栗ご飯を炊いた/日本の旧石器時代研究の進展とゴッドハンド後遺症からの脱却/「知性の構造」読書メモ:「解釈学」とは「文献」と「解釈者」の「対話」を成立させることか、と考えるなど

Posted at 25/09/18

9月18日(木)曇り

昨日は午前中ブログを書いたあと、懸案にしていた栗ご飯を作った。栗は裏の畑で取れたもので、これは50年くらい前に母が植えたと言っていた。毎年ちゃんと拾っていなかったので無駄になっていたのだが、今年は一念発起して結構拾って、それなりの量が溜まったので茹で栗だけでなくちゃんとした栗料理を作ろうと思っていたのだが、まずは栗ご飯だなと思っていたわけだ。

とは言え作り方はわからないのでネットで調べたレシピで、夜に食べるなら酒や味醂を入れてもいいけど昼に食べるからとりあえず塩だけで、というレシピがあったのでそれにした。まあそんなに気にすることもないのだろうけど。

https://mi-journey.jp/foodie/59848/

米の研ぎ方から栗の剥き方まで丁寧に説明してくれてあって、これはかなり助かった。米は毎日炊いているからいいとして、生の栗を剥く剥き方というのはあまり想像できていなかったので、まず「底の部分を切り落とす」というのは目から鱗だった。そして次に平らな面の皮を切り落とす。栗は基本的に一つのイガの中に複数入っていて、他のクリと接する側が平らになっているから、この説明は一般性がある。そこまではまな板の上でできるというのが良かった。ずっと水につけておいたのでその後も鬼皮は割と綺麗に取れて、大変なのは渋皮を剥くことと傷んだり虫が食ったりしているところをきれいに取り除くことが大変だった感じだった。

その後もしばらく水につけておいたり下茹でしたり結構手間がかかり、水につけてから取り切れていなかった渋皮を取り除いたり、結構細々した作業があった。で、11時半ごろにようやく炊飯器のスイッチを入れることができ、それから出かけて銀行でいくつか記帳したり西友で買い物したりして戻ってきて、1時前にご飯にした。

思ったよりあっさりした感じに炊けていたが、思ったより上手くできたかなと思う。ただ炊いてみたら栗の状態もホクホクというわけには行ってなかったが、基本的にそういう種類のクリでないことは分かっていたのでなるほどこんな感じかという感じ。今年はもう栗が取れるかはわからないが、来年にでもまたいろいろ挑戦してみられると良いかなとは思った。美味しかった。

午後は銀行でお金をおろしてから郵便局に回り、支払いの振り込みをしたり税金を払ったり、記念切手を買ったり。仕事で結構郵便を送るのだが、これはなるべく記念切手を貼って出すようにしている。以前、1人だけ「いつもどんな切手を貼ってくるか楽しみにしているんです」と言ってくれた人がいたのだが、まあある意味そういう自己満足でもあるのだが。しかし郵便料金もだいぶ上がってしまい、数を出すとそれなりの金額になるが、そんなに大量に出しているわけでもないのでしばらくこれは続けたいと思う。

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https://x.com/tarokotani/status/1968235710294688195

日本の旧石器時代研究というと「ゴッドハンド」と言われた藤村氏の60万年前というような遺跡についての記憶が蘇るわけだけど、実はその後考古学界はこの藤村氏が手をつけた遺跡は一切研究対象にしないとしているそうで、その結果日本の最古の遺跡は三万七千年ほど前のものということになっていたのだそうだが、今回ようやくそれより五千年古い遺跡が発掘されたとのこと。

https://x.com/museumnews_jp/status/1967046506432917864

この辺りの年代は今までは「後期旧石器時代」だったのが今回の発見で「中期旧石器時代」まで遡ったのだそうで、いずれにしても氷河期の遺跡ということになる。もっとも、現在でも氷河期の最中であり、間氷期であるにすぎないという解釈もあるらしく、というのは地球では多くの時代は極地でも永久氷はなかったので、それがある現在は氷河期の範疇に入るということのようだ。そういう意味でいうと地球は258万年前の第四期の開始以来ずっと氷河期だそうで、また別の解釈では4900万年前の新生代の初め頃からずっとだ、という説もあるらしい。ということになると現在は温暖化を心配している氷河時代という変な話にもなるが、この辺りは機会があったらもう少しちゃんと調べてみたい。

関東だとこの時代の地層はローム層ということになるが廿日市のある広島県ではどういう地層なのだろうか。その辺もまた機会があればまた調べてみたいと思う。

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「知性の構造」、第1章のまとめ方がまだ見当がついていないのだが、読む方は第4章を読んでいて、94/284ページあたりを読んでいる。

私の教養にはムラがあるので詳しくない分野も多いのだが、第4章を読んでて一番気になったのが「解釈学」という言葉だった。これは以前少し調べたことがあるのだがあまりよく掴めなかったので、今回もう一度調べてみたいと思って調べたのだが、そのメモ自体が別のパソコンにあって、Twitterにあげたつもりだったのに上がっていないのですぐには出てこない。

要は「解釈」とはどういうことをしているのか、その手段は何か、それはどのような方法で行われるのが良いのか、というようなことだが、歴史学で行われている「解釈の立場の違い」、例えば「その時代のことを理解するためにはその時代の文脈によって理解し、評価もその時代の中で行うべきだ」という考え方と、「その時代の文脈によって理解すべきだが、評価は現在の価値観によって行うべきだ」という考え方の対立なども、「前者は過去の歴史性ばかりを考えて現在の解釈者の歴史性を阻却している」とか、「後者は過去の歴史性を現在の歴史性で断罪する弊に陥っていて、現在の歴史性が変化したときにその解釈が無意味になる」という問題性を指摘できるわけで、「現在の歴史性にある解釈者」としての自覚を持ち、「過去の歴史性をしっかり踏まえて評価した上でそれが現在の歴史性にたいする批判」になっている点を導き出し、また過去の歴史性に対する現在の歴史性を踏まえた上での評価を行う、というような「文献と解釈者の対話」が成り立たないと意味がない、というような考え方もできるなと思ったわけである。

この辺りはまた時間のある時に。

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