「原爆という出来事」の伝え方はまだできていない/「エクソシストを堕とせない」:全ての人間を愛する前に一人の女を愛せ/「葬送のフリーレン」:誰もが魔法を使える世界/小林よしのりと参政党と山尾しおりと香港民主化運動

Posted at 25/08/06

8月6日(水)雨時々曇り

昨夜は仕事の終わりぎわに新しい仕事が入ってきたりでばたばたして、今日やることがたくさんあるために頭の中がごちゃごちゃしていたのか、3時過ぎに目が覚めてしまってとりあえず頭の中を整理というかやることを書き出した。実際たくさんあるのだが母の病院と会計をやってもらうのが重なった日に他のこともいろいろ入ってきてなかなか大変。こうやって書いているうちにもいろいろ思い出し、今は車の駐車位置を直しに行った。一つの仕事に関連する事柄がいくつもあるので頭を回しきれていない。

https://shonenjumpplus.com/episode/17106567267987413738

5時半過ぎに職場に少し用事をしにいくついでに車で出かけてセブンまで行き、サンデーを買ってきた。今日はジャンプラでは単行本を買っているものの更新は「エクソシストを堕とせない」だけだったのだが、急に「選挙に行く」という言葉が出てきて「えっ」という感じだったが、つまりこれは「普通の人間がやること」という意味のようで、つまりは「地に足がついてきた」ということなんだろうなと思う。どういう展開になるのか行方がわからなかったが、そういう方向に落とすというのは少し意外だった。それがイムリの存在のおかげ、というのがまあ「全ての人間を愛す前に、一人の女を愛せ」という昔からあるテーゼに則っているなという様式美も感じたが。

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サンデーでは「葬送のフリーレン」が142話更新。戦端を開くのを狙うユーベルとランドだが、ゼーリエを狙うのは影なる戦士だけではなく、帝国の魔導特務隊もである感じで、その主人のフラーゼが皇帝と謁見している場面。何やら陰謀があるのは分かるが皇帝にもそれを明かさない。一方で皇帝自身は帝国を斜陽と見ていて、フラーゼは大魔法使いフランメの理想、「誰もが魔法を使える」を口にする。その理想が今や陰謀の理由になってしまっている、という退廃こそが帝国が斜陽な原因かもしれず、フランメの師であるゼーリエもフランメの弟子であるフリーレンもその妄執とも思われる理念とどう対峙するのか、など読んでいて考えた。

「龍と苺」は100年後の三段リーグ。苺の師の山野辺の曾孫のミクが他のライバルたちと四段昇段の最後の一枠を争うという展開で、まあ普通に考えれば彼女が昇段するのだとは思うが、また違う展開になるのかもしれない。

「かくかまた」ついた編集者のスパルタ教育にめげそうになる三咲が三平の黙々とした努力に励まされるといういい展開。最近、ジャンプラの「モノクロのふたり」とか、また漫画家マンガが面白くなってきた感じ。

「シテの花」もコタの謡が見事に開花。見たもの聞いたもの、教えられたものヒントを与えられたもの、全てのものを見事に吸収して成長していく速さと周りの動揺、というのはいいなと思うし、またその思いが「至龍のライバルになりたい」という動機がはっきりしたのがよかったのだなとも思う。ただそれは「大谷翔平のライバルになりたい」くらいのものだから、果てしはない感じはあるのだけど。

私は「国宝」は読んでないし見てない、多分それは自分なりに歌舞伎の世界への思い入れがあるからマンガとしての歌舞伎界というものをあまり見たくない感じがあるからだろうと思うのだけど、能の世界はそういうのが少ないからマンガで理解したいという感じがあるのだなと思う。多くの人が「国宝」に引かれるのもそういうところなのではないかとは思うのだけど。

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今日は8月6日、広島原爆忌。なんのかの言っても広島への原爆投下が第二次世界大戦および太平洋戦争の帰趨をはっきりさせたのは確かだろう。これは虐殺ではあるのだが、我が国は敗戦国なのでそこを強調するのは難しいところがある。戦争犯罪等と絡めてこの「日本人の虐殺」を相対化しようという動きもあるし、また逆にそこを強調して日本人を反米に持っていこうという外国勢力もあるわけだが、原爆投下とその被害という事件あるいは現象はそれ自体が「日米戦争」という全体から独立した事象のような感じもあり、また当然ながらその文脈で語られるべき事象でもあるので、80年経ってもまだ正確に位置付けきれていない感じはあるのだよなとは思った。こうの史代さんのようにある種の民俗や生活の観点から描いたり、「オッペンハイマー」のように開発者の側から描いたり、さまざまな描かれ方はしているけれども、例えば日米とも関わりが薄い国の人たちや遠い未来の人たちに、ある程度は客観的に、つまりは非政治的に「原爆という出来事」とはいったいどういうものだったのか、ということを伝える伝え方、というのはまだできていない気がする。

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参政党や神谷宗幣さん関係の記事をいろいろ読んでいて、参院選の間は国民民主党の擁立を外された山尾しおりさんを支援していた小林よしのりさんが参政党との関係のスタンスを探っているらしいことを知った。

https://yoshinori-kobayashi.com/30061/

山尾さんを支援していたのは小林さんの持論の敬宮殿下を次の天皇に、という主張を支持したということで推していたわけだが、山尾さんの「限界」も感じていた小林さんが神谷さんの「大東亜戦争」発言でかなり期待を持つようになった感じではある。

山尾さんを推していた中には元参政党の人もいたが、その辺りは小林さんとの関係でチャラになってしまったらしいのだけど、山尾さんが逆に参政党に参加していたら、というifを柿生隠者さんが書いていて、議員でも元維新の梅村さんのように参政党に加わった人もいるし、堀さんのようにリベラル系の学者でも支持を表明している人も出てきているから、参政党の拡大の可能性はまたそういう面からも大きくなってきている感じはある。

https://note.com/kakio_ja/n/n2982701a2d3a

それともう一つへえっと思ったのは、日本で香港の民主化運動を支援していた中心になっていたのが山尾さんだったらしいこと。同様に東京選挙区で出馬していた平野雨龍さんも香港民主化運動に関わっていたそうで、この2人の接点がこの選挙で見えなかったことの意味、というのも確かに不思議だなとは思った。

平野さんは真偽不明の国籍問題で今叩かれているけれども、彼女らの問題は、我々が香港の民主化運動に、さらには天安門事件の時以来の中国の民主化勢力に対しどういうスタンスを取るべきか、という問題とも関わってくる。

この問題は結構難しいなとは思っていて、反中共という意味では当然ながら応援の意味はあるけど、彼らの根っこが反日であったら清朝や中華民国の時代に反政府運動化を支援したアジア主義の日本人たちと同じように、最終的に幻滅を覚えることになる可能性も大きいなと思っている。少数民族の反中共運動の支援はまだ意味はあると思うけれども、ウイグルや南モンゴルの運動についても彼らは基本的に彼らの権利のために戦っているわけで、日本の援助はあると大きいとは思うけれども、あまり深入りしていいことがあるのかどうか、ということは思わなくはない。やはりチベットは特別な感じがするが、それはチベットにはダライラマがいるからだろう。そうした運動と民族の中心となる存在が中国や香港の民主化運動では若い人たちになってしまうから安定感がない。ウイグルや南モンゴルはまだ理解すべきところが多い感じがする。事実上の独立国である台湾は、いろいろあってもやはり支援すべきだしまたTSMCの工場建設のように我々がむしろ支援されるような、win-winの関係が作っていけると良いとは思う。


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