浜崎あゆみさんの無人ステージの熱唱と中国の一人相撲/大きな書店に行くことの意味は書棚の背表紙を見ながらものを考えることにある

Posted at 25/12/02

12月2日(火)晴れ

昨日は午前中ブログを書いたりし、気分転換に散歩して近所の和菓子屋さんに弁当を買いに行き、帰ってきていろいろやっているうちにお昼になったのでお弁当を食べた。日曜日の飲み会の時は「若いんだから」とか言われてだいぶ食べさせられたが、なんだか知らないがたくさん食べられた。確実に食べ過ぎではあるのだがどうも胃が丈夫だった。しばらく少なめに食べるようにしたいと思う。お腹が空かないうちに次のご飯になるという感じになるのはどうもあまりよくないなとは思う。

昼食後、出かけて地下鉄の駅まで歩き、東西線で大手町に出て丸の内丸善へ。大きな書店に行くのは何も買わなくても行くだけで意味があるといつも感じるのだが、それがどういうことなのかを言語化できていなかったのだけど、昨日は少しわかった気がした。

大きな書店に行くということは、書棚の背表紙を見たり中身をパラ見したりしながらものを考えることにあるのだと思う。今日は社会学の棚を見ながら結構いろいろ考えた。社会学というとジェンダーとかフェミニズムとか一方的な左派言論などが思いついて「学問と言えるのか」みたいな極論も出てくるわけだけど、書棚を見ていると数量的な社会分析の方法論とかウェーバー以来の社会学的な立場からの事物の考察などの本が並び、こういうことは勉強する意味はあるよなあとは感じる。

それなら本屋ではなく図書館でもいいのではないかという考えもあるとは思うのだけど、図書館の書棚というのは基本的に日本十進分類の順番に並んでいるわけで、そういう意味ではあまり有機的な連関が意識されていない。書店の書棚はこの本を読んでみようと思うとその隣の本も手に取ってみたくなるというような並べ方をしてあるから、知的好奇心が適度に刺激されるようになっているということが一つ。

もう一つは、書店の書棚にあるということは今「現役で」売られている、市場に出ている言説だということで、「お蔵入り」はされていない、リアルタイムに市場に出ている言説であるということもある。最近の本の入れ替わりのサイクルの速さを考えると、ある程度大規模な書店でなければ一定期間その本が書棚にあるということを確保できないわけで、だからこそ大きな書店に行くことでよりリアルなその分野の現在を感じられるということがあるわけである。

昨日見ていたのは社会学の棚田が、社会科学というものは社会・政治・経済と言った研究対象が実際どういう状態なのか、それぞれどうなるのがいいのか、どうしたらそうなるのかということを検討し提言するものなので、どういう社会や政治、経済が良いのかという前提となる考え方が違えば全く違う体系になる。

当然ながら日本の政治学者と中国の政治学者とでは共有できない部分は大きいし、その社会の実情をどう解釈するか、あるいはその処方箋に何が適当なのかというのは国内においても流行り廃りはある。また昨日見た丸の内の丸善などでは基本的に「まともな本」が並んでいたが、学説的に偏った本があることは仕方ないけれども根拠の薄い本も歴史や宗教その他の分野では多い。

丸の内の丸善が良いと思うのはオフィス街にあるということで、そういう意味で実務者の人たちにとって手に取る価値のあるものが多いということがあるのだと思う。新宿の紀伊國屋などだと学生向けに偏っている感じがあり、ジェンダーその他「意識高い系」のものが多くてちょっと最近は敬遠がちになっている。アカデミズムにより近くまた地に足がついた感じだと池袋のジュンク堂がいいなと最近は思っているのだけど、池袋は遠いのでなかなか行けない。神保町の三省堂が間も無く新装開店するので楽しみなのだが、売り場面積はかなり減らしたということで、そのあたりは残念である。紙の本は確かに厳しいのだろうとは思うのだが、大規模書店には大規模書店にしかない良さと役割があると思うので、頑張っていただければなあと思うわけである。

2時前に地元の地下鉄駅から歩いて帰ったのだが、団地の中の道が工事中で普段と違う道を通って帰った。緑道公園を今年から来年にかけて工事するらしく、どういう雰囲気になるのかわからないけれども、道も傷んできた感じがあったからより利用しやすい形で整備するのは良いかもとは思った。普通に通り道なので遠回りにはなるが。

うちに帰ってきて洗濯物を干したりゴミをまとめたり。来週も東京に帰る用事ができたのでいろいろ忙しい。前回の帰京の時には牛乳をチンしたまま取り出すのを忘れていたので大変なことになっていたが、今回は家を出る前にそういうこともチェックしたから大丈夫だろうとは思う。3時半過ぎに家を出て駐車場から出発し、近くのローソン併設のスタンドでガソリンを入れる。158円なのでだいぶ安くなってきた。まあコロナの最安の頃に比べればまだまだ高いけれども。コーヒーを買って出発。道は少し混み始めていた。

首都高も最初はスイスイだったが三宅坂の手前、竹橋ジャンクションの合流でかなり渋滞。三宅坂でもちょっと渋滞し、西新宿の合流ではかなり長大な渋滞。抜けてやれやれと思ったら事故で一車線に規制されていて、それで混んでいたのかと理解するなど。石川PAに着いた時には5時を超えていたので、本当は帰ってから夕食にするつもりだったが八王子ラーメンを食べる。なぜかかなり空いていて、私が入った時は二、三人しかいなかったが、食べ終えて出た時には私だけになっていた。

また八王子ジャンクションの手前で工事をしていてここでもそれなりに渋滞。石川から藤野までのタイムを測ろうと思っていたのだが、渋滞していたので30分以上かかってしまい、ノーカンに。そのあとは基本的に順調。境川に着いた時には6時半ごろになった。トイレ休憩だけしてあとは地元のインターまで休憩なしで走り、インター近くの書店でカレンダーと日めくりを買い、スーパーで朝の買い物などしてから帰ったら8時ごろになっていて、少し休んでいる間に疲れが出てきてうたた寝をしてしまったが、10時ごろなんとか起きて寝る支度をして寝た。

***

https://news.yahoo.co.jp/articles/f903b7757c9a01d12641aaba915b32e880fc8cca

浜崎あゆみさんが中止を前日に命じられた公演で、準備に奔走してくれたスタッフたちのために無人の会場でアンコール予定曲まで全曲歌ったという話は、やはりすごいなと思ったし、普段と同じパフォーマンスをし、上海に何度も呼びかけていたというのは感動的な話だと思った。これは公演中止の憤懣を高市政権にぶつける底の浅い反体制をきどるミュージシャンなどに比べて格が違う感じで、表現の自由とか表現弾圧との戦いというものはこういう形でもできるのだなと思わせてくれた。こうした公演を許さない習近平政権の度量の狭さというものを世界に訴えた形になったのは、現在の中国の歪さというものをはっきりと示すものになったと思う。

中国側は相変わらず手を替え品を替え日本を非難しているが、彼らの言ってることは結局は「日本は敗戦国としての分を弁えろ、大人しく中国様の理不尽に従え」ということなので、それを事実として凌駕するためには「次は勝つ」しかないということになる。しかし日本側はそんなことは微塵も考えてはいないのだけど、彼らの中では軍事的に手を出すように挑発しているわけだから、何か言論で反発すると、すぐ「軍国主義の復活だ!」と騒ぐ。つまり彼らの妄想の中で一人相撲をとっているに過ぎないわけである。

しかし彼らの度を失した騒ぎぶりを見ていると、彼らは実は「次も勝つ自信」は本当はあまりないのではないかと思う。狂ったように軍拡してなんとか自我を保とうとしているが、戦争は数値だけでは決まらない、ということは彼らはよくわかっている。むしろ軍事音痴の日本左派が恐慌を起こしているが、彼らの日本に対する恐怖はいまだにかなり強いと感じさせられる。「そろそろ左派は軍事(実務的に)を語ろう」ではある。

彼らはことあるごとに小日本とか日本鬼子などというが、これは戦前の日本で「アメちゃんは資本主義に毒されて戦う精神を失ってるから弱い」と嘲笑したり、「鬼畜米英!」と叫んで「彼らは道徳的に劣っている」ということにしようとしたのと割と似てる感じはある。精神的勝利法である。

彼らが追い込まれてるなと感じるのは、軍に対して、あるいは軍の内部で粛清が始まるという現象が観測されるからというのもある。スターリンも軍に対して大規模な粛清を行なったし、ヒトラーもレームなど突撃隊を排除したりした。日本でも皇道派と統制派が対立し、クーデターに発展さえした。現代中国でもかなり軍の内部は習近平にやられている。実際の軍の内部の士気はどうなっているのか、不明なところが大きい。

現実問題としてはトランプがあまり同盟国のために戦争をやることに積極的ではないので、習近平はトランプを懐柔しようという作戦に出ているようだが、中国の内実はどのようなものなのか、注視していくべき部分はあるのだろうと思う。


月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday