アニメ「葬送のフリーレン」の戦闘シーンの良さ/絶対に譲れないもの/「自分からは死なない」/「評論家」が最終的に目指すもの/餅を食べる/「健康で文化的な最低限度の生活」と保守vsリベラル

Posted at 26/01/24

1月24日(土)晴れ

このところ朝食に餅を食べているのだが、これは特に理由があるというほどでもなく、スーパーで売っているプラスチックのお供えの中身が切り餅で、特に他に食べる機会がないので、パンを買い忘れた時に食べてみたら意外と腹持ちも良く、ちょっといいかもと思って食べていたわけである。

今朝は土曜日でいつも隣町のデイリーにパンを買いに行く日なので今日はパンを食べたが、餅もまだ結構残っているので適当に割振りながら食べていこうと思う。

昨日は午前中に母を松本の病院に連れて行ったのだが、途中でトイレによっていたりしたら思ったよりも時間がかかり、診察時間に間に合わせるために高速をちょっと飛ばしたら母が両手で力を入れて座席で踏ん張っていたことがわかり、それで手が痛くなってしまったようで、これは参ったなと思った。自分が一人で走る時はそういうことは全然気にしていなかったのだけど、高齢者を乗せている時はそういうこともあるのだなと思い、気をつけようと思った。帰りはゆっくりめのスピードで走り、どんどん周りの車に抜かれて行ったが、思ったより時間はかからなかったのでもう少し時間に余裕を持とうと思う。

とは言え実家に帰った時刻は思ったよりも遅くなり、昼食を取ってから昼食前にやろうと思っていたことをやることにはなったのだが、ちょっとゆっくりしていたら気がついたら時間ギリギリになって、少し離れた書店まで走ってビッグガンガンと「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」8巻を買った。

https://frieren-anime.jp

夜は帰ってきてからご飯を食べて、「葬送のフリーレン」を見てから寝た。「南の勇者」の話と剣の魔族の話、7巻の63話と64話でまあ小ネタに属するエピソードだが、二期最初の戦闘シーンもあり、やはりかっこよかった。私はこの作品自体に最初は興味がなかったのだが、アニメの一期8話くらいだったと思うが、原作でいえば2巻ラストの17話で、グラナト伯爵を救いにきたシュタルクの応援に現れたフェルンが窓の外からガラスを割って登場する場面。たまたまみたのだがこの映像はすごいと思い、見るようになったのである。原作では結構地味だし、その後にフリーレンが戦うのがこの作品の魔族でも人気ベストワンの「断頭台のアウラ」なのでそちらの方に注目が集まるのは致し方ないのだが、フェルンの登場の場面が魔族リュグナーのフリーレン回想の場面と重なり、心を奪われた感じだったわけである。

だからこの作品の戦闘シーンには常に期待はあって、一期で他に例えば1級魔術師試験でのフリーレンの複製と戦う場面など、本当に目の覚めるような感じがあった。今季もまたそういう場面が見られることを期待したいと思う。

今朝は起きたら6時半を過ぎていた。自分としてはかなりの寝坊だが、どうもそれは寝る時に長袖のTシャツをパジャマの下に来ていたので腕が冷えなかったことが大きかったのだなと思った。寝坊というのはスケジュール的には困るが頭も体も休まったということなので、それを考えに入れておくと良いなと思った。時間がある時にしまむらかユニクロで長袖Tを2枚くらい買おうと思う。少し遅くなったが隣町にガソリンを入れにいき、塩パンとフルーツケーキの切り落としを買って帰ってきたら8時前になっていた。

***

入浴してから続きを書いているが、今朝は出かけている間に何を描こうかいろいろなことを考えていたのだけど、テーマとしてはふたつだろうか。一つは「絶対に譲れないもの」は何か、あるいはそういうものがあるかないか、ということで、深掘りして行った時にそういうものが全くない、という人はものすごく節操がない人か逆にものすごい悟りを開いた人、ということになると思うのだが、大抵はそういうものがどこかにはあるだろうと思う。ただそれが深いところにあり過ぎて見えない、ないしは見えにくいということはあると思うし、私はどちらかというそういう人間だなと思うので、そういうものがないと言って悩んでいる人には同情的な部分がある。ただこれは自分がそう思っているだけで、周りからは割とわかりやすいプライドを持っているように見える場合もあるし、多分周りの人間やこういう文章を読んでいる人からはこんな人だろうというイメージは持たれていることも多いんじゃないかとは思う。

自分が絶対譲れない、というか心に決めていることというのではっきりしているのは、「自分からは死なない」ということで、つまりは自殺や自殺的な行為はしない、ということで、当たり前と言えば当たり前なのだが、例えば山上被告とかがやっているのはある種の精神的自殺であるわけだから、ああいうことはしない、ということである。これは当たり前のように見えて、そういうところがやばい人は実は結構いるし、実を言えば自分自身もある種相当短気なところはあるのでそういう自分自身に対する決め事というのはリーズナブルという点でも持っていると良い感じはする。

ただそんな決め事だけで生きていけるわけではないからじゃあどうやって生きていけばいいのか、という話になるわけだけど、しばらく前によって心に残っていたのが麻生太郎「自由と繁栄の弧(文庫版)」の36ページにあった「自らの生存と安定、それに繁栄という国益の三大目的」という言葉で、要はつまりは個人にとってもこの三つは大事だなと思ったいたわけである。

つまりまずは「生存」、生き残ることが大事であって、これは普通は金銭的なことを指すことが多いけれども、例えばいじめの対象になっているような場合は毎日が「生存」を達成するための戦いの日々になるわにあで、それが戦いきれなければ「自分から死ぬ」ないし「相手を巻き込んで死ぬ」みたいな行動になるわけである。だから豊かな現代社会においても「生存」というのはそんなに簡単な問題ではないわけで、いじめる人やパワハラをかます人というのはそうやって人を生存レベルの葛藤に追い込むことで主導権を取れるということを本能的に理解している、ということになるのだろうと思う。

私はまあ、子供時代はそれなりに生き残ることが大変な状況の時が長かったのでだからこそ「自分からは死なない」なんてことを決めたのだが、大人になってからは自分で状況を選べるようになったことでかなり楽になったことは確かである。

次は安定ということになるが、普通の、というか一般の人にとっては就職ということになり、それで安定してくるとさらにその上のステップを求めるか、みたいな話になる。もちろんこれもまた「譲れないものがある」、例えばオタクの人たちにとっては子供の頃からそれに執心し、就職したりしてもさらにその趣味に邁進したりするわけで、ある意味自分に忠実に生きられているわけだからすごいと思う。

あまりはっきりとそういうものがない場合、あるいは生存をかけてそれをやるというほどではない時に、安定というのが大事になるが、そのライフスタイルは生物である以上一般的にはつがいをつくり子孫を残すことが標準になるわけだけど、そこが多様化しているのが現代なのだろう。ただ一般には結婚して子供を持ち、年齢が長じては孫をもちひ孫に相好を崩す、というのが一番安定感がある「安定」だという気はする。まあそこまで行くと子宝、長寿、一族繁栄という感じで第三段階の「繁栄」に入るという判断もあるわけだが。

自分の人生はどうもそういう方向にいかなかったのでその辺が多少残念な感はあるしそういうものを諦めたわけでもないのだが、やはり何かを生きているうちに成し遂げるということに対するこだわりはあり、そういうものが考えてみたら「譲れないもの」なんだろうなとは思った。

昨日出たスペリオールの「らーめん再遊記」で有栖が「おそらく僕ら評論家は魅了されたジャンルについての思考が「自分とは何か」「他者とは何か」「そして人間とは何か」という問いかけにつながり、最終的には世界の謎を解明したいと思っている」ということを言うのだけど、これはすごくわかる気がした。と言うか、自分が漠然と「やりたいこと」と言うのはおそらくそう言うことだろうと思っている。有栖はラーメン評論家なのでラーメンを切り口に幅広い文化論から人間論に至る、というサブカルからの攻めになるわけだが、文芸評論家なら文学を切り口にして芸術論から人間論に広がったするわけで、小林秀雄などはそう言うことだろう。

なんというか、同じ評論家でも文芸評論家や政治評論家は格上でラーメン評論家やサブカル評論家は格下、みたいな感じは世間的にあるが、「世界の謎を解明する」と言う究極の目的を考えるとそれは実はそんなに違わない、と言うことになるのだろうと思う。

私などは結局そう言う観点から聖から俗へ、歴史から現代へ、世界から日本へ、東京から地域へ、マンガからネットへ、音楽からアートへ、日常からアニメへ、と言った具合で次から次に対象が転変して行ってしまうのでなかなかまとまったものが書けない感じになっているわけで、ラーメンならラーメンと対象を切り取ってそこから見える世界を見る、と言う方がよりまとまったものを作りやすいことは確かだと思う。

ただまあそう言うことを考えているうちに「何を考えていたか」をリストアップしていたつもりだったのが実際に考えながら書くようになってきてしまっていたり、まとめるには「枠」をしっかり決めて書いた方が書きやすいなといつも思う。しかし、枠にはまっているものを作るのもあまり面白くないなと思ってしまったりもするので、こう言う形で思考の跡を記述するようになったりもするわけである。

***

「生存」というと憲法の「健康で文化的な最低限度の生活」と言うフレーズを思い出すわけだが、「どこまで健康で文化的か」によってそれが憲法によって保障される「生存」の範囲なのか、それを超えた自分で目指すべき「安定」に入るのかと言うのは難しいところがあるよなと思う。ただ本来は、と言うか自然界では基本的にその「生存」自体も誰かに保障されるものではなくて自分で勝ち取らないといけないものでもあるわけで、そこら辺をどう考えるかと言うのが考え方としてのリベラルと右派の境目でもあるなとは思う。

日本の現実社会においては「女性枠」などのように過度に社会によって保障されすぎているケースもあれば、「いじめ」のように取り上げらることさえ困難で動画に晒すと言うような「自力救済」をせざるを得ないケースもあるわけで、その辺がアンバランスなのはある意味社会が未成熟であるからこそだなとは思う。

その辺のところが安定してくると良いなと言うのがある意味自分の意見であり、それは本来は保守とかリベラルとかの次元ではない常識の範疇だとは思うのだけど、それが「保守」に色分けされるのが現代だと思うし、そう言う意味では別に「保守」と言うことに抵抗はないなとは思う。まあ蛇足だろうか。

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評論、と言うとこう言うふうに自分の考えや考察をある意味書き連ねることになり、それは「需要」があるかどうかと言えばよくわからないわけで、そう言う意味で言えばどうしても「需要」がある、注目されやすいジャンルについて書くことになりがちではあるのだけど、「らーめん再遊記」の有栖のように、作品論として優れたものを描いても社会的には評価されない、みたいなことはあるわけで、まあそう言う探究と社会の需要というのは違う論理で動いているから当然なのだけど、いつかその需要に引っかかる可能性もあるなと思って取り組むしかないという面は確かにある。ただそこで一度評価されておかないと先が大変だとおいうこともあるから、なんとか引っかかりたいということもあるわけで、まあ色々頑張らないといけないわけである。


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