「しあわせは食べて寝て待て」6巻:死んだ母と話をする男/高市内閣に乗り切れない国民民主党/「記述の律動」について考えているうちに過去の自分に出会う/「キングダム」77巻:韓の滅亡

Posted at 25/10/17

10月17日(金)晴れ

昨日は午前中ブログを書いたあと少し草刈りをし、少し休んでいた。昼前に蔦屋に出かけて「しあわせは食べて寝て待て」の6巻を買い、スーパーに行って買い物など。ドライフルーツの詰め合わせパックみたいなのを買う。リスみたいだがこういうのが好きなのだ本当は。最近高いから買うのを我慢していたのだが、久しぶりに食べてみるとつい手が伸びてどんどん食べてしまう。子リスのようである。他にもカップスープの買い置きとかキズバンとかバターとか切れそうになってるものを補給したら思ったより高くなってしまった。

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「しあわせは食べて寝て待て」6巻。これは以前岡谷の書店で見つけて3巻一緒に買った覚えがあるが、もう6巻。大体1年に1巻のペースのようなので買ったのは3年前くらいだろうか。まだコロナの余韻が強く、健康にも意識があった時期なのだと思う。大人同士のゆるい関係性みたいなのがゆったり続いていく感じがいいなという感じなのだが、主人公の麦巻さんは踏み込む時は踏み込むところがあり、今回は司くんの母の霊?の件に踏み込んでいるのだが、まあその辺のゆっくり感も面白い。ただ、こういう「傷ついたところがある魅力的な男性」の描き方というのは冬目景「百木田家の古書暮らし」もそうだったけどやはり「女性目線の男性」なのだよなと思った。そういうのは例えばジャンプ連載の「アオのハコ」などもそうなのだけど、自分が男性として見る見方と作者の女性目線の憑依みたいなところから見える見方とのずれがちょっと面白い感じがした。そこに立体性が生まれるというか。3Dメガネみたいなものか。

いろいろ起こりそうで起こらないことが多いが起こってしまったらどんどん進む、というのもこの作中世界の特徴なのだが、病気(膠原病)になる前の麦巻さんが割とサッサカ動くタイプだったから、というのが見えるのも人間の多層性みたいなものが見えていいなという感じがする。

ちなみに蔦屋でこの本を探したときに場所が分からず店員さんに聞いたら「団地の話ですよね?」と言われて「ハイ」と答えたのだが、ああ店員さん読んでるんだなと思った。団地の話であることは確かである。

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連立についてだが、私は高市自民党の連立相手は国民民主党が一番いいと思っていたのだけど、結局維新になりそうな感じがある。ただ維新も「議員定数削減」とか自分たちを高く売る交渉を始めているのでどこに落ち着くか。今ならまだ過半数を超えてないので国民民主の出る幕もあるし、場合によってはかなり重要なポストも取れる可能性もあるから、玉木さんもきちんとやる気でやると良いと思う。Twitterを見ていると玉木さんが残念な感じだ、というツイートが多いがまあ私もそう思った。

維新とよりは国民民主党の方が政策の共通点は多いのだが、やはり高市さんとしては責任を分担してくれる相手でないと、要求だけして責任は取らない中途半端な姿勢は信頼できないということだろうから、そこは理解すべきだと思うのだがいざという時に腹が決まらないという印象ばかりが残ってしまっているなあと思う。

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昨日読んだ年間読書人さんのnoteについていろいろ考えた。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n5f1e857643c8

これは小説家の佐藤亜紀さんの「小説のストラテジー」という小説にまつわる批評についての書評である。この中で佐藤さんは「小説の書き方」について書いているというのだが、普通の小説の書き方について書いているのではなく、佐藤さんが考える小説の面白さは「記述の律動」にあるという話である。

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これを読んでリンクを貼ろうとしてAmazonで検索したら、私は2015年、つまり10年前にこの本を購入していた。ほとんど記憶にないので買ったけどあまり読まなかったから読んでも忘れてしまったのかどちらかということになるが、ちゃんと読んだら記憶にあると思うのでおそらく買っては見たものの読まなかったということなのだろうと思う。今noteとブログの過去記事を調べてみようと検索をかけたのだが、この本は出てこない。Amazonの履歴にある2015年11月はブログを全く更新していない。私がこのブログ(途中からnoteも)書き始めてから何回かあった「文章が書けない時期」に買ったものということになる。2015年全体で14回しか更新していないので、かなり「書くこと」から遠ざかっていた感じだが、その時期でもこういう本を読もうとはしていたのだなと今にしては思う。当時何を考えていたのか、何も書いたものが残っていないと分からないのだけど、そういう意味ではほんの少しでも日記のように更新しておくということは、その時の自分にとっての重要な情報になるのだなと改めて思った。

ただ、今少し本棚を探したがこの本が出てこないので、この稿自体は佐藤さんの本を読まずに読書人さんの文章を読んだだけで書くことにした。

そういうわけで話はずれたが、この「記述の律動」について考えていると、眠っていたものが呼び起こされるような感じがして、いろいろと考え始めた。失われていたものを取り戻すような感じがする、とメモにあったが、まさにそれは今自分が描こうと取り組んでいる「自分を取り戻す」というテーマそのものだと今ようやく気づいたのだが、自分が書くこと、特に小説というもの(というか詩とかその他全般を含めたフィクションみたいなもの)を書くことにそんなに執着していたのかということに改めて気づいて驚いた。

「記述の律動」というのは私なりに簡単に解釈すると、いわゆる「文体」ということだと思う。「文体」というとスタティックな感じがしてしまうので、「律動」とか「記述」とかの動詞的な言い方に言い換えたということだと思う。

律動は普通に考えれば「リズム」ということだから、これは書く方のリズムもあるし読む方のリズムもある。書く方のリズムが読む方のリズムにうまくハマると読みやすいし、没入感が出る。リズムを作るのは記述の仕方だけではなく「内容」が絡んでくるのでうまく世界に入っていたのに不意に目に入った言葉で興醒めになってしまうこともあるし、逆に嬉しくなってより没入してしまうこともある。

佐藤さんの小説は、私は「天使」は読んだのだが「バルタザールの遍歴」は途中で投げ出したので、一作しか読んでいないから、彼女の小説について論じられるほど知識はないな、と思ってブログで調べてみると「天使」を読んだのは2006年の1月だった。もう19年も前である。

http://www.honsagashi.net/bones/2006/01/post_270.html

http://www.honsagashi.net/bones/2006/01/post_271.html

この頃の自分の文体はなんだか肩肘張っていてカッコつけていてむず痒い感じがするが、そういうのが40代前半の男というものなのかもしれないと思った。

ただ、この辺書き始めると実はものすごく膨大になるということに書いていて気がついてきた。佐藤亜紀さんについてももう忘れていたけどこれだけの感想があるなら、今これから書こうとしていることは自分の過去の記録から掘り出して見ると相当いろいろ出てくるだろうと思う。

そういうわけで、自分の過去と出会った感じなのだが、なぜこれくらいの膨大なものをあまり自分の中で考えなくなってしまっていたのか、その方が気になってきた。おそらくはブログを書けなかった2010年代のどこかのうちにその理由に関連するものがありそうなのだけど、それを無理に思い出そうとするよりは今思い出しつつあることの方に優先して取り組んだ方が、「自分を取り戻す」ことにつながりそうなので、ちょっとやってみたいと思っている。

とりあえず今日はここまでにして、また続きはちゃんと書きたいと思う。

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朝、雑誌を買おうと思ってコンビニまで車を走らせたのだが、週刊漫画Timesは先週合併号だったようでなかったのだけど、「キングダム」77巻が出ていたので買った。

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この巻のメインは「戦国の七雄」の一国、韓の滅亡のくだり。韓の国王とその娘(公主)は最終的に首都防衛戦でなく無血開城を選択するのだが、それによって助かった命と絶望した魂があり、その予後をどう征服者である秦の側がどう癒していくか、というのがテーマになっていると言っていいだろう。表紙に描かれているのも征服者である秦の将軍・(内史)騰と、メインに描かれているのが公主の寧、そしてその父の国王と敢えて血気盛んなものを率いて城外に出、再度血戦を試みて全滅した洛亜完将軍の4人である。このうち実在の人物は騰と国王だけだが、この2人もかなりアレンジされているから、史実とは相当違うだろうけれども、降伏・亡国ということについてはやはり我々日本人としては第二次世界大戦の敗北を思い起こしてしまうのだけど、国を失わなかっただけでもマシだなとは思った。

ここは騰の強い意志で韓の王室を守っきとのだが、宰相・昌平君もまた韓王室に貴族としての地位を保たせるようにした。こういうところを考えるとむしろ日韓併合の方が近い感じになるのかもしれないが。

いずれにしても重い物語の中で騰はここで将軍としては引退し、主人公・李信らに後を託すことになる。そのときに李信の成長を讃え、彼らの主であった王騎は今日この日があることをわかっていたのだ、と述懐するのが泣かせる。それは今までずっとこの話を読んできた人にとってもそうだろう。

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これは蛇足だが、韓の朝廷での最後の議論の中に張宰相という人が出てくるのだが、よく考えてみると秦が滅した「韓」の「張」といえば秦を滅ぼすことになる張遼がいる。彼の父も祖父も韓の朝廷で相国(宰相の上)を務めたというが、韓の滅亡時にはすでに父は亡くなっていたというから、この宰相の子ということはないが、何か関係づけてくる可能性もあるのかなと思ったり。ただ、「キングダム」は秦による中華統一の話であり、その後が描かれるかどうかは分からないからおっと思っただけに終わる可能性もあるのだけど、張という名前にそういうことも思ったのだった。


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