牧野伸顕「松濤閑談」:ポーランドを励ました日露戦争勝利と牧野の民族自決・人種差別撤廃などの理想主義への意識/多摩川の広大な扇状地だった武蔵野西部と旧石器人の人間関係の悪化

Posted at 25/09/16

9月16日(火)曇り

最近朝起きるのが遅くなっていて、大体5時を過ぎている。4時頃一度起きることも多いのだが、二度寝ができる感じなので寝てしまうのだけど、そうなるとやはり朝のうちにいろいろやっていたことが片付かなくなって、こうしてブログを書き始めるのも遅くなる感じになってしまう。

一つには、最近よく本を読んでいることが理由なのだという気がする。読むと頭が疲れるし目も疲れるのでその回復に時間がかかるということなのかなと思う。西部さんの本とかは結構気合を入れて読んで読んで考えたことも気合を入れて書いているので結構疲れるということもあるし、読んでいると他の本にも興味が出てくるのでそれも読んでしまうという感じだ。

最近は主にTwitterで教えていただいた本を読んでいて、先週大室幹雄「月瀬幻想」(中公叢書)を東京で借りたのだが、土曜日には隣町の図書館でパトリック・ブキャナン「不必要だった二つの大戦」(国書刊行会)を借り、日曜日は地元の図書館で牧野伸顕「松濤閑談」(創元社)を、昨日は隣の隣町の図書館で野口淳「武蔵野に残る旧石器人の足跡 砂川遺跡」(新泉社)を借りた。

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どれも少しずつしか読めていないが、昨日借りた砂川遺跡の本は一応全部読んだ。一応、というのは旧石器時代の編年の話とかはそんなにきちんと理解していないけれども、自分が知りたかった武蔵野西部の自然地誌的な歴史がよくわかった、ということだ。

これは全然知らなかったのだが、武蔵野西部は青梅付近を扇頂とした広大な扇状地だったということ。だからなだらかな地形が広大に続いているのだ、ということはスケールが大きくて驚いた。そして元々北東方向に流れていて、つまりは川越の方向に流れていたのが、氷河期時代の火山灰の降り積りや地形の隆起、また寒冷期に刻まれた深い谷や、比較温暖期の海の浸透などを繰り返して最終的に南西方向に流れるようになったため、北東方向への流れが名残川として残っていて、それが遺跡名になった砂川だとか柳瀬川だ、というのはすごいなと思った。

調べてみると狭山丘陵や多摩丘陵もそうして形成された地形の名残のようなのだが、今では青梅の扇頂よりも標高が高くなるなど、数万年の間にいろいろあって形成された地形であるようだ。これも別に調べたことだが、富士山や箱根火山、浅間山などの火山灰の降り積りでできた地層も氷河期のものは有機物が混じらない形で茶色い関東ローム層になり、温暖気になってからの地層は腐葉土が混じって黒くなり、黒ボク土と呼ばれる土になったというのも、いろいろ土について読んできたことの中でわかっていなかったところが確認できてよかったなと思う。

多摩川というのはそれだけのすごい水量と運搬力を持っていた河川なんだなと改めて驚いたが、武蔵野台地の中小河川もそうした名残川であったり、その湧水も遠くは多摩川上流部からの水なのかと納得が行ったり、末無し川と呼ばれる川の末が伏流になっていく砂漠のワジや黄河下流みたいな川が武蔵野にあるのかというのも面白かった。

武蔵野西部で北西に流れている川の最大のものは入間川だが、これに関しては多摩川との関係はわからなかったのだけど、青梅市のサイトを見ていたら青梅市の西南部はもちろん多摩川渓谷で多摩川水系なのだが、北東部は実は入間川水系だというのがわかってへえっと思った。市内に分水嶺があるということなのだなと。水系と下流域面積というのは基本的に下流の河川・河口で考えるから、荒川水系の柳瀬川とかいうけど期限的には多摩川の末だったり、そういう意味で言えば多摩川自体が荒川とか入間川とか別の川の上流部だった時代もあるということだろうから、なかなか河川の地理学というのは一筋縄ではいかないなと改めて思ったのだった。

あと、旧石器時代人のことで言えば、定住生活ではないので人間集団が頻繁に分裂や移動を繰り返していたが、その理由が「人間関係の悪化」だったというのがおかしかった。20000年経っても人間はあまり変わらないのだなと。定住するからいろいろと歴史的な因縁が降り積もって戦争になったりするわけで、皆が移動生活だったら確かにそんなに争いはないかもしれない。

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牧野伸顕「松濤閑談」。Amazonでブックレビューがあったのでびっくりしたが、昭和15年、牧野の曾孫である麻生太郎元首相が生まれた年、紀元2600年の著書である。出版元の創元社は小林秀雄の作品などで当てた大阪の出版社だが、そのためかのこの本の装丁が小林の友人の青山二郎になっていて、個人的にちょっと盛り上がった。

牧野は日露戦争の時にオーストリア公使でウィーンにいたが、勝利の後ポーランド系の人々にあちこちで祝福され招かれ感謝されたそうで、それらの話がかなり続いていた。日本のロシアに対する勝利がポーランドやフィンランドを励ましたという話は以前はよく聞いたが、それが当時の日本人には誇りの感情として残っていたのだなと思う。

かと言って、牧野が民族自決や人種差別撤廃に強く賛同していたかというとそういうわけでもない。パリ講和会議の時にパリでアイルランドの婦人にイギリスから独立できるようにと協力を求められたり、リベリアの黒人の男にも協力求められたという話を「ちょっとしたエピソード」として書いていて、「日本は日本としてやることで精一杯だから協力できない」と断り、特に相手にしなかったようだ。実質的にパリ講和会議の日本外交団の交渉を仕切ったと言われる牧野でさえそのくらいの認識だったというのは当時としては無理もないとは思うが、逆に言えば理想主義的な甘さはなく、国益第一に考えていたということだろう。

また、国際連盟の本部をどこに置くかという話になって小委員会で決めることになり、その委員として四大陸を代表する人で選ぼうとウィルソンが言い出し、「アジア大陸代表」で牧野が選ばれ、協議の結果ジュネーヴにした、みたいな話もなるほどと思った。やはりそういうのが「自慢」なんだなという感じではある。

ただここも、ウィルソンの理想主義に対して基本的には批判的な感じであって、「理想主義の主張が国益につながる」という考え方はまだなかったのだろうなあという感じで、そこが1920年代の外交の基本的なムードに後進国である日本がなかなかキャッチアップできなかった現実もまたあるのだろうなと思った。その辺のボタンのかけ違いというか認識不足が1920年代末から30年代にかけての「ルサンチマンに起源する主張」に日本が流されていってしまう原因にもなってしまったのだろうなという気はした。

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西部邁「知性の構造」第1章は「ことあげ」、つまり言葉による議論が日本人はあまり得意でないのは何故か、というテーマで語られているのだが、またもう一度読み直してから書きたいと思う。

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