西部邁「知性の構造」を読む(2)「世論の暴虐」:専門知と世論、そして「常識」/「怒り」はどのように役に立つか:感情を解放することと整えること

Posted at 25/09/12

9月12日(金)曇り

今日も天気が悪い予報。昨日は朝、夜明け前に雨が降り、その後は曇ったり晴れ間がのぞいたりという感じだったが、夜8時ごろ結構強い雨が降っていたが、そのあとはまた止んでいる。関東の方はかなり混乱したようだが、大丈夫だろうか。こういう時には都会は思いがけない弱さが現れる。以前からの中小河川の氾濫を防ぐために大規模下水道が整備されてはきているのだが、短時間に多量の降水量があるとついていけなくなるところもあるのだろうなと思う。皆様におかれましてもご安全に。

西部邁「知性の構造」を読んでいるのだけど、文字面を読み取ることはもちろんできるが、「これが本当には何を書いてあるのか」ということを理解しまとめるのは結構大変だなと感じていて、「知性の構造を読む(1)」を書いたのが9月1日で、もう11日も経ってしまった。これは第1章「崩落しゆく知性」第1節「知識人の虐殺」をまとめたわけだけど、読んでいるところ自体はもう少し先なのだが、まとめて土台を作りながらでないときちんと押さえられないなと思い、もう一度元に戻って第2節「世論の暴虐」について考えたことを書きたい。

ここで扱っているのは「専門家」と「世論」の問題なのだが、世論と専門知の関係は、専門領域からの発信で世論を薫陶するという面と、世論がその専門知を支持する、という側面の両方がある。これはコロナ対策にはワクチンとマスクが有効だ、という医療・疫学の専門知の発信に対して、なるほどそれで罹患したり死ななくて済んだりするならそうしよう、という世論の支持があって成り立っている、というような話である。

しかし、世論というものはテンポラリ(一時的)なものであるし、移り気なものでもあり、また見栄えの良い方に流されたり、その時力のある方、影響力のある方に流されたりするものであるから、本当の意味で専門家がその支持を頼りにするには、あまりに頼りないものである。

そこで、西部さんがいうには、世論はある一定のわかりやすい「色合い」によって染められているということを言っていて、それが例えば「ヒューマニズム」であるとか「平和主義」であるとか「進歩主義」である、と言っているわけである。簡単にいえば日本の場合は戦後民主主義なわけだdが、しかしそれに多くの欺瞞が含まれていることは明らかになってきているのに、知識人はそこに呪縛されている、という。

その理由の一つは、世論を形成する「大衆」そのものが教育の浸透などによって知識人化しているということがあり、流動的な知見や見識をその時その時の学校教育によって身につけてきていて、世論の形成にはそれによる判断が反映しているということもある。だから知識人の側もそういうものを利用してうまく情報を盛り付けるムードメーカーの役割に専念するようになり、薄められたイデオロギーをさらに再生産する役割を担うようになってしまった、というわけだ。

ここからは私の考え、とはいえ今まで西部さんをはじめ多くの人々が入ってきたことに基づいての考えだが、本来知識人が依拠すべきはそういう一時の流行に流される「世論」ではなく、歴史による浸潤や彫琢が繰り返されてきた「常識」の方だと思う。世論が「流行」だとしたら常識は「不易」である。(ここでいう常識はどういうものかというのはもっと説明が必要だとは思うが、時間がないので今はこのくらいにしておきたい。)

専門知はあくまで専門知であり、その集合体である「知の体系」というものもあるにはあるのだが、ただその専門領域の知見が全て矛盾なく両立するわけではない。コロナの例で言えば、疫学的な専門的知見と、経済学的な経済活動の振興の重要性は明らかに矛盾するわけである。そしてこれを統合する「専門知」は今の所存在しない。

ではどういうことになるかというと、最終的には政治判断ということになるわけで、コロナ禍なのに旅行が振興されたり、まだコロナの流行は残っているのにマスクは「推奨」を外されたりしたわけである。その時の政治判断にとって大きく働いたのは、より多くの人々が持っている「常識」によってだろう。まあそこは常識というより世論ではないか、という判断もこの場合はできなくはないが、常識というものは形に表すことが難しいから世論調査という形をとってそこを測っている面はあるわけである。

常識というのはどちらかというと「打破する」とかに繋がる言葉で、これはつまりはそれだけ「進歩主義」の人々の意識への侵食が激しいということなわけだけど、自分の人生について考える、なんということになった時には人々は「常識」に立ち返って判断することは多い。常識に反することを決断する時には「時代がそうだから」みたいに時代や世論に責任を転嫁して判断するわけだが、それは逆に言えば常識が実は結構強固だということでもある。

我々が生きている時代は最初から戦後民主主義の時代なので、本来は常識であるはずのことを学び損なっている面もある。例えば、「国や国民を守るには一定の軍備が必要だ」とか、「国や郷土を愛することができなければ自分の愛する人を守ることも難しい」といったような「常識」は学校教育では学びにくい。「常識」の立場の不安定化がこの社会での生きづらさを生んでいる面もあり、今常識を復活させることは非常に重要なことだと思う。

人は様々な経験をし、それが「自分にとっての常識」の倉庫に収められていくわけだけど、その部分が多くの人と共有されることでより大きなものになる。そしてそれが時代を超えて共有されていくことによって、それは「常識」となっていく。

現代は変化の激しい時代だから常識にとっては辛い時代なのだが、だからこそ「本当はどうだっけ」ということを考えた時に、変な陰謀論に行かなくて済むためには「常識」は重要だろうと思う。

ただこの常識も、やはり江戸時代から、少なくとも無意識の中には残っているような部分と、時代の変化によって更新されていく部分はある。時代を超えつつも、時代に対処できるような常識の再生産は、必須のことだろう。

もう少しだけ書くと、自分たちの常識の中から外したものが無意識とか感覚の中に残っているものがあって、それが日本人にとっては「皇室は尊い」とか「言葉には魂が籠る=言霊」というような意識だろう。万物には神が宿る、みたいな汎神論的な意識もまたそうだと思う。逆に言えばそういうものに触れないで育った世代が一度にそういうものに晒されるとある種の陰謀論にハマりやすくはあるのだろうと思う。

時間がないのでこの件はここまでで。

***

ゴミを捨てにいくついでにコンビニで週刊漫画タイムズを買い、駐車場から出ようとした時に横の道に入ってきた軽トラがあって、あまりスピードが出てないからその車の前に入れると思って出たら後ろの軽トラが怒ってクラクションを鳴らしてきて後ろにピッタリついて煽ってきたのだが、こちらが右折したらその車は左折して行ってしまったのでそれきりになった。
何を怒ってるんだとおかしくなったのだが、まあ朝だし急いでいたんだろうなとは思った。軽トラは農家の車と職人の車とふた通りあって、農家の方はのんびりと国道なのに40キロ以下で走ったりするのでイライラするのだが、職人の車は割と急いでいることが多い。
で、怒ってるのはわかったがこっちが笑ってしまったら怒る意味ないよなと思ったのだけど、自分も危ない動きをしている子供を怒鳴りつけた時に相手がビビりながらもふざけた反応をしてきたことがあったのを思い出し、まあ行動を変えさせようとして怒っても伝わらない場合はあるよなと思ったわけだ。

しかしそれなら「怒る」ことに意味はないかといえばそうでもなく、自分の感じた「怒り」の感情を解放することで自分の中の鬱屈を軽減できるというメリットはある。感情解放というのは喜びとか悲しみとか楽しみとかでもあることで、その感情が重くなりすぎたら自分が抱えきれなくなるから、外に出すことでそれを軽くするということもあるし、外に出すことで人と共有することができれば軽くなったり想いが深くなったりすることができるわけだ。

しかしそれもやりすぎると周りに迷惑である場合もあり、ところ構わず怒っているような状態、泣いているような状態になるとそれは「感情失禁」ともいうべき状態で、やはり感情ん表出には一定のTPOがあるし、また限度というものがある。感情の起伏のあるのは人間らしいことだと思うけれども、コントロールが効かなくなって失禁状態になるのは良くない。感情を解放するのも必要な時もあるが、それは感情を整えるためだ、ということは理解しておいた方が良いと思う。

感情に起伏があるのは悪いことではないが、情緒が安定しているのは普通は良いことだろう。心の中に引っ掛かりがあるとそういうものなかなか難しいが、歳をとってくるとそういうものが完全になくなることは無くなってくる。ある意味、そういうものと同居できるようにならないといけないというか。それは「体のどこかがいつも少しおかしい」みたいな感じと同じで、まあそれが年齢を重ねるということでもある。

若い頃は単純に抱えてるものが重くなってくると「全て捨ててしまえ」みたいになるわけだが、捨てた中には当然「大事なもの」「頼りにしていたもの」もあるわけで、だからそれを失ったことに苦しむことになる。悟りというのも、全て捨てての悟りもあるだろうが、捨てないでの悟りというものもある、というのはつまりは「在家でも悟れる=居士」ということだろう。西行などは捨てたが故に、出家したが故に捨ててきたものの存在の意味や価値を知った、みたいなところがあって、そう動かざるを得なかったのがいわば詩人の魂みたいなものなんだろうなと思う。尾崎放哉などにしても。

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