「知性の復権」読了:「自己責任の選択で孤立」し「個人も国もアイデンティティ危機」の現代/華やかな安倍さんと堅実な菅さんの最強コンビ/「豊臣兄弟」の城戸小左衛門/「昔はよかった」
Posted at 26/01/19
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1月19日(月)曇り
昨日はブログを書いた後9時過ぎには出られるかと思ったが結局10時ごろに出発した。割と快調で11時前には八ヶ岳PAでトイレ休憩、釈迦堂PAでお昼を買って、石川PAまで走るつもりだったがやはり藤野でまたトイレに行きたくなり、永福でもトイレに行って4回休憩パターンが確立しつつある。以前は八ヶ岳・境川・石川の3回で済んでいたのだが、境川でお弁当を売らなくなってから釈迦堂まで走るようになって、なぜか石川の手前の藤野でトイレに行きたくなるパターンになったのかはよくわからない。自宅には13時過ぎに到着したように記憶しているが、記録し忘れたので曖昧。
ご飯を食べて少し休憩してから出かけたのだが、昨日はどうもペースが悪かった。新御茶ノ水から神保町まで歩き、東京堂書店で少し本を読んだり探したり。ブルボン小林「ぐっとくる題名」(中公文庫、2014)を買った。薄めの文庫ではあるが600円+税。少し前ならこの値段で文庫を買えたんだなとちょっと懐かしい気持ちになった。
https://amzn.to/3ZjAkT3
書泉グランデでマンガのフロアを一周した後、そろそろ空いたかなと思って5時過ぎに文房堂の喫茶室に行ってみたら、窓際の席は5時で閉鎖になったとのこと。それじゃしょうがないと思ってギャラリー古瀬戸に行ってみたが満席。自分の行きたいところが入れないとストレスがたまるが、まあ神保町もなんだかインバウンドとか国内観光客も増えていつも行っていた人には行きにくい場所になりつつあるなと思ったり。銀座も山野楽器でCDを扱わなくなってからほとんど行かなくなった。このあたりに行けなくなると日曜に東京に出てくる意味がだいぶ無くなってしまうなと思ったり。新しいところを開拓すればよいのだが、歳を取るたびにそういうことがだいぶ億劫になってくる。昔はよかった、という老人の嘆きが自分のものになるんだなとまあ人間というのはそういうものか。
どこかで喫茶店に入りたいなと思いながら新御茶ノ水に戻り、千代田線で大手町に出て丸善に行ってみたが3階も4階も満席。まあ時間が悪いということもあるかと思い、諦めて新丸ビルの地下の成城石井でチーズケーキでも買って帰ろうと行ってみたら電気系統点検の全館休館日。まあめぐりあわせの悪い日というのはそういうものか。地元に帰り、西友で夕食を買って、となりのシャトレーゼでミルフィーユケーキを買って帰った。
夜はジム・ビームを飲みながら夕食を食べ、お茶を淹れてケーキを食べる。お茶筒を買おうと思って西友で聞いてみたがよくわからない人だったので同じフロアの100円ショップでこれならいいかなと思う透明容器を買ったのだけど、家に帰って冷蔵庫の中を見たらハムステッドのダージリンの空の缶があって、そういえば以前これをお茶筒がわりに使っていたことを思い出した。透明容器の方はまた違う用途に使おうと思う。「豊臣兄弟!」を見て寝た。
https://www.nhk.jp/g/ts/P52L88MYXY/blog/bl/pwWYoeNnb2/bp/pzn4lv1Jl0/
「豊臣兄弟!」は父の仇とかいうふてぶてしい顔芸の城戸小左衛門という悪役が出てきて、藤吉郎が敵討ちのことばかり考えているのがちょっと不自然な気がしたが、てっきりドラマオリジナル人物かと思っていたらちゃんと「槍三本」として「信長公記」に出てくる実在の人物らしくて驚いた。ただ、槍の名手であることは分かるがそれ以外のことは出てきていないようだ。寧々の養父である浅野長勝も弓の名手として同様に記述されているとのことで、またその「弓三本」の中には「信長公記」を書いた太田牛一も入っているというのもちょっと驚いた。
***
先崎彰容「知性の復権」、一応最後まで読んだ。また考えるべき点が多そうだけど、昨日読んだところでメモしておきたいことなどいくつか。
岸田内閣の「新しい資本主義」ビジョンについての評価。これはもう誰も口にしていないがそういえばそういうものがあったなという感じ。著者は基本的には評価していたが気になる点が二つあったとのこと。
著者は「新たな富国強兵」を提唱しているのだが、そのビジョンについての議論がいくつか提示されている。一つには富国論、つまり国民にとって豊かな国をつくるというビジョンのうちに、デジタル田園構想が含まれているということを挙げている。これはコロナ禍におけるリモートワークなどの定着によって、場所に縛られない生き方、これは村上春樹の言い方で言えば「デタッチメント」ということになると思うけれども、そういう方向の生き方が時代にあっているという見解で、それは違うのではないかという指摘だった。
これは村上自身が「デタッチメントからコミットメントへ」と言っているように、国や共同体から離れた生き方ではなく、それらにコミットする生き方を模索している方向になっていて、しかしまあいえばイーロン・マスクらのデジタルテクノクラートの方向性と同様、自由なノマド的な生き方の方への憧れがまだそこには反映されているのだなと思った。
逆に言えば、「すべての生き方を自分で決められる社会」という憧れが生きていて、その反面の「全てのことを自己責任で自分で決めなければならない社会」に対する理解がないと言えばいいだろうか。最近よく言われるようになったように人が生きる上で「決断」というのは結構コストのかかる行為であり、自分で決めなくて済むことはなるべく決めずにスルーした方が生きやすいということも言われるようになっているわけである。これは上手い言い方をしていると思ったのが
「個人の生きる意味を自分で考える時代では、結婚することも子どもを持つことも、性の自認も、エリート像も、死の意味づけすら、すべて自己決定せねばならない。」
というくだりである。考えてみれば、上に上げたすべてのことについて、自分としては自分の考えを持って決めてきたなと思う(その通りになったかは別として)けれども、そういう個人的な問題にかかずらわりすぎて、「自分なりの選択」にこだわり過ぎていると、いつの間にか周りに誰もいなくなっている、ということが起こるということもある。それはすべて自分の選択で自己責任だから仕方がない、ということはあるが、果たしてそれで良かったのか、ということはもちろん考えるわけである。
このあたりを著者は「集中と分散」という言葉で表現しているが、要は現代は極限まで、つまり個人レベルで「分散」が進んでいるが、中央政府の権威の崩壊やテレビやマスコミではなくYouTubeやSNSの方が視聴され信頼されるようになってきている事とか、自民党への信頼性が崩れ左だけでなく右からも新党が出てきていることも同じ「分散現象」の表れだと見ているというのは、これはかなりなるほどと思った。
そしてそのこと自体の是非は割と哲学的なテーマにもなるけれども、著者はここで現代はそんな時代ではない、と言っているわけである。つまり、「不確実性」が希望になるのは将来に明るいビジョンが持てる時代であって、先の見えない現代は不確実性が社会不安を生む時代だと主張していて、それ自体も基本的には正しいだろうと思う。新自由主義時代が終わり、ウクライナ戦争・ガザ戦争・トランプ2.0と新たなアイデンティティ戦争が始まった時代において、われわれは新たな拠り所を必要としている、というのは事実だとは思う。
そして、日本が何らかの戦いに巻き込まれたときに、自衛隊が戦うということに多分あまり多くの人たちには現実感がない。だから台湾有事に関する高市首相の発言を聞いて中国が怒ったことに中国サイドに立てばいい、というような頓珍漢な主張が出てくるのだろう。
今一番懸念されているのは台湾有事に南西諸島が影響を受けることだが、中国にとって台湾は核心的利益、つまりアイデンティティの問題なので、その意味ではロシアにおけるウクライナと同じ位置にあるわけである。
われわれ日本は中国と交戦し台湾を統治した過去があるわけで、その意味で完全な第三者であることはあり得ない。彼らのアイデンティティの構築の要素の中には必ず「日本」があるからだ。そこは軽視しない方がいいだろう。まあこれは韓国や北朝鮮についてもそうで、謝ればいいとか無視すればいいという問題ではなく、日本としてこれらの国との関係を過去と現在と未来においてどう考えていくかを整理しておかなければならないということでもあるし、それは二国間だけの問題ではなく、アメリカやオーストラリア、東南アジア諸国まで含め、米中対立の現実を踏まえたうえで説明できなければいけないわけである。
だからこれは理念、贖罪や感謝みたいな話だけでは済まないことで、中国には迷惑をかけたがそれなりには代償を支払ってきたし、共産主義を拡大することや軍事的な拡大は容認できないとか、プラグマチックな姿勢が必要になる。また大日本帝国の拡大政策をなぞっているように見える中国の方向性に警鐘を鳴らせるのも日本であるかもしれない。
戦後の問題はあまりにもすべてが「生者の論理」でのみ語られていることだ、という著者の主張は全くその通りだと思う、自衛隊が戦えば、今までなかったことだが、当然ながら戦死する人も出る。その人たちは靖国神社に祀られるのだろうか。国家はその死にどう責任を持つのか、そこも曖昧なままだというのはその通りだと思う。
また核兵器保有論についても清水幾多郎と福田恒存の議論が取り上げられているが、被爆国であるがゆえに核保有の権利があるとする清水に対し、福田は「歴史と自然を身にまとい充足した存在としての個人的自己を確立する方が先決問題だ」としていて、そこで明治の保守主義者たちの見解を参照すべきだ、と著者はいう。
戦前のアジア主義と戦後の自由と民主主義を比べて、日本人の多くは「自由と民主主義の方がいい」と考えるようになり、民主主義社会が実現したのはよかったが、それがアメリカに守られた平和の枠内だったから可能だったわけで、これからはそうはいかないというのも事実だろうと思う。そして北朝鮮がやったように核兵器を持つことである程度のフリーハンドを持つことができた、というのもまた現実だろうと思う。
現代が近代世界システムの危機なのは、今まで世界の秩序を守ってきたアメリカに伍していこうと中国やロシアなどの未経験者が出て来たことで、彼らの自己像と客観的な存在とのギャップが今までも悲劇をもたらしてきたから、というのはこれは常に時代の転換期においては起こってきた。モンゴルという覇者がそういう意図はなくてもある意味イスラム文明の息の根を止め、中国文明を全く変質させてしまったとか、そういう「世界の覇者の初心者による過去の世界の破壊」というのは何度も起こってきている。
そしてそれらの国々において、同じように自分のアイデンティティ、つまり尊厳を尊重されないと感じて苦しんでいる人が多く、またそれによってナショナルアイデンティティを軍事的な形で獲得しようとする国が出てくることにもつながるということではないか。
新しい時代の戦争はイデオロギーの闘いではなくアイデンティティの闘いだ、というのは小林よしのりが何かの本で20年くらい前に言っていて、これはその当時はあまりよくわからなかったのだけど、今になれば非常によくわかるようになってきている。アイデンティティを尊重するというのはつまりは公正に扱い、扱われるという話であって、これは女子枠問題やいじめ問題についてもすべて通底している話だろう。身近な面から軍事外交に至るまで、現代ほどこの視点が必要な時代はない、というのは著者の主張に同意できるところが大きいと思った。
***
https://note.com/kous37/n/n265af6285672
昨日も菅義偉元首相について書いたのだが、その後もツイッターでいろいろなツイートを読んでいて、思ったことがあったので追記しておきたい。
https://x.com/cynanyc/status/2012453944195510327
こういう評価を読んでいて菅義偉元首相に関してなるほどと思うのは、個々の政策に対する嗅覚が優れていたということなんだなと思う。安倍さんがグランドデザインを描くのに長けていたのに対して、個々の政策の実行は菅さんが抜きんでていた。菅さんが官房長官の時の安定感はその辺から来るのだろう。安倍首相、菅官房長官の最強コンビ。安倍さんが憲政史上最長政権を維持できたのも、菅さんあってこそということもあっただろう。
私などは政治家のグランドデザインには関心があるが個々の政策についてはそれほどでもない。だから菅さんの凄味とかがいまいちピンときてなかったのだろうなと思う。
安倍首相が必要以上に悪魔視されたのはグランドデザインを描くキラキラした総理大臣であることへのアイデンティティ的な嫉妬もあったのだろうなと逆に思ったりはした。
でも菅さんの実績に比して、自民党は菅さんの扱いが軽すぎたなと思う。もちろん派閥の論理などもあり、その点では軽量級の菅さんではなく、派閥の長が首相になるべきだという力学が働いたところはあったのだろうと思う。しかし菅さんが2021年の総裁選で再選されていれば、翌年の安倍元首相暗殺事件や、そのあとの政治の動向も全く違ったものになっていただろうと思うと今更ながらに残念だなと思う。統一教会問題の処理や政治資金問題の処理ももっと現実的な、はっきり言えば「安倍派憎し」の処理にはならず、そういう意味で自民党が必要以上にダメージを受けることもなかっただろうと思う。
まあこの辺は後付けの論理であることは確かなのだけど、政治家の実力や功績というものを同時代で正当に評価することがいかに難しいかということでもあると思う。もちろんそれは政治家に限ったことではないのだけど。
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