フィンランド吊り目問題というバイトテロレベルの炎上を鎮火できない差別意識の根深さ/中国で公共意識や民主主義が難しい理由:「たとえば自由はリバティか」/肌寒い日曜/メガソーラー支援打ち切り

Posted at 25/12/15

12月15日(月)小雪まじりだが月と木星は見えた

昨日は1日ぐずついた天気で、朝も冷え込まない代わりに1日肌寒い感じだった。昨日は一日本を読んだりネットを見たりして家の中にいた。東京に行かない週はだいたい夕方あたりに煮詰まってきて岡谷のモールや書店に気分転換に出かけることが多いのだが、昨日はどうしようかと思いながらどんどん時間が経ってきて、夕方7時を過ぎたからもうあるもので済ませようと思い始めていたのだけど、8時前になって翌朝のパンがないことに気がつき、重い腰を上げて24時間営業の西友まで車を走らせてパンと夕食と、人に出すためのお菓子などを買ってきたりした。

ある意味集中して本を読み、またネットを見たりしていたので、気分転換を必要としないくらい集中してやれたのかなという気もしたのだけど、ただ単に出不精だった気もしなくはない。外に出ると寒いので家の中にいる時間が長くなるのだけど、暖房効率を考えてあまり襖や障子の開け閉めをしなくなると、外に対する関心が薄れてきて外仕事をやろうという気持ちがなくなるということもある。まあ、昨日の場合はあまり天気が良くなかったから気が進まないということも大きかったのだけど。

ただやらないといけないことはあるので午前中はブログ/noteを書いたあと留守中に届いたお歳暮のお礼の電話をしたり、必要な連絡を何箇所かにしたりして、お昼はあるもので済ませ、1時前に支度して近所の人のお葬式の弔問に出かけ、お寺で記帳してご親族に挨拶し、本堂の前の祭壇でお焼香して帰ってきた。お寺は隣の町内なので歩いても行けるのだがいいかと思って車で出かけたら、駐車場がかなり混んでいた。地元の人たちは歩いていたから、歩いていってもよかったなと後で思った。

出かけるのが嫌にならないうちにと思って月曜から始まる植木の手入れの下準備を少し。車の入れ替えをしたり少し草を刈ったり。別の場所の通電を確認しにいったり。思ったより枯れた草が生えていて荒れた感じになっていたから、月曜日に少しやっておいた方がいいかなと思ったり。本当はもっと早くやるつもりだったのだが、やることが多くて後回しになってしまっていた。

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ミス・フィンランドが吊り目ポーズの写真、つまり中国人を馬鹿にした写真を投稿して炎上したのだが、それにフィンランドの国会議員たちが彼女を擁護するために同じような写真を投稿したことがきっかけになって、日本のツイッターで激しくフィンランドを批判する炎上が起こった。

このヨーロッパにおけるアジア人差別の明らかな現れである「吊り目ポーズ」だが、ヨーロッパに行ったことのある日本人でこれをやられなかった人はほとんどいないだろうと思われるくらい蔓延した差別行動であることは確かである。私も40年ほど前に1ヶ月ほど旅行した時、ドイツやフランスでは差別的な行為がなかったわけではないが吊り目はやられなかったが、スペインでは子供たちに「チーノ、チーノ(中国人という意味)」と囃し立てられたり、ポルトガルではやはり子供たちに囃し立てられ吊り目ポーズをかまされたことはよく覚えている。

まあこういうあからさまな差別をするのは独仏のような国ではなくむしろ周辺の小国なのだなというのは今回のフィンランドのケースでも明らかなのだが、日本人が強く憤激したのは単に彼らが差別的な行動をしているということではなくて、フィンランドをはじめとする北欧が「人権を守りましょう」という取りすました発信を盛んに行なっていることと今回との矛盾に「ダブルスタンダードの偽善ではないか」と憤ったというのが一番大きいだろう。

元々のバカにされた対象である中国人より日本人の方が強く反応したのは、中国は人権を強く意識する民主主義国ではないけれども日本人は常にヨーロッパからのそういうモラルハラスメント的な人権的非難に耐え忍んできたという感覚があるからだろうと思う。

ミスフィンランドの人は父親がコソボ系アルバニア人だそうで、そういう人をミスに選ぶということ自体がフィンランドの多様性重視の姿勢を誇示したところがあったわけだと思うが、国会議員が彼女を擁護したのも彼女を擁護するのがポリティカルにコレクトだという感覚があったのだろうという気がする。そのためにアジア人蔑視のポーズをSNSにあげるというのは「アジア人差別」という観点が欠けている全く本末転倒な行為なのだが、それだけ彼らにとってアジア人差別は空気のような、というか息をするように差別をしたのでそれをいきなり非難されて息をすることを非難されたような驚きを感じたのではないかという気はした。

もともとミスフィンランドが吊り目ポーズをSNSにあげたというのはいわゆる「バイトテロ」のようなレベルの低い炎上だったのが、国会議員がそれに参戦したことで国家レベルのバイトテロになった、というか国会議員がバイトテロレベルであるということを明らかにするという醜態を晒した、ということなのだと思う。

フィンランドという国はロシアの隣であり、常にロシアやソ連に圧迫されて領土にされていた時期もあるし、スウェーデンの領土だった時期も長い。そこから独立して戦ってきたことでロシアに勝利した日本に対しては親近感があったらしく、東郷平八郎の名前をとった東郷ビールなども売っていたりするなど、少なくとも日本人の多くは「親日国」と見做してきた国だった。

それが今回のことでイメージは暴落し、フィンランドを含む北欧の「人権先進国」と称する国々、またその国々を持ち上げる日本の左派人権派の人々に対してもダメージになったと思われるし、また彼らに対する信用も大きく毀損された。

https://x.com/yasemete/status/2000211678391328856

フィンランドの首相はようやく「子供じみた行為は良くない」程度の反応を示したようだが、実際にはあまり何が起こったのか今でもちゃんと認識していないのではないかという気がする。黒人差別や女性差別のようなオフィシャルになった差別と違い、アジア人差別は目に見えない形で行われているのは確かで、フィンランドの学者が「フィンランドにはアジア人差別はない。なぜならそういう研究も行われていないからだ」と表明したという話もあり、本当に見えない差別だということもある。

しかし一方で、これは日本でも同じなのだが、人々の中には「ポリコレ疲れ」というものがあり、そうした鬱屈した感情をこうした形で発散したのではないか、だから彼らに「反省」が生まれにくいのだ、という指摘もまたその通りだろうと思う。これは同じようなことが日本でもあって、参政党の勢力が伸張したということと結局は同じような話ではあろうと思う。ただ問題は、今回の差別意識が我々日本人を含む東アジア人に向けられたということであるわけである。

逆に言えば、人々の差別感情がある程度のおおらかさを持って許容される社会であればあいつも差別するがこっちも差別してやる、という呉智英さんのいう「差別もある明るい社会」で行けると思うのだが、日本人の差別的に見える現象は批判するが自分たちの差別は「冗談だからあまり真剣に捉えるな」というのではダブルスタンダードの偽善だと批判せざるを得ない、ということにはなるだろう。

この問題自体は東アジア人がフィンランドやヨーロッパで暴動を起こしたりすることは考えにくいので落ち着くべきところに落ち着いて貰えばいいとは思うのだが、この騒動も早速ロシアに利用されていて、日本人の反ヨーロッパ感情を煽るような動きも出てきているように思われる。

国際社会の対立の中で、日本は今まで概ねヨーロッパの側に立ってきたし、近代化を主導してきたということで尊敬もしてきたわけだけれども、こうした形で「価値観の共有」が怪しくなってくると、中国やロシアなどの権威主義国側からすれば日欧の連帯に楔を打ちやすくなってくる感じはある。またアメリカもトランプ政権の動きはヨーロッパを切り捨てる方向に動いている感があり、世界の落ち着きがさらになくなりかねない。世界がどうなっていくかはヨーロッパの側も考えていかなければならないと思う。もちろん日本ももっとちゃんとした国家戦略を持って国際社会に対応していく必要はあるわけであるが。

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「たとえば「自由」はリバティか」、第5講まで読んだ。第5講は日本語の「公私」と英語(ヨーロッパ語)のpublic/privateの共通点と相違点という話なのだが、毎回そうなのだが話の展開はヨーロッパ語での意味の解説の後、中国での、つまり漢字の原義としてのその概念が取り上げられ、そして日本ではどうか、という話になる。第4講までは「西欧と日本の違い」にほとんど目が行っていたのだが、今回は中国の特殊性という下日本やヨーロッパとの違いが強く印象に残った内容だった。

明清には江戸時代の日本のような村落共同体はなかった、というのが通説で、幇というのはあったけれども、これは結社組織で多くは同族組織という感じかと少し調べて考えた。読んでいくと本当に明清以降の中国には明確に区分できる共同体がないということがわかり、そうなると「共同体の中のみんな」という概念が元になる西欧のpublicの概念が成立しない、という指摘は結構重要なことだと思った。

私は中国は春秋戦国や古代のものの印象が強いせいか、中国というと古代の都市国家の国という印象なのだけど、それが解体されて個人単位になっていき、巨大な流動が生まれやすい状態になったから黄巾の乱やら太平天国の乱やらのビッグウェーブがしょっちゅう起こる状態になったということなのかなと思った。

都市国家が解体して後漢末以降荘園制の身分制社会になり、さらに唐代後半にそれも解体したあとの宋代には、「万人の万人に対する戦い」の状態になったという指摘は驚いたが、逆に言えば宮崎市定先生などが中国は宋代から近世になる、と主張するのはその辺りもあるのかなと思った。ただもちろん西洋近代と違って産業革命がないから近代とは言いにくいなとは思うのだが、宋代の読書人階級の成立をある種の市民革命の成果と見做せば近代的と言えなくはないかもしれない。しかしその後にモンゴルの征服があって社会は混乱するわけだけど。

中国には農民という法的身分がなかったというのは驚いたが、逆に言えば人は何にでもなれたのだということで、確かにそれはある意味近代的だ。ただ江戸時代の篤農家みたいな意味での公益を追求するある種市民性は生まれなかったということではあるのかなと思う。

日本で江戸時代の村落が共同体になったのは入会地などの共有財産があったということもあるが、年貢が村請制で共同責任を負わされたから、というのが大きいのだろう。土地は平安時代までは領主のもので開発領主たちが農民を集めて開発するというスタイルだったが、それが軌道に乗ると農民は比較的土地に定着するようになり、鎌倉時代には地頭が年貢の徴収を請け負う地頭請が成立し、室町時代には荘園内の村落が惣村化すると村自体が徴収を請け負う地下請に発展し、荘園制が解体された江戸時代には村切りされた小規模な村落自体が年貢を請け負う主体となって村請になる。そうなると村を構成する百姓たちは家ごとに年貢の額が決めらて村に対して責任を負うようになったということなのだろう。

これはつまり村落共同体ということであって、それはお互いに牽制し合うという意味で五人組制度的なムラでもあるがある種の自治組織でもあり、また大名や幕府側にとっては統治を容易にするというものであった反面、農民たちにとっても村や家という居場所が確保されたということでもあると思う。

中国人にとっての世界は自分を中心とした同心円構造になっていて、修身・斉家・治国・平天下という考えがそれを産んだということなのだが、あくまで自分が中心であって「共同体」というものは存在しないという世界の捉え方になるということだろう。ここは日本とも「社団国家」とも言われるヨーロッパ近世とは全く違うことがわかる。日本人みたいに「居場所」とかいう「甘えた」ものは最初からないということだろう。それが中国人のある種の逞しさ、アナーキーさにつながっていると考えると理解しやすいとは思う。

しかしそういうふうに考えるとこういう人たちの集まりに「共同体」とかその中での「民主主義」とかを説くのはかなり難しいことだなというのは読んでいて実感してきた。東アジアでは日本支配下にあった台湾や韓国で日本的な統治が行われることで少し変化はあっただろうと思うのだが、中国ではそういうこともなかった。

そう考えると中国というのは我々が考えているような世界観とは全く違う認識を持った人たちだということになるわけで、ある意味世界に進出しやすい、資本主義に非常に順応的な人々だったからこそ、アメリカに贔屓されたクリントン政権以降の新自由主義時代に経済大国化を成し遂げることができたということなのだろうと思う。

しかし自分自身とその延長という形でしか世界を認識しないスタイルは欧米的な国民国家共同体のような考え方はあまり発展しなかったと考えられるから、権威主義的な覇権国家思想が発達することになったのだろう。この辺りはイスラム世界やロシア、あるいは中南米、アフリカ諸国などの共同体意識みたいなものもまた考えていくことによって世界の把握の仕方がよりきめ細やかになっていくだろうという気はした。

残りは第6講、「society/社会」について。後40ページ弱である。

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https://news.yahoo.co.jp/articles/e2d8801855c7c3fe0c7e3cd3fa8b6f711aebd60f

政府がメガソーラーに対する援助を打ち切るとのこと。遅すぎるくらいだが良いことだと思う。

これが拡大したのは東日本大震災後の原発事故への対応というか原発を廃止して再生可能エネルギーへ、という発想の延長線上に出てきたもののようだ。しかし山林を切り開き自然を破壊して再生可能エネルギーというのはどう考えても本末転倒であり、こういう自然破壊的な発想は本来環境保護の立場から出てくるはずがないと思うのだが、原発を止めるためには山林の犠牲はやむを得ないという判断がどこかにあったのだろう。その辺りのところはこれから明らかにしていってもらいたいとは思う。

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書いている途中でゴミを出しに行きがてらジャンプを買いに行ったのだが、勘違いしていて今日はゴミの収集日ではなかったので、セブンに行ってジャンプとカフェオレを買った後、ゴミは出せずに持って帰ることになった。なんかいろいろアレである。

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