西部邁「知性の構造」を読み始めた:「保守」とは近代(主義)の行き止まりで頓死しようとしている「知性」を救出するための作業である

Posted at 25/08/31

8月31日(日)晴れ

今日も暑い。11時現在で29.5度、最低気温は21度だった。夜中に暑いと感じるか感じないかの境目が22度くらいだと思うのだが、昨夜は窓を開けっぱなしにしたままパジャマも着ないで寝てしまったので、少し喉がおかしい感じがする。

昨日は忙しかったので今朝は少し疲れが出てしまい、ブログを書くのも遅くなってしまったが、やろうと思っていることがいくつかあるので短めに書きたい。

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昨日、西部邁「知性の構造」(経営科学出版、2023)が届いたので読んでいるのだが、冒頭から「知識人という類型に属する人間たちが急速にその存在感を失っていく、それがとりわけこの10年間の光景である。」とあった。

「この10年」というのはまさに2025年から遡っての10年、と取れなくもないわけだけど西部さんは結構前に亡くなっているので具体的にいつのことなんだろうと思って調べてみたのだが、この本の初版が出たのが1996年(平成8年)だからこの10年というのは昭和末から平成初期のことだということになる。今のインターネット人氏には化石時代の話のように思われそうだが、その頃から「知識人」というのはそんな感じだったわけである。

具体的にいうと、「東大中沢事件」で西部さんが辞職したのは昭和63年、つまり1988年なので、要はその頃からしばらくのことを言っているわけなのだけど、当時としてはあのスキャンダルは結構大きな出来事、つまりマルクス主義系社会学者の折原浩先生とか見田宗介先生、ニューアカデミズムの騎手の1人の中沢伸一さん、狂言回しのような役割で出て来る谷嶋喬四郎先生をはじめとした当時の東大駒場の錚々たる面々の繰り広げた内紛劇を、西部さんが批評的に表現しているとも言えるし、その背景をそのように喝破しているというふうにも言えるわけである。

私が東大学部生だったのは1981-86年で、(一年多いのはご愛嬌)私は谷嶋先生の社会思想史を(必修だから)とっていたし、折原先生や見田先生の全学一般ゼミにも出ていて、(折原先生はずっとウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を学生周りもちで読んで解説させる式でやっていて、見田先生は当時は宮澤賢治をやっていた)、中沢さんの著書は「チベットのモーツァルト」とかその後のものだが「レンマ学」とか「僕の叔父さん 網野善彦」とか、少しは読んでいるので、なんていうか割と直に知っている人たちの狂想曲だったので当時は割と面食らっていた。西部さんの本はその後読むようになった。

だからなんというかあの事件は「割と身近な人たちが出てきたコメディ」みたいにしか捉えられないところがあり、「知識人の没落」とか「知識人の虐殺」と言ったような客観的で引いたパースペクティブからの見方というのは難しいところがあるのだよなと思った。

まだ最初の方しか読んでいないが、「序論 崩落しゆく知性」の第1節「知識人の虐殺」のところで、知識人にはインテリゲンチャとインテレクチュアルのふた通りあるといい、インテリゲンチャはなんらかの価値信条、具体的には左翼的な変革運動に従事する人たちのことを言っているわけだが、「アカデミズムという精神の牢獄」に自らを閉じ込めるか「ジャーナリズムによる雰囲気の支配」に進んで屈服している、と批判していて、まあそういう人たちは具体的にそれぞれ顔が浮かんでくるわけだが。

一方のインテレクチュアルというのは近代主義的知識人という意味で使われていて、「理性信仰ともいうべき楽しげな気分」に基づいて「知識の蒐集と学習と反復とに明け暮れる人間」という辛辣な戯画化が行われていて、これは西部さん、現代に生きていたら「元祖冷笑主義」と言われるだろうなと苦笑してしまった。

いずれにしても彼らの言説は大衆にとっては「非耐久的な消費財」に過ぎず、「人々の技術にとって非必需の部分である」、とこれまた手厳しい。また、一部の知識人はポストモダンと称し近代主義のくびきを外し、知識人の復権を図ったが、これは「過剰な近代化」に終わった、とする。ポストモダンの流れから出てきたポスコロ、カルスタ、ジェンダー、フェミそのほかが近代主義のどん詰まりの悪臭を放っている現在から見れば、まさにその通りだと思う。

したがって、行うべきことは「近代という時代および近代主義という観念を成り立たせている枠組の総体にたいする解釈を繰り広げる中で、欲望の意味や情報の価値をいささかでも確定していくこと」であるという。したがって、この認識の過程はプレモダニズム(前近代主義)的なものにならざるを得ない、それは知性の枠組みの出征と成長の由来を尋ねる作業だからである、という。だからそれらを意味論的価値論的に位置付けていく構えはコンサバティブなものになる、とする。

逆に言えば、こうした「保守の構え」を放棄したからこそ、知性の体系が瓦解し始めたのだ、だからそうした作業こそが知性を蘇生させる、としていて、この辺の全体的な主張は、まさにその通りだと改めて思うし、こうした近代主義的知性全体を疑うこと自体が知性というものにとって最も誠実かつ真摯な姿勢である、ということなわけで、その辺りは改めて勇気づけられるものがあった。

つまりのこの書題の「知性の構造」というのは、知性そのものの構造を明らかにすることで、近代主義の行き詰まりによって頓死しようとしている知性を再生させる可能性を探る試みだということになる。そういう作業を志すと保守だとか右翼=ネトウヨだとか散々言われる中で、改めてその作業の必要性について自覚できるものであり、大変心強い記述だと思った。

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