「絢爛たるグランドセーヌ」147話感想:大役を演じることで覚醒する主人公/「これ描いて死ね」8巻:新キャラ「バハムート昇」が最高に面白い(「小説のストラテジー」感想続き)

Posted at 25/10/19

10月19日(日)曇り

昨日は仕事が終わった後でかけてまず書店で「チャンピオンRED」を探したのだが無く、スーパーで夕食などの買い物をして、帰りにツタヤに回って書棚を見たら「RED」があったので買った。いつもいく書店は以前はマンガ雑誌が充実していたのでかなり頼りにしていたのだが、最近ときどきないことがある。地元のツタヤは以前に比べ単行本がもう一つだが雑誌は思いがけないものがあったり、さまざま。どこにもなくて結局Kindleになることもあるが、やはり紙の雑誌は嬉しい。最新話はともかく単行本になってから買えば読めることは読めるが、雑誌の方が印刷サイズも大きいので、マンガを読んでいる実感はやはり初出の掲載紙で読んだ時が一番ある感じがする。掲載誌をずっととっておくほどのスペースはないので読んでいる作品が単行本化したら処分するので、Kindleで買ったほうがずっと読めるということはあるのだが、Kindleだと読んでいる作品しか読まないということが起こりがちなので(雑誌でもそういうことはよくあるが)雑誌の重量感みたいなものが嬉しいところがあり、紙の雑誌への愛着はなくならないなと思う。

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以下、ネタバレです。

「絢爛たるグランドセーヌ」は147話「大役」。主人公・奏(カナデ)の師のアビゲイル・ニコルズ初の振り付け作品である「パエトーン」がウィーンで上演されることになったが、コロナで出演できない主演の「ケレス」の代役に奏が抜擢され、急遽ウィーンに飛んで、日本のバレエ団時代に一緒に頑張っていた翔子と同じ舞台に立つことになる。

この役は、ニコルズの推薦で初演の際に学生ながら奏が演じたのだが、その踊りにニコルズは不満を持っていて、次の舞台では同じ学生仲間のに振られ、そちらの方が良かったということがあり、奏はその役を掴むために様々な努力をして、学生の試験の舞台でもう一度踊った時にニコルズに激賞された、という伏線がある。

学生で恋愛経験も子育て経験ももちろんない奏が大地母神という役の性根を掴むのに「守りたいものはないか」と聞かれてコロナ禍の状況の中で「バレエを踊れる世界を守りたい」と言ってそのスケールの大きさに驚かれる場面があるのだが、もう一つ言われたのは「どうしてもわからなければ振り付けを信じて踊ればいい」という言葉で、奏はそこに集中して踊ることによって、ケレスがどういう存在なのかを掴む、という展開があった。

これは今読んでいる「小説のストラテジー」の「記述の律動」、「深層を考えるより表面に集中する」という話に似ている、というかおそらく同じことなのだろうなと思った。

これは芝居(演劇)でもそうで、いわゆる「役作り」はするにしても、結局はそのセリフに込められた言葉の表層みたいなものをどれだけ役者が体現できるか、ということが作品の出来を左右するのだよな、と思う。その役の解釈は深めた方がおそらくは良いことは多いのだが、振り付けやセリフという言わば「表面」こそがキャラクターやドラマの根幹になる、ということなのではないかと思った。

そしてこの舞台の前にニコルズが楽屋の奏を励ましに来るのだが、「これは賭け。今度こそこのチャンスをものにして。決して失敗しないで。信じてるよ、奏。」と言われて、奏はそれを受け止めて「はい」と答える。同じく楽屋を覗きにきた翔子はニコルズの言葉に圧倒され、奏に「ニコルズ先生いつもあんな感じなの?」と尋ね、「うん、一言一言に重みがあるから身が引き締まるんだよねえ」と答える。翔子は「そうだったこの子鋼メンタルだった」と思うのだけど、こういうやりとりから奏というキャラが浮き上がってくるのがいいなといつも思う。

そして舞台上、踊り出した奏を見て、観客がパンフレットの配役表を慌てて見直すのが良い。「誰だ?あれは」そして答えのように「地を統べる 神話の女神」と奏が踊る場面で終わるのだが、まさに「抜擢された新人が大役を踊り、観客がその踊りに圧倒されて驚く」という場面の迫力が描かれていて、良かったなあと思った。扉に「本番直前の緊張感が更なる覚醒を促す」とあり、こういうあたりもこの作品が男性向け漫画誌である「チャンピオンRED」に連載される理由ではあるのだろうなとも思った。

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10日に出た「これ描いて死ね」8巻が面白くて、何度も読み返している。新しく出てきた「バハムート昇」というキャラが面白いからである。この人は漫画家で、作中の王島南高校漫研のメンバーですでにセミプロの力を持っている石龍ヒカルの父であることが後で明かされるのだが、ヒカルの母は「へびちか」というペンネームで売れっ子であり、彼女らの先生である手島先生がアシスタントをしていたこともある人なのだが、ほとんど他人に興味を示さないへびちかは手島先生のこともほとんど覚えていない。ヒカルはこの2人の娘ということになるが、作中主人公の安海相(やすみ・あい)の1年後輩である森咲麗(もりさき・うらら)がバハムートの大ファンで、彼女らが参加したマンガ甲子園(この大会は実在し、高知で毎年開かれている)の審査員にバハムートが初めて出てくる。

「なんかこの作品に関心が持てないね」「競技のための漫画というか縮こまっている感じがするね」「審査ばっかり気にしないでもっと自由に描きなよ」と正論だがめちゃくちゃつっけんどんな評価をして特にバハムートの大ファンであるウララを落ち込ませる。

しかしそれで奮起した王島南メンバーが「仲間」をテーマにした作品を描き、バハムートに審査員賞をもらうのだが、授賞式で「先生のマンガに仲間の大切さを教えられました」というウララにバハムートは「漫画の感想を聞かれた時にいつもそんなこと描いたっけと思う。・・・それは僕が提供した素材で読者がクリエイトした結果なんだろう。・・・だから君の感想は君のものだよ。これからは君の物語だ。」という。

この辺りも「小説のストラテジー」の小説を含む芸術作品を鑑賞するという行為は「戦い」であり、多くの読み方ができる作品こそが「作者が現れた」作品であり、鑑賞者の側も新たな読み方を生み出していく、という話につながっていて本当に面白かった。

しかしこのバハムートの面白さはそれだけではなく、一番面白かったのはラスト39話「ロストワールド8」に描かれたへびちかとバハムートの出会いである。「ロストワールド」は今まで手島先生の過去話だったのだが、今回は初めてへびちか先生の過去が描かれていて、へえっと思った。

へびちかが持ち込みで編集者に「この主人公、なんでこんなに性格悪いんですか」と聞かれる場面から始まるのだが、その主人公は周りの人間を見て「みんな目が死んでる」と思い、1人の男子に対してだけ「あ、(目が)生きてる!」と思うのだが、普段から彼女は周りの人間に合わせることが苦手、というか合わせる理由がわからないと思っていて、すぐ「おかしなこと」を言ってしまうのを一生懸命周りに合わせている、という感じだった。それが持ち込みに来たバハムートとばったり会って「(目が)生きてる!」と思うのだが、バハムートは「邪魔だメガネ!」と言って去る。

へびちかはそれを根に持っていたが、飲み会で偶然再会したバハムートに手にしていたネームを読まれ、バハムートが涙を流す。バハムートはその席で世界中で一番面白い漫画を描く!と宣言し、周りが引いているので「帰るわ」と言って外に出るのだがへびちかは「私より空気を読めない人に初めて会った」と思う。

で、結局へびちかはバハムートから渡されたネームを読み、「自分も彼もこの世界に殺意を持っている」ということに気づく。

ここは、またいきなり「小説のストラテジー」の話に戻るが、年間読書人さんのいう佐藤亜紀も彼女が評価するナボコフもシャーデンフロイデの人」という話に繋がるわけである。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n5f1e857643c8

「ただ、佐藤亜紀は、最終章において、本書で繰り返し肯定的に言及した、ウラジミール・ナボコフの「シャーデンフロイデ」つまり「他人の不幸を喜ぶ(かのごとき、意地悪な態度)」というものを語って、ほとんど自分自身の立場と態度を表明している。
 要は、一般的に言って、佐藤亜紀は、ナボコフと同様、「嫌なことを書く、嫌なやつ」であり、自身もそのことを重々承知しているのだ。
 だが、そんな佐藤亜紀もナボコフも、馬鹿ではない。
むしろ知的には明晰であり、まただからこそ、世間が馬鹿ぞろいに見えて仕方ない。だから「嫌なこと書く」ことにもなる。これは必然なのだ。
 「シャーデンフロイデなのも仕方ないだろう、だって馬鹿ばっかりなんだから」と、そういうことである。」

ここでのへびちかやバハムートが抱えているモヤモヤというのは、まさにそういうことだろう。

バハムートと自分は似ている、ということに気づいたへびちかは「もっと上手くやる」と思い、「さようなら優しくて穏やかでニコニコの世界。お前らみんなぶっ殺す!」と思い、また身なりもアラレちゃんみたいな丸くて大きなメガネにポニーテール、身なりに構わないオタク女子、みたいな服装からコンタクトをして髪色も明るくし、フリフリの服と大変身して、自分の描きたいことも主人公を「異世界から来た異物」みたいな存在に設定して日常世界との振れ幅を大きくする、という「うまい」やり方を見出すわけである。へびちかもこうして「シャーデンフロイデの人」として歩み出すわけだが、バハムートのその後は描かれておらず、気になるところである。

おまけを書いておくと、バハムートが後に王島南メンバーと再会した時に「賞に選んだのはあの作品が一番嫌いだからだ。嫌いでも心が動いたのは事実だ」と言ってドン引きされるのだが、ヒカルが「でもパパ今の自分には描けない、悔しいって言ってたよね」と言ってバハムートは「ヒカルちゃんやめて!」となるのだが、この辺りは手塚治虫が新しい漫画家の躍進にいつも嫉妬していたとか、手塚のアニメをやっているのに子供が他のアニメを見ていて気を使った奥さんがチャンネルを変えようとしたら憤然として「見たいものを見せろ!」と悔しそうに言ったとか、そういうエピソードを思い出した。手塚もやはり「世界を殺してやる」と思って描いていた人なのだなと改めて思ったのだった。

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