垂秀夫「日中外交秘録」を読みながら:対米依存を隠す中国のナラティブと反腐敗という習近平粛清/マンガの絵柄の進化と4巻保証/「謎の平安前期」:王朝成立期の暗闘/年末

Posted at 25/12/17

12月17日(水)晴れ

今朝は起きて居間に降りて時計を見たら12時半くらいになっていて、流石におかしいと思ってスマホを見たら4時半過ぎだった。この時計は電波時計なのだが、時々ちゃんと電波を受信せず明後日な時間を指すことがある。電池を外してリセットすると針が動いて12時になるのだが、しばらく置いておいても動かなかったから縁側に出して電波を受信しやすくし、いろいろやってから再度時計を見たら5時20分くらいになった。その時時計は動いた、というわけである。(ふつうずっと動いている)

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スマホでマンガを見ていたらこの絵柄はチェンソーマンに似てるなと感じ、最近は藤本タツキ系の絵柄が結構多いなと思ったり。あんなに売れたのに鬼滅の刃系の絵柄が少ない。チェンソーマンの絵柄が「新しい」という印象の人が多いのだろうと思う。

この辺りのことを書いてTwitterに投稿していたので読み直してnoteにアップしようと思ったら、書いた内容が消えていた。特に問題のあることは書いてないのだがどういうことなんだろうか。

こういうことがあるとメモがわりにTwitterに投稿するということができなくなるし、なんだかTwitterの本旨と変わってきてしまう感じがするのだが、なんだかしっかりしてもらいたいなという感じである。

それはともかく、鬼滅の刃というのは特に鬼の描写などはNARUTOの影響を受けていると思うのだが、同じ系統ではカグラバチもそうだと思う。ただ鬼滅の刃はかなり独自な方向に絵柄を進化させているので、模倣は難しいだろうなと思った。

ふつうの軽音部はよくスキップとローファーに似ていると言われるが、これは主人公が四白眼であるという共通点があるだけで、スキローが主人公以外は正統的な少女漫画的描写である(コマ割りは男マンガ系だが)のに対し、軽音部はドラえもんやサイボーグ009以来の正統的な「マンガは線画である」という路線を踏襲しているというところがいいと思う。

マンガの絵柄の系統論というのはかなり意見が分かれるところだろうとは思うのだけど、特に漫画家さんの初期の描写は誰かの影響が強く表れていることが多く、しばらく連載しているうちに独自性が確立されていく、という傾向はあると思う。そういう意味では「連載がマンガ家を育てる」ということはあると思うので、できれば新しい作品は一年くらいは連載してもらえると良いのだがと思う。週刊で単行本にしたら4、5冊というところだろうか。

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ジャンプ+の漫画家マンガ「モノクロのふたり」では「通常連載作品は単行本4巻分が保証されてるが今回はまず2巻分の連載で」という話が出てきて、なるほどジャンプラ作品は4巻くらいで打ち切りのものが多いのはそのせいなのかとは思った。

読者としてはもっと続いてもらいたいと思うけれども、編集部としてはとりあえずこの辺りで区切りをつけて、ということになるのかなと。逆に言えば5巻以上の連載になったものはその壁を突破したということなわけで、好きな作品が5巻を超えたら寿いでいくべきなんだなと思った。

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昨日も一日植木の手入れの人が入っていたので午前と午後にお茶を出しに行く。午前中にいろいろできなかったことがあったので昼食を食べてから出かけてツタヤへ行って本を見たのだがどうもなんだか最近マンガが大事にされていない感じがして、欲しいものも見つけられなかったのでそのまま近くのスーパーに行って、水曜日のお茶出しの分のお菓子を買ってATMでお金をおろし、別の書店に走って「このマンガがすごい!2026」と「ちひろさん」10巻を買った。「ハプスブルク家の華麗なる受難」1巻はどうもなさそうだったので聞かずにamazonで注文した。

両方で年賀状のデザインの本を探したのだがいいと思うのがなく、昨年まで買っていた既存のデザイン集をまずみようと思ってセブンイレブンでお茶を買った後一度家に帰り、本棚を探したが見つからなかった。時間が押してしまって慌ててお茶菓子を出しに行った。夜帰ってきてからもう一度調べると、図案集は紙袋の入れて置いてあるのを見つけ、時間がない時に探してもわかるようにしておきたいものだなと改めて思う。一年に一度しか使わないものはそれが難しいのだが。

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昨日読んだのは榎村寛之「謎の平安前期」(中公新書、2023)と垂秀夫「日中外交秘録」(文藝春秋、2025)。前者はどうもノリが違うと思いながら読み始めて途中になっていたのだけど、後の方を抜き出して読んだりしながら再度最初から読み直して、いま42/273ページ。ノリが違うと感じたのは、やはり博物館員としての経験が反映されているというその文体なのだろうと思う。研究的側面と啓蒙的側面の双方があるからだろうと思う。また斎院についての注目が多いのは著者が三重県斎宮歴史博物館の学芸員という立場も反映されているのだろうなと思う。

今読んでいるのは井上内親王に関するところなのだが、斎院の持っていた権威と権力と経済力、みたいなものに今まであまり注目していなかったので、ここはなるほどと思って読んでいる。それにしても井上内親王が他戸親王を産んだのが45歳というのは古代としてはかなりの高齢だろうと思う。光仁天皇から桓武天皇の時期、つまり王朝交代の時期に起こった様々な政変を改めて考えさせられるが、その中心にいたはずの井上内親王という人の人物像があまり見えてこないところが大きかったので、少し理解が進んだ気はした。

そしてその背後には聖武天皇という巨大な存在がいたということになるが、この天皇も安積親王という男子がいたのに女性皇太子(安部内親王=孝謙天皇)を立てるなどずいぶん変わった人(女性皇太子は史上唯一)で、奈良朝から平安朝への移行はもっと注目しても良いようには思った。私は大伴家持中心の歴史物語を子供の頃に読んだ印象が強い(おそらく折口信夫「死者の書」の翻案のような内容だった)のだけど、空海と最澄を描いた「阿吽」ほかマンガや小説もそれなりにあるけれども、まあ天皇家内部のあまりもろな権力闘争すぎて活字にしにくいというところはあるかも知れない。

他王朝というか他系統から皇位を継ぐ際には従来の系統の皇女と結婚してその子を後継者にするというのが継体天皇から欽明天皇の継承にあったわけだけど、称徳天皇から光仁天皇の継承では称徳天皇の妹の井上内親王とその子が排除され、帰化人の系統の母を持つ桓武天皇が新たな王城を開いたというのも割と不思議な話で、そこらへんの思惑について分析するのもありだろうなとは思った。

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「日中外交秘録」の方は第1章第3節まで(58/538ページ)。垂氏といえば「中国畑=チャイナスクールには珍しい硬骨の外交官」という印象で語られることが多いが、垂氏自身、そうしたチャイナスクールの「媚中」という印象を変えようという意識を強く持っていたことが書かれていて、これはなるほどと思った。

もう一つ印象に残ったのは、習近平の目指す国際秩序は「中華帝国の冊封体制」だという指摘。つまりアジアの周辺諸国やアフリカなどのグローバルサウスに「中国のナラティブ」を受け入れさせ、その見返りに経済的援助を与えることで影響力の拡大を図っているとみているのだと。これも前大使という人がそんなに直接的な言い方をするというのが意外だったので印象的である。

「日本の外交官が中国で勤務するということは、武器こそ持たないものの「戦場」にいるようなものだ。これは冷戦時代のソ連で西側外交官が置かれた立場と似ている。」

冷戦時代の西側外交官のモスクワにおける苦労はよくネタになってたし、日ソ漁業交渉の時に河野一郎がモスクワのホテルで全て盗聴されているという前提でどう打ち合わせをするのか苦労している描写が「小説吉田学校」の漫画版にあったことを思い出した。なるほど、やはりそう考えていいのかと思う。

垂氏は大使になるまで中国政府関係者に裏人脈を築いたので、大使になってからはそういう活動はしなかったが中共にとって望ましくない事件が起こると「背後に垂秀夫がいる」と勝手に思い込まれていた、という話がちょっと可笑しかった。外交官にとっていかに人脈が重要かという話は立場は違うが佐藤優氏も書いていたのを思い出した。佐藤さんの主張はともかく状況描写は参考になるんだなと改めて思った。

今の中国共産党は「中国は上昇気流、アメリカは下降気流でぶつかれば乱気流が生じるが、中国は必ず上昇気流に乗ってアメリカの上を行く」と考えているのだとか。インドも似た感じのことを言ってたな。そんなフラグを立てないでも、と思うけれども、フラグは立てている時には本人たちには気付かないものなのだろうとは思う。

毛沢東の正統性は日本に勝利した建国者という虚構(実際に戦ったのは国民党だしアメリカのおかげだった)にあり、鄧小平以降の指導者は経済発展に正統性の根拠を置いた。1990年代以降の発展はアメリカが日本を差し置いて市場を中国に開放したからで、これも実質的にアメリカのおかげだろう。

習近平の掲げる正統性は強国理念、「中華民族の偉大な復興」という物語に置かれ、それが戦狼外交に直結していると。そして背後にあるアヘン戦争以来の被害者意識が力への信奉を強めていると。時代錯誤な帝国日本の模倣のように感じた。

中国の南シナ海に関する論調は、「我が国の海が小国に食い荒らされている!」というものだったというのはおかしかったが、外交当局者としたらゾッとするだろうなと思う。台湾だけでなく沖縄やその周辺についても同じような考えなのだろう。妄想の巨大帝国だなと思う。これは被害者意識というよりは自己認識の歪みというべきだろうと思う。第一アヘン戦争時の中国は中国人の国ではなく満洲人の征服王朝である。

習近平が政治局員七人の集団指導体制を覆して個人独裁を実現したのは反腐敗闘争によってだったというのはなるほどと思った。つまりは腐敗排除という名の毛沢東の実権派批判とか文化大革命、鄧小平の四人組裁判などのむき出しの権力闘争と見るべきなのだと。今でも軍部の粛清が続いているが、それで中国が強化されるかはやや疑問ではある。ただ思想的に台湾侵攻で「純化」したいのだろうなとは思った。全く反対の立場だが台湾の頼清徳も同じような傾向があることが懸念されているようだ。

垂氏の鋭い舌鋒は返す刀で日本側も切りつけていて、「日本でも戦後長らく霞が関の中央官庁が強大な権限を握ってきた。官僚は失敗することがないとされ、失敗を決して認めない「無謬性」が頑なに信じられてきたが、結局のところ失敗だらけであったことは論を俟たない」とあったのは笑った。主に財務省に対する批判ということになるのだろうけど。

日本にもまだこういう官僚・外交官がいたのかというのはちょっと嬉しい話でもあり、今後も活躍を期待したいと思いながら読んでいる。


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