「日中外交秘録」:「国家の安全」=「徹底的な監視国家」を構築した習近平/「謎の平安前期」:桓武天皇の文官登用政策が明治維新につながること/慌ただしさとうっかりミス

Posted at 25/12/18

12月18日(木)うす曇り

少し曇っているせいか冷え込みは緩めで、今朝の最低気温は0.2度。昨日の午前中に植木の作業が終わったのでホッとしていたら、クリーニングを出しに行った時に申告ミスをしたり、昨日行くはずだった松本の整体を忘れていたりしたことが発覚し、余計な手間が増えるという私が忙しい時には必ず起こるミスがいくつも発生した。電話して平謝りで今日に予約を取り直したり。いやあまいったまいった。

年賀状の絵柄を今持っているものの中でできないかと思って考えてみたがやはり物足りないなと思い、午後蔦屋に出かけて年賀状本を一冊買った。だいたい候補は揃ったのだが印刷の設定などで少し苦労したり。少しずつ前進はしているのだが。

今朝はセブンに車を走らせてヤンジャンの3号と水素焙煎コーヒーを買い、職場に出て置き忘れてきた予定ノート(バレットジャーナルもどき)を取りに行き、帰ってきた。資源ゴミの日なので雑誌をまとめて出しに行った。しばらく前にだいぶ整理して出せるのをまとめておいたのだけど、もうだいぶそれから時間が経っているのでもう一度チェックしないといけないのだが、それをやっている時間がないので溜まっていた分だけ(3〆くらい)出した。それからプラごみ、缶、ペットボトル、電池、ビンと金属など出したが、もうこの地区では今日が年内最後の収集日なのだなと思ったり。本当に忙しさに紛れて日々が過ぎていくが、今年は結構勉強も進んでいる(研究というほどでもないので勉強と言っておく)ので例年に比べれば充実感はある。

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榎村寛之「謎の平安前期」、読めば読むほど面白さがわかってくる。今は第二章の第二節、9世紀における文人官僚の進出についてのところを読んでいるのだが、第一章の桓武天皇の革命的な政治、いわば奈良時代を象徴する聖武天皇の影を振り払って新たな王朝を創始し、「軍事と造作」中心の政策で新しい王権を作り上げようという気概とその蹉跌、みたいなあたりは今までも読んだことがあるが、この本では井上内親王に焦点を当てて斎宮との関係などから聖武天皇の作り上げた宗教的世界は仏教や大仏だけでなく伊勢神宮との関わり、仏教的な神仏習合的な方向があったのを、桓武天皇がそれを排除して中央政府が神宮をコントロールできるような方向に変えていったというのは面白かったし、またそれを行う理論的な武器として中国思想を場当たり的ではあるが取り入れていったというのもなるほどと思った。

第二章ではあまり高位でない中央や地方の貴族たちが漢学を武器に文官として成り上がっていく群像みたいなものが描写されていて、この辺りは井上内親王の周りの人たちとかの描写もそうだけど、西洋近世史でいうところのプロソポグラフィ的な手法が見られると思った。西洋史におけるプロソポグラフィでは例えば法服貴族の例を多数検討したり貿易商の群像を描くことによってその時代のその階級やグループ像を描いていくという感じで、特に社団国家と言われる西欧近世においてはこのようなグループの形成とともに階級的な実像を描いていくというのが面白いわけだけど、9世紀の文官たちの例として大江音人や清原夏野などをはじめとする下級貴族や傍系になった天武天皇系皇族の子孫の貴族たち、惟宗氏などの渡来系文官たちを描き出していて、なるほどそういう人たちが活躍したある意味階級上昇が可能な時代だったのだなという感じがした。

9世紀というのは謎の10世紀の前の時代だからその時代にそうした人々が政府中枢に進出することで実務的な充実というものもあったのかなという感じがするし、菅原道真などはもちろんそうした階層のトップなわけだけど、「菅原氏と藤原氏の対立」「藤原氏による他氏排除」という側面だけではなくて伝統的官僚貴族層と新興の文人官僚たち、という対立軸もあるなと思った。惟宗氏はのちの島津氏の祖先であり、大江音人は毛利氏の祖先であるから、この時の桓武天皇やそれに続く時期の登用がある意味明治維新にまで影響したということも言えるわけである。

そして、このトップに君臨するのが実は官僚だけでなく学僧もいたわけで、それが伝教大師最澄と弘法大師空海ということになるのではないかと思う。そういう視点でのこの時代の見取り図みたいなものもまた描いてみると面白いのではないかと思った。62/271ページ。

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垂秀夫「日中外交秘録」も62ページ。あまり進んでいない。ただ第一章第四節の「トッププライオリティの変化」に入ったのでその辺に面白いところがあった。

鄧小平以降、江沢民・胡錦濤と基本的には「経済建設」「経済成長」の路線できていたのが、胡錦濤時代の終わりごろになると中国共産党中央でも危機感が生まれてきたのだという。これは経済成長に伴う格差の拡大や社会不安の増大ということで、胡錦濤は2008年に「中国共産党の統治は永遠でも不変でもない」と述べているわけである。これはちょっと聞くとすごいことを言っていると思う。

習近平もその危機感を受け継いで、2013年の幹部向けの重要講話で「なぜソ連は解体したのか」と問いかけたのだという。

その結論は「党が軍をしっかり掌握しなかったから」というものだったというが、実際には「党の指導」を徹底しなければならないということで、それは軍に対してのみでなく国民全般に対して行われるようになった、というわけである。胡錦濤時代には暴動やデモが毎日300件近く起こっていたというのも驚いたが、それだけ自由があったということであり、習近平政権では警察力の強化とハイテク機器での監視の強化、またネット上の検閲の徹底によって、デモや暴動が起こせなくなったというわけである。民衆の力を信じて民主主義を徹底させようという方向でなく、民衆から自由を完璧に奪うことによって体制を守ることを選択した、ということなわけで、これはロシアや北朝鮮も同じ方向だろう。これが習近平のいう「国家の安全」だというわけである。

この辺りのところ、我々はわかっているようでわかっていないのだなと改めて思ったのだけど、こうした国家の監視体制の延長線上に外国に対する対応もあるわけで、中国が直接間接に揺さぶりをかけてくる裏には、国内におけるある種の成功体験もあったということなのではないかという気がする。

日本の左派の人たちが高市政権を否定したいあまりに中国や中国の言説、ナラティブを支持するというのはそういう意味で本当に肉屋を支持する豚のようなものであり、国家的問題に対してはちゃんと団結していくという意識をちゃんと持ってもらわないと危険だなとは思う。まあそういう国家を危うくするレベルで言論が自由なのも日本の良いところではあるわけだが。

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