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      <title>Feel in my bones</title>
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      <description>生活と読書と創作と。</description>
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         <title>iPhoneで聴けるスピーカー／ドヌーヴとバーキン／男の子はスポイルされている？／岡本太郎『自分の中に毒を持て』感想（２）／昨日気づいたこと</title>
         <description><![CDATA[【iPhoneで聴けるスピーカー／ドヌーヴとバーキン／男の子はスポイルされている？】

iPhoneで聴けるスピーカーを買おうと思ってアリオ北砂のノジマ電機に行ったのだが、どうも欲しいのがない。iPhoneを使っているうちにその設計思想みたいなものにすごく共鳴する部分が大きくなって、そのスマートでクールなデザインにあったスピーカーが欲しいと思ったのに、あったのは日本のメーカーのキッチュで可愛い系のものばかりで、どうも買う気がしなかった。結局イトーヨーカ堂で昼食の買い物だけして帰る。キットヤマダ電機も似たようなものだろうなと思い（本当は違うかもしれないけど）、銀座のアップルストアに行ってみることにした。

どうも気持ち的に調子がいまいちで出かけるのが遅くなってしまったのだけど、4時ごろ出かけて銀座へ。まずアップルストアに行っていろいろ探してみる。前から思っていたのだけど、この店舗はどこに何があるのかいまひとつよくわからない。スピーカーは二階の奥にあった。いくつかあったのだけど、私のiPhone4は白なので、白のもので探したのだけど、スピーカーは結局ボーズとJBLだった。ボーズの方が音はいいだろうと思ったのだけど重くて一応平気で持って帰ることが出来るものとも思い、結局ＪＢＬのOnStationMicroIIIというのを買った。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/JBL-ONSTATION-MICRO3-iPod%E7%94%A8%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC-ONSTATIONMICRO3WHTJ/dp/B0045EOYJA%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0045EOYJA" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/31a3HNDRP9L._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/JBL-ONSTATION-MICRO3-iPod%E7%94%A8%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC-ONSTATIONMICRO3WHTJ/dp/B0045EOYJA%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0045EOYJA" style="text-decoration:none;" target="_blank">JBL ONSTATION MICRO3 iPhone/iPod用スピーカー ホワイト ONSTATIONMICRO3WHTJ</a></td></tr><tr><td></td></tr><tr><td>JBL</td></tr></table>

使ってみた感想としては音はまあこんなもんだろうと思う。だいたい予想通り。アップルストアの方がamazonより値段が少し高かったな。でもなんというか、アップルストアで買い物をするというのは初体験だったのだけどなんだか面白かった。青いシャツ着たお姉さんにこれが欲しいといったらさくさくっとカード入れて画面にサインして名前とメアドを入力。領収書はＰＤＦでメアドに送られるそうな。欲しいといってから5分もかからなかっただろう。こういうのは面白いなと思った。

さて用事は済んだから教文館で本でも漁るかと思っていたら友人からメールがあって横浜で会うことにした。だいぶいろいろ話したのだけど、店を三軒梯子、二軒目のつばめグリルで焼き牡蠣を食べたけど、なんだか久しぶりだった。そのあと有隣堂で本を見て、PerfectStyleシリーズのカトリーヌ・ドヌーヴを買った。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/Catherine-Deneuve%E2%80%95perfect-Deneuve-%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B4-%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B4-Fashionista/dp/4123903258%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4123903258" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ACLAPHC0L._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/Catherine-Deneuve%E2%80%95perfect-Deneuve-%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B4-%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B4-Fashionista/dp/4123903258%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4123903258" style="text-decoration:none;" target="_blank">Catherine Deneuve―perfect style of Deneuve カトリーヌ・ドヌーヴ　パーフェクトスタイルオブドヌーヴ (MARBLE BOOKS Love Fashionista)</a></td></tr><tr><td></td></tr><tr><td>マーブルトロン</td></tr></table>

このシリーズはジェーン・バーキンを持ってるので比べながら立ち読みしているうちに閉店になってしまい、何か惹かれるものがあったので買ってみたのだけど、買って正解だった。ジェーン・バーキンはかっこよくて、すごく好きなのだが、カトリーヌ・ドヌーヴはオーラが違う。ジェーン・バーキンはナチュラルにかっこいい感じなんだけど、ドヌーヴは体型的にとかいろいろ問題がある感じなのにそれをパーフェクトに仕上げているその感じが凄い。バーキンはまねできるけど（いや、感じですよ）ドヌーヴはちょっと無理だなと思う。出来ないことを冷徹にどんどん削除して、できることを増やして行ってあれだけのオーラを身につけたんだろうなと思う。バーキンってちょっと地上に立ち寄った天使っぽいところがあるんだけど、ドヌーヴは凄い「人間」というか、筋金が入っている感じがする。バーキンは真似したいとおもいつつそう何度も見直してはいないんだけどドヌーヴはつい熟読してしまう。面白いなと思う。

家に帰ってからスピーカーをセットしていろいろ聴いてみたが、YouTubeで検索してAKB48を何曲か聞いてみてなんだか感動してしまって、Wikipediaで「ヘビーローテーション」と検索してみたら、じつは写真家の蜷川実花がAKBの初期からの大ファンで、ヘビロテのＰＶやジャケット撮影を担当し、深く関わってるということを知ってそうだったのかと思った。なんだかそういうことを聞くと好きになることを許可された感じがしてしまうところが私なんだけど、誰がなんと言おうといいものはいいんだがやっぱりこの人も好きなんだ、と思ったほうが安心するんだなと思った。私の姪が小学5年生ですごくAKBが好きで、ああ、今の小学生には昔のピンクレディーみたいなものなんだなと思ったことがあった。でも曲にしてもいろいろな企画にしても、本当に老練に作られていて、70年代に始まったアイドル文化がいかに深く成熟しているかということを強く感じるのだが、これは受験文化の深まりと成熟によってものすごく懇切丁寧で分かりやすい参考書や勉強システムが作られているのと同じことで、もし自分たちの10代後半にこういうものがあったらものすごく勉強できたのにな、あるいは熱中しただろうなと思う一方、不便だからこそ燃えたという面、アイドルも芋っぽかったから熱中したという面もあるような気がした。

つまり今の若者はやっぱり甘やかされているというか、用意されすぎているというか、いろいろなことでスポイルされている面は凄くあるんじゃないかと思う。正直できすぎだよ、AKB48。いろいろ難のあるアイドルに敢えて没入して楽しむ醍醐味（？）みたいなものが軽くなってる。でも女の子たちにとっては凄くルールの分かりやすい戦いで、そこが吹奏楽部の猛特訓みたいなノリで泣いて笑って楽しいんじゃないかなと思う。恋愛禁止なんて凄い前時代的なルールだけど、敢えてそういう「ルールのあるゲーム」であることに意味があるんだよなと思う。AKBもファンの男の子の側からの論評は多いけど、ファンの女の子の側からの分析みたいなものもまた時代を映す鏡として面白いんじゃないかな。私の結論としては、男の子を甘やかして女の子を燃えさせるシステムだよなと基本思う。でもなんかいろいろなものが出てくるびっくり箱みたいな感じで面白い。

なんだかんだで横浜を出たのは11時を過ぎていて、帰り着いたのは12時を過ぎていたからそれからいろいろやったら寝たのは3時になってしまった。今朝起きたのは7時前だから4時間寝てないな。今日は帰郷してそのまま校正に入るからけっこうハードなんだけど。


【岡本太郎『自分の中に毒を持て』感想（２）】

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AB%E6%AF%92%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E2%80%9C%E5%B8%B8%E8%AD%98%E4%BA%BA%E9%96%93%E2%80%9D%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B-%E9%9D%92%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4413090101%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4413090101" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51FSEHVGFYL._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AB%E6%AF%92%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E2%80%9C%E5%B8%B8%E8%AD%98%E4%BA%BA%E9%96%93%E2%80%9D%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B-%E9%9D%92%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4413090101%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4413090101" style="text-decoration:none;" target="_blank">自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)</a></td></tr><tr><td>岡本太郎</td></tr><tr><td>青春出版社</td></tr></table>

いろいろ書きたいことがあるのであれなんだが岡本太郎の感想も最後まで書いておきたい。「美を創造するものと、それを受けとめるもの、芸術を中心とする人間関係だが、極言すれば、ぼくは、相互は同じ運命にあると思う。」この考えが岡本太郎らしくて凄いと思う。見る者を決して安全地帯には置かない。「一人が走り始める。人間の運命の矛盾の重圧を背負い込んだまま、そして生きる。それに触れ、感動するものはその重いバトンを全身で受け継いで、リレーするのだ。そして、さらに遠く走っていかなければならない。今度は彼の責任において。だから受け止める側も、大変辛いのである。」まったくそうだよなあと思う。

「いやな感じには猛一つ理由がある。芸術に触れるとき、相手の高みにまで踏み込んでいかなければならないからだ。日常の小賢しい自分のままで、ぬくぬくと座ったまま、つかめるはずがない。感動するということは背伸びを強要されることだ。」まったくその通りだなと思う。背伸びを強要される、その感じが芸術に触れる醍醐味なのだが、「精一杯背伸びしても間に合わない」「その絶望的な距離」を自覚させられ、忸怩たる思いに陥る。「しかしその足掻きの中にこそ、今まで自分の知らなかった新しい自分が出現してくるのだ」うーん。「美しい感動。だが不気味だ。」うひゃあ。うん、だからそこでたじろぐのはいいのだが、そこであきらめてしまっては意味がない。その絶望的な距離をどう越えるかが新たな人生の目標になるような作品こそが芸術として存在する価値があるものなんだと思う。だから人によって、評価するべきものは違うということになる。

「ぼくはここで一つ提言したい。……今この世界に必要なことは、芸術・政治・経済の三権分立である。……司法・立法・行政の相互不可侵というような技術的システムではなく、まったく新しい三つのオートのミーを確立すべきだ。」もうこうなってくるとやられたとしか言うほかなく、真の独走状態に入っている。「芸術は爆発だ」というのが岡本の一番人口に膾炙した言葉だが、彼はこれについてこういう。「一般に爆発というとドカンと大きな音が響いて、モノが飛び散り、周囲を破壊して、人々を血みどろにさせたり、イメージは不吉でおどろおどろしい。だが私の言う爆発はまったく違う。音もしない。モノも飛び散らない。全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッと開くこと。（！！！！！）それが爆発だ。人生は本来、瞬間瞬間に無償、無目的に爆発し続けるべきだ。いのちの本来のあり方だ。」そうだったのかという感じ。もう岡本太郎に対する世俗的なイメージは粉々だ、。

「子どものころから私は自分の胸の奥深いところに神聖な火が燃えているという、動かしがたい感覚を持っていた。それは誰にも冒させることの出来ない、絶対的な存在感なのだ。……思いつめ、息苦しさを紛らそうとして映画館に入ったこともある。今でもまざまざとその感覚が蘇ってくるが、暗い中でじいっと座席に身を沈めた。スクリーンに明滅するさまざまな映像。……胸を抑えて、自分のみのうち奥深いところに無言で燃えている炎だけを見据え、抱きしめた。あるとき、パッと目の前が開けた。……そうだ。おれは神聖な火炎を大事にして、守ろうとしている。大事にするから、弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突き飛ばせばいいのだ。炎はその瞬間に燃え上がり、後は無。――爆発するんだ。自分を認めさせようとか、この社会の中で自分がどういう役割を果たせるんだ等とか、いろいろ状況を考えたり、成果を計算したり、そういうことで自分を貫こうとしても無意味な袋小路に入ってしまう。今この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。」

この神聖な火と爆発のイメージ。

「芸術は呪術である」「呪術の目的的な役割だけが科学技術によって受け継がれ、拡大されている。もう一つの混沌と直結し、超越と対話する、人間存在の根源の神秘の力に通じる面は無価値のように顧みられない。それを今日生き返らせうるのは芸術であろう。」

これもその通りだと思う。目的に疎外された人間の生の全体性の回復。それは人間が職業だけに閉じ込められて社会システムの部品になってしまうことに反対する、という姿勢を明らかにしていて、もう本当に腑に落ちることばかりだ。

「ぼくが問題にしたいのは、人類全体が滅びるかという漠とした遠い想定よりも、いま現時点で人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうかということだ。」これもまったくその通りだなあと思う。

なんというかうなずきすぎて、そうだなと思うことが多すぎてまだ自分の思考が十分ついていってないんだなと書いていて思った。なんだか感想というよりメモ的になってしまったのはそのせいだ。


【昨日気づいたこと】

時間もないし隣のエレベーターの工事の騒音がうるさい。昨日友人と話していて気がついたことなど少し書こうと思ったのだが、さすがに集中しないと書けないので、また機会があったら。朝起きたときモーニングページにはかなり延々と書いたので、内容的にはまた書けるだろう。ただいまより考えが進んでしまうと今感じている心の火のようなものはまた様相を変えているかもしれないなとは思うけど、まあそれはそう言うものだと思う。

やあそれにしてもうるさいな。ドリル音が直撃してるよ。
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         <pubDate>Mon, 06 Feb 2012 11:09:45 +0900</pubDate>
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         <title>立春／岡本太郎『自分の中に毒を持て』読了（１）</title>
         <description><![CDATA[今日は立春。朝の最低気温はマイナス8度。昨日よりは暖かい。「袖ひぢて結べる水のこほれるを今朝吹く春の風やとくらむ」という感じだ。太陽暦で言えば新年。今年も素晴らしく実りある年になりますように。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AB%E6%AF%92%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E2%80%9C%E5%B8%B8%E8%AD%98%E4%BA%BA%E9%96%93%E2%80%9D%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B-%E9%9D%92%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4413090101%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4413090101" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51FSEHVGFYL._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AB%E6%AF%92%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E2%80%9C%E5%B8%B8%E8%AD%98%E4%BA%BA%E9%96%93%E2%80%9D%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B-%E9%9D%92%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4413090101%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4413090101" style="text-decoration:none;" target="_blank">自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)</a></td></tr><tr><td>岡本太郎</td></tr><tr><td>青春出版社</td></tr></table>

岡本太郎『自分の中に毒を持て』（青春文庫、1993）読了。岡本太郎の著作で読了できたのはこれが初めてじゃないかな。前にも書いたけど、ようやく読めるようになったんだと思う。読めるようになってみると何を読んでも面白くて仕方ないみたいな感じになってきた。この人本当に本質がわかってる人なんだなと思う。一度分かってみると、いちいち言ってることが腑に落ちるんだよなあ。ただそれは私が岡本太郎の生き方を少しは知っていたこと、父が岡本一平で母が岡本かの子だということも知ってること、彼の作品は好きでわりとよく見に行っていたこと、川崎や青山の岡本太郎美術館にも行っていたし、また彼の「布教者」である岡本敏子女史の活動も知っていたこと、なんかもそれぞれに寄与しているなと思う。もっとも、岡本敏子のとらえ方と私のとらえ方は必ずしも一緒とは言えないなと思うところもあるし、岡本敏子が言うことよりももっと先のところに岡本太郎のたましいはあるんじゃないかという気はする。

「恋愛というのは、相思相愛でないと成り立たないと、とかくみんな誤解しているんじゃないだろうか。それだけが必ずしも恋愛じゃない。たとえば片想いも立派な恋愛なんだ。相思相愛と一口に言うが、お互いが愛し合っていると言っても、その愛の度合いは必ずしも同じとは限らない。いや、どんな二人の場合だって、いつでも愛はどちらかの方が深く、切ない。つまり、男女関係というのアデリケートに見ていくと、いつでもどちらかの片想いなのだ。（！）哀しいことに、人間の業というか、運命的な落差。そこに複雑なドラマがある。」

このへん何か舌を巻く。恋愛は、男女関係は、結局はいつでもどちらかの片想いなんだ、という宣言。岡本太郎はすぐ何でも宣言するけれども、この宣言は雷鳴のようにどどおおおんと私の心に響いた。そうだ、そうだよな。そしてそれでいいんだ。

「たとえ、お互い愛し合っていても、さっきも言ったように愛の度合いが、同等のレベルだなんてことは有り得ないんだから、彼女がどう思おうと、自分は愛しているんだと強烈に感じれば、その時片想いは本当の恋愛になる。そうすれば、いろんな意味での価値の差によって怖気づくなんて、むなしさは感じなくなるだろう。」

恋愛したもの勝ち宣言。いやあ全くそうだと思う。まあでもそんな恋愛は多分自分はしてないな。多分もっとわがままな恋愛の仕方をしてた。相手をものにして、ものにしつくして、しつくしたら排出する、みたいな感じの方が近い。女は芸のこやし、みたいな。ひどい男だね。女の敵だ。リア充爆発しろ。（だからしちゃったのかな）だからむしろ、本当に大事な女には手を出さない、みたいなことになってたのかもしれないな。こっちが何かしてやれればいいんだ、見返りは求めない、というか求めないからこそ意味がある。自分勝手だが。ああ私は徹底的にわがままな人間だ。だから結婚生活も破綻するしずっと一人身なんだな。それが世のため人のためなんだろうなと思う。好き勝手に愛して、好き勝手にやめる、みたいなことばっかりやってたな。多分この年になっても、本質はあまり変わってないんだろうと思う。

「ぼくの場合は、どっちの方がより深く愛しているなんて特に意識したことはない。恋愛だって芸術だって、おなじだ。一体なんだ。全身をぶつけること。そこに素晴らしさがあると思う。」

私の場合は何と言うか、ひとをたぶらかす変な能力のようなものがあって、何かついそういうものを発揮してしまうところがある。ここ十数年はそのあたりが調子悪かったからいろいろ調子悪かったのだけど、どうもそのへんはだいぶ回復してきている。まあたぶらかすと言ったって誰でもたぶらかせるわけでもないし、得意分野と不得意分野ははっきりあるのだけど、まあそんな能力より恋愛したもの勝ちの姿勢の恐るべきパワーの方がすごいと思う。変に意中でない子を引っ掛けて面倒なことになるより、自分のものにしたい子に熱烈に片想いをしている方が人生としては充実しているだろう。感情的にはたいへんだけど、それが肯定的にとらえられるようになったら、勝ちだと思う。全身をぶつけること。そこに素晴らしさがある、ってわけだ。

「外見を飾ったり、持ち物に凝ったり、女の子にモテるからプレイボーイだとはいえない。まあ、それもまず第一段階かもしれないが、困ったことに大抵の場合、本当の中身ができていないから、かえって外見を飾り立てたがるんだ。そういう男はいわゆる”キザ”だ。」（ゲロゲロ）

「平安時代のプレイボーイは、性に命をかけることに、ロマンを持っていた。在原業平を知っているだろうか。天皇の女を盗んで、背におぶって逃げたんだ。」（あの話はそう解釈すべきだったんだ！目からウロコ。そんなの日常茶飯ってとらえたらロマンチシズムがなくなるな。確かに平安初期は雰囲気もっとストイックだ。頽廃してない。いのちがけってとらえるからこの話が輝くんだな。『神曲』に出て来るパオロとフランチェスカのようだ。）

「スピードにしてもセックスにしても、自分がそれに賭けて満たされるかというと決してそうではない。どちらも、永遠に満たされないものなんだ。その満たされないものに、それでもあきらめることなく自分を賭けていくのが、プレイボーイだ。つまり、ものすごいロマンチストだと言える。自分がものにした女性の数を誇ったりするのは野暮の骨頂。本当のプレイボーイじゃない。」（ご説ごもっとも。汗;;）

永遠に満たされないものに、それでもあきらめることなく自分を賭けていく。凄いなと思いつつ多分、自分も似たようなことをしているような気もしなくはない。

「ぼくは『今日の芸術』という著書の中で、芸術の三原則として次の三つの条件を上げた。芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。それが根本原則だ、と。……美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。…無意味だったり、恐ろしい、またゾッとするようなセンセーションであったりする。……「醜悪美」という言葉も立派に存在する。…ところが、「醜いきれいさ」なんてものはない。美の絶対感に対して、「きれい」はあくまで相対的な価値である。（なるほど！）つまり型にはまり、時代の基準にあっていなければならない。…「あら、きれいねえ」といわれるような絵は、相対的価値しかもっていない。…「いいわね」というのは、「どうでもいいわね」というのと同じことだ。……美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的に立ち現れる。」（きれい、うまい、ここちよいというのは人を安心させる要素だ。しかし安心させるだけに、消費されて終わりだ、ということになる。美というものは人を安心させるのではなく、挑発し、告発するものでなければならないということだな。私にとっても美しい絵というのは、いつでもついその絵について思い起こして考えてしまうような、安心して忘れられる絵ではない。たとえばロートレックの『マルセル』なんかがそれだ。）

まだいろいろ書きたいことはあるのだが、取りあえずまずこれくらいで更新しておこう。
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         <pubDate>Sat, 04 Feb 2012 14:35:48 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>わからなかったことが分かり、読めなかったものが読める／「自信なんてものは、どうでもいいじゃないか」</title>
         <description><![CDATA[私が今感じていることを文章にするのは難しい。というかこのことについて書くのはまだ時期尚早なのかもしれないが、とりあえず書いてみよう。

いまの実感は、今まで分からなかったことが日々分かるようになったことに気がつき、今まで読めなかった類の本が日々読めるようになっていることに気がついている、つまりそういう変化を感じている、と言えばいいだろうか。そういう私自身の変化を私は好ましく感じているし、戸惑っている部分もなくはないし、またちょっと怖い部分もないわけでもないのだけど、基本的には楽しく感じている。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/C%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88/dp/4880682489%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4880682489" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/error/404.gif" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/C%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88/dp/4880682489%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4880682489" style="text-decoration:none;" target="_blank">C・S・ルイスの秘密の国</a></td></tr><tr><td>アン・アーノット</td></tr><tr><td>すぐ書房</td></tr></table>

そういうことはいままでの一つ一つの変化の積み重ねの上に実った果実のようなものだと思うのだけど、そういうふうに自分を変えた――進歩させたと言っていいと思う――ものは日々いろいろあって、特に最近では昨日読んだＣ・Ｓ・ルイスの伝記が大きい。自分が『ナルニア国ものがたり』を通じてルイスの影響を強く受けていること、そしてこの物語に魅かれた自分の心理像がルイスの人としての成り立ちの過程ともかなり共通の光があるのだと自覚したことが大きい。そしてそのルイスが感じていた「美」というものの見方や、「神」というものと向き合う真摯な姿勢というものが、ルイスに自分を重ね合わせることによって自分の中にも入ってきて、それをどういうふうに受け取るのかという楽しい課題になっていて、それが自分の中にいろいろな変化をもたらしたのだと感じている。

おとといは校正を上げて印刷屋に渡してその疲れの中にいたのだが、昨日はルイスの伝記を読み終えてその感銘の中にいた。今朝も何か書こうと思っていたのだけどそういう気持ちにならず、ある種の幸福感の中の怠惰さというか、それを味わっていたいという余韻の中にいたことにあとで気がついた。

ちょうど下の部屋で工事が始まって少し騒音がすることもあって11時前に部屋を出て本屋を二軒回ったのだけど、たまたま出会った丸山健二『田舎暮らしに殺されない法』（朝日新聞出版、2008）を立ち読みしたら面白くて買ってしまった。以前だったらこんなネガティブな題の本は買う気にならなかったが、何というかそれも面白いんじゃないかという気持ちになって、また実際問題田舎での生活の大変さみたいなものがすごく自分も感じているものであったために面白いなあと思って買ってみたのだった。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E8%88%8E%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E6%B3%95-%E4%B8%B8%E5%B1%B1-%E5%81%A5%E4%BA%8C/dp/4022504404%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4022504404" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41cDOlWtw3L._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E8%88%8E%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E6%B3%95-%E4%B8%B8%E5%B1%B1-%E5%81%A5%E4%BA%8C/dp/4022504404%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4022504404" style="text-decoration:none;" target="_blank">田舎暮らしに殺されない法</a></td></tr><tr><td>丸山健二</td></tr><tr><td>朝日新聞出版</td></tr></table>

実際読んでると都会人が引退後田舎暮らしの夢を追って移住することの危険さについてこれでもかこれでもかと書いてあり、週の半分以上を田舎で暮らしている私自身にも感じられることが多くて面白くて仕方ない。「住めばまた浮世なりけりよそながら思ひしままの山里もがな」と吉田兼好も歌っているが、都会から見れば別世界に見える田舎も住んでみれば浮世そのもの。めんどくさくして仕方がないという面から言えば都会より遥かにめんどくさい。特に最近の異常気象や地震の頻発を考えると、都会の方がある意味ずっと安全、である場合が多いだろうと思う。都会で暮らしていると自然災害というものはほとんど意識しないが、田舎にいるとものすごい雷とかものすごい豪雨とかものすごい豪雪とかものすごい風とかそういうものは全然珍しくないわけだから。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AB%E6%AF%92%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E2%80%9C%E5%B8%B8%E8%AD%98%E4%BA%BA%E9%96%93%E2%80%9D%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B-%E9%9D%92%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4413090101%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4413090101" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51FSEHVGFYL._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AB%E6%AF%92%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E2%80%9C%E5%B8%B8%E8%AD%98%E4%BA%BA%E9%96%93%E2%80%9D%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B-%E9%9D%92%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4413090101%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4413090101" style="text-decoration:none;" target="_blank">自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)</a></td></tr><tr><td>岡本太郎</td></tr><tr><td>青春出版社</td></tr></table>

まあそういう本を買って帰ってきたらちょうど昼休みで工事も終わっていて、手元にあった岡本太郎『自分の中に毒を持て』（青春文庫、1993）を読んだのだが、今までどうもよくわからなかった岡本太郎の言葉が理解できるようになっていて、これも面白くなってどんどん読んでしまった。

特に面白いと思ったのは、「自信なんてどうでもいいじゃないか」という言葉だ。ひどく逆説的に聞こえるけれども、読み進めているとすごく深く納得できる。「自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。……そもそも自分を他と比べるから、自信などというものが問題になってくるのだ。我が人生、立と比較して自分を決めるなどという卑しいことはやらない。……ぼくは自分を始終、落ち込ませているんだ。徹底的に自分を追いつめ、…最低の条件に自分をつき落とす。そうすると逆にモリモリッと奮い立つ。……ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのがぼくの主義。……自分を殺す、そこから自分が強烈に生きるわけだ。それがほんとうに生きることなんだ。自信なんていうのは相対的価値観だ。……そうじゃなくて、人間は生死を超えた絶対感によって生きなければだめだ。」

いままでこういう言葉は正直言って全然入って来なかった。でもいま読むと、「最低の条件に自分をつき落とす。そうすると逆にモリモリッと奮い立つ」というような部分がすごく面白く感じられる。「自分はだめだ、だからやってやる」、という心の展開が面白いと感じられるようになったのは正直言って心境の変化としか言いようがない。

それでこれを読んでいるうちにジュリア・キャメロンの『ずっとやりたかったことをやりなさい』（The Artists's Way）の言葉の意味も急に分かってきたように感じた。キャメロンが言っていることも、他人の言葉に左右される自分とか、他人の価値観にあわせてしまう自分とか、そういう言わば「相対的価値観」から自分を解き放ち、自分がやりたいからやるんだという「絶対感」に基づいて行動できるようにするためのレッスンなわけだ。正直、それを実践した時はそこまで分かっていたわけではないのだけど、今ようやくそのレッスンの意味が理解できたように思う。人の言葉にとらわれてしまう自分を殺せ。自分の本心だけを道しるべに、犀の角のように一人歩め、みたいなことを言っているわけだ。おそらくは桜井章一の言っていることもかなり重なって来るのだと思う。

いろんな人がいろんな表現で同じことを言っていて、でもその関連とかがあまり見えてなかったのだけど、絶対感を持つ、ということですべては貫かれる気がする。その前ではすべての相対的なものは色褪せて見える。

まあ絶対の境地とよく言うけど、今までそれがどういうことなのか分かってなかったなと思う。絶対の境地に立つと人は自分が全然やれてないことを素直に認められるし、ダメだなあと笑ってられるようになるし、身を捨てて戦えるようになるし、人のことを思いやれるようにもなる。物事をこうやればいいんだという落とし所というか、人間が人為で無理に落とすのではなく、自然にそこにぽこっとはまるような場所が見えるようになる。いままで無理をしてなんか滑稽なことになっていたのが笑い話になるようになる。

ルイスの伝記を読んでいると、この人は本当に不器用な人だなあと思ってすごく憐憫を覚えるとともに、自分の不器用さとすごく重なって共感を感じてでもなおかつすごく滑稽さを感じていたのだけど、自分にもあるそういう滑稽さを笑える感じが出てきて面白いなと思った。

自信を持て、なんていうのは便宜上のことなんだな、と思う。自信持って大丈夫だよ、という励ましも、客観的に見れば相対的にけっこういい位置にいるよ、というだけのことであって、まあそれを足がかりにして本物の自信、というかプライドをつかんでくれればいいのだけど、まあそこに至るまではLong and winding roadだろう。まあとにかく前向きになるための動機づけ、前向きになって行動するためのきっかけとして使えるということで、本質的には絶対感を持たなければ人生の芯が入らないのだなと思う。でも面白いな。結局みんな同じことを言っているんだ。

最近思うのだけど、私は何と言うか、ファンタジー脳だなと思う。頭の中がゆるふわ系なのだ。現実というものをすごく牢獄のように感じてしまうのだけど、その辺すごくルイスに似ていると思う。まあファンタジー脳ならファンタジー脳なりの生き方というものがあるわけで、最近ちょっとはそういうことが分かってきたんじゃないかなという気がする。]]></description>
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         <pubDate>Thu, 02 Feb 2012 21:02:18 +0900</pubDate>
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         <title>人が物語を好むのは、人が心の中に闇を抱えて生きているからだ</title>
         <description><![CDATA[【人が物語を好むのは、人が心の中に闇を抱えて生きているからだ】

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/C%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88/dp/4880682489%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4880682489" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/error/404.gif" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/C%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88/dp/4880682489%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4880682489" style="text-decoration:none;" target="_blank">C・S・ルイスの秘密の国</a></td></tr><tr><td>アン・アーノット</td></tr><tr><td>すぐ書房</td></tr></table>

アン・アーノット『Ｃ．Ｓ．ルイスの秘密の国』（すぐ書房、1978）読了。前言撤回。面白い本だった。どうも最近日本では、最初のつかみばかりで読ませてしまう本ばかりが売れてしまうせいか、読んでいるうちにだんだん面白くなってくる本というのは読むのが大変になっている感じがする。この本もまさにそういう感じで、最初は本当にもう読むのをやめようかと思ったのだが、アマゾンの内容紹介で

「ナルニア国ものがたり」の作者ルイスは、幼いころ母を亡くし、妻の死を嘆くだけの父には見放され牢獄のような少年期を過ごした。そういう中で束の間の喜びを味わい、学者・作家としての人生を見つけた貴重な時期を描く。

とあったのを読み、「牢獄のような少年期」とか「つかの間の喜び」という言葉を読んで、私の少年時代と通じるものがあるのではないかという気がむらむらとして来て結局読むのを再開した。そしてある意味、その予想は当たっていた。

何度も書いているけれども、主に中学生時代、私は鬱屈した少年期を過ごしていて、本当に牢獄の中にいる気持ちで毎日を過ごしていた。ルイスにとってはそれが母の死後送り込まれた寄宿学校での生活の時期に当たるようで、そのあたりの「生活の闇」が心の中に織り込まれて「心の闇」になってしまうその感じが、すごく実感としてよく分かった。そしてそういう生活の中で『美しいもの』に出会う。私はこの時期に音楽や美術の魅力に出会い、歴史やファンタジーに沈潜する楽しみを覚えたけれども、ルイスは「はげしい雷雨、校舎のまわりに渦まく霧、こおりつくような霜と雪の厳冬。背の高い窓のまえに立って、ぞっとするほど美しい満月を、呪文にかけられたように見守ったことも、いくたびかありました。」というような自然の美しさの中にかけがえのない美、喜び＝ジョイを見出して行く。そしてその「喜び」がどこから来るのかについて何十年も考え続け、ついには「神」を見出すことになる、というストーリーがある。

私がこれを読んで思ったことは、こういう激しい美しさに出会うためには、こういう牢獄のような闇を知らなければならないのではないかということで、私が『ナルニア』の世界をこの上なく素晴らしいものと感じていたのも、このルイスの「心の闇」に私の「心の闇」が反射して共鳴して乱反射したのではないかと感じたのだった。

もう少し話を進めると、人が物語を面白いと思うのは、人が心に闇を抱えているからなのではないかと思ったのだ。人が光を感じられるのは、心に闇を持っているからではないか。人が美を感じられるのは、心に牢獄を抱えているからではないか。光の中に人が生きているとしたら、光は当たり前のものであって、特に喜びにはならないかもしれない。喜びがあるのは、人が生きる辛さを抱えているからで、物語が面白いのは砂を噛むような日常を知っているからではないかということになる。

もっと言えば、人が神を感じられるのは、人が地獄を心の中に抱えているからなのではないか、というふうに言ってもいいのだが、まあとりあえずそこまでは言わない。

そういうわけで、私の中の美しいものを感じた時を振り返ってみると、やはり自分自身が辛いときに出会ったものの美しさは、刺すような強さと激しさを持っている。とくにそれが少年期の感受性と合致すると無限の大きさを持つ。雨の激しさ、太陽の強さ、野犬の凶暴さ、暮れていく森の底しれぬ怖さ。そういうものの大きさ、激しさ、強さ、崇高さのようなものは、心の闇の部分と共鳴して増幅し、心に刻みつけられたように思う。

心が闇であるが故に神を感じられるのだとしたら、神はそのために人の心に闇を作ったのかもしれない。とかなんとか。

美を知るためには、人間的な苦悩が必要だ、みたいなことは『ピアノの森』にも描かれているのだけど、美にしろ喜びにしろすべての美しいもの、素晴らしいものは闇の中にある人間の神への契機である、みたいな感じでルイスはとらえているのかなと思えたし、それはすごくわかる部分があるなと思った。

もう一つ、神は人格神なのか非人格的な存在なのか、という問題についても考えさせられた。まあ色々な経験から、特定の宗教で言う神がいるかについてはよくわからないが、神みたいなものがいるのではないかと私は思っていて、でもそれがどういうものなのかについては、不思議なことにいままで特に深く考えようと思ったことがなかった。しかしまあルイスはそういうことについてすごく真剣に考えていて、それを読んでいるうちに、自分自身もいろいろ考えるようになっていた。

人格神というのはどうも考えにくいから、神と言ってもどちらかというと「原理」や「法則」みたいなもので人格はないんじゃないかと思っていたのだけど、宇宙に何かの方向性があるとしたら（エントロピーの法則とかでもいいんだけどあんまり科学的なことを持ちだすとニセ科学っぽくなってあんまり感じがよくない）それは意志と表現することができ、そう表現できるとしたらそこに人格のようなものが感じられる、というふうに考えると神は人格があると考えることもできる。まあ光のように粒子でもあり波でもある、みたいな感じでとらえてもいいのかなと思ったり。「粒子＝人格、波＝法」則的な感じで。

ルイスは福音書を読んで、北欧やギリシャやケルトの神話とくらべたりしているうちにキリスト教の神にリアリティを感じ、自分の思考の中に神の意志の反映を観たりするようになったという経緯は、今までそういう「回心」について書かれたものを私が読んできた中で一番リアリティを感じた。そうしていままで無上のものに感じていた美＝ジョイ（喜び）というものも神を指し示す「道しるべ」に過ぎなかったと感じるようになって、関心を失っていくという感じもよく分かった。つまり「美」というのは「月をさす指」に過ぎないという禅が言葉について言っていることと同じことをルイスも言っているわけだ。

こういうことを私にとって分かりやすく言ってくれている本というのはいままでほとんど読んだことがないので、読んでいるうちにどんどん面白くなってきたのだった。

こういうことを考えながら『ナルニア国ものがたり』シリーズを思い起こしてみると、本当はすごく複雑な陰影に富んだ、また一方で光に満ちた物語なのだということが改めて感じられる。そしてそれを面白いと感じた私自身もまた、こうした複雑な陰影に富んだ光に飛んだ世界をよりよく感じられるようになったんだなあと思ったのだった。
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         <pubDate>Wed, 01 Feb 2012 21:45:53 +0900</pubDate>
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         <title>小澤征爾『ボクの音楽武者修行』ほか</title>
         <description><![CDATA[【小澤征爾『ボクの音楽武者修行』】

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E6%AD%A6%E8%80%85%E4%BF%AE%E8%A1%8C-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%BE%A4-%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/4101228019%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4101228019" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/5153JSYTE0L._SL160_.jpg" title="小澤 征爾" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E6%AD%A6%E8%80%85%E4%BF%AE%E8%A1%8C-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%BE%A4-%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/4101228019%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4101228019" style="text-decoration:none;" target="_blank">ボクの音楽武者修行 (新潮文庫)</a></td></tr><tr><td>小澤 征爾</td></tr><tr><td>新潮社</td></tr></table>

しばらく前に買った小澤征爾『ボクの音楽武者修行』（新潮文庫、1980）を数日前から読んでいて読了した。これは小澤と村上春樹との対談を読んで小澤の修業時代に興味を持ったからで、バーンスタインやカラヤンとの交流についてもっとヴィヴィッドに書かれているんじゃないかと思ったのだけど、そういう本ではなかった。しかしヴァイタリティにあふれ、順風満帆で破天荒で、エネルギーのかたまりのような感じの人だったんだなと思う。時代は1960年代初め、私が生まれた頃、小澤はまだ26歳ごろのことなのだが、海外の二つの主要な指揮者コンクールで優勝して、あっという間に2年先の予定まで埋まるような人気指揮者に駆けあがって行くさまがリアルタイムに描かれていてそういう坂道を駆けあがる過程の一人称の語りという点ではなかなか他にない作品なんだろうなとは思った。いまでも小澤はどんなに体調が悪くてもヴァイタリティを感じさせる人だけど、若いときは本当に純粋なエネルギーのかたまりみたいな人だったんだろうなと思った。

種になっているのがその時その時に日本にいる弟に送られた手紙で、そういう「家族への便り」の持つ暖かさが現れているところもいい。満州育ちのおおらかさというようなことがよく言われるが、小澤という人は本当にそうなんだろうなと思う。征爾の征は板垣征四郎から、爾は石原莞爾からとったというのは嘘のような本当の話でちょっとびっくりした。小澤の父が彼らと交流があったのだという。主に海外での体験談が中心なのだけど、1960年代の日本の、坂道を駆けあがって行くような明るい雰囲気がこの本の中にあふれている気がした。

【『C.S.ルイスの秘密の国』】

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/C%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88/dp/4880682489%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4880682489" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/error/404.gif" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/C%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88/dp/4880682489%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4880682489" style="text-decoration:none;" target="_blank">C・S・ルイスの秘密の国</a></td></tr><tr><td></td></tr><tr><td>すぐ書房</td></tr></table>

買ってあったまま読んでなかった『C.S.ルイスの秘密の国』（すぐ書房、1998）を読み始めたのだが、どうも今一つ面白くない。彼が自分のことをジャックと呼んでいたとか、幼年期に北アイルランドで育ったとか、情報的には知らなかったことがあるのだが、彼の書いた童話のようには彼の伝記はあまり面白い感じがしない。彼自身にそんなに興味があるわけではないので、これは読むのがなかなか辛い本だなと思った。ルイス関係の本はもう一冊持っているが、それもちゃんと読めてはいない。『ナルニア国物語』シリーズは何十回も読み返しているのだけど。
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">読書ノート</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑記</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">音楽</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 31 Jan 2012 19:36:17 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>告知・『本の木の森』PC版の表紙を変えました／生き方とか人のたましいとか／部屋に名前をつけてみる</title>
         <description><![CDATA[【告知・『本の木の森』PC版の表紙を変えました】

<script type="text/javascript" src="http://p.booklog.jp/book/41477/badge/m" charset="utf-8"></script>

『本の木の森』のＰＣ版の表紙を変えてみた。まともなグラフィックソフトが使えなくてウィンドウズ付属のペイントを使っているために十分なものにはならないのだけど、やはり画像があると表紙は表紙らしくなるなと思う。『ガール』もそうだが、最近丸善で見つけた<a href="http://www.facebook.com/katogimari" target="_blank">加藤木麻莉</a>さんの素材集を使わせてもらっている。東京で使っているデスクトップの背景に<a href="http://katogi.tumblr.com/post/12505223865/work-simple-1?ref=nf">こちらの絵</a>を使わせてもらったりして、いろいろ楽しい。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/Princess-%E5%A4%A2%E3%81%BF%E3%82%8B%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A3%E7%B4%A0%E6%9D%90%E9%9B%86-DVD%E4%BB%98-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%9C%A8-%E9%BA%BB%E8%8E%89/dp/4797365374%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4797365374" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61E4Y9PkKxL._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/Princess-%E5%A4%A2%E3%81%BF%E3%82%8B%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A3%E7%B4%A0%E6%9D%90%E9%9B%86-DVD%E4%BB%98-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%9C%A8-%E9%BA%BB%E8%8E%89/dp/4797365374%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4797365374" style="text-decoration:none;" target="_blank">For Princess 夢みるガーリィ素材集(DVD付)</a></td></tr><tr><td>加藤木麻莉</td></tr><tr><td>ソフトバンククリエイティブ</td></tr></table>

この方の絵はファンタジーがありながら、細部がきちんとしているところがいい。「ガーリーな」素材集と書いてあって、そうかガーリーなのかと思ったりするが、まあ私がいいと思うのだからいいんだという感じ。私は山田章博とか中村佑介とかも好きでそれとの共通性も感じるのだけど、やはり女性にしか描けない絵なんだろうなあと思う。

一度お支払いいただいてダウンロードされた方は何度でもダウンロードできるので、よろしければ表紙も変えてみていただければと思います。


【生き方とか人のたましいとか】

人にはいろいろな生き方がある、というのは当たり前のことなのだけど、自分の生き方というものはどういうものなんだろうと思うとけっこう難しかったりする。自分の物理的な姿を確認するなら鏡を見ればいいわけだけど、自分のたましいを映す鏡というのは物理的にはないわけで、群盲象を撫でるというか、腕とか足とか腹とかを見つつこんな感じかと想像するしかない。まあ物理的に鏡に映しても左右反対になっているわけで、実際写真を撮ってみると髪の分け目が反対でいつも驚く。ことほど左様に人は自分のことは見えにくいのだけど、自分のことだけではなくて人のことだって見えているようでなかなかちゃんと見るのは難しい。

子どもと言うのが柔軟で、大人というのがかたばっているのは、子どもはこれからどんな生き方でも出来るし柔軟に生き方を変えていけるけれども、大人はそうは行かない、ということはあるんじゃないかと思った。とはいえ、私はいつでも生き方を変えられる自由を持ち続けていたい、と思っていて、そう出来るんだと思っているところはある。

逆に言えば、生き方を選べる自由を持っているのが子どもで、それをなくしたのが大人だ、ということも言えるかもしれない。私はいつでも生き方を変えられる柔軟な精神と身体を持っていたい、ということなのだ。

しかし実際問題として、いつでも自由に出来るかというとそう言うわけには行かず、実家にいるときは仕事もあるし親戚づきあいや仕事関係やらいろいろな人間関係やさまざまなスペックがあって、生き方というかその時間をすごす姿勢のようなものがおのずと決定されている時間が長い。東京に出てきているときはそういうスペックから解放されるので自由に時間の過ごし方を決められるのだが逆にそれゆえに不決定のだらだらになりやすいということもある。

ニュートラルになれる時間というのは必要なのだけどそれはいつでもいろいろな方向にオンになれるオフの状態、スタンバイ状態になるように充電していかないといけないなと思う。身体の緩めと引き締まり。

「人を緩ませる」ということをコンセプトにした生き方もあるし、国家への貢献に人生を捧げるというコンセプトの生き方もある。前者は身近な人へも恩恵を実感させやすいけど、後者は必ずしもそうでなく、生き方の意味が抽象的・観念的に受け取られやすいだろうと思う。おそらくは本人も。

いろんな人にはいろんな生き方があって、そういういろいろな生き方を書くのが小説なんだな、と思った。好きな生き方も嫌いな生き方もあるが、どんな人間も生きている以上生き方はある。ふと思うと、『大菩薩峠』に出てきた人物像が自分が以前書いた戯曲の人物像に反映したりしていて、時代小説などを参考にしたほうがそういう生き方の観察の幅が広がるなとも思う。

人の生き方というのは頭とか言葉のレベル、ないしは感情のレベルや思いのレベルで決まるわけでは必ずしもなくて、もっと深い「無意識のレベル」からとらえて書かなければ魅力ある小説にならないのだと思う。生きるのをこわがってしまう人とか、無意識にやたらと生きてしまう人とか、世の中の流れに乗るのに汲々としている人とか、自分たちだけで楽しむことに夢中になっている人とか。

そういうふうに人を見るというか、たましいを見ることが大事だなと思う。仲間意識を持って人に何かをやってあげたり感謝したりされることを楽しみとして生きている人もいるし、本当にいろいろだ。

うまく書けている小説やマンガは、小さいキャラクターにも何か生き方を感じさせる。捨てキャラにも人生があるというか、古人いわく一寸の虫にも五分の魂というか。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E%E2%80%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8F%A4%E5%85%B8-23-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%AE%89%E5%BD%A6-%E8%89%AF%E5%92%8C/dp/4122037913%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4122037913" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51WPR0QZS5L._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E%E2%80%95%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8F%A4%E5%85%B8-23-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%AE%89%E5%BD%A6-%E8%89%AF%E5%92%8C/dp/4122037913%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4122037913" style="text-decoration:none;" target="_blank">三河物語―マンガ日本の古典 (23) 中公文庫</a></td></tr><tr><td>安彦良和</td></tr><tr><td>中央公論新社</td></tr></table>

本棚を整理しながらマンガ日本古典全集の安彦良和『三河物語』を読んでいたら、一心太助が侍を選ぶか百姓を選ぶか町人を選ぶかというときに、生業というよりも生き方の問題として考えているのがあって、生き方というのはたましいの落ち着きどころということなんだなと思う。

生き方によってリアリティの感じ方が変わってくるけど、たとえば食事のリアリティというのは貧しい食事をガツガツ食べるほうが優雅なディナーを楽しむというよりもあるなと思う。優雅なディナーというのは食事というよりはある種の鑑賞なんだなと思うのだけど、「いいものしか食べられない」人もまあいるわけで、そういうのは面白いなと思う。

まあそんなふうに人の生き方とかたましいとかを見て行きたいなと思った。いろいろ考えて、自由に生き方を変えられるのがいいとか最初に書いたけど、好きなことを大事にする生き方だけは結局変えられないのだろうなと思った。


【部屋に名前をつけてみる】

東京の部屋の整理がようやく動き出した。西側の畳の部屋に「リラクシングスペース」、西側の北の窓の大きな部屋に「ワークスペース」、居間に「リビングスペース」、東側の書斎に「クリエイティブスペース」と名前をつけて、整理がつかなくて積みっぱなしになっていた本やらＣＤやらものの群れをそれぞれの部屋の性格が要求するところに置くという流れを作ってみたら、どんどん動くようになって来た。東側の部屋に美術関係や音楽関係、童話集やら画集やら映画の本やらモーニングページやらが集まってくるとすごく性格が強化された感じがして部屋の雰囲気がよくなってきた。また完全に雑然とした西北の部屋にワークスペースと名づけてみると足りないものや余計なものがよくわかり、一気に整理の方向性が見えてきた。部屋にも名前をつけると、部屋の性格がはっきりして、たましいを持つようになるんだなと思った。まだまだ整理中ではあるけれど。
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         <link>http://www.honsagashi.net/bones/2012/01/pc_5.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">アート</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">創作ノート</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">私の考えていること</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">読書ノート</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑記</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 30 Jan 2012 10:22:57 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>『スティーブ・ジョブズ』ⅠⅡ読了</title>
         <description><![CDATA[『スティーブ・ジョブズ』ⅠⅡ読了。面白かった。結局あとから読み始めた『あんぽん　孫正義伝』の方を先に一気に読み終えて、それに刺激されて続きを一気に最後まで読んだという感じだったけど、物事の進め方や考え方、どういうものを目指すかなどについていろいろと考えさせられることが多かった。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA-II-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4062171279%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062171279" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51dGBDS43dL._SL160_.jpg" title="ウォルター・アイザックソン" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA-II-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4062171279%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062171279" style="text-decoration:none;" target="_blank">スティーブ・ジョブズ II</a></td></tr><tr><td>ウォルター・アイザックソン</td></tr><tr><td>講談社</td></tr></table>

一番思ったのは、「統合型アプローチ」も魅力的だなあということ。これは私が今実際iPhoneを使っていて感じていることでもある。電車の中でときどきアンドロイドを使っている人を見かけるけど、やっぱりiPhoneの方がかっこいいなと内心思う、ということでもある。すごくこまかいデザインにまで、たとえばイヤホンの色、コネクタの色や形にまでかなりこだわりがあるということ。買ったときに納めていた箱がずいぶんしっかりできていて、二つの箱を占めるときに桐のたんすみたいに精密だなと思ったことを思い出した。そこまでジョブズ自身が関わっていたのだな多分。すべてのものをデザイン的にも触感的にも？完璧に仕上げることを目指してつくられたプロダクト、というもの自体は、確かにそういうものに触れること自体に喜びがある。

私はウィンドウズやＰＣ／ＡＴ互換機のように、利用者が自由にいろいろなプログラムを勝手に加えて自分なりにカスタマイズして使えるものがいいと思っていたのだけど、最近は必ずしもそうも思わない感じになっていて、最初からいろいろな意味で完成度が高いというか、「自分のそばに置きたいもの」の方がいいなという気持ちが強くなってきている。ＰＣは基本的に仕事の道具というか「まだ見ぬ自由」へのパスポートというか、飛躍のために使う道具という意識だったけど、毎日使い続けているとものとしての愛着がわくものと仕事をしたいという気持ちが強くなるなあと思う。いままで一度もマックを使おうと思ったことはないのだけど、伝記を読んでから使ってもいいなあと思い始めた。

もともとウィンドウズマシンを買ったのは安いことと他の機械との互換性があること、自分で自由にチューンアップできることにあったわけだけど、以前は電源の交換とか自分でけっこう本体に手を入れたりしてもいたのだが、最近ではそういうこともあまりやる気がなくなって、そうなるとそういう部分の便利さよりもそばにおいておいて満足のいくものの方がいい、という気持ちが強くなる。

正直、デジタル機器にそういう期待をしたことはいままでなかったのだけど、だから自分にとってiPhone体験は実はけっこう大きいのかもしれない。iPhoneの思想みたいなものを身を持って理解していなかったら、あの伝記もいまのようには味わえなかったかもしれないな。

on/offのスイッチを作らないとか、実際革命的なことだなと思う。なんだけど実際に扱っていて、それが自然にそういうものだという気がしてくるのだからよくできている。

ウィンドウズやアンドロイドのように開放型の設計だとウィルスとかいろいろなものに晒されるけれども、アップルの製品のようにすべてをアップルが管理しコントロールできるようになっていると、そういうことを考えずに済むということは意外にでかい。ゲーテッドコミュニティみたいなもの、と言ったらイヤな比喩だが、iPhoneを使っていて正直全然そういう心配をしなくなったし、アンドロイドでウィルスが蔓延しているとかの話を聞くとどこかよその国の話を聞くような気分になった。

完璧にできた世界の中で利用者は自分のやりたいことに専念して仕事に取り組めるというのはこの無数の微妙にイラつくことばかりに囲まれた現代において奇跡のようなことだ。アンチウィルスソフトが勝手にどんどん仕事をして自分のやりたいことのメモリが足りなくなったりする、というようなことがないだけでもどんなに楽かと思う。

まあそういうことから考えると、人生「自由にすればいい」というものでもないということになる。「自由にする」ことが本当に「自由である」か、ということだ。

本当にしたいのは自分の創作や文章を書くこと、あるいはいろいろなものを楽しんだりないしはパソコンの電源を切ったときの部屋でも満足できる風景としてそれがあるということであるならば、「自由に」変なものに手を出してぐねぐね回り道するよりは一番目的に適したシンプルでスマートな道具や方法を手にした方がいい。

そのためには「何でも出来るけどトラブルも起こりやすい」ものより、「シンプルではあるけれどもよけいなことは起こらない」ものの方がいい。その方が「ものを使う体験」全体として満足度は高いということになる。

もともとパソコンの思想というのは開放型で、それはそれまでのものを使う体験の質の良いものは統合型の首尾一貫したものだったのを破壊したところに意味があると思っていたし、実際そういうものを楽しんではいたのだけど、まあそういう方向から言えば統合型のアプローチというのはある意味保守的なものだということもできるのだけど、「もの」というもののありようの本質は統合型の方に近いものがあるのかなあとか、そういうことも考えたりした。

こういうブログのような雑文というのはいわば開放型のアプローチで、いろいろなものがごちゃごちゃあるところに面白みがある、みたいなものなわけだけど、小説とかを書いているとまあそういうわけにはいかないわけで、結局求心的なラストに向かっていろいろ布石を敷いて一つの統合された全体を作り上げていかなければならない。私はどちらかというと自分のここ20年程のベクトルが開放型の方を向いていたのでなかなか求心的なものを書きにくかったんだなと今更ながら思った。

自分の中でも、何でもありの時代は終わったのかもしれないなと思う。ジョブズが文中で言っていることで印象に残っていることの一つに、こういうことがある。

重要だと思うことを10個、それぞれの重役に挙げさせて検討し、会議の総意として順番をつけてその10個を決定する。そしてこう言うのだ。上から三つ以外のものは捨てる。我々にはたくさんのことをやる余裕はない、と。

このアプローチは面白いと思った。重要なことはたくさんあっても、出来ることは三つ。その三つに集中することで、他の追随を許さない製品を作る、というわけだ。

手元に本がないのでこういう叙述のまとめは不正確なところがあることはお断りしたい。それにしても、人生においても、重要なことはたくさんあっても、出来ることは三つくらいかもしれない。一点突破全面展開というけれど、三つのことに集中する、というぐらいが現実的なのかもしれないと思った。

十分に力の注げないことにたくさん手を出して不完全燃焼をするより、全力を注げる三つのことをやりきった方がきっと満足度は高いだろう。

そんなふうに、いろいろなことを考えさせられる本だった。
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">私の考えていること</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">読書ノート</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 28 Jan 2012 15:03:46 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>父の論文集を校正しながら思ったこと</title>
         <description>一昨年亡くなった父の論文集の校正をしていて、いろいろなことを考えた。

父は昭和9年生まれで小学生で終戦を迎え、新制中学の一回生にあたる。かなり早い時期から人類が幸福で平和になるためにはどうすればいいのかということを考えていたらしい。多分、そういうことを考えた人は、当時は少なくはないと思う。そしてそれぞれ共感できる思想を持ったり、運動に参加して行ったりしたのだと思う。

当時一番人気のある思想はマルクス主義だった。父もかなり共感した部分があったようだが、暴力革命主義の部分にどうしても引っ掛かりを感じたらしく、60年安保闘争に参加した時に国会で暴力的な対立（というか機動隊による排除）の中でぐちゃぐちゃにされて、「こんなのはだめだ」と思ったと後年言っていた。

結局どんな思想を持っても、どんな社会を実現させようと思っても、個々の人間が成熟し、大人にならない限り悲惨な状態は続く、と考えるようになり、大衆の個々がいわば悟りを開いた社会でなければ理想社会は実現しないと考えるようになった。乱暴なまとめだが。そこで行き当たった思想がＫＪ法創始者川喜田二郎とヤマギシズム運動の提案者山岸巳代蔵の思想だった。彼らのアプローチはそれぞれ違うが、川喜田は地理学という現場から思考の整理法・発想法であるＫＪ法を創出し、問題構造の全体を俯瞰し理解することと問題解決の手段を発想することを定式化する方向性に道をつけた。また山岸の活動はいわゆるコミューン運動に位置づけられるが、彼は具現化方式、具体的に言えば養鶏業という共同体の経済的自立手段を持っていたため、さまざまな共同体の中である種とびぬけた成功を一時的におさめることができた。

父はＫＪ法を学びつつ山岸会の運動に（家族ごと）飛び込んで、一時はかなり中心に近い位置で活動したこともあるが、10年弱でその中心からは離れ、実家に帰った。しかし父は理想は持ち続け、山岸会やＫＪ法に関する著作を書き続け、またＫＪ法学会などでの発表を続けた。そしてそうした活動に興味を持った若い人たちを集めてさまざまな活動をしたり、教育活動へのＫＪ法の応用の実践などにも協力というか共同研究的に参加していた。またその両者の思想の根源を探るという意図だろうと思うが、初期仏典の『ダンマパダ』のＫＪ法を用いた共同研究を行ったりもした。

そういうわけで父の書いた文章は膨大にあるのだが、結局生前は書籍としてまとめ出版するに至らなかったため、父の死後主に母が中心になって論文集を編纂することになり、ようやく校正の段階までたどり着いたわけだ。

そういうわけで私は多感な少年期・青年期（小2～高2）を運動体の中で過ごしたため、さまざまな鬱屈というか屈託を抱え、自分でも正体をとらえきれないさまざまな思いを長い間抱えることになった。

実際のところ、今論文集のゲラを校正していて、久しぶりに父の文章を読んだのだが、父の情熱がまっすぐに伝わってくる。山岸会という運動体は、というか運動体というものは何でもそうだと思うけれども、唱えている主張や高邁な理想と中身というか実態というかその運営状態というものは相当違うものだ。わたしは幼少期にそういう経験をしているために運動体というものは全然信用できないのだけれど、まあ私が感じた鬱屈や屈託というものとは別に、父が燃えていた理想はこういうものだったとか、父がそうした運動体に見ていた理想というものはこういうものだったんだなということを父の筆によって追体験したように思った。

まあ正直、それも今だからということでもある。17歳でそこから離れ、いま49歳だから32年経ってようやくこういう場でも書けるくらいの気持ちになったと言えばいいか。まあ読んでいただいているほとんどの方には理解できないことが多いと思うのだけど、正直言って校正しながら私でなければこの論文は理解できないし、理解できなければ正確な校正もできないなと思うところがたくさんあって、そこはなんだかちょっと悔しいというか、主観的には酷い目にあったのに理解してやれるのは自分だけというのではちょっと勘弁してくれよと思いたくもなる、という感じがした。

もちろん過去の同志の人たちの中には部分的にはもっと深い理解ができるという人もいるだろう。しかし実家に戻った以後の父の活動や父の読んだ本（それが著作に反映されているわけだから）について、つまり父のありようのさまざまな角度から「こういうことを書こうとしていたのだろう」「こういうことが表現したかったのだろう」ということが一番見当がつくのは、結局は私なのではないかと思わざるを得ない面がある。大変迷惑なのだが、父と子と言うものはそういうものなのかもしれないと思う。

実際、校正という機会でもなければ（時間が限られているために私も手を出さなければ間に合わないということもあって）まともに父の文章を読んだりしなかっただろうなと思う。しかしそれらを読むことで自分自身の未解決になっていたところが少し腑に落ちたというか、理解が進んだということもあるので、まあよかったんだろうなと思う。人は親を選ぶことができないというのは全く真理で、求めるものが違うのに性質が似ている部分が多いというのは全く疲れることだ。

本にアンダーラインを引くときにどうしてるか、と聞いたとき、一字もずれないように正確に引いている、ある一字にラインを引くかどうかをゆるがせにせず、引きすぎたと思ったら必ず消している、と答えたことを思い出して、校正のときにも論文に引かれているアンダーラインを正確に見なければいけないし、またその引き方にも父の表現があるんだよな、と思ったりした。

理想社会を実現するための思想というのはやはりなかなか地に足がつきにくい考え方で、私が読んでいても後期になればなるほど夢想的というか「そこから話をはじめるか？」と思うような文章が増えているなあと思う。まあ言いたいことは（私なら）わかるんだけど、というような。逆に言えば運動そのものを総括したり批判したり、あるいは人間が変わるときには心の中で何が起こっているのかを武谷三男や市川亀久弥を援用して解明しようとした論文などはけっこう面白い。

特に現代社会論などは西洋史を専攻した私などから見れば不備だらけで、いったい誰を説得しようとしているのか分からないというか、父が学問の現場にいた昭和20年代から現代までの間に形成されてきた学問的常識の基盤のようなものがきちんとできてないために昭和40年ごろの人なら説得できても現代人はなあ、という感じになってしまう。

しかし正直言って、私が90年代に西洋史の大学院に行ってた頃、学会で基調講演を行った70歳くらいの京大の学者の発表を聞いていても、もう現代の西洋史学の流れからは完全にアウトオブデートになっていて、ある意味痛々しいものになっていたから、こういうものは本当に一線でついて行くということはそれだけに専念していないと無理なことなんだなと思う。

逆に言えば学問より現場の実践を重視し、特に幸福社会実現の理論なんていう持ち場のはっきりしない（哲学だけでも社会学だけでも歴史学だけでも工学だけでも法学だけでも医学だけでも宗教学だけでもだめだしでもどれも必要みたいな）ものを追求しようというのは単独でやろうとするには全く無理のあることだなと思う。私は私としてこういうものを読んだらいいのではないかとか、今アカデミズムで問題になっているのはこういうことだとか、いろいろ紹介はしたのだが、どうも何というか学界の空気というもの自体に無頓着で、けっこう俗流というか素人目を引きやすい人に注目してしまっていてそういう人に付き合っていても無駄なんじゃないかなと思うことが多かった。

まあ読み直していて気がついたのは、第二次世界大戦後の世界体制、つまりブレトン＝ウッズ体制とか自由貿易の推進によってブロック経済化を防ぎ平和的安定をもたらすという試みについての評価がないということで、マルクスから出発した人の発想というか、現代資本主義体制の評価が思考体系に組み込まれていないのではないかということだった。現代を米ソ冷戦のみでとらえてしまうと冷戦体制崩壊によってすべてが変化した、よくなった（あるいは悪くなった）と思ってしまうのではないかと思う。そうなるとやはり現代社会の理解はかなり薄くなるし、説得力も持ちにくくなる。まあその部分は父にとってはおそらくは枝葉末節の部分だと思っていたのだと思うが、変えるべき対象である現代世界を的確に評価するという視点が不十分であることは否めないと思った。

まあ色々念仏のようなことを書いたが、自分にとって大事なものを確認できた部分もあり、まあ校正だけでも携わってみて良かったと思う。父の論文は正直見るだけでいらいらした時期が長かったから、そういう意味では私自身前に進むことができる部分もあるなあと思ったのだった。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑記</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 26 Jan 2012 17:38:19 +0900</pubDate>
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         <title>あと15分しか人生がない、と言われたら、何をするだろうか</title>
         <description>あと15分しか人生がない、といわれたら何をするだろうか。

いろいろ考えてみたが、誰でも考えつきそうなことは実感が伴わない。欲望を満たす系のことを考えたとしても、15分くらいではその準備をしているうちに終わってしまうだろう。また「明日世界が滅びるとしても、今日私は林檎の樹を植える」系のことを考えたとしても、15分ではそんなにすごいことはできないだろう。

で、わたしは、『踊る』のがいいな、と思った。15分だったら『踊る』にはちょうどいい時間だ。好きな曲をかけて、好きなように体を動かして、好きなように自分を表現して、好きなように感情をあらわにして、15分後、突然終了。それってすごくいいかもしれないと。

織田信長もそうだったのかな、と思う。桶狭間の戦いに臨む前、幸若舞の『敦盛』を謡いながら――「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか」――舞をひとさし踊ったというのはお約束の伝説だが、案外そのとき一番したいことをしただけ、なのかもしれないと思った。

わたしは何か専門的な踊りを習ったわけではない。日本舞踊や能はもちろん、ディスコやクラブでの踊りもできないし、社交ダンスもまともにやったことはない。リズム感もそういいとは言えない。出来るのは芝居をやっていたときに自分の身体性を開放する手段として曲に合わせて何かを表現する、というエチュードの一環としてやっていたものだけだ。これは「出来る」とか「できない」とかいうものではないが、「いい」か「悪い」かというものではある。多分その良し悪しというのは河合隼雄がやっていた箱庭療法の箱庭の良し悪しのようなもので、その人の持っている生のありようが強烈に表現できていれば凄いものであり、おざなりな無難なものを作ってもつまらない、というようなもので、表現としては金にならない種類の、原始的な、しかしそれだけにものすごく強烈な種類のものなのだ。

わたしは芝居をやっていたと言っても、新劇でも前衛劇でも舞踏でもなく、そういう原初的な人間の表現というようなものの魅力に取りつかれ、それが舞台芸術におけるソフィスティケートされたさまざまな表現手段とぶつかって生み出される一回限りの火花のようなものに魅かれていたわけだから、普通の意味での演技というものとはかなり違うので、なかなか説明がしがたい。

しかしそれだけに私がこの芝居＝劇団＝演出＝稽古に出会ったときの衝撃は大きかった。それまで堂々巡りだった私の生に、突然一つの解が与えられた、と思った。これで生きて行くことができる、と思った、思えたのだ。

いま思ってみても、あのときの出会いがなければいまの自分はいないと思うし、観念の悪循環から抜け出すことはできなかったと思う。というか、その後も何度もそういう悪循環には嵌っているのだけど、「表現」という魔法の言葉をつかみ直すことで何度も「生きることができる磁場」に戻れるようになった。

いま自分はモノを書く、ということに取り組んでいるけれども、書くということの原点も、本当は「踊る」ことなんだなと思った。肉体のある言葉。芝居をやっていた頃には書いた言葉がそのまませりふになって発声され、自分もセリフとして声に出し、耳から入ってきて、言葉が本物かどうかいつも確かめながら書くことができた。踊る、ということを考えていて、今の自分の書いている言葉に足りないものは肉体、少なくとも身体なんだなと実感できた。

当時は山口百恵「曼珠沙華」やダウンタウンブギウギバンド「裏切りの街角」、RCサクセション「スローバラード」、ときにはカルミナ・ブラーナやチベットの仏教音楽に合わせて踊りながら身体性を再開発していたけれど、今はAKB48「風は吹いている」やビゼー「カルメン」にあわせて起こって来る、湧いてくる感情をそのまま素直に表現し、言葉にすることで言葉の身体性を回復することは可能だなと思った。

作家である、とか上段に構えると、私の場合は言葉も表現も出て来ない。人間の根源的な生のパワーのようなものを汲みだすことによってしか表現につなげられないし、そうした表現ができないと居ても立ってもいられなくなってしまう。

あと15分しかない、というときに言葉による表現まで持って行けるかどうかは分からない。ただ、死ぬまで自分の生を汲みだし続けることができれば、私はそれで満足なんだろうと思った。
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         <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 17:05:50 +0900</pubDate>
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         <title>告知・『本の木の森』　第四部　「よみがえる世界」　を公開しました</title>
         <description><![CDATA[<script type="text/javascript" src="http://p.booklog.jp/book/43153/badge/m" charset="utf-8"></script>

27ページまで無料公開しています。よろしくお願いします。


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『ガール』の表紙画像を変えました。こちらもどうぞ。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 24 Jan 2012 18:51:43 +0900</pubDate>
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         <title>金を儲けることだけが偉いことなわけじゃない</title>
         <description><![CDATA[ブログのネタにするなら一般論の方がいい、という考え方もあるんだけど、私は基本的に自分が気になることしか書かないのであんまり一般論については書いてないのだけど、今日ツイッターを見ていてそうだよなと思ったことがあったのでそのことについて書いてみようと思う。

それはバブルの時代が拝金主義だ、という主張に異議を唱えるツイートで、バブルのころは物の価値が高く、今は金の価値が高くなってお金にしがみつき、人の価値も物の価値も低くなった、という主張だった。（元ツイートは<a href="https://twitter.com/#!/sunafukin99/status/160663931558440960" target="_blank">こちら</a>）それはまったくその通りだと思う。

思い出してみると分かるけど、あの当時は金を稼ぐことって割と簡単だと思われていて、それよりも金を上手に使うことが褒め称えられていた。みんな金を使うことに苦心していて、企業でもメセナとかいろいろやってた。関心領域も広がって、海外旅行だとかなんだとか、お金を使うことに苦心していたんだ。逆に今では、みんな金を儲けることに一生懸命になっていて、金を上手に稼いだ人が褒め称えられている。消費にはみんな関心がなくなって、六本木のＩＴ長者が札束尻ポケットに突っ込んでヒルズの上のバーで女の子にドンペリおごってるみたいな、恥ずかしい金の使い方をしてもあんまり突っ込まれない。

金の稼ぎ方が人生を表してるみたいになって、金の使い方は誰かに言われるまま。消費スタイルが画一化して、みんなユニクロのダウン着てたりする。（自分も着てるけど。）ジョブズに啓蒙されるままみんなiPhone使ってたり。（私も使ってるけど。）

正直言って、金を稼ぐのは誰にでもできると思う。ただ一生懸命やればいい。人に雇われているうちはある程度以上は稼ぎにくいけどうまく大企業にもぐりこめば40超えたら数百万になるだろうし、人によっては1000万とかもいるだろう。自分で事業を起こしたらまた稼ぎ方も違うけど。もちろん得手不得手はある。運不運もある。でも個性なんていうものがあるだろうか。一生懸命やれば成功するだろうし、やる気にならなければなかなか稼げない。本質的に金を稼ぐのが余り好きじゃない人には面倒な時代だし、金を稼ぐのがうまい人がやたらもてはやされるのはどうにも違和感がある。金を握り締めて、金の稼ぎ方だけを考えている人や社会というものには、本質的な豊かさが感じられない。それをもてやはす人心にはなんだか寒々しいものを感じてしまう。

一方、金を上手に使うのは難しい。スマートに金を使える人は見ていてかっこいいと思う。ものを買うのでも、本当に必要なものをポンと大枚はたいて買って、無駄なものは買わない。その人ならではの家具や機械やアートを持ってて、スマートに金だけではない財産を築いている。自宅に溢れかえるモノの山を見ていると、金の使い方は難しいなといつも思う。金を上手に手放すことが出来る人や社会には本質的な豊かさを感じる。そこに個性もあるし、豊かさも自由もある。

もちろん、金を稼ぐこと、つまり現代社会においては唯一の生きる資源を手に入れるために努力することが重要でないというわけではない。人の成長には何段階かあるが、まずは自立して自分で自分や自分の家族の生活を成り立たせるために金を稼げるようになるのは重要なことだ。しかし人間生活がそれに終始したら、それはいかにも味気ないと思う。

人はパンのみにて生きるにあらず、とか衣食足りて礼節を知る、というように、最低限の衣食住以上のことにお金を使うようになって初めて豊かさが生まれる。もともとお金は手段であって目的ではないが、目的のように錯覚されやすい。それはお金が数字で表されるからだろう。よりお金を持っている、稼いでいることがより幸福であるかのように錯覚されやすいからだ。本当はお金を使うことで、つまりは数字を減らすことで豊かさが得られるのであって、その逆ではない。しかしその肝心の消費が「消費によって経済が活性化されるからとにかく使うべし」みたいな、まるで経済活動の手段であるかのように扱われ、豊かさを得るためでなく広告操作によってとにかくものを買わせようとする力によって消費が痩せてしまっている。

プロという言葉があんまりもてはやされるのもどうも私は好きではない。その仕事に誇りを持ち、専門外の人にはない専門的な知識と高度な技を駆使してほかの人には出来ない仕事を遂行していくことに誇りと楽しみを感じている人、という意味でプロフェッショナルならいいのだけど、その仕事で稼いでいる人、生活を立てている人という意味で使われているのに過ぎないのにそれを必要以上に持て囃すのは意味がない。日本人は職人意識を持ち、専門バカであることをむしろ誇りにする傾向が強いけど、まあ自分のことをそうやって誇るならともかく、ほかの人がそうでないことを非難する傾向が強いのはどうもあんまり気に入らない。

職業というのは、人によって自分の本体と近い人もいれば遠い人もいるだろうが、ある種の衣服みたいなもので、その人自身ではない。一度仕事を失ってしまうとなかなか再就職できない人が多いのは、仕事が自分のアイデンティティになりすぎているからではないかと思う。確かに一生かけてものにしていかなければ一人前になれない仕事の人が途中でそれを放棄せざるを得なくなるのは身を切るように辛いことだと思うが、そうした熟練性を要求されない職種の人でも前の仕事にこだわりすぎる傾向があるような気がする。むしろ職業なんてたいしたことない、自分の一生を決めるほどのことじゃない、と発想を転換してみたほうが道が開けることだってあるのではないかと思う。

まあそう思うのは私が自分自身の生き方以外に職業的な生き方を強要されるのが適わないと思っているからではあると思うし、職業的な生き方に適応するのが得意な人からすれば何を言っているかと思われるかもしれない。自分自身の生き方というのは、ベルクソン的な言い方をすればその人自身の愛し方であり、好み方であり、嫌い方であり、面白がり方であり、そういうものは変えようと思っても変えられないし、徹底的にその人自身でしかないあり方のことだ。その愛し方や嫌い方は、その人の職業によっては許されないことがあるかもしれないわけで、そうなると人は公生活と私生活で生き方を使い分けなければならなくなり、場合によっては自分自身の生が痛めつけられ、損なわれてしまうことも起こる。それが社会的不適応ということだが、職業性が重視されすぎる社会というのは、そういうことが起こりやすいことは間違いない。だから逆に人々は「自分にあった仕事」というものに必要以上にこだわりすぎるのだろう。

私自身は、やはり自分の生のあり方というものがどうもあんまり普通でないところがあるような気がするし、職業というものは、たとえどんなにクリエイティブなものでも、どんなにインタレクチュアルなものでも、窮屈さを感じてしまうところがある。パブリックなものはなおさらだ。

私は文章を書いて生きたいと思うけれども、作家になりたいのかといわれると断言はしにくい。ものを調べたり考えたりして生きたいと思うけれども、学者になるのは無理だった。能力的に足りないというだけでなく、学者的な生き方というものが自分には合いそうもない。正直言って私は私以外のものになりたいと思わないし、たとえばアーティストと呼ばれたらうれしいかと言えば最初は面映く光栄に思いもするだろうがそのうち確実に面倒になるような気がする。まあ人にはなんて言われようとかまわないわけだけど。経営に携わってると社長とか言われるけどなんだかある種のパロディみたいな気がいつもしてしまうし。経営自体は面白いところは面白いしその責任から逃げるつもりはそんなにないけどそういう概念が当てはめられるのはなんだか妙な感じがするとしか言いようがない。

大事なのは、そういう自分自身の生き方というものを高めていく、純度を上げていく、自分度を限界まで高めていくということなのではないかと思う。そのために必要ならどんな仕事をしてもいいし、どんな試みをしてもいい。自分らしく生きる、というとなんだかのほほんとしているが、自分らしい生き方を究極にまで高めていく、というとこれはけっこう鬼気迫る。でも人として生まれて、それが出来れば本懐なのではないだろうか。

小説を書いたり、読んでもらうために努力したりすること自体は楽しいのだけど、作家になるためにそれをやっていると思うとだんだん変になってくる。書きたいから書くのなら書きたいものが書けるが、書きたくないものを書いているうちに書きたいものが書けるようになるというのはなんだか変だ。なんだか説得力があるだけに鵜呑みにしてしまいがちだけど本当にそうだろうか。食べたくないものを食べているうちに食べたいものが食べられるようになるだろうか。

まあ職業というものはそれにつくためにはある種の資格が必要であることが多いから、そのハードルを越えるために努力するという意味では、それは意味があるだろう。私は作家になりたいというよりは、書きたいものを書いてそれをなるべくたくさんの人に読んでもらいたいというのが本音なのでそれは作家になりたいということとは違うのだ、と今日考えていて思った。作家になれればいいと思うのはそれが楽だろう（発表の場が得やすいだろう）なと思うからで、作家という状態に憧れているわけではない。だいたい私は子どものころから憧れの職業とか、持ったことがない。好きなこと考えて好きなこと書いて好きなことやってればそれでいい。ある意味それは実現してるが考えたことは伝えたいし書いたことは読んでもらいたいしやったことは評価を受けたいわけで、そういう意味ではまだまだだ。しかしそれは職業としては名づけようがない。

まあそれは言葉を変えて言えば、自分のスタイルを確立し、そのスタイルを高め、そのスタイルを貫く、ということなのだろう。それが出来ている人はかっこいいと思うし、憧れる。今伝記を読んでるジョブズなんかはそうだし、今日写真本を買ったジェーン・パーキンなんかもかっこいいなと思う。ほんとにこの人にはスタイルがあるし、いろんな写真を見てもいちいち憧れる。ま、好みというものはあるわけで、スタイルがあれば好きかといえばそうとは言い切れないわけだけど。

自分のスタイル、生き方ってなんだろうと思ってみる。シンプル、ナチュラル、アクティブ、ってな感じかな。それぞれの言葉にはわたし的な独自のニュアンスがある気きがするが。たとえばアクティブということにはスタンバイということとどこにでも行くということが含まれているといっていいだろうな。っていうかまあ理想というか志向性ということだけど。

まあそういうわけで、人間のあり方というもの、もっと幅広く考えてもいいんじゃないかと思う。人間の生き方ってこういうもの、と思っている以外にも人間のあり方はあるんじゃないかと。実際わたしは少なくとも、スペインを旅行してそういう部分はかなり変わった。日本全体、もう少しその辺ゆるく考えられるようになると、新しい可能性が生まれるんじゃないかという気がする。

最後にメモ。今日買ったもの。神保町へ行って書泉ブックマートでサライネス『誰も寝てはならぬ』17巻、玉置勉強『ちゃりこちんぷい』1巻、ツジトモ『Giant Killing』22巻。書泉グランデで山田芳裕『へうげもの』14巻。カフェテラス古瀬戸でビーフシチューと珈琲。御茶ノ水から有楽町に出て銀座まで歩き、山野楽器でPerfumeのニューアルバム、『ＪＰＮ』。丸の内まで歩いてブルックスブラザーズでウールのズボンを一本。新丸ビル成城石井でメキシコのオレンジの蜂蜜とリッタースポーツのナッツ。丸善丸の内本店で『ジェーン・バーキン』、加藤木麻莉・素材集『For Princess』。考えることも買ったものも欲しいものもたくさんある。
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         <pubDate>Sun, 22 Jan 2012 23:59:59 +0900</pubDate>
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         <title>告知・『本の木の森』iPhone対応版第三部「もうひとりのぼく」を公開しました</title>
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どうぞよろしくお願いします。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 21 Jan 2012 14:49:44 +0900</pubDate>
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         <title>『スティーブ・ジョブズ』の読書を再開する／普遍的な美は存在するか／わたしは悲しまない／告知・『本の木の森』iPhone版『第二部　飛ぶ少女』只今無料公開中</title>
         <description><![CDATA[【『スティーブ・ジョブズ』の読書を再開する／普遍的な美は存在するか】

今日は朝から大雪で、朝から3か所雪かきしたが、昼頃にはもうだいぶ積もっていて、もういいやみたいな感じになっていた。でも気温が高いから道路の雪などはけっこう融けていて、でもこれから夜になると凍ってしまうことが心配だ。降りやんでたら雪を処分してもいいのだけどまだ降りそうだからなあ。

<img src="http://honwoyomou.sakura.ne.jp/p.jpg" border="0">

孫正義の伝記を読んでからスティーブ・ジョブズの伝記もまた読むモチベーションが復活してきて、19章（ピクサーの時代）で止まっていたのが一気に上巻は読み終わった。孫の親族もいろいろとすごい人たちが多いが、ジョブズの親族もそれなりにみな個性的だ。それにしてもジョブズの実父が彼が言ったことのあるレストランのオーナーだったというのは事実は小説より奇なりという感じ。そういうことってあるんだな。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA-I-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4062171260%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062171260" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51xjFB36d-L._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA-I-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4062171260%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062171260" style="text-decoration:none;" target="_blank">スティーブ・ジョブズ I</a></td></tr><tr><td></td></tr><tr><td>講談社</td></tr></table>

しかし一番おもしろいと思ったところはティナ・レドセとうまく行かなかった理由を説明しているくだりだ。

「美的感覚についても考えが根本的に異なっていた。普遍的な理想の美というものが存在し、それを人々に教えるべきだと考えるジョブズに対し、美的感覚はあくまで個人的なものだとレドセは考えていた。ジョブズはバウハウスムーブメントの影響を受け過ぎていると見ていたのだ。

「美とはどういうものなのか世間に知らしめなければならない、どういうものを好むべきなのか人々に教えなければならないとスティーブは考えていました。わたしはそのように思いません。自分の内なる声に、また、お互いの声にじっと耳をすませば、生まれながらに持つ真なるものが浮かび上がってくるはずだと思うのです。」」

レドセの言うことは普通にスピリチュアルな人が言いそうな言葉だけれども、わたしも当然、というかまあ普通にレドセの方の意見に近い。逆に「普遍的な美」なんてものを信じている人がいるんだということに驚いたくらいだ。というか、そういうものを信じているからこそ自分の美的感覚を絶対視し、完璧なものを目指して絶対に妥協しない態度で製品に臨めるのだなと思った。普通に考えればジョブズは啓蒙的でレドセは神秘的な審美眼であるということになるだろう。

しかしここにはかなり重要な問題がある。金子みすずのように「みんなちがって、みんないい」という思想で行けばいろいろなソフトが生かせ好きな使い方ができるウィンドウズのＰＣ互換機がマックよりいいということになるし、パソコンはこうあるべきだ、というジョブズの思想はマック教に乗れればいいけれどもそうでなければめんどくさくて窮屈なだけのものになる。実際私はWindowsばかりで（やはり互換性重視だ）アップルのコンピュータを使ったことはない。

それは形を超えてアンドロイド・スマートホンとiPhoneの違いにも現れているわけで、アンドロイドのような多様性を認めるスマホの方がいいという思想もあるが、私などはこれに関してはiPhoneの方を取った。結局アンドロイドアプリはさまざまな問題を持っていることが分かったし、審査が厳しいだけにiPhoneのアプリの方が信頼性が置けるという感じになっている。

より完全でタイトなものを求めるのか、よりルーズで自由なものを求めるのか。ウィンドウズの時代からiPhoneの時代に移ってきているということは、後者の時代から前者の時代へ移りつつあるということなのかもしれない。

わたしは完全にルーズで自由なものの方に自分の方向性はシフトし続けていたのだけど、これを読みながら私に、「美は個人的なもの」という思想よりも「美は普遍的なもの」という思想にシフトした方が自分にとってはプラスなのではないかという考えが生まれた。誰にでも感じられる美はやはりあるんじゃないか。構図にしろ色遣いにしろもちろんセオリーというものがあるのは知っているけれども、そういうものについてはわたしはかなり否定的にとらえていた。考えてみるとノウハウというもの全般についてわたしはかなり軽視しているところがある。直感を信じるロマン主義的なものを好み地に足がついた技術的・現実主義的なものを軽視すると言えばいいのだろうか。というか美というものについての神秘的なロマンのようなものを持ち続けていたいと思っているところがあるのだなと思う。

ジョブズの美に関しての思想は、レドセの言うようにバウハウス的な合理主義的・機能主義的な美意識ではあるだろう。内部の配線の美しさにまでこだわり、モニタのカーブを底的に追求する工業デザインに究極の美を求める思想はやはりバウハウス的なんだろう。彼は身近に置くものの完璧さを追求するあまり、独身時代にはほとんど家具を置かなかったというから、モノに対する彼の美意識は徹底したものだったのだろう。わたしも装飾過多のものよりもものがスタンバイしているたたずまいの美しさみたいなものに最近特に魅かれているのでそういうことってあるなと思う。ああそうか、つまり私はそういう意味での美意識におそらくは目覚めつつあるのだ。

それはより身近に美を感じる方法でもあるだろう。観念的なロマンではなく、そこにあるインティメイトな美の方に関心が移りつつあるから、レドセの思想に安住することなくジョブズの思想にも近づこうとしているのかもしれない。

とまあ自分の話になってしまったが、ジョブズの伝記は現在下巻の二つ目の章に入っている。アップルに復帰し、実質的なＣＥＯとして動き出したところだ。アップル追放のくだりはごちゃごちゃして読みにくかったが、10年経って復帰して彼自身の存在がだいぶシンプルになったんだなと感じた。


【わたしは悲しまない】

ときどき昔勤めていた職場の夢を見ることがある。学校現場での経験はいろいろなものがあったけれども、今朝起きた時の感触で、あのころ一番感じていた感情は、「悲しみ」だったのだなと気付いた。底辺校の哀しみ、新設校の哀しみ。入りたくなかった生徒たちに早く異動したい教員たちが接する。諦めと無気力と開き直り。暴力。異常さ。拒絶。さまざまな現象がもたらす印象を一言でいえば悲しみであって、その悲しみに浸りきった状況に怒っていた。いまではすでに無くなってしまった学校なのだが、自分の中での問いはなくならない。

悲しみから抜け出そうとしてじたばたして、最後には怒りのパワーを使おうとして自滅した、というのが本当のところなんだなと思う。まあプライベートな生活も悲しみで塗りつぶされていたようなものだから職場のせいだけではなかったのだけど。

基本的に、悲しまなければいられないような場所にいるのは間違っているし、そのような場所が存在するのも間違っている。そうは言っても存在するものは存在することは確かなのだけど、それは是正されなければならないと思う。しかしそれが自分の手に余ることは十分すぎるほど分かった。そしてその無力な自分がまた悲しい、という悪循環に陥っていたわけだ。

悲しんではいけないのだと思う。感情に溺れることが失敗の第一の原因であることを最近とみに痛感しているのだけど、悲しんではいけないのだと思う。そう言えば語弊があるというのならば、めげてはいけないといってもいい。いや、これはめげている人たちを非難しているのではなく、わたし自身はめげてはいけないのだと思う。

しかし私自身にとっては、『悲しんではいけない』という表現の方がぴったりくる。めげるのはよくないことだが、悲しむのは人間らしい行為であるみたいな感じがして、つい肯定的にとらえてしまうからだ。悲しむことを否定しなければならないと思う。わたしは二度と悲しまない、と。

自分の顔を見て老けたなと思う。なぜ老けたのか考えてみると、自分の顔に悲しみが浮いていることが原因なんじゃないかと思った。悲しみは人を老いさせる。

絶望することは誰にでもできる。絶望するのに特殊な能力は必要ないから。でも希望を失わないのは誰にでもできることじゃない。だからそうできな人のことをバカにしたり責めたりしてはいけないんだ。でも、君は（ぼくは）絶対に希望をなくしてはだめだ。君には（ぼくには）やるべきことがあるんだから。

絶望した人たちには癒しを、希望を失いかけた人には喜びを、戦っている人たちには励ましを与える。それが広い意味でのアートにのみ許された力なのだから。

【告知・『本の木の森』iPhone版『第二部　飛ぶ少女』只今無料公開中】

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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">アート</category>
        
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         <pubDate>Fri, 20 Jan 2012 19:32:47 +0900</pubDate>
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         <title>佐野眞一『あんぽん』を読んで孫正義にシンパシーを覚える</title>
         <description><![CDATA[孫正義の伝記、佐野眞一『あんぽん』（小学館、2012）読了。いろいろな意味で大変面白かった。

<table border=0 colspacing=0 cellpadding=0><tr><td rowspan=3><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%BD%E3%82%93-%E5%AD%AB%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E4%BC%9D-%E4%BD%90%E9%87%8E-%E7%9C%9E%E4%B8%80/dp/4093882312%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4093882312" style="text-decoration:none;" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51fXuzRoXqL._SL160_.jpg" title="クリエーター情報なし" border="0"></a></td><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%BD%E3%82%93-%E5%AD%AB%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E4%BC%9D-%E4%BD%90%E9%87%8E-%E7%9C%9E%E4%B8%80/dp/4093882312%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4093882312" style="text-decoration:none;" target="_blank">あんぽん 孫正義伝</a></td></tr><tr><td>佐野眞一</td></tr><tr><td>小学館</td></tr></table>

孫という人は元在日朝鮮人であるということは知っていたが、あの明るい前向きなキャラクターからわりと恵まれた育ちだったのではないかと思っていたのだが、実はかなりすさまじい環境の中で育ってきたのだということが最初に印象に残った点だった。「（孫のいとこである）大竹仁鉄によれば、孫正義は朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強していたという。」このフレーズは衝撃力がある。情報革命の牽引役であり、日本最高の金持ちであり、今や脱原発の旗手でもある孫正義の出発点がこういうところにあったというのはすごいことなのだが、そうでいながらこれだけのことを実現してきた、そのこと自体に彼の比類のないパーソナリティーがあるのだと思った。そういう意味で、このフレーズほど彼の人となりを説明する言葉はないと思った。

彼の明るい、ガッツはあるが決して粗野でない物腰からは想像できない、在日が語られるときによく出て来る梁石日『血と骨』的な血と暴力的なエピソードには事欠かないのだが、著者でありインタビュアーである佐野眞一はいわゆる団塊世代的な感性からそれをすごく面白がっていて、またそういうエピソードを好んで収集しているように思われる。インタビューで聞きだした話がどこまで本当なのか眉唾的なところもあるが、随所で矛盾するそれぞれの人の証言が事態の立体性を表していて、何というか手法としてそんなに好きなわけではないのだけど、この題材にはこういうやり方でやっても対処できる、というか題材そのものが面白過ぎる感じがあった。

著者の佐野の思想というか世界観がときどき語られているのだけど、それにもあんまり賛成できないところは多いが、最初は孫の「いかがわしさ」を強調していた彼の筆致がだんだん彼を取り巻く人々の底のしれない魅力のようなものにとらえられて行く感じが読んでいて面白いと思った。このドキュメンタリーのもう一人の主人公は明らかに孫の父親である安本三憲で、彼の突出したパーソナリティーがこのドキュメンタリーにアクティブでアグレッシブでバイオレンスな雰囲気を与えている。最後まで孫の母親はインタビューに応じなかったようだが、それもまたリアリティーが加わって興味深い。

19世紀終わりの韓国から20世紀の在日朝鮮人の置かれた状況をたどる筆致はわりとすんなりとは言って来る。私は在日朝鮮人のものをそんなに読んだことがあるわけではないが、『ユンボギの日記』だとか『にあんちゃん』だとかは小学校のときに読んでいたし、同和教育の副読本『にんげん』などは誰に言われることもなく読み耽っていたので（だからと言って人権意識が発達したわけでもない、どちらかというと赤裸々な人間を描いた物語としてそういうものを読んでいたのだと思う）大阪の話が多いなと思っていたのだがいまWikipediaで見ると大阪府教育委員会が採用しているということを知ってそうだったのかと今更思っていたりする。

まあそういうバックグラウンドもあることもあって、そういういわゆる「劣悪な環境」の話は私はすんなり読めたが、苦手な人は苦手かもしれないなと思う。私にとってそういう環境というのは「事実」に過ぎなくて、悲劇であるとか呪詛であるとかのことばとあまり結びつかない。しかしまあそういう事実を知らなかった人には衝撃的・悲劇的に読めるだろうし、実際そういう環境にいた人には思い出したくもない描写に読めるだろう。その中でまっすぐに伸びて親の経済的成功とともに進学校に進み、高校を中退してアメリカに留学して情報革命の旗手となるというシンデレラストーリーをつき進んだ彼を、作者の佐野がそういう過去があるからこそ未来をのみ見つめて進んでいる、と見ているのはなるほどなと思うところはあった。

しかしその「過去を振り返らず未来をのみ語る」という姿勢が孫という人の「いかがわしさ・胡散臭さ」の原因だ、ということも言っているわけで、まあそれはそれで言いたいことはわかる。ジョブズもそうだが、孫も「普通の幸福な」子ども時代を送ってはいないし、もとより双葉より芳しい栴檀（つまり天才児）であって普通の子供ではなかった。最近ネットでの成功者の経歴を読んでいると、けっこう多くの人がそういう類型に当てはまることに気づいた。しかしその中でもジョブズと孫は飛びぬけているわけで、ジョブズは死ぬまで、孫はいまのところずっと、堀江貴文などとは違いトップを走り続けている。やはり根本的に前向きで明るいキャラクターというか、堀江のようにどこかに影があり、斜に構えたところがあるキャラクターでないところが強さなのかなと思う。ジョブズの伝記の半端でないニューエージぶりも面白かったが（まだジョブズの伝記は上巻終わりごろのピクサーのところなのだが）、孫は親戚中半端でない人ばかりでそのあたりが明るい方向に集中すると彼のようなキャラクターになるのかなと感じさせられた。

韓国の氏族制で言えば彼は一直孫氏（ないしは安東孫氏）というそうで、彼が日本名「安本」という制だったのも「安東」からとられているというのを聞いてなるほどと思った。そういう韓国の社会制度のようなものも少しは知ってはいたがその内実のようなものが垣間見られて面白かった。いまでも孫正義は彼ら一族の誇りであり、ぜひ「里帰り」してほしいと熱望されている。それに対して孫も彼の父親もまあ冷たい反応なのだが、そのあたりは氏族制を維持してきたことに誇りを感じる在韓韓国人と、自分の力一つで叩き上げた在日韓国人の氏族に関する意識の違いなのかなというふうに思ったりした。気風も文化も一致せず、在日韓国人は韓国で差別されることが多いというのはどうしてなんだろうと思っていたが、この本を読んで何となくわかる気がした。

いろいろな意味でこの本はとても面白かったし、孫正義という人間そのものにすごくシンパシーを覚える部分があったし、ずっとその活動を追って行くと面白そうだと思うところもあった。やはり自分にとってこの本は、「朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強していた」少年のイメージに熱いものを感じずにはいられないという本なんだなと思う。
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         <pubDate>Wed, 18 Jan 2012 19:06:03 +0900</pubDate>
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         <title>告知・『本の木の森』iPhone対応版・第一部「森の木の家」を公開しました</title>
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『本の木の森』をより多くの方に読んでいただくために、iPhone対応版を公開しました。全４部構成で第１部は無料でお読みいただけます。もちろんＰＣからもお読みいただけますので、どうぞよろしく。公開済みのＰＣ版より先まで読むことができます。どうぞ御贔屓下さい。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 17 Jan 2012 16:45:50 +0900</pubDate>
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