お盆の準備/誕生日に思うこと/「高野連の組織」と「学生野球」の特殊性/部活動の脱学校化と情熱と冷静のバランス

Posted at 25/08/13

8月13日(水)薄曇り

昨日はお盆前の最後の営業だったが、割合忙しかった。朝のうちにお盆の準備をある程度やろうと思って昼前にお墓へ行ったらあまりにも草がたくさん生えていて、このままではどうにもならないと思い完全武装して出直して、それなりに頑張って取ったが雨が時々降ったりして取り切れてはいない感じ。お盆前に完全に綺麗にして花を生けたりしておくのが理想だが、やり切れなかったので今朝行ってなるべくちゃんとしておきたいと思う。

家の方では13日(つまり今日)午前中にお坊さんが棚経をあげに来るので仏壇に飾る精霊馬(胡瓜の馬、茄子の牛)を作り、盆茣蓙を敷いたりした。盆茣蓙を買った時に麻がらがついてきて何に使うのか分からないままただ置いてあるのだが、調べるとこれは精霊馬の脚に使うらしく、もう割り箸で作ってしまったので来年は覚えておこうと思う。

あとは部屋の中と玄関の片付けだが、これは日記/ブログを書いてからやりたいと思う。朝の仕事が多いわけである。

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今日は誕生日でもあるので、63歳。なんだか知らないうちに歳をとってしまい、人の話を聞いていると人生の締めに入るような話が多いのだが、私としてはまだまだこれからいろいろやりたいと思うし、目標もある。気になることも多いし、ただそれをきちんとまとめて誕生日の回にしたいところだったのだが、日々が忙しくてそれどころではないという感じである。

基本的にやりたいことは、「ものを作る」ということ。梅酒をつけたり梅ジャムを作ったり、そういう先祖がいろいろやってくれたことを生かしたいという気持ちもあるし、自分自身が本を作ってみんなに読んでもらいたいという気持ちもある。この辺りは今のところはネットに文章を書いてあげるにとどまっているが、物理的な本を作りたいという気持ちは前からある。

気になることといえば日本(と世界)の行く末であって、まあだから保守主義というテーゼがあり、その選択肢が日本と世界をより良くするのではないかと思っていろいろ書いてはいるのだが、そのあたりはまだまだ蟷螂の斧だなあと思う。これも物理的な本を作って読んでもらうのが一番いいのだろうと思っているのだが。

理想は、作ったものをたくさんの人に買ってもらってそれで収入を上げていくことなのだが、まだいろいろ見えてこないので試していきたい、というのがとりあえずの現状だろうか。

あとは人の輪を広げていきたいと思っているのだけど、これもどのようにしていくのが良いのか、まだあまり見当がついてないのが実情だなと思う。結局のところこれまで生きてきた中での仕事というのは「人にものを教える」ということがほとんどなので、その他のことについてあまりわかってないことが多いのだよな、と自分を振り返って思う。自分はまだまだだなと思うが、前に進んでいきたいと思っている。

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今日は誕生日ということもあり、あまり問題的なことを書きたくないなという気持ちもあったので少しだけにしようと思うが、高校野球と高野連の問題について少し。

高野連のトップは会長だが、組織図にはその上に最高顧問が4人と顧問が7人いる。これはどういう人たちなのかと思って調べてみたら、最高顧問のうち2人は元高野連会長で、残りの2人は朝日新聞社と毎日新聞社の社長だった。顧問の7人はノンフィクション作家が1人。アメリカ野球のことをずっと日本に伝えてきた人らしい。残りは5人が元副会長で、1人が元事務局長。

元会長の2人は高校野球畑というよりは大学野球に関わってきた人のようだ。元副会長の5人のうち3人は朝日・毎日からの出向組、残りの2人が高校野球の監督上がりのようだが、2人とも滋賀県出身だった。21世紀枠の選出が滋賀県が多い、というのが言われていたことがあったが、こういうのは確かに李下に冠を正さず、ということはあるようには思った。

全体に共通していたのは「学生野球の独立」ということにこだわる人が多いということ。これらの人々は結構インタビューに答えているので、またその辺りのところは読んでこういうことがあるのではないか、みたいなことはまとめてみたいと思うのだが、まだちゃんとは読んでいない。

ただ流し読みした感じでいうと、「同じ高校の部活動」において、その上部組織が「高野連」と「高体連」の二つがあって、それぞれの指導理念や指導方針が違うことで同じ学校の内部での部活動全体のあり方が少しギクシャクしたものになっていることがあるのではないかということ。戦前からの人気スポーツである野球は人脈も多いし、ボランティアで動ける人が多いから、高野連の資金も潤沢だが、高体連の方は主に文教予算からの支出なので限界がある。

また、中学の軟式野球は中体連なので学校スポーツとしてはそこに断絶があり、むしろ野球を始める子供はリトルリーグ・シニアリーグ・ボーイズリーグなど学校スポーツとは別の範疇で始めることになり、そこには学校教育とは別の論理が働くわけで、他のスポーツとの異質感というのはそういうところでもあるのだろうと思った。

それなら野球も他の学校部活動と同じ高体連にまとめられるべきかというと、そこは難しい。その一つの理由は野球という競技の国家からの干渉を排除する、というのが「戦後の民主化」の一歩として始まり、強大な独立体になっているというのが一つ。

二つ目は、昨今の教師の働き方改革の側面から、中学や高校の部活動の脱学校化が始まっているということである。そういう意味で言えば、学校に頼らずにやってきた中学以下の野球のシステムがむしろ先進的になるという面もあるわけだ。シニアやボーイズは保護者の負担も多い(高校の野球部もそうだが)のでその辺りは改革されるべきところもあるだろうとは思うのだが、学校ができなければ保護者に負担がかかることはある程度はやむを得ないし、その辺りの全体的な方向性というのはどう考えるべきか難しいところはあるようには思った。

ただ部活動内で起こる「いじめ」などの問題というのは、内部への凝集力が強い集団にやはり起こりがちなことであるし、そこの風通しの良さというのも必要だとは思うし、一定の第三者が見守れる体制のようなものは必要であるようには思う。子供がスポーツを楽しめ、大人にも負担になり過ぎないように運営できるような仕組みができると良いと思うが、野球は特に大人の側が「情熱」が強い人が多いので、ついそういう人たちに頼り、またそういう人たちが主導する形で進むようにはなってしまいがちではあると思う。まあこれは音楽でも文学でもなんでもそうだと言えばそうだし、世の中から情熱がなくなって仕舞えば世界はつまらないものになってしまうことも確かなので、情熱と冷静のバランスの取れた、より良い方向性が出てくると良いなと思う。

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