「謎の平安前期」を読みながら、「謎の10世紀」についていろいろ考える : 日本史の地殻変動の時代なのではないか

Posted at 25/12/24

12月24日(水)雨

今日はいわゆるクリスマスイブだが、雨が降っている。この時期に長野県で雨が降るということは全体的にかなり気温が高いということだろう。山下達郎の「クリスマス・イブ」では「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう」と歌われているが、予報では明日も雨である。しかしクリスマスが本来イエスの誕生日であることを考えると、イエスが生まれたベツレヘム(パレスチナ)で雪が降るということもあまりないだろうから、ホワイト・クリスマスという良い慣わしも雪が降るヨーロッパ北部で始まったものだということなのだろう。

今朝は起きたら5時半ごろで比較的よく寝たという感じ。少し懸案になっていたことがなんとかなりそうなのと、昨日は母を病院に連れていったのだが、それが比較的順調に済んだ(結構時間はかかったが)ことでホッとしたということも大きかったと思う。年の瀬になって忙しいだけでなくいろいろな対応もあるのでなかなか気が抜けない感じではある。今日明日外でやる用事を考えているので、なんとか雨が止んでもらえるといいなと思うのだが。

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平安前期のことを色々考えながら「謎の平安前期」を読んでいるのだが、宇多天皇・醍醐天皇の初期の藤原時平が太政官を主導していた時代には律令制の再興が図られた最後の時期だとされていて、延喜格式や六国史の最後の「三代実録」の編纂などにそれが現れているとされているわけだけど、それは時期としては時平が死ぬ909年まで、ということになる。「謎の10世紀」の最初期である。学者官僚のトップであった菅原道真が失脚するのが901年だから、この辺りで「漢学(儒学だけでなく律令制など中国の政治思想体系全般も含めて)の時代」の取り敢えずの終わり、と考えていいかとも思う。もちろん貴族の基本教養が漢学であることはその後もしばらくは変わらないわけであるけれども。

時平の弟の忠平は賢明で温厚であったとされ、菅原道真の祟りも忠平にも及ばなかったとされる。彼は949年、村上天皇の初期まで生きて「貞信公記」という日記も残している。この間には935年から941年にかけての承平天慶の乱や出羽俘囚の反乱など全国的に騒乱が起こっているわけだが、周知の通り関東等に土着した軍事貴族の軍事力が主に用いられて反乱が鎮められていくということになる。これがいわゆる武士の起こりとされているわけだが、つまりはそういう変化もまた10世紀だということになる。

藤原利仁、藤原秀郷、源経基・満仲・頼光、平高望と四人の息子たち、そして孫の貞盛・将門なども皆10世紀の人で、やはりこの時代は日本史の地殻変動の時代であったことは間違いないようには思う。謎の4世紀に大和朝廷の胎動期があったのと同じである。

いろいろ読んでいて思ったのは、「漢意(からごころ)」の時代が時平まで、忠平以降が急進的な変化を求める中国思想の導入を抑えた「大和心(やまとごころ、やまとだましい)」の時代になった、と捉えるのが良いかなと思った。この辺りは何度も書いているが「源氏物語」の「少女」の巻で貴公子であるのに大学に入学させられる光源氏の長男・夕霧について源氏が教育論を展開しているのが知られている。一方で学者たちはどうでも良さそうなことで喧喧諤々の議論を繰り広げる様を戯画的に描かれていて、これは道真をはじめとした学者たちが超自然的な力を持つに至ったように描かれたことと同じく、実際面での力を失いつつあることの表れだと考えて良いのだろうと思う。

「平安前期」は158ページまで読み、第六章の斎王、今は賀茂の斎院についてのところを読んでいるが、第三章・第五章・第六章が宮中や皇族・貴族の女性たちについての記述になっていて、これだけ大きくページが割かれているのは「女性」についての研究が進展したからで、そういう意味では意味があったとは思う。面白いと思ったのは藤原師輔についての話である。

師輔は947年に村上天皇が即位し、父・忠平が病になった年に右大臣となり、960年に53歳で右大臣を辞し死去しているが、娘の安子が村上天皇の中宮となり冷泉・円融両天皇を生んでいるので、現在の皇室の祖先の一人でもある。摂政・関白にはならず、970年まで生きた兄の実頼(関白太政大臣)に官位では劣るが、兄に負けない影響力を内廷的には持っていたわけである。

彼もまたまさに10世紀の人なのだが、彼が特筆すべきことは、正妻の藤原盛子(父は藤原南家の経邦、従五位武蔵守という受領階級だが、裕福であったと考えられ、兄に対抗する財力を持つ必要があったためと指摘されている)に加え、三人の内親王(醍醐天皇の娘)を妻に迎えていることである。

師輔の後継者である伊尹や兼家、また両天皇を産んだ安子は盛子の子なのだが、康子内親王は閑院流の祖である藤原公季を産んでいる。彼は幼くして母を亡くすが姉の中宮安子に引き取られ、宮中で皇子たちと共に育てられたといい、997年には内大臣に上り、1017年には右大臣、1021年には太政大臣になっている。摂関家の嫡流でないのにこの地位に登ったのは母が内親王であったというのが大きい、とこの本では指摘されていて、後に三条・西園寺・徳大寺の清華三家の祖になり明治維新にも影響を与えているが西園寺家は特に院政時代に大きな権力を振るったわけで、ある意味摂関家を没落させる原因にもなった、と指摘している。

師輔が内親王を三人妻にできたのは実質的な権力者だったから、ということしか書いてないのだけど、それが10世紀という時代にのみ可能なことであったということではないか、という気もして、その辺りのところもちょっと考えていければなと思った。

実頼の死後は師輔の長男・伊尹が太政官を主導するが972年に亡くなり、そのあとは兼通・兼家の争いが977年まで、小野宮家との争いが986年まで続き、そのあとは兼家とその子道隆の政権が995年まで続くが、公卿八人が亡くなり一条天皇も罹患した天然痘の流行で道隆が死ぬと、その子伊周との争いに勝った道長がより安定した政権を築いていく、という展開になる。謎の10世紀は疫病と「源氏物語の時代」の開幕で終わるわけである。

逆に言えば、源氏物語が舞台にしている宮中の様子は10世紀のことであると考えられる部分が大きいわけで、そこからも10世紀について考察することは可能なのだろうと思ったりもする。

そんなことを調べながら考えていたらあっという間に時間が経ってしまった。こういう時間をもっととっていくようにしたい。

***

こういうことをやっていると時事的なことを見る余裕がなくなるわけだが、まあそういうことを「浮世離れ」と呼ぶのだろうなとか。まあ普段いろいろ大変だからそんなわけでもないのではあるが。

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