フィンランドをめぐる騒動:日本人の嫌うアンフェアさと忠臣蔵/「たとえば「自由」はリアティか」読了:微妙な概念的ずれを克服することで開ける広大な世界/文学の新しい可能性/謎の10世紀と史料
Posted at 25/12/16
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12月16日(火)晴れ
昨日は朝から作業場の方に植木の人が入ったので、朝打ち合わせをしたりお茶を持っていったり、別の場所の植木の管理のために駐車スペースを確保するために草を刈ったり。これは昼ごろ朝のお茶の片付けに行ったついでに別の場所に出かけてそこで草刈りを始めたのだが、蔓草が異常に伸びていたり結構手強いということがわかって最初に少し刈った後に家に戻って道具をさらに追加して持っていったりした。草刈機でバーっと刈ってしまえば済むような感じだと楽なのだが、ツルになる草は本当に面倒で、いちいちぶった斬ることになる。結局1時間くらいかかった感じで、久々に肉体労働をした実感があった。
こういう時というのは進行状況を見に行ったりお茶を出したり、挨拶をしたりもろもろ、やることが小出しになるので本を読んだり文章を書いたりしていてもすぐ時間になって中断される感じになるから、面倒と言えば面倒なのだが、逆に短い時間に集中したり一度集中が外れたのをなるべく迅速に元に戻したり、みたいなことが関心の中心になったりする。いずれにしても機敏に対応しないといろいろなことがやりきれないということはあるので、読んだり書いたりしながらそういう対応もしていくことになるわけである。
***
フィンランドの問題はそれなりに収束しつつはあると思うが、ただもう一度日本人に植え付けられた不信感はかなりの間拭えないだろうと思うし、これはフィンランドだけでなくヨーロッパ全体の問題でもあるというのは確かだろうなとは思う。
これはアジア人差別の問題だけでなく、ヨーロッパ文化にある「冗談に対して本気で怒るのは無粋」というところにも関わりがあるから、今まで「謎の微笑」でスルーしてきたアジア人が本気で怒り出すと「冗談なんだ」と言い訳を始めるということになるわけである。
そういう点に関しては逆に相手を侮辱する行為も冗談に紛らわせば許されるという風潮を生む部分があり、そういうところがヨーロッパ自身が世界から白眼視される傾向を生みつつあるということはあるようには思う。
https://x.com/SonohennoKuma/status/1754997385330303121
こうした知的に怠惰な態度が不信を招くということがある一方で、同情もできる点があるとすれば、これも文化的な要因からポリコレに厳しく従わざるを得なくなっているということに強い不満もあるという現状もあるのだろうと思う。これは日本においても同じような問題が噴出し、参政党の躍進にもつながり、高市内閣を生む原動力になった部分もあると思う。
結局ヨーロッパは自らの内なる差別がまだ解決がついていない状態であり、その一方で自らの取り組みを誇るだけでなく日本などに対しても干渉をしてくるので、それに対して日本人が強く反発したという面が大きい、という主張をネットでよく見たのだが、これは確かにそうだと思う。
日本人は偽善やダブルスタンダードあるいはアンフェアであることを嫌う、というのは日本でリベラルが嫌われるようになっている大きな原因でもあるわけだが、それは今回のフィンランド、ひいてはヨーロッパ全体に当てはまることだろう。
日本人はこういう状態を「片手落ち」である考えるし、「喧嘩両成敗」、すなわち一方だけが歪に得をする状態は是正されなければならない、と考えるわけである。ヨーロッパは、普段いい人ぶっていい人アピールをし偉そうに日本にご指導しようとさえするのに実際は差別根性の塊でありそれを冗談として誤魔化そうとすらした、ということに日本人は怒ったわけで、つまりは赤穂事件における片手落ち処分への批判と同じ、つまり忠臣蔵の精神なわけである。
12月と言えば昔は忠臣蔵だったが今はずいぶんそれも廃れてきてしまったのだけど、こういう本質的な部分には実は忠臣蔵の精神が残っているのだなと改めて思ったのだった。
***
渡辺浩「たとえば「自由」はリバティか」ようやく一通り読了した。しかしせっかくならもう一度読み返したい、という感じもある。今年読んだ本では一番印象に残ったかもしれない。まあ今年のことといっても1月頃のことはもう忘れているので他にもあるかもしれないのだが、少なくとも今思い浮かぶ範囲では一番読み応えがある一冊だった。
自由や権利、法や自然観、公私の感覚、そして社会に対する考え方など、わかっているようで自分の中でも落ち着きが悪いところがたくさんあり、それが社会科学を敬遠する大きな理由に自分にはなっていたのだけど、その辺りがかなり解決した感じがするし、また様々なこのジャンルのテクニカルタームやジャーゴンも、このように考えて本質をとらえていけば腹に落ち着く感じでの理解可能なんだ、と思えたことは大きかったなと思う。私は歴史を専攻して勉強してはきたのだが、人文系や人物像に傾きすぎなところがあり、最近になって経済的な部分や自然との関わりなどについてようやく考えられるようになってきていたのだけど、法や制度について正面から捉えようという気持ちがあまり起こらないでいた。
この本を読んだ今になって考えてみると、そういう微妙な概念的なズレのようなものが気になって仕方なくて、それでそういうものについてあまり考えたいと思わなかったのだなとはっきりしてきた。まあ歳は取り過ぎてしまったが、今からでも改めて社会や法や制度、あるいは理念というものについて腰を据えて考えていければ良いなと思った。
昨日読んだのは第6講の「社会」についてだが、日本語の「社会」という概念はもともとあった「世間」という概念に引っ張られすぎであり、自分を取り巻くものとしての自分を含まない概念である「世間」のイメージが、社会あるいはsocietyという語に反映され過ぎている、という説明はなるほどと思った。
「西洋でいうsociety...には「何らかの共通の目的や資質を持つ人々が交流し、交際し、協力する集まり」という意味合いがあります」
という説明はわかりやすく、「つきあい・仲間・交友関係・団体」を指すという。つまり、日本語でいう「世間」よりも「社会=society」の方が温かい概念だということになり、そういう意味では「英語で言えば無機質で冷たく堅苦しい感じになるが日本語だと柔らかく温かい感じになる」という一般論のまさに逆なんだということを思ったのだった。
日本語の社会はなんとなく「冷たい他人の集まり」という感じがするが、これは実は日本語の「世間」を反映したイメージであって、社会というのはむしろお互い助け合ったり協力したりするものなわけである。だから社会主義というのがもともとは空想社会主義、温かい理想で大変な人たちに手を差し伸べる考え方、みたいなものだったわけで、それが必然的に科学的に達成できるんだよとする科学的社会主義≒共産主義の理想みたいなものに多くの人が被れてしまったわけである。民間療法に科学的説明を導入するとインチキになるような感じで、人道主義に科学の説明を持ち込んでカルト化させたのがマルクス主義だったのかもしれない。まさに地獄への道は善意で敷き詰められていたわけである。
社会主義に対する私のイメージも官僚的で冷たく、また巨大ロボット的な非人間性があるのだけど、逆にそういうものを否定して本来の人間性を取り戻そうとしたアナーキズムのようなものも変に暴走して醜い形で欲望が解放された感じになってしまうのもまた歪なものでもあるなと思った。
またキリスト教的社会主義とかいうのは宗教を否定している社会主義なのにおかしいだろうと思ったりしたが、マルクスが宗教を否定しているだけでそういう意味での社会主義は人道主義的要素を主にいっているのだとしたら特におかしくはないということになるのだなと思った。
私は本質を捉えるのにどうしても論理だけではなく感覚でも捉えるところがあるので、この辺のズレというのは結構致命的な問題だったのだなと思う。この辺りを克服しつつ、さらに知見を深めていきたいと思った。
また公共意識という問題がまさに現代の外国人問題の根幹にあるのだということが分かったというのも良かったと思う。中国人は我々と文化的に公共意識というものが違うので思いがけないことをやってくるということは常にある。クルド人やベトナム人、ナイジェリア人など他の外国人の公共意識というものも社会分析して理解を深め、対策を立てて行く必要はあるのだろうと思う。もちろん日本側の公共意識の前提も理解していけるように啓蒙していく必要があるが、それを受け入れない場合の罰則もきちんと整備していくべきだろう。というように、具体的な政策課題にもつながり得る内容だったと思う。
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https://x.com/hazuma/status/2000381970963161468
「全ては政治につながっている」というのはその通りで、だからこそそれへの反発が80年代には強くて政治と距離を置く人が多かったんだけど、そこで政治をちゃんと意識しつつやるかどうかというのは結構大事な話だとは思った。
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https://note.com/yonahajun/n/n729d4eb30196
なぜ與那覇潤さんが歴史を離れて文学に行ったのかよくわからないでいたのだが、これを読んでちょっとわかった気がした。
先細りが続き、傾いている文学の領域で生きていくために、とるべき道は卑小な道と高尚な道が考えられ、前者はベストセラーを出してビジネスの領域に引き上げてもらったり社会正義を主張して必要性を訴える道なのだ、という。つまり文学それ自体の再興を図るのではなく、ビジネスとして、あるいは社会正義としての必要性によって拾ってもらおう、という戦略だというわけである。
これは必然的に作家個々人が上手く立ち回って評価されていくことに汲々とするということであり、つまりは最近出てきた「令和人文主義」というものがビジネスとしての生き残りを図るもので、社会正義として生き残ろうとするのがマイノリティ文学とキャンセルカルチャーである、という感じで與那覇さんは捉えているようだし、概ねそういうことなのだろうと思う。
一方で後者は文学の領域を丸ごと救おうと連帯する道だ、という。これはマンガのように表現規制と戦っている領域の人たちの連帯というものとまた違うところはあるにしても、ジャンル全体の価値を主張していくところは共通していると思う。そんな中で興味深いものとして取り上げられたのが「人の書いた手帳を読む」という企画である。
「人の書いた手帳を読む」というのは確かに極めて文学的な行為であって、こういう新しい可能性を見つけようとすることも文学の再生に繋がる道ではあるかもしれないとは思った。
で、多分そういう「連帯」ということを與那覇潤さんはやりたいのであって、歴史学や社会科学の領域では難しいと考えるようになったのかなという気はした。私などは今からもう一度そちらの方にトライしようという感じが強いので、違う方向には行きそうだが、しかし表現規制の問題については今後もしっかり見ていかないといけないと思っているし、多分そんなに離れているわけではないのだろうなとは思った。
卑小、高尚というのは前者が自分のことだけしか考えないさもしさみたいなものがあるのに対し、自らの鋭意に対する誇りを持って現実を克服していこうとするところにあるからなわけで、どうなるかはわからないが今後も見ていきたいとは思ったのだった。
***
本棚を漁っていたら榎村寛之「謎の平安前期」(中公新書、2023)という本が出てきて、このところ頭の片隅で引っかかっている「謎の10世紀」の問題と関わりのあるところなので、少し読み出してみたのだが、ちょっと自分の読みたい方向と違う感じがしなくもなかった。
まず10世紀の社会経済についてもう一度見てみようと思って伊藤俊一「荘園」(中公新書、2021)を読んでみたのだが、こちらの方がやはり自分の知りたいことに近い。ただ、10世紀に関しては記述が少ない。当然ながら10世紀は六国史の編纂が終わった後で、基本的な資料が極端に少ない時代だというのは知っていたから、まあそれは仕方ないなと思いました。
いろいろネットで検索してみると藤原忠平(880-949)の残した日記である「貞信公記」(907-948、子息の実頼による抄本)であるとかその実頼の書いた「清慎公記」などがあるが、これが甥の藤原公任が部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたために反故になってしまい、またその部類記も火事で焼けてしまったとか割と過酷な運命にあっているようである。まあそういう形で群書類従であるとか大日本史料であるとかを見たら結構出てくるのだろうなとは思った。読みたいものがどれだけ出てくるかはわからないが。
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