台湾有事に対する日中の認識差と中国への牽制/「福音派」:プロライフ運動の始まり/「昏姫と恋烏」:スピリチュアルとの地続き感のある「鬼滅の刃」系?恋愛マンガ/墓掃除など

Posted at 25/11/13

11月13日(木)晴れ

昨日は午前中会計の仕事をお願いする。その間にお墓の掃除、というか草刈りに出かけた。もう秋も長けてきたのでこれから草はあまり生えないと思うが、真夏の間にあまりやれずお盆もやりきれなかったので、父の命日の前に少しきれいにしておこうと出かけた。灌木のようなものが生えてしまうのが今年の特徴だった気がするが、鎌だけでなく山用の鋸なども持って出かけ、70リットルのゴミ袋一杯になる程度の草を刈った。少しはすっきりと墓参りできるようにできたかなとは思う。

会計をやってくれる人と少し話をしていたら、自分の知っている人の亡くなった話などしていたらその人もよく知っている人で驚かれた。知っている間柄の間は親しくしていても後になるとさまざまな関係性が残っている人の方がその人について知っているということはあるので、まあそんなことだよなあと思う。同級生とかそういう縁だと他の同級生から消息を聞く、みたいなことができるが属していた集団が違う人だと個人的な関係が切れるとしばらく経つともうどうしているのかわからなくなる。まあ、だからあまり考えなくて済む、みたいなこともなくはないわけだが、歳をとってくるとそういう縁でも少し懐かしく感じたりはすることもあるなあとは思った。

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午後はツタヤに行って「Change the World」の3巻と「ダンス・ダンス・ダンスール」の31巻を買った。双方ともまた時間のある時にまとめて読み返してみたいなと思う。

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旅先のツタヤでジャケ買いした大宙晃「昏姫と恋烏」だが、2巻まで読んだ。「最近の少女マンガ」みたいなものを読み慣れていないので、そうくるか、と思う展開が多くてなんというか面白い。少女マンガは必ず恋愛が描かれていなければいけない、みたいな話がモーニングの「箱庭モンスター」で書かれていたけど、こういう形母と思ったり。祓い師のJK少女と妖の家系のチャラい青年、というコンビ(バディ)だが、二人の関係性の進展が根暗の女の子の妄想っぽい感じがして面白いなと思った。

設定として面白いと思ったのは、「祟」になった「妖」がこの世への「未練の鎖」に縛られているのを主人公の持つ刀で断ち切る、という形になっていること。その妖の声が聞こえてしまうために気味悪がられて友達ができない、という話は「オーラの泉」の江原啓之氏の自伝でも読んだことがあった。霊が見えてしまうために本物の人間と見分けがつかず、危なくて車を運転できないとかそういう話だったが。

少年マンガ系のそういう話はなんというか作品世界の中で自己完結している感じがあるのだけど、少女マンガ系だとスピリチュアル系の霊媒師ドキュメントみたいな話との地続き感がある感じがして、それは男性と女性の感性の違いみたいなものから来るのかなとは思った。もちろん男性にも女性より、女性にも男性寄りの感性の持ち主はいるわけだけど。

「鬼滅の刃」「呪術廻戦」「カグラバチ」という流れから少女マンガを汲み取るとこうなるのかなと感じたりはしたが、この先の展開を楽しみにしたい。

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「福音派」について書くのが止まっていたが、月曜日にそれなりに読んではいた。第二章の第二節、「モラル・マジョリティ」運動を生んだジェリー・ファルウルのところを読んでいて、ただそれについて書く気にならず、またその先を読む気もなくしていたのだが、ちょっと今日は読んだところをまとめようと思う。第2章の表題は「目覚めた人々とレーガンの保守革命 −1980年代-」で、第1節は「政治的な目覚め」となっている。

第1節で興味深かったのは、後に福音派の大きな流れを生むプロテスタント保守派は、元々人工妊娠中絶に強い反対意見は持っていなかったということがへえっと思った。むしろレイプ犯罪などで望まない子供を妊娠した場合などは中絶に反対しない姿勢の人がほとんどだったのだという。元々教義的に避妊や中絶を否定するカトリックとはその辺りが違うということになる。日本でも「生長の家」など強く中絶を否定する教団があるけれども、私はそれらと福音派との関係があるのではないかと思っていたところがあるので、これはかなり意外だった。

1960年代の公民権有働に反発して、キリスト教原理主義者たちは「キリスト教系私立学校」を創設していったのだという。その背景には公立学校での祈りや聖書朗読の禁止などのキリスト教否定的な動きも強くあったようだ。それらはそうした世俗主義への反発であり、黒人と同じ学校へ通うことへの反発もあったのだという。

連邦政府がそうした私立学校に対する税控除の優遇措置を撤廃するという政策を打ち出した時、全米で抗議活動が起こり、私立学校への税控除の優遇撤廃を撤回して、これが保守派の成功体験になったという。

簡単に言えば、元々原理主義者たちは政治に積極的ではなかったのだが、この例のように「原理主義者たちの生き方」が政府の干渉を排除することが難しくなってきたため、政治参加する必要が生まれてきて、それによって彼らが政治化していったのだという。

中絶問題に関しては、1973ロー対ウェイド判決で中絶禁止のテキサス州法を違憲とし女性のプライバシーの権利の一部とみなされるようになったのだが、原理主義の側では1971年に「クリスチャニティ・トゥデイ」誌で「プロライフ運動」への参加を呼びかけた頃から運動家したようだ。この運動の中心になったフランシス・シェーファーは「世俗的人間中心主義の裁判官による恣意的な判決によってキリスト教の価値観に反した法律が制定されている」と訴え、胎児の命を軽んずるなら高齢者や知的障害者や重病患者にも同様な危機が訪れるかもしれない、と警告するなど「生命を重んずる」ことを福音派の運動の柱にしていったのだという。

彼は1981年に「クリスチャン・マニフェスト」という文書を発表したが、ここでは「アメリカはキリスト教国である」と定義し、合衆国憲法をはじめとするアメリカの法体系はキリスト教を土台としているとして、現在のアメリカの諸問題は「キリスト教を離れてしまったことによる」という見解を出した。

これは「コミュニスト・マニフェスト(共産党宣言)」を意識したネーミングであり、1930年代にジョン・デューイらが参加して出された「ヒューマニスト・マニフェスト」も意識されているわけである。「クリスチャン・マニフェスト」は場合によっては政府への力を用いた抵抗もキリスト教に基づいた正当な力の行使だとするところが注目されるということのようだ。

ちなみに英語版Wikipediaによると「ヒューマニスト・マイフェスト」とは「ヒューマニズム」を「超自然的な啓示の主張に基づく従来の宗教」を超越し、置き換える「宗教的運動」として位置づけているのだという。この文書は15項目の信念体系を概説しており、世俗的な世界観に加え、「獲得欲と利益追求に駆られた社会」に反対し、自発的な相互協力に基づく世界的な平等主義社会を提唱しているのだそうである。これが出された1933年はフランクリン・ルーズベルトが大統領に当選しニューディール政策が始まり、「自由」の概念が「完全な自由競争」の状態だけでなく、貧しく成功する機会が与えられていない人に対して「機械の平等」を保障するようないわゆる現代につながる「新しいリベラル」の考え方が起こった頃であり、調べきれていないのだが、おそらくはこの「ヒューマニズム宣言」もそうした流れから出てきたものなのではないかという気はする。そうすると民主党左派的な思想のルーツになるマニフェストということになり、シェーファーたちがあえてそれに対抗する思想として「クリスチャン宣言」を出した、という流れも理解できるなと思った。

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東京国立博物館の改築計画への反対とか、昨日も色々あったのだが、一つだけ。

台湾有事に対する日中の認識差について。

https://x.com/kenj0126/status/1988711769515364560

「台湾有事と存立危機事態をめぐる中国の反発は、かつて安倍元首相が「台湾有事は日本有事」と述べた際の反応と軌を一にする。日本が安全保障上の射程を地理的・機能的に説明しているのに対し、中国は主権や共同声明の基本的立場への侵害と捉える。木原官房長官が述べたように、日本に後者の意図はない。」

このツイートはなぜ日中で見解の差が生まれるのか、ということを端的に説明しているように思われる。

日本にとっては、中国が台湾に侵攻したら沖縄をはじめ地域防衛にも問題が生じるのは当然だし、また台湾周辺海域での中国海軍の活動によって日本の生命線である「シーレーン」に影響が出るのは避けられない、という意味で中国の台湾侵攻を「存立危機事態」と呼ぶのは当然なわけである。

中国の側は台湾を中国の領土であるとみなしているから、台湾信仰は内政問題であり、それに対して日本がコメントすること自体が内政干渉である、ということを主張しているわけである。

また、日本が明治以来獲得した朝鮮半島や関東州、また南満州鉄道などの利権を「満蒙は日本の生命線」と主張していたことを逆手にとって「存立危機事態と称して日本は侵略をおこなった」と高市首相の発言と意図的にダブらせる表現をとっているわけである。それがセッケン大阪総領事の血生臭い発言につながっているわけである。80年前の戦争や侵略の話を出したら日本は黙るとタカを括っているということもあるし、それで引っ込まなければさらに高市首相を「戦前日本と同じ軍国主義者である」と糾弾しようという考えも透けて見える。彼らにとっては錦の御旗を振りかざさなければならないほど、今回の事態はある意味追い詰められているところがあるのだろう。

高市首相の発言の意図はもちろん中国が台湾に武力侵攻したら「黙っては」いないぞという意思表示ではあり、トランプは意図的に発言を避けたが駐日大使も大阪総領事非難にほぼ同調しているので、日本としてはある程度「釘を刺す」ことに成功したと言えるだろう。そしてそれを中国側が面白くないと感じているのはまあ当然だろうと思うし、公明党や立憲民主党など中国寄りの政党に対してさらに働きかけを強めてくる可能性もあるなとは思った。

この問題は今回に関してはこれ以上は広がらないような気がするが、セッケン氏に関しては何かはあるかもしれない。少なくとも両者ともこれ以上大ごとにする意識はないようには感じる。


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