中井亜美選手の銅メダルとか「絢爛たるグランドセーヌ」とか/フランスや人文系の魅力低下/国際結婚の障害/「天皇」や「日本国家」に対する「崇敬」と「不信」

Posted at 26/02/20

2月20日(金)晴れ

朝は少し冷え込んでいる。先ほど見た気温はマイナス7度、昼間はそれなりに暖かくなってきたが、晴れた日の朝はやはり寒い。しかし「枕草子」に「冬はつとめて」というように、早朝のりんとした空気というのは気が引き締まる感じはある。空気が澄んでいるので遠くまで見えて、この辺りで言えば見える場所に行けば富士山が見えるのだが、これはこの時期のものである。もう立春も過ぎたので、というか昨日は雨水で旧暦でも今日は1月4日、平安時代の感覚では一応春である。まだ「春はあけぼの」というようなうららかさとは程遠いけれども。

昨日は午前中少し作業した後買い物に出てホムセンでスリッパを買ったりスーパーでお昼の買い物をしたり。それから書店へ行って「チャンピオンRED」の4月号を買った。「絢爛たるグランドセーヌ」の中でもコロナ禍が終わろうとしていていろいろ動きが慌ただしくなってきている中、日本でのバレエスクールの生意気系後輩男子がロンドンに来ていて一緒に買い物をしたりするなどの動きもあり、「バレエ漬け」とは少し違う華やかさもあった。先輩のファビオラに出会ったのが今後の展開では楽しみなのだが、プロのバレエ団の練習に参加したりしてまた違う雰囲気の場面が興味深いなと思う。

フィギュア女子中井亜美選手の演技をリアルタイムで見たが、ショートに比べると余裕がない感じで最後は首を傾げていたが、フリーの順位は9位で銅メダルだったようだ。残念だが、まだこれからの伸び代というようなものを強く感じる演技だったので、今後また頑張ってほしいと思う。坂本選手は銀メダルで金メダルはアメリカの選手だったようだ。

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大学においてフランス語の履修者が減っているという話なのだが、デリダ・フーコーの時代から90年代くらいまでは哲学の最先端はフランスだという意識があったし、フランス映画や革命の歴史への意識もあったのだけど、そういう社会的な要請が薄くなってきたことが、学生たちから見てフランスに対する評価の低下につながっているのだろうなと思う。私が今考えてもフランスそのものの重要性というよりは、核保有国でありEUの中心国家の一つ、みたいなところから考え始めてしまうので、以前のような革命と民主主義の母国とかそういうイメージは消えてきてるなと思う。政治的にも新しいものをどんどん生み出していた時代は過ぎ去り、極端な世俗主義やイスラム移民たちの報われなさ、wokeの横行、極右の台頭など、ヨーロッパとフランスに対する幻滅が広がっていることも大きいなと思う。私も修士課程でフランス革命を専攻しているのでそれなりの残念さは感じてはいる。

アメリカなどを見ていると、文化的にフランスに対してコンプレックスがあるように感じることが多いのだけど、日本には英米人のようにそういう根源的なフランス・コンプレックスがないので、全般に欧州の衰退を感じるなとは思う。

また、中国に対しても昔は、特に日清戦争に勝つまでは中華コンプレックスがかなりあったと思うし、戦後も贖罪意識と共にやはり中国はすごいという意識が復活し、シルクロードなどへの憧れが私も子供の頃にはあったのだが、中国共産党の支配が続き、特に習近平体制になってからの国としての「余裕のなさ」のようなものを見ていると、「国としての魅力」みたいなものもあまり感じなくなってきているなと思う。そういうものはまだ米英には感じる部分がかなりあるから、やはりアメリカとの関係は大事にしていくべきではと思うところもある。

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日本人の中には海外に移住する人がそれなりにいて、SNSで発信が多い、あるいは多く感じられるのは女性の方だなと思うし、特に「海外出羽守」と言われる人たちの多くが女性で、男性でも学者が多いなと思う。海外にいる男性の多くは地元の仕事などでいろいろ苦労していてその国のひどいところやいいところを客観的に発信する人が多い印象だが、最近では女性でもその国のひどいところを発信する人が増えてきた感じはある。

その中でも「国際結婚」の数が増えているが、よく言われるのは開発途上国の女性が先進国の男性と結婚する、いわば性的搾取的な方向での議論が時々あるわけだが、今後日本人女性の国際結婚は減っていくのではないかという指摘があり、それが日本女性には「子供の連れ去り」のリスクがあるから、というのはそうかもなあ、とは思った。

https://x.com/kasiwa_kuma/status/2023465633716056395

なぜこういうことが起こるかというと、日本国内でも離婚調停では母親が親権を取ることが多く、それと同じ感覚で海外でもやってしまうということなのだと思うけれども、日本でも共同親権が4月から施行されるからその辺は変わっていくかもしれない。連れ去られた父親側の悲劇や、親権を取った母親が養育費が送られてくるのにそれを子供でなく自分のために使う、などの例をよく聞くのでそれは良いことだと思う。

ただ、日本における母と子の関係というのは世界的に見ても特殊なくらい強いのではないかという気が少しした。無責任な母親が子供を捨てて父と子だけが残される、みたいな話ももちろんあるのだが、「母子もの」の方が圧倒的に多いような気がする。それがどのような文化を背景にしているのか、というのは最近の研究だとどうしてもフェミニズム絡みになりそうで読む気がしないのだけど、昔の研究でそういうのもある気もするので読んでみてもいいかなとは思った。

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若手研究者の恵まれなさ、みたいなことがよく言われるが、若手研究者の大変さというのは昔からそういうものだろうという気もするのだが、特に人文系は段々先細りの傾向があるから厳しいことは確かだろうなと思う。

https://x.com/KuwaharaTabito/status/2023948081415245863

ただ、人文系学問が衰退しつつある最大の原因は、学問のwoke化(もっと広く左翼リベラル化と言っても良い)にあると思う。人文学の魅力というのは、自分の知らない人文知の広大な世界に触れ、世界に畏敬を感じ、その世界の系譜に自分自身もまた位置付けていくことにあったと思う。もちろんそれは世界を変えることにつながる可能性があることではあるのだけど、今の人文学と称するものは学問自体がwoke的な価値観に基づいて小手先で世界を変えようとするための小道具に堕してしまっているようにしか見えない。wokeの手から学問を取り戻さなければ、人文学の未来はこれからも先細っていくばかりだと思う。

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今は割とシンプルに「皇室を崇敬するのは保守・右翼」と考えられていると思うのだけど、かつて「天皇は左翼」というネット上の「迷言」があったように、その辺りの関係は実はそんなにシンプルではない。

https://x.com/accentdeverite/status/2024047521618940219

60年安保期に深沢七郎『風流夢譚』や大江健三郎「セヴンティーン」連作や三島由紀夫『憂国』など、作家たちが「天皇」の存在に問題意識を持って書いていた、という話を読んで、まあこれは確かにそうなのだよなと思った。

私は演劇をやっていたし、大学のクラス演劇で別役実の「アイアムアリス」、自主公演で「不思議の国のアリス」をやったことがあるので、別役の戯曲はそれなりに読んだのだが、その中にも「マッチ売りの少女」という作品があった。

http://www.misawa-ac.jp/drama/works/w_08.html

この作品の概要は上記を読んで貰えば大体わかると思うのだが、これが天皇制をテーマにしている、ということがどのくらいの人に理解できるか、ということは今になると思う。

つまり老夫婦の側が天皇制とその国家の普通の市民たちであり、過去に様々なことがあったことを、もう忘れてしまっている。女は「自分は老夫婦の子供だ」と称しているが、要は「国民は天皇の赤子である」という言葉がそこでキーになるわけである。「マッチ売りの少女」が売っていたものはもちろん童話ではマッチなのだが、実は少女はマッチを擦ってその間に自分のスカートを捲り上げてそれを見せる、というある種の売春行為であった、という話があって、それが国民の一部の戦中ないし戦後体験のアナロジーにもなっているし、一部の人たちにとっては「従軍慰安婦」や「パンパン」などの性的な被搾取の象徴と読めるようにもなっているわけである。

「弟の卑しさ」は迷惑をかけたアジアの国民をよそに経済的繁栄を享受する国民の後ろめたさの象徴でもあるだろうし、そういう意味でいうと1966年、高度成長の始まった時期のある種の国民意識をよく反映した作品だと思う。

戦中から戦後の歴史の中で、多くの人々が「国家≒天皇から見捨てられた」という思いをもっただろうと思う。それは満洲において侵攻してきたソ連軍の暴虐にさらされ、守るべき関東軍が先に撤退してしまった、という経験からくる人もいるだろうし、ガダルカナル島やインパール作戦のように補給が杜絶し凄絶なサバイバル状態になったとう意味での「見捨てられ」でもあり、また「天皇のために決起した」青年将校を「無慈悲に」処刑させた二・二六事件に関してでもあり、小学校の教室で昨日まで信じていた内容を墨塗りで消された体験でもあり、そうした多くの「見捨てられ」の物語の中で例えば寺山修司の「霧深しつかぬ間海にマッチ擦る身捨つるほどの祖国はありや」の祖国に対する不信の念や、今でも左翼系の多くの人々の持つ国家や天皇への不信に結びついていることは間違い無いだろうと思う。

そういう意味で「天皇」への不信というものは左翼だけでなく右翼にもある部分で共有されるものでもあり、三島由紀夫がこだわったのもそういう部分だったわけである。

もちろん多くの国民はそれを自分たちの努力で乗り越え、わりない思いもあったとしてもやはり天皇が国民の中心にいてくれると安心する、と思い直して戦後の象徴天皇制を支持していったわけで、そうした普通の人々、「マッチ売りの少女」で言えば「老夫婦」の側にも、そうした意味での物語は確実に存在したわけである。

私も元々は左翼リベラル傾向の両親のもとで育っているのでこういう感覚はそれなりにわかるのだが、父も80年代以降はどちらかというとスタンスが保守の方向に傾き(それでも多分最後まで自民党には投票しなかったと思う)渡部昇一や小室直樹をよく読んでいて、私も子供の頃からそういうものを読んでもいたので、右の感覚も左の感覚もそれなりにわかる。

だからそういうものを踏まえた上で今は保守のスタンスを取っている、例えば二二六をめぐる様々な言説の中では、自分としては重臣ブロックというか昭和天皇の怒りに最も共鳴する部分があると思うし、しかしなぜその方向に日本が行かなかったのかについてはもっと深めないといけないと思ってもいるわけである。

日本の左右についてはそのくらいの深さでは考えていかないといけないと思うのだが、どうも最近の左翼リベラルの発言は言葉が軽い気がして、もっと勉強した方がいいのでは無いかと思う部分が多い。


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