「正義の執行」はなぜ混乱しているのか:法治国家における「政治的正義」の特権集団/自民党総裁選は正常への復帰を実現できるか/気に入ったコミックス購入をマケプレに頼る残念さ
Posted at 25/09/28
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9月28日(日)晴れ
昨日は夕方外に出たら湖の方で花火が上がっていて、いろいろなイベントをやってるんだなと思った。夏休みの間は毎日花火を上げてるからそんなに珍しくはないのだけど、昨日は駐車場のところで花火をいている人がいた。ちょっと珍しい花火が上がっていたようだったけど、私は「花織さんは転生しても喧嘩がしたい」の単行本が欲しかったので湖とは逆の方向に少し離れた書店まで車を走らせて探したのだが、二軒回ったけど一冊もなく、仕方ないのでAmazonで注文するかと思ったら初期の単行本はもう新刊で売ってなくて、電子で買うか古本で買うかになっていたので、作者さんには申し訳ないが紙で欲しかったのでとりあえず1巻だけマケプレで注文した。
せっかくTwitterで宣伝しているのだから在庫を持てばいいのにと思うが、モニtwoの連載とかではあまり古いものまでは生かしておかないのだろうか。ちょっと残念。
***
年間読書人さんのnoteが面白かったので思ったことなど。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n3250196aa586
アイリス・マリオン・ヤング「正義への責任」と言う本に対する書評なのだが、問題提起として面白かったのはヌスバウムと言う人が序文を書いていて、それに対して訳者その他日本側の関係者が何も言っていないことについてコメントしているところだろう。
これは「正義の実現」についての議論な訳だけど(私自身がこの問題についての考え方はとりあえず後で書くとして)、つまり何か「事件」が起こった時に普通は「誰に責任があるか」を追及し、その責任のある個人に対して罰を与える、という「帰責的個人責任の追及」つまり「ある事件について責任が帰される個人を特定して処罰を与えること」と言うやり方での「正義のあり方」の限界性をヤングという人は指摘している、ということのようだ。
ヤングはどう考えているかというと、そういう考え方(読書人さんのいう帰責的モデル)の正義の追求では結局は「犯人探し」に終始してしまい、その個人を責めることで事足れり、になってしまって、本質的な問題解決につながらない、つまり
「社会的な問題というのは、特定の個人だけに責任があるという場合よりも、多くのアクターが織りなす社会構造のなかにおいて、当たり前に許された、つまり合法的な行動の累積の歪みとして、構造的に生み出されるものが少なくない。」
ので、ある事件や問題は「社会的つながりの中で幅広く薄く全ての人が関与しているもの」という自覚を持ち、責任を分有することで問題解決につなげていくべきだ、という考えである。
この辺りは連続射殺犯である永山則夫の書いた「無知の涙」や彼を支援した見田宗介「まなざしの地獄」などで日本では早くから注目されていた論点だと思う。つまり、事件を起こした当人ももちろん責任はあるにしても、彼を追い込んだ社会の側にも責任はあると考えるべきだ、ということだろう。
つまり、この考えでは「責任」と「処罰」を切り離し、「責任」の方をより広く考えて重視していくことで問題を解決していこうという考え方と言っていいだろうか。これを読書人さんは「社会的つながりモデル」と呼んでいる。
この考え方を、読書人さんはヌスバウムの立場から批判していて、
「たしかに、これは「一理」ある指摘ではあるのだが、しかし、普通に考えて、この「社会的つながりモデル」は、「責任者」個人の「責任回避=自己免責(自己正当化)」に利用されかねないという、危うさがある。」
特に権力者によってそれを利用される可能性が高い、としている。「帰責モデル」というのも元々は
「それが目的なのではなく、責任の所在を明確にし、何故その責任者が適切に対応しなかったのか、出来なかったのかを検証することで、(将来において)同じ誤りが繰り返されないようにしようとすることを、主眼としたものなのである。」
と指摘している。だからそれがちゃんと実現すれば問題解決につながるのだからあえて「社会的つながりモデル」というものは必要ないのではないかという指摘なわけである。
ここからあとは自分の感想になるが、読書人さんが挙げている政府のコロナ対応の失敗が責任者=国家の責任回避とされているのに対しては、ちょっとそれは酷では無いかというのが自分の意見ではある。対応が迷走したのは確かだが、たとえば何もやらないというスウェーデンモデルも大失敗しているし、中国型の押さえ込みも結局はうまく行っていない。日本はまあこれくらいなら仕方ないか、という程度の出来ではあったと私は思っている。ただ、結果的に社会の分断が生まれたことは確かで、この辺への対処はもう少し政府としてもできることはなかったかという気はしなくはない。
しかし当初の安倍内閣は元々左翼から強い批判と攻撃を受けていて、コロナ対応にしてもその方面からは冷笑的な対応をされたり様々な分断は当初からあった。そこに疫学的知見からの「マスクとワクチン」の対策に対する批判が「経済を回せ」方面から起こってきて、そこに様々な陰謀論が絡んできて「毅然とした対応」が極めて取りにくい状態になってしまったのは仕方がないことだったと思う。
まあそれが本題ではないので先を書くが、要は正義の実現に関する「社会的つながりモデル」は「権力者」に利用されやすいという話である。その権力者というのは現代においては「ポリコレ権力(あるいはDEI権力)」だと思う。
つまり、「社会的弱者」には社会的文脈において追い込まれやすい状況があるので社会もその責任を感じるべきであり、彼らが何をやっても罪に問わない、あるいは罪を軽くするというのが「正義」であるという考え方につながっているのではないかということである。
実際のところ、殺人事件などにおいて、女性には執行猶予がつきがち(いわゆる司法における「女割り」)なのに対し男性にはほぼそういうことがない。「心神耗弱状態」その他の「その時犯人は「弱者状態」であったので罪に問うべきではない」という論理を構築することで初めて罪を負うことを免れる、という状況にあるわけである。
これは、たとえばかなり大きな事案・事件を起こしても「外国人は不起訴になりがち」だという批判も同じところに起源がある。警察などの捜査現場においては言葉が分からないなどの理由で「処理が面倒」という問題も絡んではくるが、それで免責されてしまう大きな理由は「彼らが日本においてはマイノリティである」という「弱者性」に由来しているからである。
エマニュエル大使によるLGBT法押し付けなどもアメリカ民主党と岸田政権との力関係・共犯関係ももちろんあったとは思うがそれが正当化されたのも当然ながら「LGBTは少数派で弱者である」、という論理に由来する。実際のところは弱者そのものが権力を握っているわけではないので「弱者権力」という言い方はあまり適切ではなく、彼ら弱者を利用して議論を有利にリードし常に主導権を握ってきている「ポリコレ権力」がこうした「社会的つながり理論」の受益者なのだ、ということだと思う。
これがむき出しの権力闘争に利用された例が安倍元首相暗殺事件だった。日本の政治においてある意味突出した存在だった安倍元首相は与野党内外を問わず支持者も多かったが敵も多かったため、称賛も多かったが一方で強い批判もあった。
「元首相が暗殺されるという重大事件」が起こったわけだが、たとえばアメリカでは保守勢力の若き理論的指導者であったチャーリー・カーク暗殺に際し、彼の死を嘲った人々は強い非難を浴びて立場を失い、国を上げての追悼となったのに対して、安倍首相の場合は彼の死を嘲笑った作家にしろ大学教授にしろ、誰もそうした社会的制裁を受けなかった。もっとも宮台真司氏はのちに自身が襲撃の対象になったが、犯人も自殺してしまったためにその動機ははっきりとはしていない。
そして安倍氏暗殺の後、もちろんこの事件において最も責任が重いのは犯人であるわけだが、そうした政治的に重要な人物を警護しきれなかった警察も大きな責任があるのは明白である。しかし彼らはその矛先をかわすために「犯人は統一教会信者2世だった」という情報を流し、愚かなマスコミや左翼勢力はそれに飛びついて、犯人は「統一教会信者二世の弱者」であると認定し、信教の自由もあればこそ、「統一教会潰し」に奔走するという間違った対応をとったわけである。
こうした現代日本における諸機関の対応にヤング氏自身の理論がどれくらい作用しているかというのは難しいところだし、日本では先に述べたように昔(戦後)から「弱者の特権性」を振るうことで多数派の一般国民を黙らせるという手法が使われてきていたから、その延長に過ぎないということも言える。
たとえばこうしたことは教育学・学校現場においても「いじめの被害者よりも加害者を配慮すべき」という倒錯した対応を生んでいたり、実際問題において我が国においては「正義の執行」ということにかなりの混乱があるのが現状だろうと思う。
ただこの「正義の執行における混乱」というのは日本だけの問題ではないし、現代だけの問題でもない。世界的にDEI権力の横暴は吹き荒れていて、それは「正義」は近代国家においては「政治」とは一応切り離された概念だったのが、90年代に「政治的正しさ=political correctness」という概念が導入されたことによる混乱だと言っていいだろう。
近代においては国家による「正義の執行」は「法に基づいて行われる=法治主義」ものであり、「どのような罪に対してはどのような処罰が行われるかもあらかじめ法で定められている=罪刑法定主義」であるわけだが、「政治的正しさ」の概念が学問・メディア・司法の世界に力を持つことになってきて、運用面で行使されるようになったのがたとえば「司法の女割り」であり、立法面で現れてきたのがLGBT法を筆頭とするポリコレ諸法である。
ただ、実際のところ「弱者」とされる女性よりも遥かに立場の弱い男性はいくらでもいて、彼らには「弱者割り」は適用されることはない。そうした面から「弱者男性」という概念が提唱されてきたが、それが「モテ」という「笑っていい対象」に回収されることでなかなか真面目に議論されないという状況に置かれてきた。
「トランプ現象」や「参政党現象」というのはそうした「ポリコレ権力」に対する異議申し立てであり、トランプ政権は「大統領権限」という行政権力を最大限に行使することで「ポリコレ権力」を弱体化させようとしているし、参政党は選挙において影響力のある議席を確保することで与党である自民党総裁選に対しても隠然と影響力を行使するようになっているわけである。
時代を超えて考えてみれば、たとえば昭和の戦前に多発した様々なテロ事件、五・一五事件や血盟団事件などでは犯人たちは「国や貧しい人たちを憂える真情からの行動であった」と世間の同情を買って極めて緩い刑しか課されず、それが二・二六事件という一大クーデタを引き起こすことにつながった。この時は昭和天皇の「朕が近衛連隊を率いて反乱軍を制圧する」という強い姿勢に陸軍当局が屈したために順当に当事者に死刑が科されたが、結局戦後になっても学生運動や社会主義運動が様々な暴力的な事件を起こしてもそんなに過酷な刑が科されなかったのは、同じように「国や貧しい人たちを憂える真情からの行動であった」と世間の同情を買ったから、ということが大きいだろう。
彼らは「純粋性」や「それゆえの無知」「権力と戦う適切な手段を取れない社会的無力性」「社会を良くしたいという強い思い」などによって特権性が付与されたわけで、これはある意味「尊王攘夷の志士たち」の時代からの伝統のようなもので、ある意味の革命国家であった明治政府以来の日本国家はこうした政治的暴力に対してある種寛容であらざるを得ない側面があったということでもあるのだろうと思う。
現代の左翼人士もこうした「伝統」を踏まえ、自分たちが暴れたりヨタつくことに正当性を感じている人が多いようで、変な眼鏡をかけてヨタついたり自分たちと違う意見の人たちの周回を妨害したりすることができる特権性があると勘違いしている人は多いように思う。こうした流れと「ポリコレ権力」の悪魔合体が現状の「正義の執行における混乱」の大きな原因なのだと思う。
***
https://mainichi.jp/articles/20250926/k00/00m/010/254000c
自民党総裁選がたけなわだが、小泉進次郎氏の陣営が「一般人を装った投稿」を指示していたとして「ステマ疑惑」を指摘され、広報責任者が辞任するという事態になっている。今の状況は正常への復帰、すなわちポリコレ権力との訣別について一番はっきりした姿勢をとっている(参政党ほどではないが)のが高市さんであり、他の4人は岸田政権以来の路線、すなわち米民主党寄りのポリコレ路線、またその背後にあるポリコレ利権・財務省主導型路線を支持しているように思われる。
国民の大勢は「正常への復帰」を志向していると思うのだが、「正常」というものはあまり面白くないのでとっぴな方向に引きずられがちなところがポピュリズムの力だと思うのだけど、今は特に国内的には「混乱」に向かうべき時期ではなく、「静穏」に向かうべき時期だとは思う。とりあえずの基軸である対米協調路線は続けるということ以外では外国勢力の侵入や干渉を防ぐべきスパイ防止法は当然必要だと思うし、そうしたことを責任をもってやり遂げられるのは高市さんしかいないと思うので、頑張ってもらいたいと思っている。
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