだろうかという思いが強くなってきていて、そういうところで「小林秀雄の政治学」を読んだので、自分がやろうとしていたのはつまりは「個人の思想」というよりは「保守主義というイデオロギー」の強度を強化しようというだけのことになるんだなということに合点がいって、これはひとまずやめておこうと考えるようになった。

小林秀雄に関しては今まで文学について、つまりは社会よりも個人を指向するものとして読んでいた部分が強かったのだが、著者の中野氏が「文学は個人について書くことで人間の集合体である社会も描くもの」であり、政治は「社会の動きについて研究することで人間に迫るもの」だということを書いていて、つまりは小林は「人間とは何か、人とはどういうものなのか」という問いに文学という側面から迫ることを選んだに過ぎず、政治という側面から人というものに迫ろうとすることを否定したわけではないのだなということを自分なりに理解したので、より大きなスタンスでこの人の思想に迫ってみたいという気持ちにはなった。

まあ言えば個人と社会をアウフヘーベンした「人とは何か」「人間とは如何なるものか」みたいな視点の存在に気づいた、ということではあるのだけど、まあ気づいたからといってすぐに論じられるものでもないので、ちょっとそのための足場を作るためにこんなことを書いてみた。

イデオロギーとは小林秀雄の言葉で言えば「意匠」である、というのは中野氏のいうところではあるが、その理解は妥当だと思う。自分が「さまざまなる意匠」の一つである保守主義に拘泥しても、ちょっとあまり意味ないんじゃないかな、という気がしたのはそういうことであるわけだが。

思想を深められるのは個人だけであって、政治というものは否応なくシステムや数値で測られていく部分がある、というのはその通りだなと思った。そういう政治について論じるのも意味はあるのだけど、もっと今の自分がやって意味のあることは他のことかもしれない。

ただちょっと、実際のところ本当にイデオロギーに頼り過ぎていたなという感覚が自分の中にはあって、自分自身を立て直していかないとまずい状態だという気はするので、しばらくはややリハビリ的な内容を書くことになるかもしれない。




政府のコロナ対策の一番の問題点はなんだったのか

Posted at 21/05/10

私は基本的に国の新型コロナ対策は支持してきたのだけど、最近になってちょっと考えが変わったところがある。

それは国の対策が不手際だとか経済対策が遅延しているとかいうことではなくて、まあそういうところももちろんもっとやれないかとは思うけれども、一番肝心なところがちょっと抜けてたんじゃないかなという気がしてきたのだ。

それはどういうことかというと、東日本大震災のことを考えてみた時、またそれについてのツイートを読んで思ったことなのだけど、ああいう災害の時は、「こういう危険が迫っています」ということと同時に、「落ち着いて行動してください」というメッセージを必ず送るよな、ということなのだ。

東日本大震災の時の政府の失敗の一つは、菅首相が慌てて福島第一原発にすっ飛んでいったこと。行ったからと言ってどうにもなるわけはないのに、自分が原子力の専門家であるという自負があったからなのか、頭越しで現場の指揮をしようとしたのは、国民に動揺と不信を与えたと思う。

また、枝野官房長官は毎日ずっと政府の情報を発信していたのは良かったが、「直ちに危険とは言えない」というような曖昧な言説が多く、官僚的な(つまり政治的でない)発言に終始したのは残念だった。

今度の新型コロナのパンデミックで言えば、発信すべきは「危険である」ということ、そして「落ち着いて行動し、皆で危機を乗り越えよう」ということだったと思う。

この「皆で」というのが大事なところで、こういうことはいざという時に政治が言うしかないことだ。

従来の対策に関しても、もちろん財務省が十分にお金を出さないということがどこの点においてもかなりのネックになっている。医療者に対する給付も、事業者や労働者に対する給付も、どんどん迅速に行うべきだし、ワクチンの接種計画も市町村に丸投げではなく国でプロトタイプを作ってどんどん自治体に流していくべきだっただろう。供給すべきはワクチンだけではない。政治家や中央官庁が普段威張っているのはこういう時にリーダーシップを取れるからであるはずで、それができないということは鼎の軽重が問われているというべきだろう。

そういう意味で不十分なことはあるにしても、それでも自分としては政府を非難したり攻撃したりするつもりはないし、批判的なことを書くにしても建設的に反映されることを望んでいるに過ぎない。

しかし、今になって思うのは、コロナ禍が長引くことによって本当に世間の雰囲気が悪くなってきたことだ。こういう時に政府が「落ち着いて慎重に常識的に行動し、この困難を国民全体で乗り切っていこう」と訴えることがどうしても必要だと思う。

専門家が専門家の立場から危機を訴え、医療現場に配慮を求め、経済の専門家が経済の危機についての主張をし、政府に財政出動を求めることなどは当然のことだが、政治はその二つの危機感をただ垂れ流せばいいと言うものではない。まず「現在はこう言う差し迫った二つの危機がある」と言うことを率直に認めてそれを国民に伝え、「政府としてはこういう方針である」という具体的な政府としての行動を述べ、その上で「現在の状況は国民に協力を求めなければならない状況なので、このようなことに関して自粛等の協力をしてほしい」と求めた上で、「ある程度の犠牲は出てしまうかもしれないが犠牲を最小限にするために政府として最善の努力をする。そして政府の努力と国民の協力があればこの危機は必ず乗り越えられる。国民一人一人の慎重で常識的な行動をぜひお願いしたい」というべきだろう。

もちろん、掛け声だけでなく内実を充実させていき、それによって国民を納得させていくことが不可欠ではあるのだが、「自分たちは何にどう協力すればいいのか、どう行動すればいいのか」ということをまず納得させることが大事で、恐らくは欧米の指導者がこのあたりで、現実には悲惨な感染拡大状況にあっても支持を得られているのは、そうした言葉の力を使えるからなのだと思う。

政府のコロナ対策で何が欠けているのかということを考えた時、ここが一番足りないのだなということを最近になって強く感じた。要するにつまりはそれがリーダーシップというものなのだと思う。

マンガ【推しの子】が面白い:アクアの演技はどう開花するのか(42話)

Posted at 21/05/08

今日はマンガの話を。
今、一番楽しみにしている作品の一つが週刊ヤングジャンプ連載の「【推しの子】」だ。原作が「かぐや様は告らせたい」の赤坂アカ、作画が「クズの本懐」の横槍メンゴという組み合わせ。芸能界を舞台にしていて、16歳のアイドル・アイの子供(隠し子)として「過去生の記憶を持って転生」した男女の双子が本編の主人公になっている。この双子は若手男性医師と若くして死んだその患者の少女の転生で、二人ともアイドル・アイを推す熱烈なファン(というかドルオタ)という設定。まさに「推し」の「子」として転生した二人の物語である。以下、ストーリーの機密に触れる部分もあるので未読の方で【ネタバレ】を忌避したい方はここまでにしてください。

第1巻はプロローグ。彼らの転生の顛末から、アイドル・アイの隠し子として過ごした二人の幼少時代。主に男の子・アクアの目線で語られるが、時折現れるアイの屈折した心情が描写される部分が、心に刺さる。1巻のラストでアイは思いがけない死を迎えるが、その死について考えたアクアは「隠されている自分たちの父親」こそがアイを殺した本当の犯人であると考え、復讐を誓う。芸能界の内部にいるであろうその犯人に近づくため、アクアは「役者」としての道を選び、双子の妹・ルビーは純粋に「アイのようなアイドル」になることを目指して歩みを始める。

その後の展開を概観すると、第2巻は「芸能界」編、第3巻は「恋愛リアリティーショー」編、そしてこれから発売される第4巻は前巻の続きからアイドルデビューの「ファーストステージ編」となり、現在展開中の第5巻相当部分は「2.5次元舞台」編となっている。アイドル、リアリティショー、2.5次元と、芸能界の「いま」にトライする非常に意欲的な作品であることがここからわかると思う。

第2巻以降はまっすぐにアイドルを目指すルビーと、自分の役者としての才能に見切りをつけ、ルビーがアイドルになることとアイの復讐のためにアイの関係者たちに接近を図るアクアが対比されて描かれて行く。




陽のルビーと陰のアクア。しかしここで物語を大きく動かす存在が現れる。元天才子役・有馬かなである。かなはプロローグ編でアクアの共演者として登場し、そこでは「10秒で泣ける天才子役」としてもてはやされていたが、ルビーには「重曹を舐める天才子役」といじられ、自信を持っていた演技も転生を生かしたアクアの芝居に鼻っ柱を折られてしまい、彼らのことが強く印象に残ってしまうことになる。


第2巻で再登場したかなは昔日の面影もどこへやら、努力する天才ぶりを見せてはいるが一向に評価を得られず、苦しんでいるところで2人と再会する。かなは久々の主演作となったネットドラマでの共演をアクアに持ちかけ、アクアはそのプロデューサーがアイの関係者であることに気づいて出演を承諾する。そしてこのドラマはアクアが出た最終回だけ成功をおさめ、界隈で話題になり、かなはアクアに恋してしまう。

こうしたエピソードから有馬かなはネットで「重曹ちゃん」「重曹先輩」などと呼ばれ、そのツンデレと作画の力の入った可愛らしさから一躍作中第一位の人気を獲得し(人気投票等があるわけではないがSNSやPIXIVで取り上げられているのも圧倒的に彼女だ)、その後もアクアの説得でアイドルになることを承諾するなど、2人と深く関わっていくことになる。

そしてもう一人、作中で重要なポジションが与えられているのが黒川あかねである。あかねは恋愛リアリティショーでアクアと共演し、番組中で共演の女子にけがを負わせ、それをきっかけにSNSで大炎上することになる。自殺寸前のところをアクアに助けられ、義憤に駆られたアクアがオフショット動画を作成して世論を味方につけることで状況を劇的に改善したことから、あかねもアクアに好意を持つことになる。

現在展開している第5章「2.5次元舞台編」はこの三人、星野アクア・有馬かな・黒川あかねが一堂に会する舞台である。「2.5次元」とは、「人気マンガ(2次元)の舞台(3次元)化」ということでマンガのキャラ達を役者が演じる舞台を指す。この舞台の原作のストーリーは架空の作品なので、まだわからないところが多い。2021年5月6日発売のヤンジャン23号の時点で分かっていることはこの三人の役名とあかねがアクアの恋人役、かながアクアの相棒役ということ、そして若き天才役者と目される姫川大輝が主役を演じ、かなは姫川と同じグループに、アクアとあかねが対抗・抗争するもう一方のグループに属するということくらいである。

構図としては、姫川とあかねが属する劇団ララライの主宰・演出である金田一がこの舞台化を引き受け、かなが主演したドラマや恋愛リアリティショーのプロデューサーである鏑木が劇団外のキャストとしてアクアやかなたちを送りこんだということになる。アクアは鏑木から「アイが変わったきっかけ」が劇団ララライにあったらしいことを聞き、この舞台に参加することを決めたわけだが、鏑木には過去の天才子役・有馬かなと現在の天才女優・黒川あかねを競わせるというある意味えぐい(つまり魅力的な)企画意図もそこにはあった。

こうした背景のもとに始まったのが23号の42話「読み合わせ」である。長大に書いてしまったが、実はここまでが前振りである。マンガで「ここが良かった」と説明するのが大変なのはこういうところなのだが、まあこういうことを語れるというのもマンガ読みの幸せではあるので、自業自得である。「得」であるところがポイントである。

「読み合わせ」は「本読み」とも言う。本来は「本読み」は劇作者がキャストスタッフの前で自分で脚本を読むことであり、「読み合わせ」は台本を持ったまま役者が自分のセリフを読んで他の役者と合わせることを言う。したがってこの「読み合わせ」は始めて顔を合わせた役者たちが皆で台本を読む、つまりその舞台の「最初の稽古」であると考えていい。

アクアはそつなく読み合わせをこなし、あかねは役に憑依した状態で臨むがあかねに関しては今回は特段なことは起こらなかった。起こったのはかなに関してである。

普通に手堅い演技をするかなに対し、才能の片鱗を見せる主役の姫川が「遠慮しなくていいから」と言う。それを聞いて満足そうな顔をしたかなは、姫川とともにいきなり強烈な演技合戦を展開する。それはあかねを動揺させ、そしてアクアの表情も変わる。稽古終了後、姫川はかなを飯に誘い、かなは上機嫌な顔をして「ききたいことがたくさんある!」と誘いに応じる。

私も演劇をやっていたので、演技というものや役者というものの生態というものはある程度は理解できるのだが、このあたりの展開は迫真だった。最近話題になった演劇マンガと言えば不祥事で中断してしまった「アクタージュ」があったが、あの主人公の夜凪景は憑依型の天才役者であり、この作品で言えば黒川あかねが同じタイプの天才である。

あかねが「アイのようなタイプが好きなアクアに気に入られるように」とアイのプロファイルをしている場面は圧巻で、ものすごい洞察力が描写されている。これだけで役の性根がつかめるというのは誰にでも出来ることではないのだが、あかねはアイを研究した結果「隠し子がいる」という「設定」を足して「アイの子供」であるアクアを驚かせ、アクアさえ知らなかったアイの真実に迫るという鬼才ぶりを発揮し、その才能は自分の「復讐」に役立つと考えたアクアをして「番組展開上の恋人」になることを選択させたわけである。

そんな天才であるあかねさえ驚かせたかなの演技は、おそらくは「演技に情熱の無い」アクアを変えることになるだろうと思われる。

アクアの演技は手堅いが、あまり面白みのない演技だと自分も他人も評価している。かなの主演ドラマでは雨漏りで出来た水たまりや照明の逆光、相手役を挑発することなどによって演技以外の部分でリアリティを高めて成功した、という経緯があった。こうした方向性では姫川やかなのような「真の天才」に対抗することは不可能だ、ということは読者としてもよくわかる。

思えばここまでのアクアの役者としての成功は、子役時代のかなの鼻っ柱を負った演技は「転生した」ゆえの「大人の態度が出来る子供」というものであり、先のドラマでは上記のようなこと、リアリティショーでは演技以外の部分での手腕による成功だったわけで、「本当の意味での演技による勝負」はまだいちどもない。だから、これはアクアにとっては初めての「役者としての本当の試練」ということになるだろう。今まではどうにもならないドラマを見られるようにする、あるいはトラブルを解決するといったマイナスをゼロに近づけるような力量の発揮の仕方だったが、今回は素晴らしいキャストに金のかかった舞台と言うことで、ベストな状況だけに本当の力が問われるわけである。その意味で、今回はかなり先が楽しみになってくる展開だった。

「演技に情熱はない」というアクアだが、「未来」のインタビュー場面では「僕の演技に感動してくれる人」という表現をしているので、役者として成長していることは間違いない。問題はどのような方向に成長しているかということになる。

そのヒントになる場面も、今までいくつか出てきている。

アクアが周りを見てきちんとした演技が出来ることは今までも語られれているが、そのままではバイプレイヤーとして有能だ、ということに終わってしまう。かなの演技にあかねが驚いたのは、「あんな身勝手な、自分を見ろというような演技」が出来ているということだった。周りに合わせているだけでは、そういう突出した演技は決して出来ない。

それ以外でヒントになっているのは、一つは子役時代の演技だ。アクアはかなの演技を見て、「上手い」と思った。同じように演技をしても、レベルの違いがはっきりするだけだ。しかし、自分の役は監督の求めによって急に増やされたものであり、自分は素で演技をすればいい、つまり「素のままでお前は十分気持ち悪い」と監督の意図を読み、そのように「演技」をする。それによってかなはその演技に驚くわけである。

だから一つには、監督、演劇の場合は演出だが、その意図を読み取った演技をするという方向性が一つあるということは言える。ただ、ここまで「演出の意図」は明確に示されてはいない。制作側の意図としてはアクアとあかねが「つきあっている」というのを利用しようというのは示されているが、そこは既にあからさまになっているのであまり関係ないだろう。

もう一つヒントになっているのが、いままでの「演技の場面」以外での演技だ。アクアが演技の場面以外で演技をしているのは何箇所かある、というかアクアは基本的に「何重にも自分自身を隠す」ということをやっているので、全てが演技であるとさえ言えるのだが、特にはっきり言えるのはルビーがオーディションを受けた時に不合格と言うニセの電話をかける場面がある。このときは「実の妹をだませるんだからたいしたものだ」みたいなことを言われている。

もうひとつは「ファーストステージ編」でルビーやかなたちに覆面ユーチューバーのフリをしてレッスンをつけている場面である。明らかに体格が違うのにみんなそれに騙されていて、電話で連絡したユーチューバーに「ショックだな」と言われているのである。

これはつまり、あとでバレてからかなにいじられることになるように、「物まねが上手い」ということである。これは単純なことだと思われるかもしれないが、能の世阿弥が「花伝書」、つまり奥義を伝える本に「物まねが演技の根本」と書いているくらい、実は重要なことである。おそらくはそちらの方向で、アクアの演技は開花していくのではないかという気がする。

それにしてもこの作品は面白い。上に書いたことも現在の状況説明に必要な最低限のことだけなので、他にも魅力的なキャラはいるし印象的な場面も多い。

マンガについていろいろ書くのは難しい面もあるのだが、もしこの文を読んでこの作品を読んでみようという気になってもらえれば、筆者としても大変嬉しい。布教成功である。

いつまでどんなふうに生きるのか/自分の独自性とは何だろう

Posted at 21/05/06

昨日は連休の終わりの日で、そして子供の日、二十四節気でいえば立夏。夏が来た。当地では朝夕はまだ寒いことが多いが、ただはっきりと日が長くなっていて、特に朝は4時にはもう明るくなってきているから、自然と起きるのも早くなっている。若い頃ほど深くまで眠れないということもあるのだが、自分の体調などを考えてその辺りもうまくやれたらいいなと思う。

少し考えていたのは、いろいろやっているとどうも自分に自信がないというか不安な感じがすることが多く、それはどういうことなのかなと考えていたのだが、私はどちらかというとアバウトなところが大きいので、だいたいこんな感じでOKみたいなことが今になるとそういうところが痩せてきたのかなという感じがする。

言葉を変えていえば、若い頃には「そのうちなんとかなる」という根拠のない自信を持っていて、そのままどんどん生きていた。細かいところまでしっかり気をつけて建ててない家が数十年経って雨漏りをしてくるような、そんな感じなのかなという気もする。「そのうちなんとかなる」みたいな楽観的な「感じ」も、歳をとってくると「あとは衰えていくばかり」というまた根拠のない悲観的な不安に苛まれる感じになるということはあるのかなあと思ったり。

私は昔から本当に自分のことばかり、というか自分の内面ばかり考えて変なところで暗闘を繰り広げる、みたいなところが多かったのだが、最近は忙しくて自分の自我とか身体とかそういうものを相手にしている暇がないうちに、自分というものがよく見えなくなってきてしまった、みたいな感じがある。逆にいうと考えないでも動ける部分が大きくなってきたという感じがして、それは悪いことではないとも思うが、多分それだけでもダメなんだと思う。自分の状態が自分なりに受け止められていないと、すごく自分を見失った感じがする。

それではこのまま衰えて死んでいくのかな、みたいなことを考えてみると、どうもそう簡単に死ぬ感じもしない。まだ自分の中に燃料というかまだ使い切ってないものは相当残っている感じはする。

そういえば、若い頃からメンタルがやばいなと思った時にはそういうことを考えていたなあと思う。まあ本当にすぐ思考が行き詰まりに達しやすかったので、いろいろとやばい感じになったりはしたが、その時一つだけ決めたのが「自分からは死なない」ということだった。

これもまあ、そんなに深刻に考えたというよりは、若くて死ぬということは本当に痛くて苦しいことだろうなという感じがして、歳をとって100歳超えたりすると、本当に自然な感じで亡くなるのは何故なんだろうと思っていたのだけど、つまりは人間にはエネルギーみたいなものがあって、それを使い切らずに死ぬとそのエネルギーが苦しむために使われるが、使い切ってからだともう苦しむエネルギーがないから自然に死ぬ、みたいなイメージを持っていた。

そういう意味で、自分はまだエネルギーを使い切ってないから、使い切るまでは生きよう、と考えるようになってからは割とああまだ死ぬには早いな、みたいな感じで乗り切ってきたことは多かったなと思う。

最近はそういう自分にとっての基本的なこと、みたいなものをあまり考えなくなっていて、時々そういうところに戻らないと、自分の状態が掴みにくくなり、謎の不調みたいなことが起こるのだが、なるべく基本に帰って自分の状態を把握しようと思っている。なかなかそのモードになりにくいのもちょっと良くないなとも思うのだが。

まあ自分の生命観というのはそんな感じなのだが、人としてはまだエネルギーは余っているというか残っているので、そういうものはせいぜい世の中の役に立つように、まあ自分の身も保っていかなければならないが、使えればいいなと思う。まあ物理的な身体のメンテをちゃんとやってかないといけないなということが割と大きい。体の精神のメンテをしつつエネルギーを上手に使い切れるように、死ぬまで上手く生きていきたいとは思う。

小林秀雄の政治学 (文春新書)
中野 剛志
文藝春秋
2021-03-18



多分「小林秀雄の政治学」を読んでいたせいというかおかげなのだけど、自分が感じていることの頼元の部分というか中心にある部分のことについて思い起こせた感じがする。そういう意味で、小林秀雄という人の文章は、自分にとって役に立つ補助線を引いてくれるなあという感じはする。最後は結局自分の世界になってしまうけど、小林の文章は自分にとってはそれに近い懐かしい感じがあるのかもしれないなと思う。

読んでいて気づいたしまた不思議だなとも思ったのは、小林秀雄という人の文章をちゃんと面白いと思って読み始めたのはおそらく30代後半のことで、まずは白洲正子が面白いと思ったことから関連する人のものを読み始めて行き着いた、ということだ。

名人は危うきに遊ぶ (新潮文庫)
正子, 白洲
新潮社
1999-05-28

 

私の父はとても本をたくさん読んでいる人で、ただ理系の人だったから社会科学や自然科学に関する本はたくさんあっても文学についてはあまり持ってなく、特に小林秀雄やその系統の人のものは家に全然なかった。ベートーヴェンを聞いたり文学の本もないことはなかったが、それは教養として聞いておかないといけないみたいな感じがあり、本当に自分にとってあるいは社会にとって役に立つ、というものとしては捉えていなかった感じがある。マルクスや知的方法論、コミューン論などの方が父にとってリアリティが感じられるものだったのだなと思うが、そういうものは自分なりに子供の頃から父の本棚のものを読んで吸収していた。ある時期から渡部昇一とか小室直樹が増えたが、だからそういうものも結構読んではいる。しかし小林秀雄はなかった。

今思うと時代的には小林秀雄を読んでいても不思議はない世代なのにどうしてなのかなとは思うが、やはり趣味嗜好がそういう方向ではなかったということなんだなと思う。「小林秀雄の政治学」を読んでいて丸山眞男が小林を攻撃し、また小林も明示はしないが丸山に反論しているのを読んでいると、要は父は丸山の方向に未来の可能性を見ていたのだろうなと思う。全く同じではないにしても。

自分はそういうものを吸収しつつも、やはりそれだけでは足りないものを感じていて、感受性というかアート的なものの方に中学生の頃から惹かれていたこともあり、そういう意味では父とは違う方向に行くのだろうなという感じはあった。しかしロールモデルとしては結果的には結構父の進路を踏襲した面があり、高校の教師をしたり年長になってからも子供に教える仕事をしたりしていたりはする。

この本を読んでいると、少なくとも父と比較した時にこの辺に自分の独自性はあるんだなという気はする。その違い、つまり自分の独自性というものをアートの方向に求めたり、新しい方向に求めたり、イデオロギー的に違うものを求めたりというのが今までの試行錯誤ではあるのだけど、小林とこの小林論を読んでいると腑に落ちるところが多く、改めて小林をじっくりと読み直すことが自分の方向性をより確かなものにしていくのではないかと思えてきている。

何だかんだ言っても数十年生きてきているので、その間に歩いてきた道をもう一度見直しつつ、この先の道もちょっと考えておこうと思ったりした。


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