西部邁氏が主敵と考えたマスメディアは凋落し、もはや知識人の主敵ではない/左右の分断を修復する言語を構築するためには、安倍元首相の路線を穏健中道リベラルと認める必要がある

Posted at 25/09/14

9月14日(日)曇り

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昨日は西部邁「知性の構造」を読みながらノートをまとめていたのだが、どうも自分の感覚にしっくりこないところがあって、今朝になってからもなかなかそのまとめについて書き出せないところがあったのだが、思い当たったところがあったのでその辺りについて今日は書いてみたいと思う。

西部邁「知性の構造」を読んでいて思ったのは西部さんは「主敵」をマスメディアだと捉えているのだな、と言うこと。もっと言えば、マスメディアとそれに操作される世論とそれに取り込まれた似非知識人たちが主敵だ、とも言えるが。しかしこれが書かれた1996年にはそうだったかもしれないが、今はもう違うのではないか。

マスメディアは「マスゴミ」と言われながらもしぶとく生き残ってきたが、ジャニーズ等が問題になるようになり、ネット、特にSNSと動画サイトの隆盛によって「オールドメディア」の地位に転落した。新聞、雑誌が転落してもテレビは安泰だと思っていた人たちにはショックだろう。

これは報道での問題が指摘されたことよりもはるかに深刻な問題で、つまりは稼ぎ頭だった芸能バラエティ的なものが大激震を受けたということなわけである。フジテレビが長期に渡りコマーシャルが放映できなかったことで、「テレビCMこそが最も有効な宣伝手段だ」という認識は大きく傷つけられた。それらの資金の多くはネットに流れただろうと思われる。

ジャニーズ問題は、結局は「芸能界は治外法権」という江戸時代以来の感覚、つまり「芸能人は河原乞食」というある種の差別感覚がついに通用しなくなったということであって、テレビ・芸能界であっても市民社会と同じ倫理が適用されなければならない、ということになったと言っていいだろう。それ自体の良し悪しは本当は別に判断しないといけない(芸術家や科学者などの特別扱いともつながるテーマであるため)のだが、その特別扱いに安住してきたテレビが国外のBBCのポリコレ的な外圧が主体となった攻撃で撃沈寸前の打撃を受けたことが大きいわけである。

これが日本国内のポリコレ的圧力であれば、「男性に対する性被害」としてテレビ側は適当に処理したと思われるのだが、国外からの正論であったために無視はできなくなった側面が大きいだろう。実際のところ、一段落した今になっても告発した元ジャニーズに対する誹謗中傷は止まないが、それについてはほとんど取り上げられない。日本国内のポリコレはフェミニズムの支配下にあるので、男性の被害については関心がないからである。

話をオールドメディア凋落の件に戻すと、すでにアメリカではかなり早くの段階からテレビよりもネット、動画サイトや特にポッドキャストなどの音声メディアの影響が強かった。これは理由はよくわからないのだけど、運転しながら聞くとかそう言うことだろうか。日本の深夜放送は勉強しながら聞く受験生とかが多かったが。

その結果FOX TVなどを除く主要メディアが継続的に左ブレしていても、トランプが2度にわたって大統領に当選するなど、メディアが世論をコントロールできなくなっているわけである。日本にしても、あれだけメディアがポリコレ化したメッセージを送っても「日本人ファースト」を動画で訴えた参政党が脅威的に支持率も得票数も伸ばしている現状がある。

それを考えると、既にオールドメディアが世論をコントロールできなくなっているのだとしたら、知識人がメディアを主敵とする理由はなくなっているのではないかと言う気はするわけである。

逆に言えば大メディアの影響力がなくなり群小の動画サイト群の影響力が上がっていると言えなくもないが、1億人のうち1%が視聴すれば100万人が見るオールドメディアと、100万PVを稼げれば大成功なネットメディアでは個別の規模が圧倒的に違うわけである。ネットは特に同じ人が何度も視聴している可能性もある。ネットメディアを敵と考えても対象は無数にあるわけだし、オールドメディアのポリコレ的な基準があるわけではないから、主張水準や倫理水準もピンからキリまであって、そこに「敵の姿」を見ようとしても明確な像は結ばないだろう。

「暫定的な敵」としてメディアを見ることの有効性はもちろん残っていないわけではない。ただそれは「封建制」とか「家父長制」とかのもう「残像」でしかないものにいつまでも突っかかってイキってる左派リベラルのような滑稽さが、そのうち出てくることは考えておいた方が良いだろうと思う。

そういうふうに考えると、これからの時代は誰も彼もが「本当の敵」が誰なのかわからなくなって、柳の影に怯えたり月に吠えたり虚像に踊らされることになる感じはある。しかしそうした敵がはっきりといない状態の方が知性や知識が社会のなかでより有効有意味な形で構築され直すチャンスはあるのかもしれないとも思う。そんな悠長なことは言ってられないという気も一方ではするのだが。

この「ネットがメディアに勝利した」と言うのはおそらくは「誰かにとっての勝利」なのだろうと思う。例えばそれはスティーブ・ジョブズなどが夢見た形なのかもしれないと思う。それは「メディアという権力」を終わらせたかもしれない。しかしそれは寿いでばかりはいられないことでもあるだろう。

それは、むしろ混乱をもたらしている面もある。西側における極端な左右の分裂などはそれだろう。

この事態を考えたとき、知識人の出番があるとしたら、例えばそれは極端に分裂した左右の間の共通言語の構築ということにあるのだろうと思うのだが、これがかなり困難になっているのは、Twitterのレスバを見ていればわかるし、レスバそのものも以前に比べてかなり成立しにくくなっている。

それは相手が何を言っているのかお互いにわかりにくくなっているからであり、話の通じないやつだ、でなんとなくエンドになることが多いように思う。価値観の共有できる部分が急速に薄くなっていると言えばいいだろうか。

そしてその隙間を縫うようにヘイトやレイシズムが左右から強まっている。ヘイトやレイシズムは右派のものだというメディアによって先入観が植え付けられているが、BLMの黒人たちによるアジア人差別なども始まってるし、ミソジニーを主張する人たちによるミサンドリーも激しい。特に強いのは、右派の影響力の強い人たちに対する言葉による、あるいは物理的な暴力だろう。日本では安倍元首相の暗殺が、アメリカではつい直前のチャーリー・カーク暗殺事件があった。

日本ではここ10年では特に安倍元首相に対するヘイトが左派の間で極めて強くなり、昔なら「石原はファシストだ」みたいなある種の比喩による攻撃だったのが「アベしね」みたいな短絡的な、それだけにより憎悪剥き出しのメッセージとして表出されるようになっていた。

これは単に左派の劣化というだけでなく、日本人全体の知性の低下ということを意味しているような気はする。右派のそれに対する反撃は抑制的だが、「日本人ファースト」のようなわかりやすいスローガンがでてきたらあっという間に浸透した。それだけ右派の憤懣も溜まっていたということではある。

https://x.com/elonmusk/status/1966936836896419942

イーロン・マスクが「彼らはカークがナチスであるから殺すのではなく、カークを殺せるようにカークはナチスだと呼ぶのだ」というツイートに「その通りだ」と同意していたが、日本はそれよりもっと非論理的に「安倍氏ね」「じゃあ殺そう」という状況になったような感じがして気持ちが悪い。

ただ知識人が左右両方の共通言語を構築しようと努力することは、当然ながら両派から攻撃される可能性はあるから、これはかなり困難な仕事だとは思う。仲裁者が一番殴られるというパターンである。こういう仲裁者には「格」と「実力」が必要なのである。1878年のベルリン会議で「誠実な仲買人」を自称したビスマルクでさえ、なんとなく力不足の感があった。

日本では、「舐められたら殺す」が原則の武士はともかく、江戸時代には庶民が大きな喧嘩を決意したときには、先に仲裁に入ってくれる人に仲裁を依頼してから喧嘩をすることが多かった。「め組の喧嘩」などでも火消し=鳶が相撲取りに喧嘩を仕掛ける前に、侠客である新門辰五郎に仲裁役を頼みに行く場面がある。

歌舞伎では一番格の高い、つまり座頭(ざがしら)が演じる立ち役(男役)の役は捌き役と言われた。揉め事を収める役である。そういうのはある種社会で生きていく上での知恵だが、そういう意識が残っていた明治政府では、日露戦争を仕掛ける前にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に仲裁役を依頼していた。それもあってロシアもアメリカの顔を立てざるを得ず、休戦に応じたという面もあったわけである。仲裁者を考えずに開戦して、不利になってからソ連に仲裁を頼もうとした近衛工作などは愚の骨頂である。

今の状況で、それだけの格のある知識人が今いるかといえば心許ない。もともと戦後の日本は「敗戦国=後進国・日本」的な価値観の左翼と「日本は本当はすごいが大きな声では言いにくい」という価値観の保守派・庶民の断絶が本来あったのだけど、ノンポリがどんどん右傾化するようになって左翼が焦っているという現状で、双方を理解できる、というようなドーンとした知識人がいるかというと、まあそういう立ち位置自身が成り立ちにくくなっているなと思う。

日本では小林秀雄のような本来は中立的な立ち位置の人が右翼保守派みたいに言われるようになってしまっていたからどうにもならない感じはある。これは生前の安倍元首相が言っていたように、「僕はアメリカに行ったらリベラルなんだよ」ということなわけで、日本では認識上の真ん中が左にずれすぎているから対話が成り立たないという面が強いのだろうと思う。

そう考えていくと、まず安倍元首相の立ち位置が中道穏健リベラルであるという認識が共有されねばならないということかもしれない。そう言ってみると、今の左派の言論の現状を見ると、左右の対立を仲裁するということがいかに困難かは理解されるのではないかとは思った。

しかし、つまりは左右和解の可能性があるとしたら、それは「安倍路線こそが中道的保守リベラル路線であって、そこからあまり遠くない距離の議論であれば左右は分裂しなくて済む」ということを左右両者が認識することだろうと思う。実際のところ、今は幅広い人々が反対し難色を示している移民受け入れなどにしても、安倍氏は必ずしも消極的ではなかった

私自身はこの路線は左にすぎて修正すべきだと考えるが、左の考え方の人でも安倍さんの政策が移民受け入れの限界だ、くらいに感じる人は多いだろうと思う。主張すべきことの一つはそういうことかなとは思った。古今の知識人たちも、そのあたりが有効な落とし所だと言ってくれるような気はする。

この辺りを踏まえた上で、「西部邁「知性の構造」を読む(4)」以下は書いていけたらと思う。


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