日本的な「自由」の可能性と課題:「たとえば「自由」はリバティか」を読んでいる/「シテの花」ウェブ移籍、「2.5次元の誘惑(リリサ)」クライマックス、ビートルズ/マイナス5.8度の朝

Posted at 25/12/06

12月6日(土)晴れ

昨夜はうたた寝からなんとか立ち上がって着替えて歯を磨き、2階で寝床に入る際にオイルヒーティングをつけてから寝たのだが、布団の外の空気をそんなに寒く感じなかったのでつけて良かったのかなと思って下に降りて時計を見たら5時。ああ結構寝た感じがあるなと思い、ちょっと寒いなと思ってスマホで気温を調べたらマイナス4.9度。いきなり「来た!」と言う感じである。氷点下も1度くらいならまあ寒いよなですむが5度レベルになるとやはり本格的に寒い。家の中を寒く感じたのは正解にしても、これはついに本格的な冬到来だなと思った。最低気温はマイナス5.8度だったようだ。

昨日は午前中母を松本の病院に連れていく。8時半に迎えに行き、木曜日に松本に行った時に高速の車線規制が解除されているのは知っていたので、昨日は試しにSAのスマートインターから高速に乗るルートを試してみた。地元の道も街の中を抜けるわけではないので空いているし、高速に乗った後も順調に流れていい感じだった。母を乗せているのでスピードは控えめだったが、順調に塩尻北まで走って降りて、19号もまあまあ空いていたので、予定よりも相当早く病院のあるモールに到着した。立体駐車場の3階に入り、そのままエレベータで降りればすぐである。時間的に余裕を持って到着できたので母をトイレに連れて行ってから受付し、先に次回の診察の予約をして、まだ時間があったので1階の食料品売り場に行って母の欲しいものや自分のお昼を買って戻ってきてから診察を受けた。

診察・処置も順調で、その間借りてきた渡辺浩「たとえば「自由」はリバティか」(岩波書店、2025)を読んでいた。これはかなり面白いのであとで書く。診察が終わり会計を済ませて、トイレに連れて行ってまだ11時前だったのでこれなら母にもあまり負担にならなくて良かったなと思う。母に負担にならないと言うことは自分にも負担にならないと言うことでもある。帰りは19号を通って塩尻北インターまで走ったが、結構渋滞していた。この時間になると返って混むのだなと思ったが、どうにもならないと言うほどでもなく、インターで乗ってあとは順調。SAのスマートインターで降りて湖畔の道を通って施設に送り届け、到着はお昼前だった。ほっとした。

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一安心して近くのファミマまで行き、エビアンを買って、そのまま車をツタヤに走らせ、「妹は知っている」5巻を買って、家に帰ってきて昼食。ご飯を食べた後横になったらどっと疲れが出てきた。物事が順調に進んでいる時にはうまく行っていると言う気持ちと「このまま行け」と言う気持ちがあるから、そう言う意味で緊張感が続いているのだなと思う。トラブルがあるとそれを乗り越えるために気合を掘り起こしたり対応策をいろいろ考えたり、あまりしたくない種類の決断を何度もしたりしてストレスを感じて疲れると言うことはあるが、順調にいくと順調に言ったなりの疲れがあるのだなと思った。苦労性というものだろうか。まあストレスは少なかったとは思うが。

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「たとえば「自由」はリバティか」。幕末以降日本に輸入されたさまざまなヨーロッパの政治的概念と、日本語に訳されたそれらの概念、つまり日本で現在一般的に用いられている概念とのズレのようなものを考察し論証した内容で、読んでいるうちにどんどん面白くなってきた。

ヨーロッパの元の言語でのlibertyとかfreedomというのはより正確に訳し、また中心概念を取り上げると「奴隷でないこと」ということになる、というのはこれはもちろん読む以前から知っていたが、それがどういうふうにこの概念の決定的な重要性を生むのか、ということについてはあまりよくわかっていなかった。

自分としての率直な感想を言えば、つまりはヨーロッパというのは身分制社会、階級社会だったということである。「奴隷」でないということはいわゆる「自由民」であるということで、逆に言えば「奴隷でない」という「否定形」によってしかlibertyというものは定義できない。奴隷である、ということは主人がいるということであり、自分の意思によって動くことができない存在であるということである。その「奴隷である」ということに対して、ヨーロッパ人は強く否定的であり、また率直に言えば「軽蔑の念」を持っている。「自分は奴隷とは違う、高貴な自由民なんだ」というのが「自由の価値」であるわけである。

ヨーロッパの政治思想といえば「自由と平等」だし、「奴隷だって人間だから人間としては平等なんだ」みたいに日本人は考えがちだが、そうではないんだなと思った。奴隷でないことが自由なのだから奴隷であるということは人間的な価値がないということになるわけである。だから絶対王政には否定的なわけだし、絶対王政を否定して、「全ての人間は自由である=奴隷ではない」ということを達成したことに、非常に崇高な意味があるということになるわけである。

奴隷制度というのは逆にいえば彼らにとっては「自分たちが自由であり高貴であるという自覚」を持つための契機になっているわけで、自由の価値を重んずればこそアメリカでは明治維新の頃まで奴隷制度があったということもできる。逆にいえば現代に続く黒人差別問題の根底には、「昨日まで奴隷だった奴らと同等にされた」という憤懣が背景にある、ということも言えるわけである。

現代のヨーロッパ諸国がロシアや中国、あるいは非民主主義的なイスラム諸国に対して取る軽んじるような態度の背景にもやはり「国民が十分に自由でない」ことが大きいわけで、「価値観を共有していない」というのはそういうことなのだなと再確認した。逆にいえば日本は、ある意味過度なまでに自由なわけで、「価値観を共有している」ということは強くアピールして行ってもいいと思う。戦前日本も1920年代まではそういうアピールにかなり成功していたと思うが、1930年代からの統制かから軍国主義のイメージを必要以上に強く持たれてしまったことは失敗だったなと思う。

で、一方では現代の日本における「自由」の概念には、「奴隷でない誇り」みたいなものはそんなに強くはない、というか「自由でないこと=奴隷であること」だとはあまり考えられていないわけである。自由でない、ということはたとえば手元不如意だという意味になったり、体に障害が起こって思い通りに動かせない、ということになる。つまり、日本において「自由である」ということの意味は、「自分の思い通りに動ける、できる、なる」という部分が強いということなわけである。

そして、ヨーロッパにおけるlibertyの意味には、こういう意味での用法はない、という指摘も大変わかりやすく説明されていた。「お金がないということは不自由ではあるがリベラルではないという意味ではない」わけである。このなんとなく曖昧にされがちな「自由とリバティの違い」というものをきちんと理解することはかなり重要なことだと思ったし、少なくともヨーロッパ人たちと議論する上で踏まえておいた方がいい前提ではあると思った。

日本においての自由はつまり「思い通りになる」ことで、「自由自在」とかもそうだし、通俗的な意味では「勝手きまま」という意味で「そんなの俺の自由じゃん!!」となるわけである。しかしこの意味での「自由」の用法には「俺は奴隷ではない高貴な自由民だ!」みたいな高らかな宣言という要素はないわけで、ガキが屁理屈で覚えたての手前勝手な理屈を振り回しているだけ、ということになるから、日本では必ずしも「自由」というものを「無条件で良いもの」とは捉えてこなかったわけもここにあるわけである。1930年代に自由という概念に対して否定的になってしまったのも、西洋的なlibetyを否定したのではなくて「手前勝手な自由」が否定されたという面は強かったと思う。

もう一つ日本で大きな「自由」の意味は、宗教的というか仏教的・神道的な意味合いで「とらわれのない清らかな心」みたいな意味がある。この辺は「自由自在」というのも元々はそういう意味で、かなり高い境地を意味しているわけである。しかしこういうある意味「解脱」に近いような境地に比べると、西洋的な「高貴な自由」はもっと生々しいものである。「奴隷でない」という否定形にその根拠があるというのがその理由であり、まあ仏教的な意味での「自由」は、すでに「奴隷というものはない」のだから話の拠って立つところが全く違う。

西洋的な意味で、たとえば依存症になっている状態は、その依存しているものに対して奴隷になっていると解釈されるから、自由ではないわけである。何者にも囚われないというのとの違いは、「奴隷でない」ことと「そもそも私を縛るものは本来存在しない」ということの違いがある、ということも押さえておいた方がいいと思う。

で、多くの政治思想を説く論者は西洋のlibertyの本義を解き、日本での自由の理解の浅さを指摘して「日本人は遅れている」となるのが普通だったから、より出羽守チックで嫌がられていたわけだけど、このようにフラットに説明されるとなるほど日本人の自由概念の理解にも弱点はあるなとは思うし、そこは本書の意としていることなのだと思うけれども、それだけではなく、日本人には日本人的な「自由」概念の理解があり、そこにはある種の限界や問題もあるかもしれないが、だからこその可能性もあるのではないかと思ったわけである。

つまり、たとえば現在、表現規制において世界で一番自由なのは日本だと言っていいだろう。それは日本的な自由理解の中に「何をしても俺の自由じゃん!」という理解があるからだ、と言って良いと思う。西欧で性表現の規制が厳しくなっているのは、いわば「性表現を緩めると欲望の奴隷になる」という感覚があるからで、その欲望から子供と女性を守る、みたいなのがこうしたポリコレ的なフェミニズムの論拠だろう。

しかし実際には性犯罪は表現規制の厳しい地域ほど多い、というのは日本ではよく論じられることで、日本もフェミニズムの勢いの強さによってだんだん規制が加えられつつあるのはいい方向には行ってないと思うけれども、ある意味「性犯罪発生の実態」を無視した「概念の暴走」によってこういうことは起こっているわけである。

しかし日本では自由とは手前勝手な自由もありまた宗教的な自由自在さも肯定される部分が文化的に概念に含まれているので、だからこそ自由で多様な表現が可能になっているのだ、とプラスに見ることもできるな、と思ったわけである。

これらの違いという点においては、すでに福澤諭吉が「西洋事情」で述べていて、リバティという概念をうまく日本語に訳せる言葉がない、ということは言っている。その翻訳の試行錯誤についても本書では詳しいのだが、福澤自身が「西洋事情」の続編ではすでに「自由」という訳語を採用しているので、まいっかという感じになったのだな、と思った覚えがあった。この辺のところは本書でも指摘されていて、政治思想史の碩学が指摘するようなことを自分がすでに気がついていたということはちょっと嬉しく感じたりもした。

それはともかく、西欧と日本とのそうした概念の違いを踏まえた上で、日本的な自由の価値についても守っていきたいし、その可能性を広げていきたいと思ったわけである。52/335。

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https://www.sunday-webry.com/episode/2551460909895023201

「シテの花」最新話、サンデーうぇぶりで連載再開。面白かった。本誌からウェブに映ったのはちょっとショックだったが、新天地でさらに勢いを増して欲しい。楽しみにしたい。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912579002911

ジャンププラス、「2.5次元の誘惑(リリサ)」超クライマックス。今回で終わりかと思っていたが、2週間後に「200+1話」があって、それが本当の最終回になるとのこと。この作品は読み始めてからずっと思い入れがあって、肩入れしすぎて展開が自分の望んでる方向と違ってきたときにとても落胆したのだが、なんかそういうふうに振り回されたのもいい思い出、という感じになってきた。199-200話の展開には本当に納得感しかない、という感じ。リリエルは2次元、リリサは2.5次元で本当に「誘惑」で、本当の恋人に出会えるまでの道を導いた「天使」だったのだなという感じ。200話ラストのコマでリリエルが雲の彼方に飛び去っていくのを見て、本当にじんわりした。最後まで楽しみに読みたい。

ガソリンを入れに行って帰ってくる途中、FMでビートルズがかかっていたのだけど、一つ一つの楽器の音が綺麗で、こういうふうには弾けないなあと改めて思う。曲作りのアイデアも豊富で、やはりビートルズは現代ポップスの原点だなと改めて思った。

まあいろいろ忙しくて解決していかなければいけないことも多いのだけど、今日の2作品とビートルズは本当にご褒美をもらったという感じだった。マンガも音楽もやはりいい。

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