西部邁「知性の構造」を読む(1):人文知の発達限界と活動家化と虚無との直面/「鬼滅の刃」再論:「鬼になること」と「絶対悪の絶対性」/湖畔の渋滞/「ふつうの軽音部」:本誌出張読切の珠玉のエッセンス
Posted at 25/09/01
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9月1日(月)晴れ
昨日はずっとゆっくりしていたが、午後に出かけて図書館で本を返し、岡谷に行って「ロッキング・オン・ジャパン」の10月号を買おうと思って出かけたのだが、湖畔に出る道が警察が出て誘導していて、どうも湖畔の道のどこかが通行止めになっているということがわかり、途中で引き返して国道の方に出たのだが、国道も湖畔から合流しようとする車でかなり混んでいたので、山側の旧道に出て秋宮の前まで行ったのだが、すれ違いが難しいような道なので途中で何度もバックしたり横に入ったりしながらになった。秋宮前の交差点から先は空いていたので、そのまま順調にレイクウォークまで行って日差しが強いから屋根のある4階に車を止め、書店まで歩いて雑誌を探したが、なかった。
その後モールに戻ってきて2階の書店も探したがなく、ネットで色々調べたら上田のタワーレコードにはあるようだったのだが、高速も通ってないルートで山を越えてそのためだけに上田まで行く、というのは流石に気合が出ず、とりあえず諦めた。「ふつうの軽音部」の原作者、クワハリさんのインタビュー記事を読みたいだけなのだが、電子でも出ていないのは辛いところである。夕食の買い物等してモールを出る。
帰りは国道を行き、順調に流れたがまた同じようなところで渋滞になり、一度湖畔の道に出たが美術館のところで警察が出ていて国道に出ろという指示があり、結局国道に戻ってきた。しかし少しでも前に進めたのが良くて、結局途中から旧道側の細い道に入り、紆余曲折しながら裏道に出ることができて、まあまあ順調に帰ることができた。湖畔で一体何があったのかはわからないが、ずいぶん長い時間閉鎖されていたし、夏休み最後の日曜日に観光地でこういうことが起こると本当に車が多くて大変なんだよなと思う。旧道の方を通った時も、ナビで見て入ってきたと思われる県外車が往来に困って結局こちらが道を譲らないといけなくなったり、まあいろいろだった。
夜は西部邁「知性の構造」の序章を読み終えて、第1章の途中まで読んだ。朝起きてから内容を最初からノートにまとめていたら結構書きたいことが出てきたのと、メモしてみると理解の助けになるような発想が色々出てきたこともあって、序章の第1節のところまでのメモだけでいくらでも考えられる、「一切れでご飯一杯食べられる」みたいな内容だなと改めて思った。
昨夜は9時ごろ寝たのだが、暑くて窓を開けっぱなしにしていたのだけど12時前に一度目が覚め、トイレに行ってもう一度寝床に入り、その後もそんなに熟睡というほどでもなかったが、もう一度起きた時に窓を閉めてパジャマを着てしばらく寝て、起きたら4時だった。7時間を一気に寝るというのはもう難しいなと思う。
***
しばらく色々やってから5時過ぎに出かけてジャンプとヤンマガとスピリッツとカフェラテを買って帰ってきて、まず「ふつうの軽音部」の本誌出張版を読む。スマホの画面でも単行本でもない本誌の薄黄色の紙に印刷されたジャンプの画質の「ふつうの軽音部」は、センターカラーの扉付きでちょっと感動ものだった。
こういう単発の読み切りをどう書くかというのはクワハリさんもかなり苦労したようなのだけど、設定として「学校説明会の後の部活見学」という場面にしたのは良かったと思ったし、何より選曲が良かったなと思う。一つ一つの歌詞を歌う鳩野の表情の変化がとても良い。内容的には、彩目が鳩野の弾き語りを公園で聞いた時のパターンだったのだが、それに久々の厘の信者ムーブを組み合わせるという感じで、「ふつうの軽音部」の魅力のエッセンスをコンパクトに紹介した、という感じだった。
これがアンケートでどれくらい順位を取れるか、よくみると昔のようにハガキも切手を張る必要は無くなっているので、投函したいと思う。ジャンプラは毎日リアルタイムで順位が出るが、本誌のアンケート結果は掲載順位の上下で推測するしかないから読み切りでは順位はわからないけど、本誌でも評価されると良いなと思う。連載は正直今のままジャンプラの方がいいと思うけれども。
***
ふと「鬼滅の刃」のことを考えていたのだが、ジャンプで連載されていたとき、特に初期は「面白いのかな?どうかな?」という感じがあった。それは炭治郎と禰󠄀豆子という主人公たちと、鱗滝という育手(いわば引退した先達)、それに善逸と伊之助という仲間たち(育ちつつある未熟な仲間たち)だけではまだなんか足りないな、というところに「柱」たちという鬼殺隊「現役最強メンバー」たちが現れたことから面白さが確立したのだよな、と改めて思った。
これはアニメ化の過程においてもうまくいかされていて、地上波で蝶屋敷までやった後で映画で無限列車編をやり、炎柱・煉獄杏寿郎をクローズアップするというプロデュースの仕方に現れていた。こういうやり方はオンエア版がよくわからないエンドになった「新世紀エヴァンゲリオン」などではあったけれども順調に連載されていたジャンプ作品をこのように扱うというのはちょっと驚いたのだけど、映画史を塗り替えるようなヒットになってもっと驚いた感じがあった。
「鬼滅の刃」というのはその時点において炭治郎の成長物語であるだけでなく、戦隊ヒーローものの要素が取り入れられて、ある意味当たり前のことである「どの集団でも現役の最強集団が一番強い」という当たり前のことが再確認されたのが良かったのだと思う。そしてその最強の「柱」でさえ命を落とすような「鬼」の強さというものが再度強調される。それは永遠の命を持つ鬼の強さであり、「お前も鬼にならないか?」という猗窩座のセリフに対し、「命を燃やせ」と有限である人間がそれだからこそ尊い、という強烈なメッセージにつながる。これは確かに「最強」だからこそ言える言葉であって、炭治郎たちにも強くなることの強いモチベーションを与えるわけである。
それはそれとして、私が作中最も好きな場面は蝶屋敷の屋根の上での炭治郎としのぶの会話なのだが、あれでこの話は絶対面白い、と確信した感じがあった。「鬼」である禰󠄀豆子と共に行動し、「鬼」とも理解し合える可能性を一途に信じる炭治郎に対するしのぶの期待。その願いのようなものが最後までこの話を貫いていて、そして最後に鬼舞辻無惨は絶対に理解できない、受け入れられない、で終わる。ここはある種の挫折ではあるのだが、挫折であるが故の諦念というか、人間には不可能なこともあるからこそ、生きる意味があるみたいな感じもある。
鬼に対しても理解できる可能性、みたいなものが上弦の鬼に対してもーある意味作中最もヘイトを集めた猗窩座に対してもーある程度は維持されていくのだけど、だんだんそれが難しい状態になり、まあ童磨とかになると無理、という感じにはなる。しかしそれもまた超自然の怖さではなく、無惨その人も含めて人間の醜さではある。妖怪よりも何よりも、一番怖いのは人間である、ということでもある。そしてその滅び方の悲惨さにおいて作者は一掬の涙を注いでいる感はあるのだけど、最低限の人間性を捨ててしまったものに対する「人間の持つ非人間性」についての糾弾がどこから来るのか、と考えていて改めてまた思った。
実はこれは終局に近く炭治郎が無惨に対して怒りを燃やすセリフを言う場面で理解しきれないと感じたことの一つで、この糾弾の由来が常識的なものなのか、宗教的なものなのかなどについて、今でもまだちょっとわからないところがあるなと改めて思ったわけである。
逆に言えば、この炭治郎の怒りを自分では共有できないところがあると言うことでもあるなと思う。それは、自分の中にしのぶとのあの蝶屋敷の屋根の上でのやりとりが強くあるからでもあるのだが、数々の人々の不幸を、特に自分の両親や禰󠄀豆子に対してももたらした存在であるのに身勝手なことを言う、ことに対しての怒りだと言えばもちろん論理的には理解はできるのだけど、なんだか納得しきれないところが未だにあるのである。
つまりそれは、炭治郎がどう成長したのかと言う話でもあり、「鬼に対する甘い気持ちを持っていた炭治郎が鬼たちとの戦いの中で諸悪の根源である無惨に対し許すべきでないものを許さないと考えるように成長した」と言うストーリーを考えても良いのだが、どうもなんだかあまり面白い感じがしない、と言い換えてもいいかもしれない。
逆に言えば「絶対悪は絶対悪であった」と言う進次郎構文で収まる話だったのか、と言うことでもあるかもしれない。鬼たちの非道さも、より根源の悪である無惨たちから発したもので、まあそれは例えば「有害な男性性みたいな絶対悪」である、と言う話はまあ流石に面白くはないだろうと思ってしまう。
そこに対する批判は以前からあって、こう言う話はもちろん似たような先行作品は色々あって、例えば「NARUTO」なども先行する最強の実力の持ち主が殺されてしまう時の「信念の継承」みたいな話は描かれているのだけど、「NARUTO」の方がより深さを感じさせる、と言う批評を聞いたことがあるのだが、私も話自体は両方ともとても面白いと思うけれども、そう言う点で確かにNARUTOの方が疑念が残らないな、と言う気はした。まあ、この辺りのところはまた考えてみたい。
https://note.com/kous37/n/n0f80b5f3fea6
ちなみに以前書いた同じ問題についての文章は↑である。今とは結構スタンスが違うなと思った。
後から考えた蛇足を追加すれば、「絶対悪」と言っても所詮は「人間レベル」であって、ある意味人間的な限界を持っている、と言ってしまった方が納得できるような気もした。鬼になっても絶対の存在にはなれないのである。
***
西部邁「知性の構造」、読んでいるのだが、骨太であるのと、現代の思想状況への的確な指摘、予言とも思えるような部分もあり、なかなかスイスイとは読めない感じがある。
全体構造としては序章「崩落しつつある知性」で全体的な問題の性質について述べていて、その後で各論に入っていくと言う感じである。第1章は「真理への渇望」であり、これはつまり「真理などないのではないか」と言う意味での虚無主義との戦いの経緯の中でしか出てこないものであって、知性というものが本来真理を探究するものであったことを、目次を見ていて再確認した感じがあった。
序章の中の各節の表題を挙げると、「知識人の虐殺」「世論の暴虐」「マスメディアの暴走」「虚無主義の猖獗」となっていて、ノートを取り直したのはまだ第1節の「知識人の虐殺」の部分だけである。
この節ではすでに第1節から「大学のアカデミズムにあっては、専門的に断片化された知識が単に頼りなく浮遊しているというだけでなく、当の専門的知識がどうやら発達の限界に達したらしい。」とある。この分の前半の「専門的に断片化された知識が頼りなく浮遊している」というのは現代のアカデミズムについてよく言われることでもあるし、そんなに斬新というわけではないが、後半の「当の専門的知識がどうやら発達の限界に達したらしい」というのは考えてみればかなりラディカルな告発である。
つまり、「専門的知識」というものが「もう発達しない」のであれば、「学者=知識人」というものはなんのために存在するのか、という本質的な問題が立ち現れるわけである。
もちろんこれは理系分野ではいくらでも発達し続けるものであるし、物理や化学・生物学などの基礎科学だけでなく、工学や医学などの応用的な分野においても恐るべきスピードで進化していて、多くの学者やそれに関連した技術者たちが必要とされ、新たな段階を切り開き続けている。
ただ、よくその代表例とされる人工知能=AIだが、自分が使っている、つまり人文・社会系の学問などへの応用のレベルで言えば、正直大したことないなという印象である。当然だが、過去に書かれた膨大なネット上のテキスト等から引用したり機械的に総合したりしたものが結果として現れているだけだから、新しいものは出てこない。学生のレポートなど、第一線の研究でないものに関してはなんとかなるかもしれないが、それにしても参考文献の名前を勝手に作り出すなど、文献研究のイロハもマスターしていない段階である。前衛的な研究は過去の積み上げの中から生まれるというのは事実だが、そういうものについても全てがネット上で文献化されているわけではないし、勝手な類推が酷すぎて、例えば「文屋宗于」という人物について調べていても勝手に「源宗于」について結果を吐いたりするわけだから、役に立たないなというのが正直なところである。
今とりあえず使えると思っているのはDeepLのような翻訳ソフトであって、これは本格的には学習したことのない言語で書かれている文献をとりあえずはだいだいこんな感じかと粗々理解できる程度の結果は出てくるし、長大な英文でもとりあえずは日本語で読むことで下訳的なレベルでは使える、という感想を持っている。
まあ人工知能は個人的にはまだまだこれからだと思うが、こちらが全然予想しないようなレベルで技術が進んでいる分野もかなりあり、例えば新プロジェクトXなどを見ていると、阪神大震災や重機によるATM破壊窃盗事件などをきっかけに進んだ重機のIT化・デジタル化などはすごいレベルが達成されているのだと改めて感心した。
しかし文系分野、特に「真理の探究」を行う哲学系や社会学系の分野において、全く新しい研究というのがどれくらい出てきているのか。そういう意味ではもうそういうものは考え尽くされたということかもしれないし、あるいは認知論そのものから解体して人間の思考というもの自体の不確かさみたいなものを掘り下げていくくらいしかもうやることが残っていないのかもしれないと思う。
そういう意味では日常的な、人間的なレベルの思考においてできることはもうやり尽くされたのかもしれないし、今の人文系の学者たちが「真理の探究」についてはもう諦めて、自分が獲得した思想によって社会を変えようとする、運動家として活動する人が多くなっているのもそのせいかもしれないと思った。
こうした「知識をもとにした活動家」は19世紀のロシアで同じようなことをしていた「インテリゲンチャ」と言われる人たちがルーツといえ、この節でも少し触れられているが、この本の書かれた状況を反映してかその記述はわずかで、社会主義の解体過程の中で「インテリゲンチャ」の名に値するものはほとんどいなくなった、とのみ書かれている。
確かに現代の「アカデミックな皮を被った「活動家」たち」を見てみると、その根源にあるべき「知性」そのものが枯渇していると思われるような人ばかりであるのが現状であるように思えるし、本来滅びるべきであった左翼の延命のための活動がマスコミや出版界その他の利益共同体の手によって命脈を保ちつつ、行政や司法に食い込むことでさらに害悪を広めているのが現状だと思うのだが、西部さんにしてもそこまでは1996年の時点で予測はできなかったのかなとは思う。
いずれにしてもジェンダーやポリコレといった教義にこだわるばかりでそこから出てくる現実との矛盾には目を伏せ耳を塞ぎ、対話すら拒否するという姿勢でやっているわけだから、もはや知性や知識人という名前にも値しない人々が大半であるようには思う。知性とはまず何より、そうした矛盾に反応し、それを探り、その解決に意を注ぐ鋭意であるはずだからである。
もう一つの知識人の類型として出てくるのが「インテレクチュアル」だが、これは啓蒙主義を起源とし、知識が自立的に発展するものだという楽観性に依拠し、その意味での「理性信仰」に基づいて知識の蒐集と学習と反復に明け暮れる人たち、という描写がされている。
ここでなるほど、と思ったのはつまり、「理性とは相対的な存在である」という指摘である。つまり、ある種の人々が信じているような形での「絶対的な存在ではない」、ということである。だからこの「理性の限界」について薄々認識はしながら、その「限界に対する恐怖」や「それがもたらす虚無の可能性」について気づきながら、それから逃避するために知識の蒐集と操縦に終始しているのが現在のインテレクチュアルである、という事になる。
この「虚無との直面」について、少し先を読んでいるとニーチェの話がちょっと出てきていて、その辺を少し調べてみた。
ニーチェのいわゆる「虚無主義」というのは、あの「神は死んだ」という言葉で表現されるものであり、私はそれを「キリスト教」とか「伝統的世界観」という程度に捉えているところがあったのだけど、言われてみたら当然なのだが19世紀末というのはある意味すでに「近代の行き詰まり」が意識されていた時代なわけで、したがって死んだのは神だけではなく、「理性は死んだ」ということでもある、ということだと思った。
そして神は死んだ、理性は死んだ、じゃあどうする、という虚無と混乱の中で、その状況に雄々しく立ち向かい、それを「克服」しようという思想が「永劫回帰を意志的に引き受ける超人」である、ということになる。(この辺を考えていて、つい「魔法少女まどか☆マギカ」の暁美ほむらを連想した)つまり、彼岸的な幸福に逃げず、この大いなるものと取るに足りないものに満ち溢れた「この世界」を生き抜く、ということが「虚無の克服」である、ということになる。(漫画版「風の谷のナウシカ」も連想される)しかし現実の知識人たちはその克服の方向ではなく、知識の蒐集や学習・反復に「逃避」するばかりだ、というのが西部さんの批判だということになる。
まあしかし、全ての人間が超人として生まれてから死ぬまで生きるのは難しそうではあるし、西部さんにしろ例えば江藤淳さんにしろ最後には「生きることを断念」しているわけで、なかなかハードな設定であることは間違いない。
ただそのための生きる中での希望というか頼るべきよすがとして、20世紀のイギリスの保守主義思想家オークショットが「友との会話の楽しみ」ということを言っているのだけど、西部さんもまた「議論の重要性」ということを後の方で説いていて、この辺が永劫回帰の世界に生きる苦しみを和らげてくれるものだと解釈していたのかなとも思う。
で、ちょっと脱線して明治維新以来日本において虚無主義が横行した状況を一度さらってみてどのように推移したか考えてみるのも良いかなと思ったのだが、ちょっと書いた量が増えてきてしまったので今日はこのくらいにしておきたいと思う。
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