西部邁「知性の構造」を読む(4):相対主義と虚無/80年代相対主義と「なんとかスタディーズ」/消費謳歌民の老齢化と政治化/虚無を回避するための薄められた近代主義
Posted at 25/09/15
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9月15日(月・敬老の日)雨のち晴れ
昨日は日曜日で大体本を読んだり物を書いたりして過ごした感じ。午後になってから岡谷に出かけて本を少しみて、夕食の買い物をした。コーヒーのペーパーフィルターが切れていたのと米がもう少しで終わりそうなのでそれも買った。少し離れた隣の書店の駐車場に車を止めたので、ちょっと運ぶのが重かった。
昨日は西部邁「知性の構造」で感じた現代と書かれた時のギャップ、30年くらいの間の世の中の変化について書いたのだけど、読書自体は第4章「解釈学の歩み」の途中、88/286ページまで進んでいる。この章ではそれぞれの学問の基礎になる「基礎学」構築の試みとして「仮説」を作るまでの過程について哲学的な考察を行なっている感じで、この辺りのところは川喜田二郎「発想法」などの過程、「KJ法」の「状況把握」や「本質追求」についてのあたりを思い出しながら読んでいた。
考えてみると、KJ法で言う「状況把握」とは「状況についての仮説」であり、「本質把握」は「本質についての仮説」であるのだよなと思う。そしてその仮説の「発想」の仕方をシステム化するのがKJ法だと言えるわけだけど、そうした作業論ではなく哲学的考察で話が進んでいくので読んでいてちょっと大変だなとは思う。これを再度現場で使えるようにブレイクダウンするのはさらに大変な気はするのだが。ただそう言う哲学的な意味づけと言うのはKJ法でもあまり進んでいなかったから、勉強になるんじゃないかと思いながら読んでいる感じである。
***
で、中断していた序章第4節「虚無主義の猖獗」に戻る。
知識人が虚無に陥りがちな理由は知識そのものの中に内包されていて、それは「相対主義」であるという話である。
これは私が1980年代に学生時代を送ったのでよくわかるのだが、「絶対的なものはこの世に存在しない」と言う言説が溢れていた。これはいわゆるポストモダニズム、ニューアカデミズムの一つの影響の表れだったと思うけれども、方法論として「比較なんとか学」みたいなのが流行っていたのもそのせいだろう。「一億総中流」が実現したと考えられ、労働者の待遇改善はほぼはたされたと考えられて、誰もが考えるべき重要なテーマというものが相対化されていった価値相対主義の時代だったと思う。
その中から出てきたのがマイノリティの問題、つまり社会全体は豊かになっても取り残された人たちがいる、というのが一つの新しいテーマで、フェミニズムや多文化主義、カルチュラルセントリズム(自文化中心主義、特に西欧文明)批判、環境問題といった方向に知識人や学生の関心がバラけていって、より大きな「労働者の解放」というような問題、「大きな物語」が無効化されていった時代ということである。
昭和元禄という言葉はもう言い古されていて、「大学生がマンガを読んでいる」と驚きの目で見られる時代もすでにすぎ、小綺麗でブルジョア的なハマトラやニュートラ、あるいはデザイナーズブランドが流行って、一方でヤンキー文化の方向では竹の子族やなめ猫、ツッパリブームみたいなのが起こり始めた頃である。若者の間の消費文化が旺盛になってきて、それがだんだん上の世代にも伝わり、不動産バブルなどにつながっていく段階だった。
だから大きくいってそれまでは日本の貧しさを克服する、つまり「生産」が重視されていたところから、より豊かな生活をする、つまり「消費」が脚光を浴びるようになった時代であり、「不思議、大好き」の糸井重里などのコピーライターが花形の職業にみなされたり、いわゆるセゾン文化と言われる美術展や企業メセナが盛んになり、文化的にも日本でも最先端のものが見られる、という雰囲気が出てきた時代だった。ゴッホの「ひまわり」を50億円で買うなど、どちらかというと成金的に、つまりちょうど今の中国のような感じに日本が見られていた時代である。
この時代における「価値」とは何か、絶対的なものとは何か、というのはだんだん不分明になってきていて、つまりは「食べること」という「最優先」が「あまり心配しなくていいこと」になってきたというのが大きいということになるだろう。
そうなってくると「あの価値」と「この価値」のどちらがより重要か、ということがはっきりしなくなるわけで、つまり行き着くところはつまりは「すべての価値は相対的なもの」という考え方になる。結局自分なども「絶対的な価値がないならより面白さを感じる方を取ろう」と思い、天文学と歴史学に絞ったがいろいろ考えてより面白いと思われた歴史学を専攻したので、まさに時代の子だったよなあと思う。
まあ実際にやってみたら歴史学というものは歴史小説や物語とは全然違うということがわかるわけで、これは今でもそのギャップに苦しむ人は多いと思うが、「歴史上の推しを作る」とか様々な補助線を引いて歴史研究を続けている人は多い。だから寄生地主制の問題を明らかにするために土地制度の歴史を深く研究する、とか天皇中心の日本の歴史を明らかにする、みたいな古くからの歴史研究者とは全く肌合いが違う人たちが大勢歴史学に入ってくることになったのだろう。
まあそれはともかく、相対主義というものは「絶対的な価値を持つものはない」ということだから、当然ながら自分が研究しているものの価値も絶対的なものではないわけで、そうなると面白くてやっているうちはいいがふと我に返ってみると自分は何をやっているのだろうということになり、特に研究に失敗したり研究室の中での生き残り争いに負けてはみ出したりしてしまうと自分のやってきたことは何の価値もなかった、という感じになりやすく、虚無主義の底なし沼に沈んでしまうことになるわけである。
しかし、当然ながらやっているうちに自分のやっていることの意義を感じ始めることもあるわけで、逆にうまく行きすぎるとその価値観を絶対化していくという別の陥穽に嵌ることにもなる。フェミニズムや多文化主義などの研究は、「意義」についての言説には事欠かないから、それらに励まされてそれに従事しているうちに引き返せないところまで行ってしまう、というようなものである気はする。
だからこのレベルでの相対主義の陥穽というのは実はそんなに深いものではなくて、若者らしい進路の逍遥の一環であり、「人生不可解」と言って華厳の滝に身を投げた時代からそんなに変わらないレベルのものであるとも言える。
またより実用的なレベルでの学問や実務をやっていたら、自分の仕事が人の役に立ったり逆にいけすかない人に利用されたりなどしているうちに自分の仕事の意義はこういうことだ、と決めてそれに専念したり、逆に仕事は仕事、生活は生活と割り切って深く考えるのをやめたりすることになるわけである。
学問的にいえば自分の仕事の価値についても、この方面から見ると価値は見出しにくいがこの方面から見たらこういう価値があるとか、つまり相対化の仕方がいく通りも出てくるわけで、いくつかの相対化の仕方を実際にやっているうちに、ある意味での絶対的な価値が見えてくる、ということもあるわけである。
知識人のやり方としては、状況が変化したときに状況に応じた相対化の仕方をするというのがある、と西部さんはいう。「面白ければ良い」という価値観が支配的であるなら状況の「パロディ化」によって既存の価値を相対化して見せて感心されたり(つまらない風刺マンガがいまだにあるのはその残像だろう)、グローバル化が進んでいると見ればコスモポリタニズム的な価値観を提示して「地球市民」みたいなことを言い出して見せたりすればいい、というわけである。どちらも滑稽な形で今も残存する現象ではある。
で、そういうことをしているうちに状況が変われば相対化の仕方も変わっていくわけであり、そうなると以前は消費税反対と言っていたのがいつの間にか財政規律が大事だから消費税は不可欠の財源だ、と言い出したりするようになるような感じで「一貫性」や「整合性」が失われていく。当時の政治状況で言えば民主党(当時の名前は忘れた)に右派の議員が奪われて弱体化した社会党が自民党と連立するという政治的ウルトラCをやってのけ、昨日まで自衛隊を違憲と言っていたのが合憲というようにするのと引き換えに村山社会党委員長が総理大臣になるというような現象が起こっていたわけである。
権力というものはそういうものだと言って仕舞えばそれまでだが、政治家ならともかく本来真理を追求するはずの学者としてはいかにもみっともない。だからそのように醜態を晒さないで済むようにするために、「平和主義と民主主義」とか「進歩主義とヒューマニズム」という近代に一貫する価値観に迎合する形で整合性を取ろうとする、と西部さんはいうわけである。
これは我々の世代からすると、自分のようにある程度政治思想とかについて考えていた人間がさまざまな契機で保守や右派の思想を持つようにだんだんなっていくという思想的変遷を持つことが多いのに対して、ずっとノンポリを自称し消費文化を楽しんできたような人に限って、60近くになって自分の人生の意義について考えてしまい、つまりは虚無に直面して、急に政治的な行動を始めたりすると先祖返りしたような平和主義・民主主義・ヒューマニズムなどを言い出す人が多い、という現象にも通じるものがあるような気はする。消費を十分楽しんだはずなのに虚無に陥ると、すぐそこにある絶対性のような古ぼけた政治思想が改めて魅力的に見えるということなのだろう。まあこれはそっちに嵌る人が多いというだけで、動画を見続けていたと思ったら急に陰謀史観を語り始める「親世代のネトウヨ化問題」とかになる場合もある。これはどちらにしても、20代から50代の長い期間にそうした思想についてほとんど考えてこなかった人に起こる現象であるようには思う。
ただそういうふうに、知識人はそういう「微温的な絶対」、西部さんがいう言い方で言えば「薄められた思想」にハマりがちではあるのだが、知識人が振り回す相対化の刃は、「規制の知性を破壊するのが進歩であるというムード」を社会に広める、というのはそうだよなあと思った。だから「とにかくなんでもいいから批判すれば賢い」みたいな形になり、「信念なき疑念、秩序なき自由、総合なき分析」が罷り通るということになる。これは今のTwitterのレスバを見ていれば状況は変わってないということは理解されると思う。
こういう「レスバのためのレスバ」というのは確実にやっている人の足元を削っていくので、自分が何に拠って立っていたのか、というか相対主義をやっていても根拠が必要になってくるので、それを持てないと自分のやっていることの意味も見えなくなる。また、マスメディアというものは元々「権力批判」こそが価値であるので、「マスコミ以外」を全て批判するようになり、その相手がいなくなればその相手を捏造するようになる、というわけである。「安倍しね」みたいな現象が起こったのも、一つにはメディアのこうした性質によるものだろうと思う。そしてそこでの知識人の役割は簡単に言えばメディアの提灯持ちであり、ヤスパースのいう「粉飾の言葉」によってメディアを援護し、「叛逆の言葉」に拠ってメディア以外の全てに反逆する、というわけである。
で、ここまで西部さんは「知識人の置かれている絶望的な状況」について語ってきたのだが、そこから「こうした絶望的な状況、知識人の置かれている精神の病理」から知識人、つまり自分自身を救い出すために、この病理と健康の構造を明らかにするための論を展開する、という論の展開になっている。
で、ここからが「知性とはどういう構造を持つか」という本論に入っていくわけだけど、この序論の部分は西部さんの知識の置かれている現状認識について語っているわけで、これは今まで私が書いてきたように、この本が書かれた当時と現在とでは状況はかなり異なっているようには思う。
本論を読んでいくと、この序論=前提が本当に必要だったのかよくわからないところもあるのだけど、それはまだ途中までしか読んでないからかもしれない。
で、これはちょっと言い訳がましい言い方になっているのだけど、その論の展開は言語だけでやるとかえってわかりにくくなるので、図解的な表現を使ってやりたい、ということを言っている。ここに羞恥をのぞかせるのがつまりは言語によって全てを語るべきという信条がある人文学者としての矜持が言わせているのだろうなと思うけれども、後で出てくる図像の使い方も言わば比喩的なものなので、言葉で語りきれないという点に恥ずかしさを覚える必要もないのではないかと思うのだけど、逆に言えば西部さんはそういう人なんだなとは思った。
ということでここまででようやく24/286ページである。先は長い。
また蛇足だが、私はこういう「本の要約」というのが苦手で、大学院時代も300ページくらいのペーパーバックの報告をするのに2時間くらいかかったことがある。つまり何が大事で何が大事でないかを取捨選択するのが下手だということなのだが、他の院生のレポートを聞いてると逆にこの本を読むことに何の意味があるのかわからないようなレポートが多くて、どちらがいいのかということは思ったりした。
これはつまり、どこまでが共通言語であるのか、共通認識であるのかが自分でその場で掴めなかったということもあって、ロシア史の先生のところでフランス革命についての本を報告する難しさみたいなものを感じたことでもあった。まあ自分の理解度の問題もかなりあるので勉強が足りなかったということではあるのだけど。
しかし研究書というのは当たり前だが読んでいて発見が多い。その発見を見逃したくない、残らず報告したいという気持ちが私には強いんだろうなというふうには今考えていて思った。30年前の反省であるが。
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