「近代の呪い」を読んで(4):近代のもたらした「寄与」と「呪い」何を保守するのか。
Posted at 21/02/25
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渡辺京二「近代の呪い」読み終わった。ただ第4話「近代のふたつの呪い」とつけたり「大佛次郎のふたつの魂」のふたつがあるので、今日は第4話について書いてみたいと思う。
第4話は「近代のふたつの呪い」というテーマで、書名と最も関わりのある内容なのだけど、近代の良いところと問題点みたいなものを、普通考えられていることを相対化しながら重要なことについて指摘している、というスタイルで語っていて、この辺りの語りの面白さというのは学ぶべき点が多いなと思う。
ただ、知識が該博で示されている論点がそれぞれ面白いだけにちゃんと考え出すと結構キリがなくなってしまうところがあって、簡単に「まとめる」ことができないのも渡辺さんらしいところなんだろうなあと思ったり。
近代になって良かったこととして「自由・平等・人権」が一般に言われている、とした上でそれぞれの検討を行なっているわけだが、特に印象に残った話は一つは江戸時代の訴訟の話。
江戸時代は百姓町人が無権利状態だったかというと決してそんなことはなくて、むしろ恐らくは今よりはもっと盛んに「自らの権利のための闘争」に勤しんでいたことが語られている。大岡越前守の地方巧者(下級農政官僚)として活躍した田中丘隅の記録に百姓はすさまじきものであり、何かあるとすぐ公事(訴訟)・一揆(デモンストレーション)を行うとし、「百姓の公事は武士の軍戦なり」と書いているのだという。
岩波文庫にも入っている文化文政期の「世事見聞録」では些細なことでも訴え出ていたことが書かれているらしく、江戸時代中期には江戸には公事宿、訴訟のために江戸に出てきた百姓が泊まるための宿が二百軒もあり、書類の作成や助言など弁護士、というか代言人的な役割を担っていたのだという。これは面白いと思った。
また、身分制といっても固定されたものではなく、一応は支配階級であった武士にも御家人株を買うことで武士になった例が挙げられていて、勝海舟の曽祖父などが有名だが、勘定奉行や江戸町奉行になった根岸鎮衛の父も御家人株を買った百姓だった、ということが書かれている。
こうした身分上昇者の割合がどの程度だったのかはわからないが、フランスの法服貴族のように平民(ブルジョア)が貴族階級・統治者階級に成り上がった例も一定はあるわけで、身分と言っても絶対的なものではない、ということを強調されている。
この辺りのところは現代でも大事だなと思うのだが、やはり階級的流動性が強い方が社会の活力があるということなのだよな。百姓町人の出身でも何らかの手段で武士の仲間入りができたように、現代では例えば学歴を積み上げることで貧しい境遇から政治的指導者になることも可能なわけだから、そういうチャンネル、特に奨学金などのシステムを維持することは重要だと思う。
前近代でもそのように人権や平等がなかったといえばそういうことはない、という例としてこれらが挙げられているわけだけど、それでも近代になって圧倒的に良かったこととして挙げられるのが「衣食住における貧困を基本的に克服したこと」だとしていて、これは本当にそうだなと思う。個別具体的な問題はもちろん残っているし、特にここ10年余りはネカフェ難民などの問題が起こっているから完全というわけではないけれども、前近代の飢餓に比べれば違うことは確かだ。
しかしこのような近代においても二つの問題が残っていて、一つは国際間の経済競争の問題。日本が経済的に優位に立つということは自分自身の暮らしが豊かになることでもあり、国同士の争いが自分の生活に直結する以上、庶民までが他国に対抗意識を持ってしまい、国民国家の役割がさらに強化されてしまうというのを一つ目の「呪い」としてあげている。
まあそれはその通りで、またそれが国際間の移民の問題にもつながるわけだけど、私自身は国際間の移動が自由になる方向よりは祖国で十分自由に豊かに暮らしていけるように、つまりは国際間格差もできるだけ均してしていくように、先進国が協力していくことの方が重要ではないかと思っている。
もう一つの呪いは、「人間の作った世界」が全てだと思う傾向だ、ということで、これはとてもよくわかる。人間は自然の中で生きている存在であり、自然は人間に管理し切れるものではない。そして我々人間自身がいずれ死すべき存在であるにもかかわらず、その死も生も人間には完全にはコントロールできないのに、それが見失われているという問題だということだと思う。
「世界は人間によって作られたもの」「自然は人間が利用すべきもの」という傾向がどんどん強くなっているということは私自身も感じていて、「人間を知る」「社会を知る」「自然を知る」という方向ではなく、設計主義的・工学的・その方向への急進主義的な考え方がより強くなってきているように思う。
つまり世界の中で人間は夜郎自大的になってしまっているということだ。人間中心主義的に考えて人間が物理学的・生物学的基礎の上に立っていることを見落としている文系人や運動家は理系の人の笑い物にされがちだが、理系の人も技術で何でも解決できるという傾向があまり強くなりすぎると問題だと思うし、「死すべきものとしての人間」について考えるはずの文系の学問が「権威」や「神聖」「崇高」というものについて脱神話化を進めすぎて「敬意」「畏敬」「尊重」というものの意味が見失われていることが、現代においては大きな問題なのだと思う。
渡辺さんはそれらのことを「近代のもたらした寄与が呪いに転化するという一種のアイロニー」と表現しているけれども、まあどんなことでも良いことばかりではない、「一得あれば一失あり」なのだ、という平衡感覚が恐らくは重要なのだと思う。私が思う保守主義というのも、そういう平衡感覚に基づく部分が大きいと思う。
渡辺さんは慎ましやかに、現代における問題を指摘するところ、それに自分の思いを付け加えるところで抑えておられるが、どんなふうにしていけばこの先より世界は良くなるのか、そのあたりの渡辺さんなりの展望もお伺いしたいなあというふうには思った。
「近代の呪い」を読んで(3):「自由の専制」「恐怖なき徳は無力」という現代に受け継がれる革命家の「夢」
Posted at 21/02/24
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渡辺京二「近代の呪い」第3話「フランス革命再考」を読んだ。
私はフランス革命は専門的に研究した時期があったのだが、それからもう20年以上経ち、知見的にも新しいことが出てきているのと、研究をめぐる情勢、社会をめぐる情勢などもいろいろと変わり、また自分自身も考え方にかなりの変化や深化も起きていて、改めて渡辺さんの「まとめ」を読むと専門外の方であっても近代批判のフィールドがしっかりしている方の読みはかなり深いなと思うし、問題を的確に把握されているなあと思った。フランス革命の全体的なイメージをつかむためには、この講演はとてもいいと思うので、フランス革命やフランス近代史を学び始める一つの入門編として勧められる内容だなあと思った。
フランス革命は近代の成立のきっかけであり人権思想成立の画期であったと言う神話が成立していたわけだけど、特にフランソワ=フュレらによってその脱神話化が進められ、現在では当初「修正主義」だと批判を受けたフュレらが進めた研究の方向性が主流になっていて、より自由な研究が進められると共に、革命の暗黒面などもいろいろと研究が進んでいる。
歴史研究における脱神話化というのは日本でも南北朝・室町期の研究なども含めて色々な方面で進んでいて、ナチスの研究についても最近の研究動向を読んでかなりそれが進んでいることは感じた。
これらの研究は「修正主義」と言われることは多くはないけれども、もともと「修正主義」という言葉は社会主義革命を目指すマルクス主義者らによって体制内での議会闘争を通じて労働者の権利を実現していこうとする現実的・非暴力的な路線に対する罵倒として使われた言葉であり、革命ではなく議会内での漸進主義を取るならばその方向性は全て修正主義であるはずなのだ。
したがって本来、ナチスのジェノサイド=ホロコーストを否定するような議論を「歴史修正主義」というのは不当であり、「修正主義」という言葉にプラスの側面を見たい立場としてはその言い方はやめてほしいのだが、ホロコースト否定論者は自らの主張を「歴史修正主義」と称しているとの話もあり、左翼方面からの保守派による「神話の見直し」への批判に「歴史修正主義」という言葉が使われているのは大変残念な感じがする。
それはともかく、渡辺さんはバークの名前を出してはいないけれども、ほぼバークによるフランス革命批判と同じ方向での革命批判を述べておられるし、イギリスもドイツもフランス革命のような大規模な騒乱なしで近代国家を作ったことを考えると革命は不可欠なものではなかった、と述べられていて、保守主義の漸進主義の妥当性をも認めておられるのだなと思った。
革命批判の中心は二つ、ここは新しいことではないけれども強調しておくべきことだと思うので書いてみると、一つはロベスピエールら革命急進派のメンタリティは、「自由」とか「人権」などとはかけ離れたものだったということ。当時のモンターニュ派の独裁は「自由の専制」と称し、また彼らの政敵は「自由の敵」「人民の敵」とされて断頭台に送られたわけだが、「自由の専制」という言葉自体の矛盾が最も的確に表すように、「革命の方向性に反対するもの・批判するもの」に対しては自由も人権も認めていなかったわけである。
革命家たちを動かしたのは階級的利害(つまり好き勝手する自由)などではなく、「理性による人類改造の理念」であり、それを動かすのは例えばロベスピエールにとっては共和主義という新しい徳性の持ち主、「一切の利己心を捨てて全てを公共善の実現のために献身する」市民でなければならないという信念だったわけで、そうした市民による社会を何がなんでも実現しなければならない、そのためには自由の敵は排除しなければならない、「恐怖なき徳は無力である」としたわけだ。
このメンタリティはロシア革命にも、中国革命にも、あるいはナチスによる「国家社会主義革命」にも受け継がれたことは間違いない。そして現代のポリティカルコレクトネスやフェミニズムの主張者たち、ヴィーガンや太地の鯨漁を妨害する環境主義者たちにも受け継がれていて、「我々の正しい思想は皆に教育されなければならないしそれを受け入れられないものたちは排除されなければならない」となるわけである。フェミニストが当然のように「性犯罪者の断種」などを主張するのは、恐怖政治家のメンタリティの継承という側面と見ることはできるだろう。「恐怖なきポリコレは無力」なのだ。
二つ目はヴァンデ反乱について。西部の貧しい農民たちが革命政府への宣誓を拒否した貧しい司祭たちを中心に、革命政府による革命戦争への大規模な徴兵に反対して起こした反乱を、政府は反革命と位置付け、徹底的に弾圧し、「地獄部隊」と呼ばれた連隊を派遣して、現在なら確実にジェノサイドと言われる絶滅戦争を行なった。彼らはそれでも滅びずに、テルミドールの反動後にキリスト教=カトリック廃止の宗教政策から宗教的寛容さくに切り替え流ことによってようやく収束に向かい、最終的にはナポレオンのローマ教皇とのコンコルダート(政教和約)によって集結を迎えることになる。(この辺りは書いてあることではなく補足)
渡辺さんが強調しているのは、フランス革命こそが近代に何度も繰り返されてきたジェノサイドの先駆であるということであって、国民国家を成立させたということとジェノサイドの先駆になったということは確かに近代国家の成立と言えると述べられているわけだ。
こうした観点から言えば渡辺さんはかなり正統的な保守主義者と言えるんじゃないかなと思いながら読んでいたら、最後の締めとして「私は若い頃と同様、今でも自分が左翼であることに苦笑します」と言っていて、そうか自己意識としては左翼なんだなとへえっと思った。しかし、西部邁さんや香山健一さんもそうだが、代表的な保守主義者は左翼からの転向者が多いのもまた確かなので、その辺りとそういうメンタリティは本当はそんなに遠くないのではないかと思った。
渡辺さんによれば自分が左翼であると思うのは、「知識人による過去を否定した、新しい人間による新しい社会という理念がいかに危険な思い上がりであるか」を痛感するけれども、「民衆もまた心の奥深くで「すべてのものが新しく生まれ変わる弥勒の世」の実現を求めているのではないか」とも指摘し、こうした「夢」がなければ「この世にささやかな良きものをもたらす現実的な行動」もまた生まれないのではないか、と考える点で「夢」を否定できない、だから自分は左翼である、というわけだ。
この辺りは難しいけれども、自分という人間が「良い人間」を目指すことは大事なことだが、「すべての人間を自分が目指すのと同じ良い人間にしようとする」のは極めて危険だということなのだろう。バークも彼個人としては熱い理想主義に燃える人間だったけれども、すべての人の人格を改造しようとするような革命には強く反対した。ヨーロッパの保守主義は渡辺さんのいうような「大人の現実主義」に基づいたものだと言えなくはない。
しかし、アメリカの保守主義はまたそれとは全く違って、「それぞれのコミュニティがそれぞれのユートピアを目指す自由」みたいなものを主張していて、これもまだはっきりとはわからないけれども、その一つの答えになり得る可能性はあるのではないかという気はする。
左翼が結局は「自由の専制」を目指すことになるならそういう思想に私は与せないし、自分は左翼ではないなあとこれを読んで改めて思ったのだった。
「近代の呪い」を読んで(2):「近代批判」批判、「脱成長」批判、我々が保守すべきものは何か。
Posted at 21/02/23
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さて、「近代の呪い」いろいろ面白くて、第二章「西洋化としての近代」も色々と考えるべきテーマが投げかけられているのだけど、あまりよく頭が動かないので素描として書いておこうと思う。
この話の主たる主張は、「オリエンタリズムという概念化に対する批判」と「脱成長批判」ということではないかと思った。そして結論としては、「西欧近代」というものをただ批判したり、西欧の精神に対してアジアや日本の精神を対置しようというような考えが流行っているけれども、必要なのはそうではなくて、西欧近代というものを正当に評価し、そしてそれがもたらした現在というものをどう評価して、次の時代、次の思想につなげていくかということではないか、ということのように思った。
オリエンタリズムという概念により西欧近代を相対化したり、また資本主義の限界を主張して脱成長、そのバリエーションである環境主義(エコロジズム)を主張するのは、特に社会主義勢力が崩壊してのちのリベラル左派の一つの大きな勢力であり、またポリティカルコレクトネス・フェミニズム・LGBTQなどの文化闘争路線と並ぶ彼らの主張の大きな柱の一つな訳だけど、彼らがどの程度「敵」をちゃんとみているのかは割とどうなのだろうという感じかなと思う。
だから批判されているのはリベラル系の学問全体なのではないかと思うし、また脱成長やロハス生活を得意げに語るリベラル文化人、「世田谷自然派左翼」の皆さんにもその射程は届いているように思う。
こうした議論を読んでいると、アフガニスタンのことが思い浮かぶ。1979年にソ連が侵攻する前のアフガニスタンは、カブールを中心としてかなり西欧化が進んでいて、知識人たちは欧風の生活にも慣れ親しんでいた。ソ連が侵攻して敗退し、イスラム原理主義が強くなると、彼らの生活は一変し、伝統的な生活を強いられることになった。このあたりの苦しみが描かれているのが「カブールの燕たち」という作品なのだが、これは最近フランスでアニメ映画化もされているようだ。(作者はエジプト在住の作家なのだが、映画化したのはフランス人のようなので、その辺りのニュアンスの違いがどう表現されているのかはやや不安だ)
つまり、知識人たちは西欧風の人権思想、特に民族や宗教を超えて「個人」として生きることの可能性と喜びに目覚めながら、イスラム原理主義の支配下で前近代的な暮らしを強いられることを苦しみと感じるわけである。
そして知識人たちが西欧の夢、「人権や個人の自立や自由」を渇望して喘ぐ中で、タリバンやアルカイダはソ連やアメリカが放棄した武器や支持者たちから集めた資金で潤沢に購入した武器を使用してアフガニスタンを支配し、各地でテロを行い、飛行機をハイジャックしてワールドトレードセンターに突っ込んだわけである。
彼らは西欧近代の技術と資本主義体制をいわば利用して西欧近代に戦いを挑んでいるわけだ。そして彼らへの共鳴は今でも止んではいないわけで、フランスやベルギーで新戦力を盛んにリクルートしている。
またシリアに典型的にみられるようにロシアや中国の手を借りて軍事支配を強化し、またロシアや中国自身が公然たる国境変更や少数民族へのジェノサイド政策を実行していて、それらを抑止する力を西欧世界は失っている。
彼らはこうしたテロリズムに対しては関知せずにただ西欧近代批判・資本主義批判を繰り広げるだけで、ついにはドイツなどではアメリカ系の社会学系の学問や思想がテロリストにどのような資源を供給しているのかについての調査も始まりつつあるようだ。
トルコやイランなどにしてもそうだが、イスラム世界においても一度は西欧近代文明の価値観が受け入れられたことはあった。しかしそれが定着するには何かが足りなかった。そしてその反発は原理主義の台頭という形で盛んになっている。ロシアや中国で起こっていることも、基本的には同じ方向の何かなのかもしれない。
さて日本はどうなのか。日本は近代化し、もちろん江戸時代に戻ることはもうできないだろう。しかしこれからどこへいくのか、そのいく先は不分明だ。ここで行わなければならないのが、自分たちの過去を知ることだろう。江戸時代から、明治維新を経て近代が導入され、敗戦によってアメリカ的なシステムが導入された。そして平成に入ってからの経済敗戦によって多くの人が不況下にさらされ、少子高齢化などの問題にさらされているけれども、日本は英米とは違い外国からの衝撃を何度も受けているので、そこをどのように評価するのかは難しいとしても、我々が守っていくべき価値はなんなのかを考えて何を保守していくのかを見出していかなければならないのだと思う。
つまり、今やらなければならないのは、西欧近代を全面的に批判することではないし、ラディカルな原理主義で新たな時代を切り開こうとすることではないと思う。我々が生きてきた「現代=西欧近代の末期」をしっかりと見直して守るべきものはなんで改めていくべきものはなんなのかを見極めて変化に対応していくこと、つまりは保守主義的なスタンスなのではないかと思う。
この方向から考えると確かに日本は保守主義を成立させるのに色々な困難が伴う国ではあるのだけど、その先にしか未来はないのではないかと私には思えた。
この章から読み取るべきことは他にもあると思うのだけど、とりあえず今のところはこれで。
「近代の呪い」を読んで(1):国家・システムによる民衆・個人の「自立性の消失」と「保守主義」について
Posted at 21/02/22
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「保守主義とは何か」を読んで、自分にとって「保守主義」について考えることはとても面白く、自分が何か仕事というものを残せるとしたらこういう話についてではないかと思い出して、保守主義関係の本を少し集めたりしているのだが、元々自分の気質としてあっちこっちにいきながらも大きな道に帰って来たいというような、つまりは「放蕩息子の帰還」みたいなところが自分にもあるのかなという感じがあり、ただ帰ってくるべき保守思想みたいなものは未だ日本では確立されてない感じがあるから、その辺については地図を書きながら色々なものを読み、ものを考え、発信しつつ、知見を広げ、考えを進めて、生きてるうちには何かしっかりした書物のようなものにまとめられるといいかなという感じがしている。
保守主義の母国は宇野重規さんのいうようにイギリスで、それが今日世界的な影響力を持つようになったのはアメリカの保守主義の力が大きいわけだけど、イギリスでいうところの保守主義とアメリカでいうところの保守主義は結構違うところがあるし、それはフランスにおける保守主義や、もちろん日本における保守主義とも違うところがある。
ロシアやドイツ、中国などのように全体主義を経験した社会における保守主義がどういうものであるか、というか中国に保守主義というものが存在し得るのかという問題もあるが、日本の保守主義というものを考える上で伝統というものは避けて通れず、またそれは江戸時代以前の前近代との関わりを考えなければあまり意味がないので、その辺について今考えるには、まずは渡辺京二さんの本を読むことだなと思って、「近代の呪い」(平凡社新書、2013)を読み始めた。
これは熊本大学における講演を中心にまとめたもののようで、講演が行われたのが2010-11年、それから10年経って状況が変わったところもますます進んでいるところもあるが、基本的には「現代」に属する時間の中で話された内容ということになる。
今日は「第一話 近代と国民国家 ー自立的民衆世界が消えた」について読んだこと、考えたことについて書いてみたい。
日本史は近世(江戸時代)と近代(明治以降)、西洋史ではアーリーモダン(ルネサンス以降)とモダンプロパー(フランス革命以後)に分かれるけれども、いずれも19世紀以後の近代の本質は何かというと、国民国家の形成ではないかという。そして国民国家の形成の本質は何かというと、「自立した民衆世界の解体」ではないかと渡辺さんはいう。
江戸時代の例として戊辰戦争で会津藩の戦いの中で敗戦した武士たちから鎧を剥ぎ取った農民たちの話は「自由党史」にも出ていて板垣退助がショックを受けたことは有名だが、下関戦争の際も長州の民衆は外国艦隊の弾運びをした話があるそうだ。また、長谷川伸の「足尾久兵衛の懺悔」という聞書に基づいて書かれたと思われる作品に、博徒の久兵衛たちにとっては安政の大獄も「とうまる籠騒動」にすぎず、幕末維新の大騒動も自分たちにとっては関係のない話だったという述懐が取り上げられていて、つまりは江戸時代の民衆は「自立した民衆世界」の中で生きていて、上級権力とは無縁の生き方をしていた、とする。
それが日露戦争の時には国家のために進んで死ぬ兵士の力でついにロシアを打ち破り、その出征風景を辛亥革命の闘志だった中国人の女性、秋瑾がみて感動するまでになったと。つまりはわずか数十年の間に「民衆」は「国民」になり、近代国家の手によって「自立した民衆世界」は解体された、としている。
そしてその「解体度合い」はさらに高まっていて、現代では教育にしても人権にしても福祉にしても国家がなけれれば成り立たないようになっていて、それを支えるために「近代的な知識人」が養成され、多くの「専門的知識」を持った知識人たちが「無知蒙昧な」民衆を教育・啓蒙し、ついには「国民国家・近代国家」と運命を重ねざるを得ない、つまり近代国家がなければ生きていけないし、ある意味近代国家のために生きている「国民」として生きるようになった、としている。
それを支えている「知識人=インテリゲンツィア」は「社会に対する道徳的責務を自覚する人」という特性を持っているとしている。この辺はとてもよくわかるし、Twitterを見ていても無知蒙昧なTwitter民に色々ご高説をご教授してくれる有難い存在であるし、また自分もそういうところがないかと言えばなくはないわけなので、ああつまりは私は「近代的知識人」の一員なのだなと思う。逆に言えば、官僚なり学者なり医師なり自分の職務上そういうものを「演じなければならない」とは違って、無意識に自分の存在をそのように規定している私などの方がかなりの具合で病膏肓に入っていることは間違い無いだろうなと思う。これも業の一種だろう。
まあそれはともかく、近代の本質は「民衆世界の自立性の解体」にあり、「民衆を啓蒙して国家と運命を共にさせる」ために「知識人」が力を尽くすという構造自体はなるほどなと思ったし、また渡辺さん自身はそういう国家の過保護からなるべく自立していたいという思いを持っている、というのはなるほどなと思った。これもまた「医療システムに自分が強制される」のではなく「自分が医療システムを選び取る」ようにしたいと思っている私などにはよくわかる。まあ新型コロナの予防策や終息に対して国家・社会が遂行しようとしているマスク着用やワクチン接種には「協力」はしようと思っているけれども、あくまで「強制ではなく自分の選択として」それをやりたいという程度の自立性は維持したいと思っているわけだ。
この辺りのところ、「江戸時代の民衆世界の自立性」に関しては、「十八史略」に出てくる「鼓腹撃壌」のエピソードを思い起こさせる。民衆を徳化(つまり啓蒙)しようとする儒家のいわば近代主義を批判する道家の「無為自然」を強調するエピソードであると判断すると、これが現代の高校教育の漢文でも取り上げられているということは、日本現代にもある意味で「民衆世界の自立性」を良しとする思想、少なくともノスタルジーがあると判断できる。
また、国家や「知識人」の「民衆」に対する役割がどんどん大きくなって、福祉政策や人権に対しても「知識人」の主張が国家に取り入れられ、それが政策化して民衆に押し付けられていくことの窮屈さは、「ポリティカルコレクトネス」の主張や「フェミニスト」の手による「表現を規制しようという動き」に強く現れているから、Twitter上などでも「自由・自立性」を重視する人々によって盛んに議論されているが、「クレジットカードの決済会社が成人向け同人誌の決済を行わない」という動きによって「同人詩的表現」が兵糧攻めに合うという事態が現れるに及んで、国家外のシステムである「民間会社による事実上の表現規制」が行われるという新しい事態も起こって来ている。これに関しては、ドイツのメルケル首相がTwitter社などアメリカの大手SNSがトランプ大統領のアカウントを削除したことに強く懸念を示し、「国家以外のシステムが表現を規制することは認められない」というコメントを出している。
逆に言えば「民間が民間を規制する」「民間同士が殴り合う」というのは前近代なのかポストモダンなのかわからない事態ではあるが、「啓蒙的知識人」の影響力によってそれが行われているというのはやはり近代以降の現象と考えるべきなのだと思う。
システムからの個人の自立に関しては、Twitter上でfinalventさんが書いていたのだが、「私の幸福に承認は不要です」という言葉がこうした国家やシステムの「庇護」からの自立の宣言ではあるわけだけど、たとえばディケンズには「福祉に捕まることを恐れて放浪の旅に出たおばあさん」の話があって、モダンプロパーの初期にもやはりそうしたものからの自立をこういう形で成し遂げたいと考えた人がいたということがわかる。
さて、それでそういうわけで渡辺さんのいうことは渡辺さんのいうこととしてよくわかるのだけど、それでは渡辺さんの考え方は「保守主義」であるかどうかを考えてみる。「保守主義」は英米由来の考え方であることもあるのだけど、つまりは「自由」を価値とする。「民衆の自由」「個人の自由」というものと「民衆世界の自立」「個人の自立」というものが、どこまで重なりどこが違うのか、ということになる。
バークがフランス革命を強く否定したのは「伝統に基づかない抽象的な理念で国家を建設しようとすること」に対する反対だった。伝統とは何か、ということについてバークは「国家と暖炉と墓標と祭壇」を強調するのだが、それを考えると一見渡辺さんの考えとはかなりかけ離れているような感じがする。それを考えるために、まずこの言葉を日本の実態について当てはめて考えてみたいと思う。
まずは国家なのだが、江戸時代における民衆世界においての「国家」は多くの場合は日本ではなく「藩」であっただろう。その「藩」に対する民衆のフリーダムさを渡辺さんはあげていて、それはそれでそういう一面がなくはなかったと思うけれども、一方では版籍奉還や廃藩置県で藩主がその地を去って東京に行くことになった時、多くの藩で民衆が見送りに集まったり、場合によっては藩主を引き止めようとして一揆を起こすなど、強い反発があったりもした。渡辺さんの例に出て来た「長州」や「会津」は300余藩の中でもかなり特殊な藩であったことは確かだ。長州は藩士までが貧しかったことはよく知られているが、会津は藩士教育は行き届いていたように言われているけれども、大規模な一揆は起こっていて、かなりの強硬な支配が行われていた感もある。
また、足尾久兵衛に関しても博徒であるし、よく取り上げられる江戸の町人のフリーダムさも江戸のような大都会であるから、ということもあるだろうし、また「大菩薩峠」に出てくる非人の男女がその土地から去ってしまい、駒井能登守の側室になるがそれをきっかけに駒井も船頭に身を落とす、というような下りがあるけれども、中里介山も「こうした手合いはしがらみにとらわれないで自由だ」みたいなことを書いていて、やはり一般の常民、百姓たちがそんなに「国家・藩から自立した世界」を持っていたかというとそれはちょっと疑問だなという気がした。
実際には例えば新田開発などは藩主の許可を受け、藩主の花押入りのその許可状が権威となって実行された事業であることが普通であったと思われるし、(諏訪高島藩では少なくともそうだ)国家=藩との関わりが「完全に自立していた」と言えるかどうかはどうかなと思う。少なくともバークがいうくらいの国家の役割はあったのではないかという気がする。
また「暖炉」ということで言えば、日本では囲炉裏、近代は炬燵的なイメージがあるが、やはりそういうものを中心にした家族というものが重要性は持っていたと思う(トッドの研究に従えば家族類型に関しては違うが)し、墓標や祭壇に関しても寺や祭礼を中心とした村の結束のようなものがあって、それらを守ろうという運動は現代でも残っている。
違うのは「個人の自由」のイメージであるが、これは家族形態の違いとも関わるので、どれだけそこに力点を置くかは、突き詰めていけば当然問題になるのだけど、そこをある程度捨象して考えることで保守主義の共通した枠組みは描けるような気はする。
まずはそういう感じでこの本の第1章を読んでみた。特に「自立」と「自由」についてはいろいろ考えるべきことがあるのだが、とりあえずの読みと感想、考えたことのまとめとして書いておきたい。
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