この雨は夏を終わらせるか/「2.5次元の誘惑」194話:奥村の闇と美花莉の恋の行方/西部邁「知性の構造」を読む(3):オールドメディアの支配力の強さとネットとの権力闘争/知識人の戦いのための橋頭堡

Posted at 25/09/13

9月13日(土)小雨

朝起きて一階におり、時計を見たら5時半だったので少し洗い物をし、支度をして車で出かける。小雨が降っていた。隣町までガソリンを入れに行き、その後車を丘の上に回してデイリーで塩バターパンとフルーツケーキの切り落としを買った。

だいぶ気温が低い感じがして、アプリを見たら18.8度。多分この気温は八ヶ岳の麓の村のアメダスの気温なので少し低めかもしれないが、地元に戻ってきても20度前後なので、まあこのくらいなんだろう。ずっと暑い日が続いたがここ数日雨の降る時間があって、昨夜も夕方から夜にかけて雨音がする時間があった。関東のようなひどい雨ではないが、こちらもこの雨で涼しくなるのだろうか。今年は本当に暑い日が続いていたけれども。

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ジャンププラス「2.5次元の誘惑」194話。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094910249413511

冬コミも終わり奥村も卒業が近づいて、のある日の漫研の部室。物語もそろそろ終わり、という祭りのあとの哀しさ感がそこはかとなく漂ってくる中で、美花莉が自分の恋の終わりを感じているということ、また奥村が3次元も愛せるようになったとはいえ、母との関係のトラウマ(愛していると言われた人から捨てられたこと)からはまだ脱せていない、という2人の闇が描かれ、「美花莉ちゃんはこの日を最後にもう学校に来なかった」で終わっている。

美花莉はこの物語の重要なサブヒロインではあるのだが、リリサの明るさに比べるとつい一歩引いてしまうところがあり、今回も「先輩を救ったのは私じゃなかった」ということを思い出しては傷ついている。本当はそんなことはないのだが、そう思ってしまった、ということなのだろう。ここから最終章「天使のまにまに」が始まるということなので、最終章はこの闇から解放されていない2人の物語ということになるのだろうと思う。

しかしこれはコスプレが題材のマンガだから、そこに必ずコスプレが、特にリリサのリリエルが絡んでくることは間違いないと思うのだが、最終章がどのような展開になるのか、については重いスタートになった。

この作品については、リリサがコスプレイヤーとしてプロになるのではなく、衣装製作者としてプロを目指すという展開が確定した時、私はこの作品を「リリサのリリエルが一番可愛い!」というマンガだと思ってきたので、かなり残念に感じた。特に、奥村もリリサもあれだけ苦労して作ったROMをコミケで売らないで思い出作りにした時点で作品に対する熱が冷めてしまった。

ただ最近、その辺りも考え直していて、表に出る人=コスプレイヤーとしてでなく「作る人」=オタクとして徹するという意味では首尾一貫しているとも言えような気もしてきていた。

奥村とリリサ、美花莉、ののあ、アリア、特にツバキ、またその他のキャラたちとの関係は奥村からのメッセージとして彼女らを変え、救っていくという展開が多かったが、彼女らとの関係の中で奥村自身を解放していくという要素も強くて、リリサのコスプレ修行、奥村のカメラマン修行などと並んでそうした人間関係の展開も大きな要素だったし、ある意味奥村をめぐるハーレム漫画でもありヒロインレースでもあったわけだけど、最終的にはリリサと美花莉に絞られた感があり、ただ誰よりも一途に奥村のことを思い続けたのは美花莉なので、そこが美花莉に強いファンがついた理由ではあるのだろうと思う。

まあなんというか、あれだけ「リリサのリリエルが一番可愛い!」と思わせておいて違う進路にするという展開を選んだ作者さんだからこれからのオチもどのように持っていくのかはわからないのだが、奥村の闇と美花莉の恋の行方を最終章に持ってきたということは、やはり奥村がこのマンガの主人公なのだなと再確認させられるところがあるし、作者さんの中にも逃れられない闇のようなものはやはりあるのだろうなと改めて思う感じはする。

どういう展開になるかはラストまで分からないけれども、最後まで読めばきっとこの展開をラストにした理由もわかると思うので、楽しみに掲載を待ちたいと思う。

しかしなんというか、元々露出度高めの作品なので、読者も基本的にそれを前提に読んでいるからそういうことに関するくだらない批判が感想コメントに出てくることはあまりない(ストーリーに感動するのに露出が邪魔で読みにくいというくだらないコメントはなくはないが)のがこの作品の強みではあるなとは改めて思っている。

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西部邁「知性の構造」、序章第3節「マスメディアの暴走」。この節は読んでいて非常に読みにくかったのだが、それは西部さんがこの本を書いた時のメディアをめぐる状況が今になってはかなり変わってしまってきている、ということにあるのだと思う。

新聞にしろテレビにしろ、マスメディアがこれだけ没落するというのは25年前(つまりミレニアム)には予想できなかったなと思う。誰でも多様な手段、文章や音声や動画によって発信・応答・対話できるようになったことがこれだけ爆発的な破壊力を持つようになるというのも予想外ではあった。

西部さんはこの節をラザースフェルドの「コミュニケーションの二段の流れ」、つまりメディアの大衆への影響はまずオピニオンリーダーの態度表明を見てから、そのオピニオンリーダーによるその事象の解釈を経て大衆に伝わるという考え方を、「オピニオンリーダーであるべき知識人がメディアの作り出す世論に逆らえない状態になっているから無効になった」と解釈し、大衆はメディアに直接身を晒している、とするところからスタートさせている。

「大衆はメディアに直接身を晒している」ということがこの後の西部さんの立論にとって重要になるわけだけど、現在はまた状況が一部変わってきているような感じがする。

もちろん世代的に60代以上の、テレビや新聞が今でも重要な情報源である層にとってはこれは当てはまるかもしれないが、今ではネットがあるからネットで先に情報に触れることが多い人もいるし、またネットでしかそういう情報に触れない人も増えてきている。

そしてお互いに相手を「情弱(情報弱者、ネットで情報を取れない人たち)」だとか「ネットの不確かな情報に振り回されててうわついた奴ら、もっと新聞や本で正確な情報を掴むべき」のように「相手は正しい情報を得ていない」と批判しているのが現状だろうと思う。

単純化していうと、若者(ネットで情報を取る人たちという意味)は高齢者(「オールドメディア」で情報を取る人たち)を、メディアが自分たちに都合のいいことしか伝え図、「報道しない自由」で「国民の知る権利」を蔑ろしていることに気が付かず、「「マスゴミ」やそれに出てくるポリコレリベラルの「知識人」「テレビタレント」の影響を受けすぎていて新しい情報に触れられず、見方が古く、新しいものを取り入れられず、古い考え方から抜け出せない老害」であると見做していて、高齢者は若者を「ネットの信用ならないインフルエンサーの発言をリテラシーなく受け入れて何がファクトかもわかっていないくせにやたら偉そう」と考えている、ということである。

だから最初の西部さんの話に戻れば、大衆はオールドもニューも含めて直接ネットに身を晒しているように見えるけれども、実際には「テレビで「知識人の」誰々がこう言った」とか「YouTubeで政治的インフルエンサーの誰々がこういった」ということを根拠にしてお互いに「ネットの情報は当てにならない」とか「マスゴミは真実を伝えない」という見解になっている人も実際にはかなり多いように思う、ということである。

オールドメディアにおいては確かに「メディアによる知識人の飼い慣らし」が進んでいて知識人は「メディアの言わせたいことを言う存在」に堕しているところがあるが、ネットはさまざまな規制がかけられつつも基本的にはまだまだ「なんでもあり」の状況なので、今の状況を戯画的に言えば、

「オールドメディアは「知識人」を使嗾して「大衆」を丸め込んで「衆愚化」し飼い馴らして、例えば「面白くなければテレビじゃない」などと言って「一億総白痴化」して「世論をコントロール」しようとしているが、「ネット」には「オールドメディアでは決して取り上げられない真実」が伝えられているので、それを知って「真実に目覚めた私はメディアの嘘を糾弾することができる」と思い込んで、「陰謀論を声高に唱える」ようになっている

と言うことだろう。そうした極端な例からは一定の距離を取っている人の方が現実にはほとんどであるわけだけど、ただ「日本人ファースト」のような今の日本人にとってキャッチーな、心を捉えるフレーズが出てくると、ネットのインフルエンサー(≒オピニオンリーダー、この場合は参政党)の主張に大きく心を動かされ、ついに参政党の支持率が自民党に次いで2位、世代によっては1位になると言う状況になっているわけである。そう言う意味では、西部さんの言っていた世論に影響力のあるのは第一にマスメディアであり(だからトクヴィルは新聞などのメディアを「第一権力」と読んだわけだが)「知識人」はそれに従属させられている存在に過ぎなくなっている、と言う解釈は成り立たなくなっていると思われるわけである。

https://x.com/tsukikiyora/status/1966102796262138152

そう言う意味で言えば、テレビや新聞などのメディアの側、またメディアに頼った発信を続けてきた「知識人」や「大学・学界=アカデミア」が「YouTubeなどの動画サイトを含むSNSを敵視」して、「規制しろ」とか「ファクトチェックしろ(メディアの側にも怪しい報道はたくさんあるはずなのに)」とか言うのはつまりは「世論への影響力をめぐる権力闘争」なのだ、と言うことなのだろうと思う。

その次に西部さんは「なぜ世論が「正しい」のか」についてのトクヴィルの見解について触れている。それは、民主主義のイデオロギーには「知的能力において人は基本的には平等である」といいう考えが含まれていて、それゆえ「より多くの人の支持を得た意見=世論にはより多くの知識が含まれている」という「心理に適用された平等理論」が理由であって、つまり「世論に迎合すること=真理に近づいていること」になる、というわけである。

もとよりこれは、少なくとも絶対視することはおかしいと私などはすぐ思うが、実際には「民衆は常に正しい」というかつての左派理論からその立場を取る人も多い。そして現在では「民衆」が「弱者」に置き換えられて「弱者=女性は常に正しい」という主張が罷り通ったりするのも同じような現象だろうと思う。やや脱線した。

西部さんはだからそのようにして世論を領導するマスコミは第一権力としての地位を盤石にした、と言っているわけである。

次に西部さんはマスコミの大衆に対する支配力はいかに確立されたか、という方法について、西部さんは「民衆の感情の最も反応しやすいところを直接的に刺激」し、執拗に働きかけ、その感情に訴えやすい「薄められたイデオロギー」、平和意識や平等意識その他、を用いて、ついには民衆は「最も低俗な感情を肥大化させ最も劣悪な理屈を延長させる」ことを反復することになり、民衆は大衆に転落する、という。まあこの辺りはネットの議論などを見ていてもそういう感は強いわけで、そのようにマスコミに飼い慣らされてしまっているということは現状その通りだろうと思う。

マスコミはさらに刺激的な情報を斬新な仕方で発信し、短期的な刺激を発信することで常に大衆の欲望や理屈を喚起しつつ、写真や映像、音声など人間の視聴覚能力、マクルーハンの言うところのヴィデオシーを強力に複雑に発展させつつ、それを解釈する「言葉」はどんどん単純化させ、知性の領域において人々を「再野蛮化」させつつあり、感情を断片化させ論理を凡庸にすることによってメディアは権力を握った=「メディアクラシー」が成立した、というわけである。

だから「真正のものである」ことを知識人が目指すときは、メディアが伝える「自由」や「合理性」が「欲望の解放」と「際限のない情報の洪水」に過ぎないことを暴露し、本来的に複雑なものである感情に秩序をつけるために人間・社会の総体に論理を与えることが必要であるから、メディアと戦うしかない、というわけである。

現状の評価として見れば、このような欲望論や言説論というのは基本的に正しいというか、マスメディアが支配的な時代が終わりつつあってもその手法はネットでも取り入れられて、さらにあざとい展開になりつつある部分もあるわけだけど、逆に言えばその底の浅さというものも、素人っぽいやり方によって見えてくるところもあり、逆にメディアがやってきたことの底の浅さも見えてくる、という面もあるようには思う。

ただ現在の状況を振り返ってみてみると、大衆はそうした「際限のない欲望の拡大」や「情報の洪水」に倦んできているように思われる。

それに気付いた左派知識人はポリコレ・ジェンダー・多文化主義といった反差別の建前のもとメディアの掣肘と世論の支配に乗り出し、メディアに対する処罰感情を持つ大衆を煽動して公開処刑を行い、オールドメディアは一定以上その軍門に下りつつあるようにも見える。ジャニーズの告発や新たな差別禁止基準の押し付けによる表現規制などはまさにその支配手段だろう。

そうなると、「表現の自由」を守るのはオールドメディアではなく「ネットの言論」だ、ということになったわけで、それでツイッターが主戦場になっていたわけだが、若い世代に浸透したフェミニズム教育によってフェミニスト基準が全般的にも表現に押し付けられつつあるという面もあるのだが、「女子枠問題」などによって若い男性の間に、そういうものを押し付けるフェミニストやオールド世代、オールドメディアに対する反発が強まりつつあるということも言える。

オールドメディアによるポリコレの押し付け、特に最近では外国人問題に対してかなり多くの人たちが反発を感じるようになっていて、彼らはテレビの言説を拒絶して動画サイトの参政党の主張に耳を傾けつつある。いずれにしてもメディア批判はすでに知識人レベルだけでなく政治レベルでも大衆レベルでさえ行われるようになっていて、「メディアが世論を支配した時代」は遠くなりつつあるように思われるのだが、まだ60代以上が中心を占める政治の世界ではそれがあまりよくわかってない感じはする。

だからとりあえず西部さんの言う「知性の橋頭堡」を築くならば今のところはネット空間なのだろうと思う。

ただ、メディアと左派知識人の暴走を防ぐべき「保守派知識人」のそれは、まだこれというのがないと思うし、リベラルでは東浩紀さんのゲンロンなどが最有力なのだろうと思う。左派寄りではポリタスとかそういうのもあるらしいがほとんど見たことはないのでわからない。国際政治チャンネルとか「知識人の橋頭堡」というよりは「専門知の披露」のための場もあり、それらもそれなりに力を持ってきているとは言えると思うが、「保守派知識人の発信基地」みたいなものはまだないようには思う。というかいったい「信頼するに足る保守派知識人」が今の日本にどれくらいいるのかという問題もある。

アメリカの保守派若手言論人のチャーリー・カークが暗殺されたことはアメリカに衝撃を与えたが、逆に言えば暗殺対象とされるほどの「大物保守派若手言論人」が存在するということは、むしろ羨ましく思うところもあった。また、日本にはアメリカのフォックスニュースやフランスのル・フィガロのような「強力な保守派メディア」がもともとないということも限界を感じる部分ではある。ネットの発信がより保守派の方が強くなるというのはある意味当然だということになる。

いずれにしても、新しいメディアが出てきてメディア、つまりオールドメディアによる世論支配の問題は解決したかと言えばそんなことはなくて、新しいメディアの出現で状況がより複雑化していると言う方が正確なんだろうとは思う。

ただ、「マスメディア支配」にある種の風穴が空いたということもまた確かなので、この辺りのところはしっかりみていくべきだと思った。

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