「我々の市民社会が何か別のものに「進化」するという幻想」を打ち砕いた高市首相の功績/「意味のあること」について考える/「学問が実際の現場で生かされる」ことの素晴らしさ/年末の忙しさ
Posted at 25/12/28
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12月28日(日)晴れ
社会的に意味があることというのはどういうことなのか、どういう立場にいればそういうことができるのか、ということを少し考えていて、まあここのところ平安時代の宮中の話(「謎の平安前期」)とか中国との外交の話(「日中外交秘録」)とかを世でいることもあり、国によって時代や社会によってやれることは変わってくるしやれる立場も変わって来るよなと考えたりしていた。君主制国家、ヨーロッパの国家、要はイギリスなどを例に社会構造を考えたり、アメリカのような貴族のいない大統領制国家について考えたり、一党独裁の中で自由経済を一部導入した中国のような国家について考えたりして、それでは現状の日本はどういうことになるのかと考えたりする中で、どういう立場が意味のあることをできるのか、ということを考えたりした。
意味のあることというのは自分が意味があると満足するだけでなく、他者や場合によっては世界からも意味があると評価されることであるだろうと思うし、人が生きていくためには「生きていくための仕事」をしなければいけないことが多いわけだけど、それだけではなく「楽しいこと」もしたいわけだし、でも楽しいだけでは足りない感じはあるわけで、例えば「人にものを教える仕事」も意味はあるし楽しくもあるのだけど、もっと意味のある仕事をしたい、という気持ちも出て来るわけである。この辺はマズローの欲求の五段階説みたいな話だが、まあ少なくとも自分はそうだなと思ったわけである。
で、こういう社会構造みたいなことについては、高校の頃に世界史を勉強するときに階級構造みたいな話を学んだ、というか本を読んで知った時から考えているわけだけど、古代世界で宗教的に思想的支配を行う神官階級と軍事的に支配を行う貴族階級がいて、メソポタミアとかエジプトとかでその相互の争いがあったりしたわけだが、インドにおいては神官階級がバラモンとして最上位階級に、軍人・貴族階級がクシャトリアとして二番目になった、みたいな感じでそれぞれの地域・国家の社会構造を理解していくのに使ったりしたわけである。
これは例えば日本においてはもともと軍事的な支配階級であった天皇や貴族がより新興の軍事階級である武士に政権を奪われて棚上げされ、祭祀や文化を担う階級として固定されていった、みたいな感じで理解するのにも応用していたりしたわけである。まあ最近の研究ではそんなに単純なものではないことは明らかにはなってきているのでそういう意味でも新しい研究を読むのは刺激的で面白いのだが、今読んでいる平安時代の話も日本の社会構造の原型みたいなものを理解するには役に立つ、というかどこかで繋がって来るよなという感じが出てきている。
まあそういう感じで、こうした「社会構造を解き明かすこと」は意味のあることだと思うし、つまりはそれは大きくいえば「世界の秘密を解き明かすこと」でもあり(言い方が怪しくなってきた)そこに本来の「学問の意味」もあったりするわけである。「社会の秘密を解き明かすこと」が人文社会系の学問であり、「物質世界の秘密を解き明かすこと」が自然科学であるわけだけど、それらはまたその先に「応用」がある。自然科学を応用して「役に立つもの」を作るのが「工学」であり、人文・社会系の学問を世の中の人に伝えるだけでなく「自分で世の中を動かす」仕事をしたり「世の中を動かす人たちに伝える」ことによって間接的に「世の中を動かす」のが政治であり経済でありその他の政策や企画の実現であるわけである。
学問をする人が実際に政治家と密に交流を持って政策の立案や実施に協力していけばその人は政治家の「ブレーン」と呼ばれたりするし、シンクタンクなども基本的にはそのための役割を果たしているわけである。ただその行為はその政治家の反対派からは「御用学者」などと揶揄や批判を浴びたりもする。
ただ、明治以来の伝統的な学問は、というか孔子以来の中国の、またその学問体系を導入した日本においてはその学問を政治的に生かすことがいわば学問の使命であったわけで、「末は博士か大臣か」などというのも「お国のために役にたつ」からこそ尊敬を集めたわけである。その辺は「より価値中立的な近代の学問」、つまり「学問には学問自体の価値があるのであり、それがどう役に立つのかを考えるのは邪道」みたいな考えが出てきたのは純粋化・孤高化であり、なんかすごい感じはしなくはないが、やはり学者もまた社会の一員という考え方から言えば少し原理主義的・至上主義的なものではあるだろう。
またその学問の成果を実際に政治に生かすのとは別に、それを後代の子供たちに伝えていくための教育という鋭意もあり、まあ基本的に私はこの仕事をやってきているわけであるけれども、そういう意味では社会との関わりは間接的なものになるという面もあるので、そこが基本的に物足りないのだろうと私としては思う。大学の研究者も「研究と教育の両立」ということに悩んでる人は多いが、どうも研究者という人種と自分が違うなと感じるところは、研究自体は面白いとは思うけれどもそれが全てとは思わないし、自分のやっていることがどうビビッドに社会に影響するかの方に興味がある、というところなのだろうと思う。
「日中外交秘録」で、若い頃の垂さんが外務省の先輩に「中国をやるなら毛沢東・レーニン・キッシンジャーを読め」と言われたという話が私はかなり面白い、重要なことだと思っていて、中国との外交をやるためにはまず彼らを知らなければいけないし、彼らとの付き合い方を知らなければいけない、という考えがその背景にはあるわけである。
で、その「彼ら」というのは具体的には一党独裁で政権を握っている中国共産党ということになる。中国共産党の考え方を知るには毛沢東の著作を徹底的に研究しなければならない。そして、それに加えて「共産党」というものを知らなければならないが、そのためにはレーニンの著作を徹底的に研究することが重要である、というわけである。そして、マルクスは割合どうでもいい、というのが面白いが、つまりは「外交官が知らなければならないのは「共産主義」ではなくて「共産党」だ」、ということであり、この辺りの切り分けの凄みがもちろん外交官としての経験もあるだろうけどこれこそが真の意味で「学問を仕事に生かす」ということだよなと思った。キッシンジャーの著作はもちろん冷戦期のリアルポリティクス外交の教科書のようなものだが、冷戦が終わった今も、中国は権威主義国と言われるように我々自由主義社会とは異なる存在であるということからも、「付き合い方」については変わっていないと考えるべきだということだろう。
まあそんなふうに、「学問が実際の現場で生かされることに対して、私は最も強い知的興奮を覚える」のだなと書いていて思ったのだけど、自然科学においては当たり前のように研究開発現場や生産現場で生かされることが必ずしも十分に政治や社会、生活現場には人文・社会的学問(この場合は教養と表現されることが多いが)が生かされてないのではないかということが、ある意味不満なんだろうなと思ったりもした。
外交でもそうだが、そんなに徹底的に学問に取り組まなくてもとりあえずなんとかなったりはする(実はなってない場合も多いが)わけだし、教育なんかでも正直いって教育学というものは現場では極めて軽視されている。現場で困っていることに対して屁理屈のようにしか聞こえないことが多いからだし、ヘタをすると生理痛電気ショックみたいなとんでもないものが導入されかねなかったりする危険すら感じるのが実情だろう。つまりは役に立たないかwoke的偏向があるかどちらかという感じがすることが多いわけである。
実際には、我々のような市民社会での教育というものをどう考えていくべきかとか、教育学が果たさなければいけないことはなくはないのだが、どうも危なっかしいのが現状であるというのが現場経験者の感想ではある。ただ、教育学部を出ている教員は良くも悪くも「先生」であるなと思うし、教育実践の研究など、我々一般大学出身の高校教員経験者とは違うことを多く学んで理想的な教育というものついての考え方はあるのだろうと思う。
それはともかく、政治にしても経済にしても教育にしても外交にしても、学んできた学問だけによってできるものではない。その辺りは自然科学や工学よりもその割合が大きいだろうとは思う。
***
我々が宇宙について考えるとき、私たちは日本のどこかにいて、それは地球上にあり、それは太陽系の一つの惑星で、それは銀河平面で銀河中心の周りを公転していて、それは局部銀河団に属し、それは超銀河団に属して、それらが分布する宇宙を形作っている、みたいに考えるだろうと思うが、それは自然科学が世界認識の中心にあるからで、宗教が世界認識の中心にあるなら神が天地を創造し、その中に人間や生物が創造された、と考えるわけで、ダンテなどは当時の最新の自然科学知識を使って天国世界を描いていて、地球の上に月天があり、その上に水星天、その上に金星天、その上に太陽天、その上に火星天木星天という多重構造に描いているわけである。こういうのはさまざまな宗教において地理的・物理的認識が利用されていて、日本でも西方に極楽浄土があるとか、さまざまな世界観として知識が利用されていたわけである。
同じように国家観においても市民社会で契約的国家観を採用している日本などでは基本的に国家権力と国民の間には国民が権力行使を国家に委任し、国家権力は国民に人権を保障した上で統治している、という世界観で成り立っているわけだけど、伝統的な国家観では神や天が国王や天皇に統治の権限を与え、国民はそれに従うという見方で成り立っているわけである。いずれにしてもこれらはある意味ナラティブ(物語)であることは認識しておくべきことで、日本は天皇という存在が憲法に規定されている以上、完全な契約的国家観だけで成り立っているわけではない。
そしてさらに前衛的とされる(た)共産主義・社会主義の国家観においては「科学的真理」に基づいた前衛党(共産党)の「指導者」が思想的にも運動的にも共産党組織を指導し、軍などの実力組織においても党の「政治委員」が派遣されて精神的指導を行って、人民全体を指導・統治するという構造になっているわけである。
これはある意味、「我々の市民社会が将来より進歩・進化するという幻想」に基づいて成立しているとも言える。これをある意味否定したのが冷戦の終結の頃に一世を風靡したフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論であって、「自由民主主義的な市民社会こそが歴史の最終形態であり、それを実現した現在はこれ以上歴史の変化はない」と宣言したわけである。しかし現実はそうならなかったわけで、共産主義国家は破綻した、ソ連は解体してロシアになり、中国も共産主義的経済観を放棄して市場経済を導入したにもかかわらず、それらの国家は自由民主主義社会にはならなくて「権威主義」と総称される「似て非なるもの」に変貌していったわけである。
その意味でフクヤマの「歴史の終わり」論は間違っていたわけだが、そこでは別に「我々の自由民主主義的な市民社会」が少なくとも現状で一番マシな社会であろうことは否定されていないわけである。つまり、社会の進化がここで止まり、また「共産主義に逸脱したような国家も最終的には自由民主主義的な市民社会国家になる」、という点では誤っていたが、「我々の自由民主主義社会がこれ以上は進化しない」、というのは正しいかもしれないわけである。
また一方で我々の自由民主主義社会にとっての脅威というのは権威主義国家軍だけではないわけで、wokeと言われる集団が我々の社会の根幹の一部ではある民主主義や人権思想をより過激化させて社会を強制的に「進化」させようという勢力があるわけである。これらの集団に対する反発が市民社会においていわゆる保守化・右翼化・排外主義などと言われる動きを生み、社会に分断をもたらしているというのが現在の市民社会における病理であろう。
日本において、社会を変えていこうとする勢力は「日本はまだ遅れている。北欧を見よ」とか「日本はもうオワコンだ。韓国や中国の方が進んでいる」とか「日本は小国だ。アメリカや中国に従うしかない」とかさまざまな言説を行使して「日本を変えていこう」としてきたししているわけだが、現状において、日本はさまざまな問題を抱えていることは確かであるにしても、社会政治システム全体を根本的に変えなければいけない、つまり日本国憲法を一から変えなければいけないとか天皇制を廃止しなければいけないとか共産主義を導入しなければいけないとかそういう必要はないと思う。というか、簡単に言えば日本が進化すべき方向のモデルとして言われている北欧や中国や韓国やアメリカに比べて、日本ははるかにマシなんじゃないかと思うし、そういう認識は割合多くの人に広がっているのではないかと思う。特に北欧はフィンランドがアジア人差別の強い国だということが明らかになり、今年になって大きく得点を落としているように思う。
2025年の日本で一番大きなニュースは高市早苗首相が女性初の総理大臣になったことに「決まっている」と私などは思っていたが、先ほど「今年の十大ニュース」で検索してみたら読売新聞が「大阪万博」を第1位に挙げていて、ちょっと驚いた。私は万博に行ってないしあまり関心がなかったということはあるが、まあ大きいと言えば大きいニュースだなとは思った。ところでこれは何を意味しているのだろうか。
フェミニズムやwoke勢力は「女性の社会進出」を強く主張し、日本は首相など重要で決定的なポジションに女性がついていないから「遅れている」と主張してきた。逆に言えば、女性が首相になるということは「ガラスの天井を破る」ことであり、つまりは「革命」である、という期待を持っていたのだろうと思う。
しかし、実際に高市早苗氏が首相になると、彼ら彼女らは全く逆の反応をしたわけである。それは高市さんが保守的な政治姿勢で知られる女性だったからであり、彼らの理想であろう「フェミニスト=リベラル=woke首相」ではなかった、ということだろう。
つまり、「女性が首相になっても革命は起こらなかった」のである。これは、我々のような市民社会を擁護する側から言えば大変喜ばしいことだと思う。つまり、「市民社会」は何か別のものに「進化」することなく、粛々と女性首相を受け入れ、何事もなかったかのように日本政治は保守を中心に動いている。そこにいわば左派勢力の失望と市民社会の安堵があり、逆に言えば女性首相の誕生は「大したことではなかった」から、今年の重大ニュースのトップが「大阪万博」になったということなわけである。
そういう意味で、フクヤマの「歴史の終わり」論は、実は部分的には正しいのではないかと思ったわけである。
wokeの問題の裏には、市民社会において重要であり必要不可欠な「批判」の問題があり、それを中国やロシアなどの共産主義国に利用されている面があるわけだが、それについてはまた改めて書きたい。
***
ここまで、30分でメモした内容を7割くらい文章化したわけだが、それに2時間半かかっているので、小さな発想の含む膨大な内容というものは現実の生活時間の中で形にしていくのはなかなか大変だなと思った。
画家の友人が天から頭の中に降りてきたものに満足してしまってなかなか筆を取る気にならない、みたいなことを言っていたけれども、確かに小さなものであっても実際に描いてみるとかなり膨大なものになるということはあるのだろうなと思う。
人間の頭の中というのは実は海よりも深く広い、みたいなことがインドの諺にあった気がするが、インスピレーションは一瞬でもそれを物理的に言語化とか絵画表現にするのにめちゃくちゃ時間がかかるわけで、こういう生産的なことができるのはそれこそ「意味がある」ことだと思うのだが、それを多くの人に伝わる形で書くのには時間もそれを支える環境も必要なんだなと改めて実感している。
***
昨日は午前中にお歳暮を配ったり、銀行で資金を調達したり。今回の年末年始は主に使っている八十二銀行が旧相互銀行の長野銀行と合併して1月1日に八十二長野銀行になるために銀行のシステムが止まってしまうので、1日から4日までATMが使えないので、その期間に必要なお金をおろすか他の金融機関に移しておかないといけないということになっている。まだ全部はやっていないので明日29日に移したり引き出したりしておかなければいけない。
こういうことは都市銀行でもあるが、地方銀行だと他に取引先がないことも多いと思われるので、大変な人もいるのではないかと思う。地元の場合は都市銀行は三井住友銀行(昔は太陽神戸銀行だった)しかないから、普段あまり使わないが今回の年末年始には念のために三井住友に少し入れておこうと思っている。あとは特に世話になった方のお歳暮を用意して今日明日にでも届けて年末までの仕事は大体終わるかなという感じである。
これは上に書いたこととも同じなのだが、大体頭の中で考えていることを言葉にしてみるとずいぶん長ったらしくなるのでちょっと驚くのだけど、まあそういうことは実は多いのだろうなと思う。
動くたびに雑誌を作業場に運んでいるのだが、時間がないのであまり整理できていない。今日やろうと思っていたが考えているうちにいろいろやりたいことが出てきたので気分転換程度にできたらいいかなという感じになってきた。
***
まだ今日更新の「ふつうの軽音部」を読んでいないのだが、なんだかどんな展開になるのだろうか。楽しみだが、まあ今日はまずここまで頭の中を形にできて良かったということを先に書いておこうと思う。
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