『日出処の天子』:人はみな孤独
Posted at 09/07/03
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昨日。仕事中に鉛筆を弄んでいたら右手の掌に突き刺してしまった。ちょうど生命線のど真ん中あたり。痛かった。というか今でも痛い。参った参った。
近くの高校の文化祭の、今リハーサルをやっているらしく、バンドの音が聞こえる。参ったなこりゃ。
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『日出処の天子』。7巻の厩戸王子と毛人の訣別の場面を何度も読み返す。厩戸王子は超人的な能力を持つが、それを補う力を毛人が持っている、ということを自覚していて、毛人にともに生きることを、つまりは自分を愛することを要求する。しかし毛人はそれを拒絶し、完全な力を持ってはならない、だから自分たちは一つになってはいけない、という。それは王子でなく布都姫を取る、という宣言なのだが、布都姫にしたところでこれは確かに王子が言うように「男である私から逃れるために探し出してきた手段に過ぎない」というのは読者の誰にも納得されるところだろう。(だからといって布都姫を愛してないわけではない、というのが毛人の造形で、そのあたり矛盾があるといえばある)そう主張する王子は実際には心と裏腹の弱気で、このあたりの描写はもう全面的に王子の側に思い入れてしまう。実際、こうした場面では相手の本当の心はわからないまま、自分が希望を持ったり弱気になったり絶望したりと激しく揺れ動くものだから、強い言葉で言いながら、「口に出してしまう言葉の何という空しさだ」と思ってしまう。この王子の、毛人に対するときについ心にもないことを言葉にしてしまったり、思っていることを口にすることでさらに傷ついたりしてしまう心の動きの描写が、刺すようにリアルだ。
王子の言う力は人間という器が持ってはならない力だ、という毛人に対し、「人間になぜそのような限界を強いるのだ。我々人間にはまだまだ計り知れぬ能力があるはずだ!それが神の領域であるはずがない」と王子は言う。しかし毛人は「何か一足飛びに飛び越えた大きすぎる力なのではありませんか。私にはその力を駆使したいなどという気持ちは微塵もありませんよ」という。
このあたりのところになると、この毛人の言うことの方が私には理解できなくなってくる。誰にも追随を許さない力があると分っていて、それを使いたくない、となるとそれはよくわからない。しかし、それは毛人が望んで駆使するものではなく、厩戸王子の意思の追従者になってしまうと毛人が考えているということだろうか。王子は、自ら大王になることを望んではいないが、毛人がそういうならなってもいい、というくらいには毛人にめろめろなのだが、そのあまりに純粋な想念のような愛を受け入れることを毛人はなぜか全力で拒否している。いやこのあたり、何と言うか、成り行きというか行きがかりというか、もうこうなってしまったら最後まで言わなければならないという感じで、どちらにとっても本当にいいのかどうか分らない結論に自分が主導して持っていってしまうことがよくあった私などにとっては心理としてはよく分るのだが、本当にそれでいいのかとも思う。
毛人は人間としての成長のため、自分たち二人では前に進むことができないという。懐かしいフレーズだ。今の若者もそんなことを言うのかな。でも何というか、毛人は二人の関係に共依存とでも言うべきものを感じていたのかもしれないと思う。王子といると自分が自分ではなくなってしまうし、王子もまた自分の初志を貫徹できなくなると。しかし毛人が無意識の世界にあるときは二人は限りなく完全に一体化することを王子は気づいていたし毛人も自覚させられた。しかし、意識としての毛人はそれを拒絶する。無意識に対し意志が勝利する。
「我々二人で高めあうことは充分できるはず。あの愚かな女どもが立ち入らぬ分それだけ高く。」と王子は言う。これは、よく小説やドラマで同性愛の孤高の芸術家などが口にする言葉だ。折口信夫なんかも言いそうな感じだ。しかし毛人はそれを強く否定する。「そんなはずはありません!この世は男と女の二つで成り立っているのです!あなたさまはその半分の種を見返らぬまま何かを成そうというのですか。人は行くところまで行き着いてはじめて完成するのです」王子でなく、布都姫と生きる道が見え、王子の「呪縛」が解けかかっている毛人はそのように強く言う。
「ならば私は取り残されるということか。私には進むべき別の道が見えぬもの。」女性を愛することができない王子は「やはり私は一人になるのだな」という。
毛人はその王子の孤独を、「人とはもともと一人…なのです」という。「人間はみな孤独だ。」これもまた青春の永遠のテーマだ。毛人がここまで深い人間に対する認識を持っている、ということがなんとなく納得できないものを感じなくもないが、王子に長く付き合い、また自分自身の不幸と幸福を繰り返す中でそうした認識にたどり着き、この王子との問答の中でそういう言葉として発せられたと考えられなくもない。
「王子のおっしゃっている愛とは、相手の総てをのみ込み、相手と自分と寸分たがわぬ何かにすることを指しているのです。元は同じではないかと言い張るあなたさまは、私を愛しているといいながらその実それは……あなた自身を愛しているのです。」
やはりこれは決定的なセリフだ。「私を愛しているといいながら、本当に愛しているのは自分(だけ)なのだ」と相手の愛をすら否定する残酷さ。この毛人がここまで残酷になれるということが愛の抜き差しならない深さを指してもいるわけで、そういう意味で、修羅場のセリフが残酷であればあるほど、その残酷なセリフは自分自身をも突き刺すのだし、その愛がいかに深かったかを表わしているのだとも思った。修羅場というのは何度やっても慣れるものではないし、仕舞いにはそれが面倒だから女性と付き合うのが面倒になるようなものでもあるのだが、愛というものはやはりそうしたものであって、それだけ深い恋愛をできたことを喜ぶべきなのではないかとも思った。恋愛というのは登山と一緒で危ないと思ったらその時点で引き返せ、とは『誰も寝てはならぬ』の名言だが、引き返すばかりでは頂上を極めることもできない、というものでもある。
もう一つこのセリフに何かを読むとしたら、「同性愛とは、結局自己愛、ナルシズムなのではないか?」という問いかけだ。少なくともこの王子の言う愛にはそれがないとはいえない。総ての同性愛がそうかどうかは私にはわからない。
帰ってきた王子は斑鳩宮を尋ねて来た刀自古に総てをぶちまける。泣いて帰る刀自己を追い出し夢殿に篭る王子の前に仏が現れる。「おかしなときに見えてくるものだな。そなたに頼りたいなどと今はもう思いもしないというのに。・・・え?では今まで仏に頼っていたように聞こえるではないか。今までだって当てになどしていなかったはずだが……ふーんなるほど。自分でも自分を救えぬものの前に現れるというわけか?それにしてはそなたたちが何物をも救わぬのを私は見てきたぞ。よくわからんな。ずいぶんいっぱいでうるさいぐらいだ。ちょっとどけろ。」仏に包まれて鬱陶しくなった(笑)王子は夢殿から出ると、気の狂った乞食の少女に出会う。そしてこの少女を、王子は三番目の、そして性的な交渉を持つ唯一の妃とする。
女性を愛することのできない王子が、なぜこの少女とは性交渉を持つことが出来るのか。このあたりのところ、結局バイセクシュアルであったのか、普通の大人の女性でなければいいのか、男色者であり少女性愛者であるのか、よく分らなくなる。少女の目が母に似ている、というところを取り上げればある種の母子相姦ともとれる。でももちろんそんな定義は全く無意味だ、というのが正しいことだろう。形式的にはそういう疑問が出て来はするけれども、このあたりのところは突っ込んでも何も出てきそうな感じはない。この物語は結局は厩戸王子と蘇我毛人の愛の物語であり、総ての女性は脇役であって、書き込まれている度合いが違うのだ。
それよりもむしろ、王子はこの乞食の少女を妻としたということで、毛人の「この世は男と女の二つで成り立っているのです!あなたさまはその半分の種を見返らぬまま何かを成そうというのですか。」という問いかけにこたえたのだ、と思える。そして毛人と生きることを断念した王子が母である間人女王の目を持つ少女、つまりは王子の、現実の世界ではなく無意識下に広がる広漠とした世界において真に一体化できる存在をようやく手に入れた、ということでもある。毛人はその選択について、「(わたしがつっぱねた)王子が真に欲するところのものがこんな形で現れようとは。それほどあなたの傷は深く痛ましい!本来あなたの青春の行く手は無限の可能性ときらめきに満ちていたはずだ。それをあなたはあの少女との黄泉にも似た道を歩んでゆかれるのですね。……今私たちは相容れないそれぞれの道を歩み出しているのですね。もはや永久に交わることのない道を…」と感じている。
このあたりのところ、作者が明示しているわけではないので自分がこう読んだ、としかいえないが、やはり仏の配剤によってこの少女が厩戸王子の前に現れ、王子もその意味を悟った、と考えるしかないだろうと思う。この少女が無意識界でどんな世界を持っているのか、そのことについては何も語られていないので全くわからない。しかし、王子は少女に、「無駄なことだと分っていて、それでも私は活きてゆく。ちょうど仏が何者をも救わぬとわかっていながらなおかつ仏の姿をかいま見るように。いやかいま見るのではなく見ざるを得ないのだ。見ざるを得ないというその気持ち自体がもはや”救い”ということなのか?それが仏を信じるということなのか?どう思う?」と問いかける。
この問いの意味は何だろう。答えが返って来ないとわかっていて問い掛けているのか、それとも魂の深いところでいずれ答えが返ってくるとわかっていて問い掛けているのか。王子はそれに自分で答え、「ふふ 難しすぎたかな」という。難しいも何も、どんな明晰な頭脳の持ち主に聞いても、おいそれと答えることがあたわない問いであろう。この少女の存在が最後に謎として残されている。この終わり方は嫌いではない。
そしてもう一つ大きなことは、女性のいなかった斑鳩宮に、この気が狂っているとは言えれっきとした王子の妻が住み着くようになったことだ。斑鳩宮は女性嫌いの王子が営んだ宮であり、舎人の淡水と調子麻呂、天才少年トリの三人だけが住む、この作品の中で一番BL的な、そして王子にとって、また女性に絶望しかけたときの毛人にとってもっとも心安らぐ場所であった。その場所にこの少女が住み着くことで、その世界もまた終焉した。
調子麻呂「どうしてこういう事になったのだろう」
淡水「あの方がそう望むのに何の文句があるというのだ」
調子麻呂「淡水そなた平気なのか」
トリ「平気じゃないやい!あれっち認めないよあんなの。王子様らしくないやい。」
淡水「トリおまえ妬いてるんだろ。」
トリ「や妬いてなんか!」
夢殿の中から少女の嬌声が聞こえる。三人無言。
つまり王子は、すでに同性愛者ですらなくなったのだ。人はみな孤独。
推古女帝は王子を見て思う。「この王子はまた何か雰囲気が変わった。……まるでその身が何かに漂白されて縹渺たる様がむき出しになったような…とにかく今の私にはさらに手の届かない所にこの王子が行ってしまった気がする。」毛人と別離し、少女との道を歩き始めたことで、王子はさらに高みを目指して歩き始めた。そう解釈するしかないのだろう。聖徳太子は天翔けて天上に去ってしまった、というような伝説があった気がするが、この世との交渉を最小限に抑えながら、自らの道を行くことになったのだろう。
でありながら、現実の権力者としても離れ業を成し遂げる。最初の朝廷で隋との外交という新機軸を打ち出した王子に、蘇我馬子は王子の真意を悟る。この蘇我馬子というキャラクター、明らかに脇役でありながら非常に魅力的で、特にこの王子の真意を悟る場面が私は大好きだ。
馬子「ばか!朝廷に出向かぬおまえにはわからぬわ!いいや今日出廷していた群臣どもも何人が気づいたやら。朝廷の力がいきなり倍増したのだぞ!」
毛人「どういうことですそれは!?」
馬子「大王が二人になったからだ!……王子の位置はまるでそうだ!まるで王子がこの蘇我と取って代わったがごとくだ!」
唖然とする毛人。
馬子「なんということだ。……あの王子の目的は大王というお飾りではなかった。あの王子の目的は執政者になることだったのだ!名ではなく実を取ったのだ。」
この解釈は全くぞくぞくさせられた。聖徳太子は蘇我馬子の専横に苦しんだ、というのが伝統的な歴史解釈なわけだが、そうではなく丸で逆で、豪族の力を抑えるために自らは大王の位につかず執政者として朝廷(というか皇室だな)の権力を増すことを図ったというのだ。なるほど言われてみればそのとおりかもしれない。日本の権力というものはいつもそうで、天皇にしろ将軍にしろ権力を握り権威を確立したらその時点から権力者は執政の立場から離れ始め、中空の存在と化していく。ときおり権威が執政権を取り戻すときが訪れるが、基本的に日本の権力は常に中心が中空で、ある意味そういう状態の方が安定している。基本的に、日本は絶対主義的な権力体制とは無縁なのだ。
しかし、そうした権力の建て直しが時々行われ、その中でも最初の立て直しと考えられる飛鳥から奈良にかけての天皇絶対主義体制の確立の最初の試みが聖徳太子の執政権の掌握であった、というのは納得できる。豪族勢力を代表する蘇我と朝廷(というより皇室)を代表する勢力との拮抗は中大兄皇子による乙巳の変によって蘇我を打倒し、皇室の権威・権力の絶対性の確立に向かう。その際も、中大兄皇子は自らが天皇になることはなく、孝徳・斉明の両朝で執政権を握りつづけ、斉明天皇の死後も白村江の敗北があったとはいえ即位せずに称制を続ける。即位後は大友皇子と大海人皇子の対立が表面化するなど、やはり権力の空洞化が見られるわけで、その後も象徴存在となることではなく執政権を握ろうとする争いこそが日本史を作っていくと言っていい。そして象徴存在を冒すことは不敬であるが権力を握ること自体はそれなりに開かれている(もちろん範囲や自由度はその時代によって全然違うが)という体制が固定化されていった。これは日本という国の大きな特質だと思う。日本は常にさまざまなバランスの上に成り立ってきているのだ。
続編である「馬屋古王女」は上宮王家の崩壊を描いている。「気の狂った少女」=膳部美郎女との間に生まれた多くの子女たちの中には優れたもの、美しいもの、良いものもあり、また痴呆状態のものもある。そして総てを滅ぼす元凶となる馬屋古王女もある。ここにこの美郎女の底知れぬ精神性がさまざまな形で現れている、というのは、読みすぎではない、と思う。とは言っても、そこから先は私にはわからないことで、わからない巨大な部分があるからこそ、この物語の底知れなさがあることもまた確かだと思う。
桑田忠親『茶道の歴史』(講談社学術文庫、1987)ももうすぐ読み終わるのだが、その感想はまた改めて。
『日出処の天子』:生きている気がするように生きること
Posted at 09/07/02
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昨夜はずいぶん強い雨が降ったのだが、今朝は上がっている。でも、まだ曇ったままで、気温も上がっていない。もう7月だ。家の周りの草もだいぶ生えていて、少し刈らないといけないなと思っているのだが、なかなか時間がない。
今朝は5時に目がさめて、職場に置いてきたPCを取りに行き、帰りにモーニングを買ってきた。まずは今週のモーニングの感想から。
「社長島耕作」「道を踏み外した」八木取締役を巡って。自分を信頼してくれる人が回りにいない、「そういう人間はたぶん八木君だけじゃない。全国の至るところに同じようなサラリーマンがたくさんいると思う」。「OL進化論」ビューティー定食(笑)。「ビリーバット」急に紀元30年ごろのイェルサレムに。どういう展開だ?「ジャイアントキリング」ショートコーナーだったからオフサイドはないと思っていたのに。椿のドリブルによる突破はマラドーナを思わせる強さが出てきた。「エンゼルバンク」ベンチャーの社長。「チェーザレ」ウゴリーノの孫のグエルフィが出てきた。「神曲」に出てくるウゴリーノのエピソードとハインリヒ7世が関係あるとは。そこにダンテがこのエピソードを書いた意味があるという解釈。なるほど。ダンテ研究でそういう解釈が実際にあるのかどうかは知らないが、いずれにしてもよく勉強しているなあと思う。「とりぱん」辛さは味覚でなく痛覚で感じる。へええ。「N'sあおい」キャスター福光とその父脳外科医福光の過去のエピソード。過去のトラウマを武器に人を切るための権力を手に入れる。その悲しさと醜さ。そういうことをしなくてよかったと思う。「僕の小規模な生活」夫婦喧嘩。犬も食わんな。(笑)でもそれがネタになる作家。「クッキングパパ」夏の冷房の冷えの話。男は大丈夫だが女は、という話になっているが、私も冷房は苦手なのでちょっとそれは一面的だなあと思った。今週はなんとなく物足りないなあと思っていたのだが、最後に「誰も寝てはならぬ」がちゃんと掲載されていたので少しはおさまる。しかし猫カフェの女。まあこういうことだろうけど。(笑)「東京怪童」と「特上カバチ!」が休載。
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山岸涼子『日出処の天子』。考えてみると、いや考えれば考えるほど、「日出処の天子」という言葉は素晴らしい言葉だ。誇り高い。昇りつつある太陽と、いかなる大国に対しても独立対等の気概。わが国のナショナリズムの濫觴と言っていい。この言葉は7世紀初頭の、つまり1400年前の言葉でありながら、今でも私たちの胸を高ぶらせるものがある。この言葉を書いたのが聖徳太子であるのかどうか、それは確証はないけれども、そういう言葉を書く人間と気概が当時の日本列島の政権にあったということは確かだ。それは隋書に出てくる言葉であるだけに余計に価値がある。隋書もよくこうした記録を載せてくれたものだと思う。
この作品は1980年からの連載だった。現在のマンガと比べてみて感じることはいくつかある。モーニングの作品もそうだが、最近の面白いマンガはイラストレーションとして優れていると感じるものが多い。「日出処の天子」はもちろん各コマの描写は優れているけれども、イラストレーションという感じがしない。
むしろ、手塚治虫以来のマンガの伝統、つまり「映画的な手法」の方が目につく。マンガは絵画に憧れて始まったものではなく、映画に憧れて、少なくとも手塚とその影響下にあった人たちにとっては映画が本道・本歌のような存在だった。イラストレーションとしての性格が強くプッシュされたものは石森章太郎の『ジュン』などがある。考えてみると確かに石森はマンガに絵画的な性格を強く模索している面があった。「…」が多用されるのも彼に始まっているように思う。手塚のコマにはもっと緊張感があった。石森は内面を暗示的に描こうとしたり、象徴表現を使ったり、映画的な手法ももちろん使っているけれども、各コマの流れ方が手塚に比べるとずっと遅い。
話が違う方に行ったが、『日出処の天子』は映画を本歌とするセンスが色濃く残っている。少女マンガ的な手法が駆使されているので(たとえば何かを言われてはっとしたときに目の描写が細く繊細に、一目見た印象が白っぽくなり、額に縦線が入るなど)そちらの方に目が行ってしまうが、今のマンガに比べるとコマ割もシンプルだし大ゴマも少ないしイメージカットが少ない。つまり、無駄が少なく密度が濃い。もちろんイメージカットは一概に無駄といえるわけではないが、ストーリー展開を遅らせるものであることは確かだ。最近のマンガはすぐ何十巻という超大作になってしまうが、『日出処の天子』はこれだけの内容でありながら文庫本にして7巻だ。絵画やイラストレーションならばイメージカットがいくら多くてもおかしくないが、映画であればそればかりでは観客はひきつけられまい。そういう意味でその頃に比べて漫画というものが質が違ってきていることは確かだと思う。
テーマ的な問題で言えば、王子が女性を愛せず、男を愛するという設定は竹宮恵子の『風と木の詩』と同様の少年同性愛作品の濫觴といえるだろうけれども、当時はそうでなければいけない理由がかなりしつこく求められた時代だったから、その分そのあたりに対する説明も深いものになり、また描写はシンプルになっている。現代のBLはその抵抗が消えているのでお約束の世界になり、お手軽なものになっているが、同好の士のお楽しみという次元ですべての人を巻き込む力はない。それは妹との愛、インセスト・タブーにしても相当手の込んだ仕掛けをしているわけで、「妹萌え」が一つのジャンルになりおおせている現代とは違う。もちろん現代はそれだけ多様化の時代だといえばそれまでだが、やはりそれをお約束としてしまえばすべての人を巻き込む力は消えてしまう。「日出処の天子」は明らかに、誰が読んでも面白い、人によっては刺激の強すぎるものになっているが、それは「お約束」に流れている部分がストイックに最小限に抑えられていて、基本的に「その趣味の人」でなく「常識人」が読むものとちゃんと設定されているからだ。
現代のマンガ、いやマンガだけでなく多くのアート作品が弱いのはそこだろう。確かに隙間マーケットは昔と比べればはるかに大きく、それにアクセスする手段も比べ物にならないほど多い。まさに「ロングテール」の時代であり、そのことの意味は決して軽んじられるべきではないが、「常識人」に訴えかける力を持った作品がなかなかでて来なくなっている。
それは一つには、「多数派集団としての常識人」というものが崩れつつあるということと無縁ではない。テレビでもお化け的な視聴率を誇るような番組がなかなか出てこないということと無関係ではないだろう。それは、世代によって、「常識」の基準が変わってきているということもあるし、専門性や階級による「常識」の差も昔に比べて広がってきているということもある。「常識」が曖昧になってきているからそれにターゲットを絞りにくくなり、また絞ることの意味も薄れてきた、ということではあるだろう。
しかしそれだけ、フィクションがある一定の方向に社会を動かす可能性というものがあまり多くなくなってきたということでもある。「日出処の天子」を読んでみて思ったが、この作品は明らかにある方向に社会を動かしている。少年同性愛や妹萌えが(表現の世界でだが)市民権を得る方向に動かしたり、聖徳太子像の再検証もかなりインスパイヤしているように思う。「聖徳太子」でなく「厩戸皇子」という形で教科書に載せられるようになるなど80年代には考えられなかった。しかし、いまのBLや妹萌えの作品が、世代を超えて社会に広く影響を及ぼすとは考えにくい。ゲイや同性愛のカミングアウトが増え、またそれだけにそれに対する社会の許容性も上がっているとは思うが、そうした作品はまだまだ感覚的・欲望充足的な次元に留まっているように観察されるし人間的・精神的な深みに達したといえるものは少なくとも私は知らない。
そういう世界に留まらず、マンガ界全体を見てそういう方向の可能性を持った作家がいないわけではないと思う(『ランドリオール』には期待している)。
そういうものが出てこないのは商業マンガの構造的な問題なのか、それとももっと魂のレベルの問題なのか。『日出処の天子』の読後感が素晴らしいのは、毛人を失った厩戸王子がある意味さらに奇怪に変容しながら、それでもなお生への意志を全うしようとするところにある。「私はこの国を自分の思い通りに動かしてみせる。別に志があってのことではない…何か、何かしていないと…生きている気が…しないから。」これは、つまり実存主義だ。生への衝動だ。人は生きようと思うから生きるのだ。「面白きこともなき世を面白く」、だ。「住みなすものは心なりけり」などという道学的なことではなく、「させて見せるが心なりけり」という心意気である。未来に開かれたオープンエンドであるが、我々はすでに聖徳太子の推古朝の華やかな時代を知っている。希望に満ちたエンディングである。
そうした未来への希望というか、「生きている気がするために生きる」という強さが、現代には欠けているのだなと思う。「生きていなければならないから生きている」という消極性が世の中を覆っているから、「生きていなくてもいいよな」というあきらめに簡単に転化する。生きる力を生み出すような強さのある作品を、ほんとうは時代は求めているのだと思う。……と書いたが、実際には時代はまだまだ休息を、自己憐憫を、癒しを求めているのかもしれない。「生きている気がするために生きる」などというのは、まだまだ豊かさが拡大傾向にあり、バブルに向かっていた80年代の時代の空気であって、現代の若者のかたくなな心を開くには足りないものなのかもしれない。
しかし、表現はどんなに変わろうとも、きっかけが何であれ、「生きようとして生きる」積極性が復活しない限り、時代がいい方向に動いていくことはないだろう。アメリカにオバマ政権が生まれたのは、世界がその方向に動いているということだと私は思っているが、日本もその波に早く乗った方がいいと思うし、むしろ積極的に日本としての生き方、人類としての行き方を提案するような作品が出てきてほしいと思う。
村上春樹の『1Q84』はある意味そういう作品かもしれない。心の中にある愛する人をほんとうに求めると決意するまでがこの小説の隠れた主題だと受け取れば、「愛するために生きる」というテーゼが読んだ人の心の中に密かに残っていくだろう。それはたぶん、かなり重要なことだ。
しかしまだその動きは足りないし、もっと大きな波にしなければならない。マネーの洪水の後の荒れ野を、ふたたび開拓していかなければならないのが、現代という時代なのだと思う。再開拓の時代なのだ。
『日出処の天子』:推古朝の華やかさ、目に見えない部分の広さ、作家の業の深さ
Posted at 09/07/01
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山岸涼子『日出処の天子』(白泉社文庫)全7巻読了。7巻189ページ以降は続編とも言うべき「馬屋古女王」。「日出処の天子」は、厩戸王子が遣隋使の派遣の際の国書を起草している場面で終わる。「馬屋古女王」はその厩戸王子、すなわち聖徳太子が薨去されたときから始まり、そのもがりの宮でのエピソード、上宮王家すなわち聖徳太子家の滅亡を暗示する場面で終わる。もともと山背大兄王の一族が滅亡することは「日出処の天子」の中でも厩戸王子の夢=ヴィジョン(幻視)の中で繰り返しでてくる。だからこの掌編はやや蛇足のように思われたのだが、「日出処の天子」がある意味華やかな推古朝の開幕を告げるある意味希望に満ちた場面で終わることが、何か作者にし残したことを感じさせたのかもしれないと思う。
しかし大変な作品があったものだ。古代史のこのあたりのストーリーは大体頭にあったとはいえ、それをどのように描き出すかについては全く想像を超えている。それは当然なのだが、描かれたものはもはや古代史ロマンというような言葉で片付けられるものではなく、人間の業の深さや仏の救いの意味といった信じ難い深いところまで射程が延びている。岡野容子「陰陽師」にしても、この作品の構造がかなりの部分換骨奪胎されて使われている。厩戸にたかる下級霊のありさまなど、「陰陽師」や近藤ようこの中世ものによく出てくる場面に輪廻転生している場面がたくさんある。
聖徳太子が実は超能力者だった、というような設定としてよく語られるけれども、厩戸王子のやっていることは彼自身が言うように、「誰にでもできること」なのだと思う。その能力を伸ばせばの話であることはもちろんだが、車の運転が出来ることくらいには誰にでもできることで本来あるのかもしれないと思う。だから彼の感じている理不尽さとか孤独の深さというものは、感じ取れるものがあった。水木しげるが7巻の解説でシャーマンの三つの種類ということを言っていて、悪霊祓いのように霊がその人の中に入ってきて動かす場合、予言者のように外側で霊が手伝っている場合、霊がつかないけれども本人に何かを感じさせる場合、があるのだという。水木は自分が妖怪が好きで妖怪のことを書くことについて、誰かが手伝っている、と感じているのだそうだ。私はもちろん前の二つは全然縁がないが、三つ目のものは分らないでもない。目に見えなくてもあるものはあるし、目に見えてもそう意味のないものもある。
大事なのは、目に見えない部分をいかに感じ、いかに大切にするのかということなのだと思う。それは霊というとわからない感じがするが、何かの本質とでも言うべきもので、それは知性のみによってとらえられるものではないように思う。たとえば「権力」にも目に見える部分と見えない部分があり、目に見える部分だけを物にしようとしても目に見えない部分に振り回される。大切なものは目に見えない、というのは「星の王子様」のメッセージだが、目に見えるものと目に見えないものがあるのではなく、すべてのものには目に見える部分と目に見えない部分とがあるということなのではないか。このマンガの厩戸王子は誰にも見えない部分が見える力を持っていて、おそらくはそのことと深い関係があって普通の女性を愛することができない。それは母に疎まれた結果であるという形で提示はされているが、そんな単純なものとももはや感じられない。
人間にもやはり、目に見える部分と目に見えない部分がある。それをあえて隠そうとしている人間は策士として信用できないということになるが、あえて隠そうとしなくてもぜんぜん見えない大きな広がりを持つ人間というのはいるし、逆に目に見える部分からほとんど広がりのない人間もいる。人を知っていくということは、そういう目に見えない部分を知っていくということが面白いのだと思うが、それが誰でもそうなのかは分らない。それを「人間探求」と言ってもいいと思うが、それは今まで考えていた人間探求ということのイメージとは少し違う。けれどもその方がどうも私は面白い。
しかし山岸涼子は、発想の自由な飛躍を積み重ねて舞台を作って行き、とことん築き上げてから6~7巻になってものすごく本質的な部分に切り込んでいく。崇峻天皇暗殺という古代史の重大事件の中で厩戸王子と毛人の本質的な親和性とそれゆえの違和との象徴的存在である布都姫殺害とを重ね合わせていく手法はくらくらした。これは『ベルサイユの薔薇』だ。オスカルとアンドレの愛の成就とバスチーユ襲撃を重ね合わせた手法、もっと言えば二月革命の動乱と愛の行く末を重ねたりするフランス文学の手法を引いている。しかし史実とドラマのクライマックスをこのように重ねるのはやはり神をも恐れぬ所業だと感じてしまうなあ。でもそれをやってしまうからこそ、作家という存在は業が深いのだが。
厩戸王子にとって特別な存在である二人、母の間人女王と毛人の存在の意味が解きほぐされていくが、またそれでも余計なことは語られない。最後に狂った少女が厩戸王子の第三の妃になり、彼女だけが本当の彼の子どもたちを生むというのも最後までこのストーリーのテンションを下げず、それでいて大団円におさめるすごいストーリーだ。自らの一族の滅亡を知りながら、すべて無駄なことだと知りながら、厩戸王子は政治に熱中する。
「私には見える。遠い海の彼方で次々と船の沈む様が。あれは我々の隋へ向かう船であり、その逆に隋から戻ってくる船でもある。何千巻という経文が海底ヘ消えていく…そしてそれに書かれた文字の一つ一つが仏の姿になって海の中の水泡となって溶け去っていくのが見える。」
このイメージはすごい。厩戸王子は、気の狂った少女に向かって話しつづける。
「それでもわたしはやるだろう。隋へあてる書の出だしはこうだ。日出処の天子、書を日没処の天子へいたす…日出処というのはこの国のことだ。どうだいい表現だろう。今度は破ってはいかんぞ。そうだ、ちゃんとたたんで大事に持っていてくれ。」
この少女にだけは、何をいっても理解しているとは思われないこの少女にだけは厩戸王子はすべてを語る。しかしこれは、この少女の存在は何を言っても王子の意図も心も理解できはしない群臣や民衆たちの暗喩ではないかと思った。理解されなくても、すばらしいことをしつづけなければ生きている気がしない。そうした厩戸王子の、まさに業であって、唯一の理解者である毛人はそれとともに生きることを拒否した。その孤独の強さ。でもそういう道を歩き出そうとするその姿が、何か大きな希望のように思える。
推古朝はやはり日本古代史の最大の見せ場のひとつであり、それは推古女帝、蘇我馬子、聖徳太子という才気と胆力の溢れた個性の三頭政治の時代であって、理想主義の面において聖徳太子が明確なイニシアチブをとったことがその世界をきわめて華やかにしていることは確かだ。その古代史の構造を、こんな形で華やかに描き出した作品はほかにないだろう。
プロフィール
author:kous37
age:46
address:Tokyo,Japan
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