「ふつうの軽音部」101話の爽やかさ/読者による小学館漫画単行本ボイコットの動きと草津冤罪事件/オールドメディアはなぜオールドなのか/意識高い運動の傲慢さとは/日本における「歩く」という文化

Posted at 26/03/08

3月8日(日)晴れ

昨夜は早い時間にうたた寝をしてしまい、昨日のうちに一度目が覚めたのだが、そのままうたた寝を1時半ごろに目が覚めたが、寝る前に風呂に入らずにそのまま寝てみるという実験をし、3時過ぎに目が覚めた。まあもう起きてしまえと思ってそれから入浴したのだが、やはり寝る前に入った方が腕の痛みは減るような気がする。実験失敗。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094914778813855

それから「ふつうの軽音部」101話「合同ライブが終わる」の更新を読み、なんとも爽やかな気分に。かなり重い話がこのライブの背後にあったので、それに関わる三者三様、水尾とレイハと純の3人が、それぞれ明るい方向に向かえそうなのがいいな、というか眩しいなと思った。もちろん現実はこんなふうにはうまくはいかないのだろうけど、それが音楽のちからで前に向いていく、純に関しては実直な弁護士のおじさんの大人としての言葉が重いわけだけど、そういうのも含めてある種のファンタジーであると言えなくはないが、でもそういう物語が世の中を明るくするということも確かなので、すごくいいなと思ったのだった。

それからいつものようにコメント欄とTwitterの感想を読み、それから「第2回人気投票」が始まったので、それぞれのキャラについての原作者のクワハリさんによる説明文がまた面白く、結局全員分読んでしまった。

https://www.shonenjump.com/p/sp/2603/vote_futsunokeon2/

と思ったら「葬送のフリーレン」も人気投票をやっていて、こちらはザインに投票した。なんとなくこのキャラが好きだなと思うので。

https://websunday.net/frieren2603/

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マンガワンをめぐる件について昨日と一昨日に取り上げたが、私としては編集部の対応に問題があったが、マツキタツヤさんの件については、それなりにきちんとプロセスを経て原作者として起用されているのでこの作品は守りたいし守るべきだということ、それから山本章一氏の件に関してはもちろん山本氏の方にも問題はあったがどっちもどっちという側面の方が自分には強く見えてきてしまうので、どちらの味方もしないが山本氏は大人で相手は未成年だという一点において謝罪と賠償はあった方がいいんではないかというスタンスなのだけど、なかなかそれは理解してもらいにくいようで、昨日一昨日はnoteのアクセス数もいいね数もかなり少なくなっていて、まあそんなもんかなと思ったりはする。

実際こういうのは当事者じゃないとわからないことが多く、周りでやいのやいの言ってるうちに人民裁判が始まったり魔女裁判になったりするのであまり良くないと思うし、特にマンガ家さんたちが「マンガワン」編集部に対してボイコットを始めたために読者の側が小学館から出ている例えば「葬送のフリーレン」などもボイコットする、という動きにつながって、マンガ家さんたちが慌てて「そこは分けて考えてくれ!」と言ってるのだけど、どうもその辺は「あなたたちが始めた物語では?」という気がしてしまう。いずれにしてもこのあたりのところは制度的に未成熟であるのと、マンガ家も読者も感情的に反応しすぎだということ、それはおそらくどちらも女性が多いということと関係するのだろうということを感じたので、いずれにしても冷静に客観的にみていくことが必要だと改めて思う。

こうした事情の背後には「理不尽を感じたら即行動をすべき」という間違った意味での知行合一的なフェミニズムの考え方が反映しているようには思う。

今回の事例とはもちろんいろいろな意味で違うのだが、ただ「有力者(有名人あるいはキラキラ職業)の性加害疑惑」ということにおいては共通しているのが草津町長の冤罪事件である。

https://x.com/harrier0516osk/status/2030131885100474736

「だから、女性の権利界隈が最も批判対象とすべきは,草津事案みたいなケースだと思うのですよね。
ああいうのが一定混ざる限り、裁判というシステムの中で反対尋問などの「誤り防止システム」が発動する必要がある
ところが、界隈は、草津事案については、批判は一切しておらず、むしろ、なんと「連帯」して加担していました。
ああやって、犬笛吹いて無辜の人を犯罪者呼ばわりする界隈がある限り、裁判システムは、現行のシステムより緩めてはいけない。それどころか,むしろ,今でも緩すぎると思います。」

これは本当にそうで、女性市議の一方的なレイプ告発に、多くの有名なフェミニストが一斉に町長攻撃に回った。しかし現実にはこれは全くの虚偽告発で、それなのに「レイプの町草津」などと一方的に宣伝されて相当な風評被害を町長も草津町も被ったわけである。

しかしそれが明確になり、元女性市議が法の裁きを受けたのちにも、公開で謝罪したフェミニストはほとんどいない。「理不尽だと思ったら行動する」のは即座なのに、「間違っていたら反省し謝罪する」が伴っていないのである。これでは暴走する機関車と同じで、社会にとって危険極まりない。

私は保守主義のスタンスではあるが、現実的には相当なまでにリベラルな社会にあるからこその保守主義であって60年前の世界に住んでいたらおそらくはリベラリストと称しているだろうと思う。上記のツイートには全くその通りだと思うし、フェミニズム界隈があのような事件への対応を真摯に反省して謝るべきものをちゃんと謝るようになっならかなり手強いだろうとは思う。

現状は未成熟なままでただ喚いている迷惑な女たちにしか見えないしだから若者から見捨てられている。本当にフェミニズムの運動を本邦に定着させたいのなら大人として社会に責任を持つ態度を取るべきなのは当然だろう。若者たちは私など以上に本質的にリベラルだから、女性の権利というものの理解ももっと進んでいるはずなのだが、一方的なフェミニストの言動に白けてしまって相手にしない姿勢になっていることに、もっとリベラルやフェミニストは自覚するべきだと思う。若者は保守化などしていない。理不尽な言動にNOを突きつけているだけである。

***

それと関連するけれども、昨日は週刊文春の山本章一氏に関する記事を読み、典型的なオールドメディアだなと思ったのだが、それに関連してオールドメディアはなぜオールドなのか、ということを考えた。

それはつまりは「言いっぱなしで許される」と思っているところなのだろうと思う。この事件の裏テーマは「犯罪者の、特に表現者としての社会復帰」というところにあると思うのだが、週刊文春の記事を読んでもその点に真摯に向き合うという姿勢は全くない。それは文春が文春砲と言われるように相手を糾弾して木っ端微塵にすることだけを目指していて、その後に残った人たち(例えば加害者とか被害者とか言われる人たち)の「日常への復帰」「社会への復帰」について無関心だからであり、そういういわば繊細な問題については不得意だからで、その「言いっ放し」性がオールドなのだと思う。

だからことネットに関してはTwitterアカウントを作ったり新聞などでも識者がコメントをつけられるようにするなど、一定の双方向性を考慮しているような形は取っているが、文春アカウントがついたリプライに反論してるケースはないし、言わせっぱなしである。また新聞にしても誰がコメントをつけられるかは新聞側が決めているわけで、偏った人選になっていることも多い。

その対極なのがヤフコメだが、こちらはカオスというかどうでもいい感情の爆発を垂れ流すコメや変な誹謗中傷も多く、そういう意味ではあまり正常に機能していない。結局のところ一番まともに機能しているのはTwitterだと思うのだが、これも弱小アカウントがいくら読むべきところがあるポストをしても大アカウントに見つけられなければほとんど読まれないということもあり、なかなか難しい。

いずれにしても「言いっぱなしでない、議論の末に方向性が見えてくるメディア」がオールドでないメディアだと思うのだけど、そのありうべき形態はまだ見えてこないのが現状だろうと思う。noteやはてな匿名など、面白いメディアはいろいろあるが、これらを整理してこういうことではないかということを提示するのはまだできていない。ある意味こういうのはAIにならできるのかもしれないが、もしそういうものが出てきたら特定の政治勢力が自分たちの主張をめちゃくちゃAIに食わせてそれをコントロールするとかになるだろうし、結局は人の手でやるしかないんだろうなとも思う。

だから基本的には蟷螂の斧だなとは思いつつnoteやブログで発信するという試みを続けているのだけど、どうしたらより多くの人にそうした考えを届けられるのかは、まだ試行錯誤の段階ではある。

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https://x.com/Taroupho/status/2030338140704227540

これは意識高い人たちの、「俺たち意識高い」という自意識のあり方が偽善と感じられるということへの告発なのだけど、確かにこういうものは自分が大学の頃もとても感じていたことで、結局そういう運動に絡む気がなくなった一つの大きな理由であり、そういう意味で懐かしく感じた。

まあ少し複雑だが、路上生活者を風景の一つとして描写するような短歌について「まなざす側の傲慢さ」みたいなものを得々と説く人に感じる傲慢さ、ということで、眼差したくらいで傲慢だというその傲慢さが気に入らないという話なのだけど、これはかなり前になるがホームレスの人たちと仲良くなって教えを乞おう、みたいな企画に対して批判が噴出したということと同じものがあり、まあ「いつものリベラルしぐさ」に対する腐臭嗅ぎ分けみたいな話だとは思った。

障害者の援助ということをやっている人に付き合って一度参加したことがあるのだが、その対象の人が障害者であるという理由で様々な理不尽に思えることも要求しているのをみて、こういうのに私は付き合えないなと思ったからそれきりにしたのだが、活動している人からはなぜこの活動を理解しないんだ、と怒られたわけである。その人はまあ純粋な気持ちでやっているのは分かったのでそれ以上言わなかったけれども、逆にそういう自分に酔ってるようなところを感じたら付き合いはしないがその強かな障害者とある意味対等だなと感じただろうと思うのだけど、こちらが搾取されてるような感じになる運動は不本意だなとその時は思ったわけである。

まあ運動周りのことはなんでもこういうグジャグジャした感じのことが出てきてどうも私は真っ平御免という感じになってしまうのだけど、その辺のところがもっと整理された感じになるのでなければ、なかなか広がらないんじゃないかなとも思う。

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なんかぐずぐずした話ばかりになってしまったが、最後に面白いなと思ったこと。

https://x.com/SustainableTall/status/2030179699859829045

つまり、これは日本語には「歩く」ということに関して36もの言葉がある、という話である。言語学的に妥当なのかどうかはわからないが、普段あたりまえだと思っていることを改めて指摘された感じがあって面白い。

確かに、日本においては「歩く」ということが文化の一部になっていると思う。その歩き方に色々な表現があるというのがその根拠だろう。イヌイット語には雪についての一次名詞が豊富にあるという話があったが、日本語の歩くに関する言葉は一次名詞ということはないが、それでも十分に様々な歩き方を表現しているとは思う。

特に能や歌舞伎などの舞台表現に関しては本当に細やかな表現があるから、日本語の舞台芸術の基礎が「歩き」に、そしてそのバリエーションである「舞」にあるということがよくわかる。韓国の舞台表現は三拍子の「踊り」で日本の表現は二拍子の「舞」だ、というのは以前読んだことがあったが、その基本が「歩き」にあるということも言えるんじゃないかと思う。そこには歩くことへの日本人のこだわりが現れているということなのではないかと言われると、そうかもね、と思ったのだった。

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