新しいインフラとして受け入れるための「インターネットの歴史」/陰謀論と「人を巻き込む力」:「愚かで勤勉な私たちは」/読書に対する欲望は一言では語りきれない

Posted at 24/10/22

10月22日(火)晴れ

今朝もいい天気だ。最低気温は6度、昨日ほどではないが冷えてはいる。ただ、昨夜からパジャマを冬用にしたので寝ている時に寒いということはなかった。これから数日は全国的には割と気温が高いようで、明日は最低気温が15度というからかなり季節外れだろう。明日は二十四節気の霜降。15度もあれば霜はおりそうもないが、最近の季節の変化はいきなりガクンとくることがよくあるから、冬の備えはしておかないといけないなとは思う。

昨日は午前中ブログを書いたあとマンガを読んで草刈り。裏の畑から山のところの草、というか木に絡んでいる蔓草を主に取って少しは見栄えを良くしたら、なんとなくいい散歩道みたいになった。まあ先祖からの土地があるから、こういうところをそうやって歩いたりする楽しみはせっかくだから味わうといいなあと思ったり。整備するのは大変なのだけど。

昼ごはんを食べてから作業場で図書の整理をしたりしたのだが、モバイルWi-Fiを持っていくのを忘れたのでウェブを使った管理は中途半端になった。マンガはかなりたくさん持ってはいるが、読みきれていない部分もあり、とはいえ書籍の積読よりはかなり少ないが、なるべくちゃんと読もうとは思っている。ついでに作業場の周りの草刈りも少しだけしたが、今日もう少しやろうと思っている。

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村井純「インターネット文明」第2章44ページまで。インターネットの始まりがパケット交換という概念で行われるデジタル通信技術を作ったARPANETと、共通のOSであるUNIXを作ることが始まった1969年で、いずれもその研究が大学で進められた(UNIX自体を作ったのはAT&Tのベル研究所)ということを、改めて確認した。そして1983年にTCP/IPというプロトコルが作られたことで二つの技術が合体し、インターネットが成立した、とのこと。そして1989年にWorldWideWebが作られ、現在のウェブができたという歴史を振り返っていた。普段はそういうことをすでに忘れてしまっているのだけど、自分もネットを始めた頃は最初はパソコン通信で、1994年ごろにはWindows3.1でウェブは見られなくはなかったが表示に異様に時間がかかったので使い物にはなっていなかった。1999年にWindows98のPCを買い、それからようやく現在のようなネット活動を始めた、という感じである。

私のような文系はどうしてもネット技術の良くない面のようなところにどうしても注目してしまうところがあるのだが、元々は当然ながら理系の技術であり、特に工学系、エンジニアの人たちが頑張って成り立たせてきた技術だということを忘れないようにしないといけないなと改めて思った。当たり前のようにあると忘れてしまうのだけど、すでに通信インフラとしてのネットはライフラインや交通網と同じくらい生活には欠かせないものになっていて、それらが膨大な技術の蓄積でできていることは覚えておくべきことだと思った。

インフラだからこそ工学系の人材=エンジニアが多数求められているわけで、他の生活系のインフラや図書館システムなど情報系のインフラとともに整備していくのは国家の責務になっているのだよなあと改めて思う。歴史の浅いインフラなのでともすると中高年層にはその重要性が見落とされがちではあるのだけど、より客観的公平に見ていくためにはこうして「インターネットの歴史」を読み解いていくこともまた一つ重要なことなんだろうと思った。

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私は自分の政治的立場として、いろいろ考えた末、というか自分の経験の中から自分なりの保守主義というスタンスを選んでいるわけなのだけど、実際にはある種理知的な保守主義者みたいな人は現実には多くなくて、生活的な側面から保守主義を支持する人たちや社会の「進歩」を進めなければいけないと考えて革新系野党を支持する人、あるいは極左や極右に走る人とさまざまな人がいる。

その中でも理解しにくいのはいわゆる「陰謀論」に影響されている人たちで、普通に考えればおかしいと思うようなことを信じていることが多い。その辺りのことをうまく作品化したと思われるのが「愚かで勤勉な私たちは」という作品で、ジャンプルーキーで公開されている。(全5話)

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最初は陰謀論にハマった姉を救うためにいろいろ妹が画策するのだが、それを断ち切られたことで生きる意味を見失った姉のために妹が陰謀論を再構築し、社会全体まで巻き込んでしまうというブラックなストーリーで、とても面白かった。

さまざまな思想が世界にはあるわけで、そのどれが自分にぴったりくるのかは、結局は自分でさまざまな思想を読んで自分なりに再構築していくしかないところはあるのだけど、そういう「自分のための思想」のようなものは、自分には訴求力があり納得できるものであっても、人を動かす力がどれだけあるかというと難しい。大半の人がその時々の政治や社会のあり方にどことない不満を持っているのは、もちろん全てが自分の思い通りに行くはずがないという意味で当然のことなのだが、やはり「そういうもの」「仕方ない」と思ったりするのが精々で、例えば選挙などで少しは自分の考えに近いと思われる政党に投票したりするくらいしか影響力を行使することは普通は難しいわけである。

しかしこの作品では妹が姉のために自分が全く信じてはいない陰謀論を作り出し、人々の暗い欲望にマッチする形でそれを巨大化させていき、協力者も得て収入化もできるようになって結果的に「姉を救う」ことになる、という展開になっている。

そうやって世の中を狂わせた結果がどうなるか、というところまでは描いてないのが一つのミソだと思うのだが、この話の範囲では主人公=妹が現実からしっぺ返しを受けることはない。

この話で面白いと思ったのは、つまりは陰謀論には「人を巻き込む力」があるということである。そして、自分が持っているようないわば穏健な思想には「人を巻き込む力」がない。元々はマルクス主義者だった太田竜が冷戦崩壊後エコロジーなどを経て陰謀論にたどり着くわけだけど、そうしたいわばトンデモの思想家がいまだに検討の対象にされているのは、彼がそれだけの影響力を現在にも残している、つまり彼の思想がそれなりの人々を巻き込み、日本の思想状況をそれなりに変えてしまう力を持った、ということになるわけである。

いずれにしても、今では普通の考え方である経済的な自由主義思想や万人は平等であるといった人権思想にしても、元々は一部の過激なトンデモ思想だったわけで、それが多くの人々を巻き込む力を発揮したからこそそれらの思想が現代世界で一つの主流思想になっているわけである。

だから陰謀論そのものよりも、陰謀論がなぜ力を持ち、人々に影響し、巻き込んでいくことができたのかということにおいては、どのような思想を持つ人にとっても重要な示唆がそこにはあるように思う。ファシズムやコミュニズムもまた現代では否定的に捉えられる思想ではあるが、その伝播力の強さは侮れないわけで、その辺りの研究はタブー視するべきではないだろうと思う。こうした陰謀論、特に有力な陰謀論が出てきたときにそれを論破し終息させるためにも、そういう研究は必要なのだろうと思った。

こういうのはおそらくある種のアーケティングの思想と重なるところもあるのではないかと思うのだが、より人間性に突っ込んだ部分と関連してくるとは思うので、慎重に扱うべきところはあるだろう。

いずれにしても「思想は正しいから拡散する」、というだけではないところは見ていかないといけないと思う。

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ネットを見ていたら読書に対する欲望、みたいなことが書いている人があって、自分はどうだろうと少し考えてみた。読書というものを一番貪るようにしたのは小中学生の頃と大学生の頃ではないかと思うが、その頃は本当いうものがあれば周りの条件などはあまり気にならなかった。ただ放課後の小学校の誰もいない図書室とか、上京後の誰も来ない自室で暗くなるまで本を読み耽る快楽のようなものは確かにあっただろうと思う。基本的には「一人であること」が大事で、電車の中なども「知っている人が誰もいない」状況だからこそ読書に集中できる、ということもある。小林よしのり「ゴーマニズム宣言」を読みながら山手線を2周したこともあった。

だからお洒落なブックカフェでコーヒーを飲みながら優雅な読書タイムを過ごす、みたいなのはやってみるのも面白いとは思うし、逆に今のように読書そのものに昔ほど集中しにくい感じが出てくると、一瞬集中が切れたときに再度取り掛かるまでのブレイクタイムがあらかじめ用意されているというのは、悪くはないとは思う。ただ喫茶店は基本的に無制限でいて良い場所ではないから、そういう意味で集中が続かなくなる、注文を追加すべきかとか、時間制ならあと何分かとか、そういうことが読書の集中の妨げになる感じはある。もともと短い時間を潰すのに喫茶店に入るという目的で、ついでに少しだけ読むという感じが自分のカフェにおける読書だなと思う。

カフェ一体型の書店みたいなものが最近はやっていて、松本に行ったときにも哲学書がそれなりに揃っていてコーヒーも飲めるし、穴蔵みたいにひとりになれる席もある、みたいな感じだったがあれは若いときならそれなりに面白い気はするが今ではそういうところで本を読みたいとはあまり思わない。書店に併設のカフェは基本的に本を読んでいる人が多いし、カフェとしての広々とした感じがあるからそちらは良いのだが、カフェと売り物の書棚が一体化したようなところは私には落ち着きが悪い感じがする。床屋の待合に置いてあるマンガや週刊誌なら皆乱雑に扱っているから割ときやすいが、売り物の横でコーヒーを飲むのはやはり落ち着かない。

私は書店に求めるのも基本的に自分が読みたい・書いたい本の品揃えであって、お洒落な本を読みたいわけではなくて「おっ」と思う本を探したいわけである。

小さい書店でそれをやるのはなかなか難しいとは思うが、ないわけではないので、そういう書店には頑張ってもらいたいのだが、往々にして次に行ってみると閉店していたりするので、なかなか厳しいなと思う。

本というものに対するフェチというのはあると思うのだけど、いつも大量の書籍をどこに置くか迷っている身としてはフェチなどと言ってられないところがあり、扱いやすくて丈夫な本棚に対する関心の方がどちらかというと強いなという気はする。

ただ本というものとの付き合いは物心ついた時から始まっているので、これからも大事にしていきたいとは思っている、という感じだろうか。本について書くのは思ったよりいろいろな思いが出てくるなと思ったので、また時間があるときに掘り下げられればと思う。

人はなぜ陰謀論にハマるのか:共産主義やファシズムの亜流でもなく陰謀論でもないオルタナティブな思想を求めて/村井純「インターネット文明」/急激な冷え込み

Posted at 24/10/21

10月21日(月)晴れ

今朝の今のところの最低気温は4.2度。4時半頃起きた時に布団を二枚がけにしているのになんか寒いな、気温が一桁になったのかなと思ってアプリを見たら驚いた。10月の下旬なのでこのくらいの気温は当地では当たり前なのだが、今までが暑すぎたので落差が激しい。昨日はなかなか動けずに結局草刈りの作業をしたのが午後になったのだが、今までなら汗だくでやっていたのだけど昨日は風が強かったせいもあって動いているのに寒くて、これは困ったなあと思っていた。適当にやれるところだけやって終わりにしたのだが、またやらないといけないなと思う。今朝は別の畑をやろうと思っているが、少し厚着も考えておこうと思う。

https://shueisha.online/articles/-/251830

昨日、上の陰謀論のリンクを読んでなんというかいろいろ考えてしまったのだが、陰謀論はともかく話が通じない人たちというのが特に野党、リベラルの支持者に増えているのがどうしてなのか、ということと重なってくるのだよなと思った。

そして、私も1995年まではなんとなく社会党支持で自民党に投票することはなかったから、自分はなぜ考えを変えたのかということを改めて考えてみた。

1995年というのは、阪神大震災とオウム真理教事件、主には地下鉄サリン事件があった年である。

その2年前の1993年に小沢一郎氏を中心に自民党が分裂し、非自民連立政権ができた。非自民非共産の寄り合い所帯はすぐ機能しなくなり、細川・羽田の両政権が潰れた後、連立から排除された左派社会党は自民・さきがけと連立を組んで戦後2回目の社会党首班の連立、村山政権が成立した。自民党との連立ということで社会党左派はそれまで認めなかった自衛隊を容認するなど大きな政策転換をしたわけだが、自民党が閣内にいるという安定感は非自民政権にはなかったので、ややマシなのではないか、と友人とも話していた記憶がある。

しかし正月明けに阪神大震災が発生すると、すぐにさまざまな綻びが目に入ってきた。救援体制の遅れ、兵庫県知事との連絡がつかないために自衛隊が出動できない、など初動態勢の遅れがかなり人的被害を拡大したことは明らかだと思われた。また、3月に発生した地下鉄サリン事件では、社会党の閣僚が宗教弾圧の汚名を恐れて右往左往する中、自民党の野中国家公安委員長が強権を奮って次々と関係者を逮捕していき、捜査を劇的に進展させた。社会党閣僚が、「やはり自民党は頼りになる」と言っていたというのを聞いて、なんとなく社会党を支持してきた意識がガラガラと崩れて行くのを感じたわけである。

社会党も戦後すぐには政権を取ったこともあるのだし、各国の、特にフランスなど社会党が政権を担当したことも多いわけだから、機器には機器で対応する能力は当然持っていると思っていたのだが、全然無能であるということが明らかになったわけである。これが自分が左翼支持をやめ、その後「保守」の立場にたどり着くまで、民族主義右翼から社民主義までさまざまな政治思想を支持対象に入れて考え始めるきっかけになった出来事だった。

自分はそれまでなんとなくリベラル、何となく社会党支持、何となく左翼の装う正義性が良いものだと考えていた感じだった。リベラルという言葉はどちらかというと保守より、右翼反動みたいなイメージさえ当時はあって、でもまああえてリベラルくらいにしとこうかな、みたいな感じではあったが、左翼バリバリの友人たちからは天皇制を支持していることもあったし自分の宗教は何かと言われたら「神道」と答えるくらいには意識はあったので、そういうところは批判されがちではあった。

https://x.com/masa_0083/status/1848016973130830061

https://x.com/masa_0083/status/1848019455923900698

このツイートを読んで私は阪神大震災を思い出し、また今回の能登地震の災害対応に対する訳の分からない多くの批判も思い出して、要はそういうことなのだなと思った。彼らは「日常性の維持」の意義を軽く考えているというか、それは当たり前に維持されるものだという信仰のようなものを持っているのである。

これはおそらく、1995年当時の自分にも当てはまったことで、横倒しになった高速道路の映像などをみながら「まだ自衛隊は出動していないのだろうか」と漠然と考えていたのだが、社会党首班の政権であるということが自衛隊出動へのネックになっているとは思ってもみなかった訳である。自衛隊が活躍してくれたら困る人たちが閣内にいる。それが災害対応のネックになっているとしたらこれほどふざけた話はない、と思った。一国を争う救助の場面でそんな政治的な損得を考えるような人たちに日本を任せるわけにはいかない、というのがやはりその時の気持ちとしては大きかったのだと思う。

そして、当たり前の話なのだが、左翼が批判している自民党支配の日本の日常というものが、どれだけ膨大なコストをかけて維持されているのか、そして日常復帰のためのシステムの脆弱さを、いかに自民党政権がリーダーシップをとって埋めてきたのか、ということを痛感させられたわけである。

そして「この日常性維持のための膨大な仕事量を維持するためにほとんどの国民が働いているのだ」、という事実に気づいた時は打ちのめされそうになった。

世の中を変えたい、よくしたいというのは簡単だが、現在曲がりなりにも構築されているそれらのシステムを維持しながらそれらを変えて行くのは並大抵のことではない。日常性は簡単に崩壊する。当たり前のことが当たり前にできるように、美しく優雅に水面を進む白鳥は水面下で足を動かし続けている、というのは日本社会そのもののたとえでもあるのだなと思ったのである。

「正常化バイアスが強い」というのはつまり、その「日常性を維持するためにかけられている膨大なコストを目にしたくない、耳にしたくない」ということなのだと思う。こんなのはできて当たり前だ、と言いたい。そしてそんな「普通の」ことしかできない自民党政権はダメだ、自分たちに任せればもっと良い日本ができるのに、というわけである。

つまり、自分たちは日常の「自民党支配」を壊したくて仕方ないのに、その日常がどれだけコストをかけて維持されてるものなのかまるで理解していない、ということなのだと思ったわけである。

これは石破茂氏が自民党総裁選で勝った時の市場の反応を思い出せばすぐわかるわけだが、日本経済の見かけの好調も、アベノミクス以来の成長政策が功を奏してきていたからそれなりの評価を得られていたのに、緊縮思考が強いと思われている石破氏が首相になることでそれが崩れると予想されたらあっという間にしじょうは離反するのである。

あるいは安全保障政策もそうだが、安倍政権・岸田政権と営々と築いてきた二国間防衛の網の目の整備による東アジア的な安全保障策と「自由で開かれたインド太平洋」の概念を「アジア版NATO」などという実現性皆無の概念を打ち出すことで相当アジア諸国の反感を買ったことは、防衛に強いと称する割には現実のキリキリする二国間交渉にほとんど関心を持ってこなかったことの表れなのであって、対中国の緊張が高まる中で安全保障政策が機能しているためにまだ何とか安定しているという日常性の維持への関心がやはり足りなかったのだろうと思う。

日本の政治は官僚が優秀だから政治家はどうでも日常は回るんだ、というのもある種の幻想であって、官僚の最たるものである裁判官が出向先でインサイダー取引に手を染めたり、官僚だけでは決してシステムは回っていない。当然ながら法システムを作る役目そのものは政治家=国会議員(Law Maker)の役割であって、AV規制法のような不適切な立法の例も見られるように国民がそれを監視していかなければならない点は大きいのだが、国会議員もまたリーダーシップを取ることで日常を動かすための大きな担い手であることは間違いないわけである。だからこそ兵庫県知事のパワハラ=不適切なリーダーシップがあれだけ問題になっているのであるから。

結局のところ、我々日本国民が築き上げてきたこの日本社会の日常というものを、維持して行くのか、アップデートして行くのか、について考えることは意味はあるのだが、日常を破壊して混乱の中で新しいものを作っていけば良い、みたいな危ういスクラップアンドビルドの思想を支持する人たちが少なからずいるということ、つまり「日本社会の日常が全体的に「うまくいっている」こと自体を不満に思っている人たち」というのはどうしてもいるということなわけである。

それは本人がその「うまくいっている日常」から疎外されている、典型的には氷河期世代の人たちなどは、不満を述べる正当性はあると思うし、また社会やネットなどの日常に関わるシステムの急激な進化・変化についていけない高齢者世代や、福祉に手厚い日本社会において将来の手厚さに期待できない若い世代、自己実現の夢を見させられて実際にはそう甘くないことに憤っている女性層、女性優遇に割りを食わされている特に若い男性の憤懣など、それぞれに不満があるのはまあどんなにうまくいっている社会でも当然あるわけである。

日常性を脱構築する、というフランス現代思想が一時人気があったわけだが、最近はほとんど聞かない。実際のところはそれを支持していた根拠であったマルクス主義が世界的に政治システムとして崩壊したことがその有効性を失わせているということなのだろうと思う。

そうなると、日常に不満を持つ人たちはどこに向かうのかといえば、結局は反原発、反ワクチン、エコロジー、ラジカルフェミニズムといった「敵はここにいる!」と示してくれるある種の陰謀論になってきてしまっている、ということなのだと思う。

つまり、社会への不満を吸収する思想がそれだけ貧困化しているということであり、これはそういう意味ではあまり良くないことだろうと思う。そういう「社会への不満を吸収する思想」は場合によっては本当に権力を獲得することもあるわけで、そうしたものがより真っ当なものとして組織された方がまだ良いだろうという気はする。

ただ、近代化以後、そうした「社会への不満を吸収する思想」として出てきた二つの有力な思想がマルクス主義とファシズムであったわけで、ファシズムは20世紀半ばには非合法化され、白人優越主義的右翼思想として残ってはいるが、懸念はあるけれどもまだ懸念の状態かなという気はする。マルクス主義の方は70年余りにわたる社会主義国家の実験として壮大に失敗したわけだが、権威主義国家を維持するためのシステムとしてはいまだに機能している部分があり、中国や北朝鮮などの一党独裁国家はいまだに妙脈を保ってはいる。しかしその実態が知れてくるにつれて、西側自由主義国家が目指すべき国家体制としては魅力を喪失したことは確かである。

そうした右翼的なファシズムにも左翼的な共産主義にも引っ掛からなくなった膨大な人々の不満が陰謀論に吸収されつつあるのだとしたら、これはやはり注目しておかなければならない現象であることは確かだろうと思うのである。

つまり、マルクス主義やファシズムの亜流ではなく、また陰謀論でもない人々の不満を吸収するような真っ当なオルタナティブの思想が出てくる必要があると思う、ということなのだと思う。

私自身はそれを保守主義だと考えてきたし、バークやオークショットなどのイギリス保守主義や明治国家以来の日本の近代化の伝統の肯定、日本文化の古くからの連続性の意義、天下の大勢論のような大和心(例えば和魂漢才)的な現実対応能力の伝統のようなところに価値を見出す思想構築が重要だと思ってきたのだが、まあそれはつまりは現状肯定に傾きすぎているということであまり魅力的に映らないのかなという気はしてきた。

今どういう思想が日本及び世界に必要とされているのかというのは、また改めて観察していかなければならないところはあるなと思うのだが、とりあえず今感じたり考えたり思ったりしていることをまとめて書き留めてみた。

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昨日はブログを書くのに11時半くらいまでかかり、それから少し草刈り機で草刈りをして、昼食、昼食後にさらに鎌で細かいところを刈り、午後はちょっと寝転がってスマホゲーム(最近Fruit Merge=スイカゲームにハマってしまっている)をやったりして、あまり本も読めていないしアニメも録画したのが溜まる一方なのだが、夕方出かけて夕食の買い物のついでに書店を覗いて本を見ていたら、村井純「インターネット文明」(岩波新書、2024)を見つけて立ち読みしているうちに、普段自分が相当依存してしまっているインターネットというものを一度客観的に見直してみるべきだという気がしてきて、買うことにした。

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やはりネットで自分の関心のあることだけを読んでいることでは得られない知見がいろいろあって、むしろこういうもの、実は自分の一番身近なものについてもっと知らないといけないなと思ったりしたのだった。この本の感想はまた書こうと思います。

読みかけの本もいくつかあるのだけど、読み続けるエネルギーが足りなくなってきたので、また全体を構築してから再度挑戦したいと思う。


何人もの自分が思うこと/「絢爛たるグランドセーヌ」コロナの記憶を残すことの意味/「ふつうの軽音部」42話が良い/陰謀論と資本主義のどん詰まり:全てを変えたい願望の侮れなさ

Posted at 24/10/20

10月20日(日)晴れ

最近なかなかブログを書けなくて、5時前に起きているのにもう10時になるのだが、それはなんというか自分の中に何人もの自分がいて、それぞれに思うことがあって、そのどれを書こうか検討してるうちに、さらに他の状況が起こって混乱する、みたいなことが繰り返されているからなのだよなと思う。

割と早めにこれで行くか、と落とし込めるとそのことを集中して書くのだけど、朝起きた時は昨日の状況とか考えたこと、読んだもの見たもの引っかかったこと、そういうのが寝起きの自分の中から湧き出してきて、何か一つに絞れないうちに混迷を深めて行く、みたいなことが最近は起こっている。

逆にいうと、これで行くぞという大きなものが自分の中にあればそれで行くのだけど、そういうものがないから中小のアイディアの戦国時代、みたいになってしまうのだよなと思う。書くことが決まっていると迷わないで済むのは良いのだけど、その間にもいろいろな自分の感じたことは溜まって行くわけで、やはりそれらも時々は整理したいという気持ちにはなるのだが、それが文章に結実しないうちに薄れ消え去って行くということもあり、なかなか相手が難しい。

昨日買ったのは「チャンピオンRED」だけなのだが、「絢爛たるグランドセーヌ」の第135話「明暗」を読んだ。月刊誌連載だからこの作品ももう11年以上続いているのだなと思うと驚く。

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前半部分はアビゲイル・ニコルズ直々の「眠れる森の美女」1幕のオーロラの独舞(ヴァリエーション)の指導。今は「もうすぐ16歳」というところだから日本で言えば高一の学年ということか。王女のデビュタント、すなわち「社交会へのお披露目」の踊りということは、アビー自身が奏(かなで)の存在を天下にアピールしたい、という意欲の現れなのだろうなと思わせる。

後半はキーラのコンテの振り付け。いきなりヴェルディの「怒りの日」か。今YouTubeで聞いてるけどこれか!という感じの曲。そして作品の題名が「シエナ1348」、つまり当時のヨーロッパの人口の3分の1が死んだと言われる黒死病が大流行した都市・年で、つまりはコロナのパンデミックに対する鬱憤のようなものを表現しようとした作品。それに対しダンサーの一人、アンバーは「今やること?お客さんはもっと明るいものを見たいんじゃないの?」と疑問を投げかける。

この辺り、もうみんな忘れたような感じになっているコロナの時期の苦い記憶を、ちゃんと作品として残しておこうとするCuvieさんの心意気がすごく感じられて、私はとても好きだなと思う。

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今朝読んだジャンププラスの「ふつうの軽音部」42話「輝く日々が曇る」もとても良かったのだが、なかなかひとことでは書ききれない部分があり、言葉がまとまってから書こうと思うのだが、まあそうやってまとまらないままバラバラになっていった思考というものは海の水のようにたくさんあって、自分が今考えている言葉になっている思考も生まれてからずっと溜まってきた大きな海の中の一滴にすぎないような感じもしてしまうなと思う。

一つだけ書いておくと、41話「輝く日々を想う」42話「輝く日々が曇る」に続いて43話は「輝く日々を走る」になっていて、このシリーズは主人公はとっちたちの話ではなく、たまき先輩を中心とする3年生の話なのだが、十分面白いというよりかなり突き刺さる話であって、最近2位以下になることが多かったジャンプラのアクセス数でも今回は今のところ1位で、コメント数もいつもながらかなり多い。だいぶ盛り上がったところでサブストーリーを挟んでくるのはある意味冒険だよなあと思うのだけど、それが成功しているのはすごいし、そしてこれがこれからのメインストーリーにどう関わってくるのか、さらに期待が膨らむ感じになっているなと思った。

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あともう一つ、備忘のためにも書いておこうと思うのだが、粟田英彦さんの陰謀論に関するインタビュー。最初何を言っているのかと思っていたが、太田竜が出てきてなるほど・・・という感じになった。共産主義が崩壊するどん詰まりの20世紀において、資本主義を批判しうるものとして生き残っているのは陰謀論だけだと。そう考えてみると確かに左右とも陰謀論が出てきているのと、特に左翼が余裕なく他者攻撃に走るようになっていることもある程度納得できる感じはある。陰謀論というのはある種の神経症というか、空想が暴走した産物だとは思うのだが、それがある程度社会で持て囃されるようになるにはそれ相応の背景があるということ自体は妥当だなとは思った。19世紀末のイギリスのオカルトの流行とか、幕末の「ええじゃないか」みたいなものはあるのだろう。

科学と民主主義の方向は定まった、と考えたのが20世紀末のフランシス・フクヤマ「歴史の終わり」だったわけだが、民族主義やアイデンティティ・ウォーズの高まりによってそれも怪しくなってきている。この資本主義と超リベラリズムの進展へのふさわしい処方箋は健全な保守主義だというのが私の考えではあるのだけど、よりラジカルな批判が必要だと考える人たちはいて、そのどん詰まりの妄想が陰謀論を招いているというのはある意味世界の見取り図としてはわかりやすいなと思った。

左翼の人たちを見ていると、安倍元首相の暗殺や今回の自民党本部へのテロ攻撃に対しても称賛している人たちが少なからずいるわけで、彼らは結局は暴力革命論を否定しきれなかった人たちなのだなと思うのだけど、陰謀論者と同じくらいは妄想的な革命願望がまだ昇華しきれていないのだろうなとは思う。

保守は基本的にある意味微温的な、というか常識的な思想なので、世の中を根本的にどうにかしたい、という人間世界の病のようなものへの処方箋にはなりにくいところがあるのだなと思う。とは言え陰謀論も妄想革命論も著しく妥当性を欠くと思われるので、別の意味でのラジカルな何かが保守の側にも必要なのかもしれないと思う。案外イスラエルの暴力を支持する欧米の保守の思いも、そういう暴力の昇華を期待する視線があるのかもしれないと思うが、アジアや第三世界を犠牲に自分たちの平和を保ってきた欧米が今まで反省の念を述べていたのがなんだったのかという気は改めてしてしまう。

日本をこの先主導して行く思想が何なのか、あるいは何であるべきなのかはまだよくわからないけれども、極東の島国の平和はなるべく守られて行くと良いなとは思っている。

まあこうして書いてみるとそれなりにいろいろあるわけで、あまり迷わずに備忘のためということを書いていけばいいのかなとは思った。

「少年のアビス」(ヤンジャン連載)最終18巻を読んだ。

Posted at 24/10/19

「少年のアビス」の最終巻を読んだ。連載で読んだときは何だこのラストと思って単行本を買うのをやめようかとすら思っていたのだけど、今回単行本で読んでいくつか重要なところを見落としていることに気が付いて評価が180度変わった。

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実際のところなぜ見落としていたのかという感じなのだけど、チャコが「出迎え私だけでよかった?」と聞くところ、「令児は来なくてよかったの?」と言ってることに気が付かなかったのだが、玄は「待たないでいいって言ったし、会いたくない」と言ってるところで突如としてこれは令児のことだと気が付いた。そして読み返してみると、祖母の葬式に来たチャコが玄からの手紙を令児に渡した時そこに「待たないでいい」という言葉が書いてあるのを確認して、なぜここを読み落としたんだろうと思った。

そして、玄に気づかれないようにチャコが手を振った相手は軽トラの運転席にいて、これが令児なんだということに気が付いた。令児は玄のことを忘れてなんかいなかったし会う気があるなら会おうとそこまで来ていたのだがチャコが「会わないって」と合図を送ったのでそのまま次のコマで軽トラは発進していなくなっている。玄の「だってあの女と暮らしてるんだろ?」というセリフで令児がナギと生きて暮らしているということが分かり、そしてそれが「篠岡さん」のところだ、というので納得感のあるラストになったと思った。

篠岡さんという人は多分実際に自分が合えば思想的に合うかどうかはわからないなと感じる人なのだが、このマンガには歪んだ大人ばかりしか出てこない中で、初めて出てきた「まともな大人」だったから、多分この人が救いになるならなるんだろうなとは思っていた。ラスト前のチャコとの再会も篠岡さんの手筈だったし、まあ「とめどなく漂流していく少年たちがまともな大人に救われる」というラストは「ぼくらのへんたい」などでもそうだったが最近のこういう話では一つのパターンとしてはあるし、まあこの作品に関してはとにかくまともな大人の存在そのものが救いなので、そういうラストで十分いいようには思った。

ただこれは一つ間違えると相当イヤミになる可能性はあるとは思うのだけど、「僕のヒーローアカデミア」なんかもそういうところはあったし、大人が少年たちに「頼ってくれ」とメッセージを送る、また送れるということは、多分悪いことではないんだろうと思う。そのうえで少年たちがいかにして自分の力で未来を切り開いていくかということは見たいとは思うのだけど。

これは割と不思議というか面白いと思うのだが、昔は「大人には頼らない」「大人は敵」というのが少年マンガの定番だったわけだけど、今は逆になってるのが大人が大人の役割を果たさねばと大人に対してのメッセージになっているならそれはそれでいいのだが、私などが読んでいるとどうも子供が囲い込まれているように見えてしまうのだよなあと思う。これは少子化が進んで子供を大人になるまでちゃんと見守って育てるみたいな社会として過保護な状態が強まっている感じがして、自分が子供だったら窮屈に感じるのではないかという気がしなくはない。子どもに「自由」と「保護」とどちらを与えるのか、ということで言えば昔は、というか私が子供から学生時代のころは圧倒的に「自由」を与えるのが模範だったようにおもうのだけど、いまは「保護」が本当に強く、どうもそのあたり、本当にそれでいいのかと思うところがある。

いや、それにしても「少年のアビス」、ラストで令児が「一緒に死のう」と言っていたナギに「あなたの名前が知りたい」ということで、「一緒に生きよう」という意味になるというところが、本当にいいなと思った。これも連載で読んだときにはどちらの意味になるのかわからなくてすごく中途半端だった。

今ようやく結論が出てすごく落ち着く感じがした。自分の中でいろいろが収まって、「すごくいい話だったな」と思う。本当に物語はラストによって全然印象が変わってくるのだが、連載継続が約束されていない週刊連載漫画にとって、納得できるラストシーンを用意することの難しさ、みたいなものはあるよなと思った。

自分の感覚では「ラストが捻じ曲げられた」と感じる作品はいくつかあって、「可哀想にね元気くん」などは本当にこれが書きたかったラストなのかなという気がしたのだけど、もちろん作者さんの本当の意図はわからない。「恋は雨上がりのように」もそうだったのだけど。

全体に、「田舎の閉塞した空気感」と「歪んだ人間関係」を描いた作品であるわけだけど、その解決という方向を考えるとどうしても左寄りの感じになってしまうのだよなあとは思った。ただまだこの作品、読めてないところが多くありそうなので、今回は現時点での感想ということにして、また読み直してからちゃんと書ければと思う。

ただある意味ありきたりの結末になった、と言えなくもない気はするのだけど、ありきたりでいけないということもないので、まあもう少し考えてからまた論じたいと思う。


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