雁琳さんの「参政党」論:「コロナ禍と外国人問題」で結晶した「大きな支持」と崩れつつある「戦後レジーム」、その背後にある「パッション」

Posted at 25/08/29

8月29日(金)晴れ

今日はいろいろ忙しいので、なるべく手短かに書きたい。

参政党のことをいろいろ考えていて、昨日は雁琳さんが先日小山さんが出演していたYouTube番組「ニュースの争点」に出演されていたのでそれを見た。

https://www.youtube.com/watch?v=z7MMFw1Ca1M

参政党についての議論が喧しい中、雁琳さんがTwitterでの議論にあまり参加されていなかったのでどうしたのかなとは思っていたのだが、8月6日にこういう議論の収録をしていたとは。そういうこともあってあまりそういうことに言及されなかったのだろうか。

内容的には、雁琳さんらしいオリジナリティがかなりあり、収録日から20日以上経ったけれども初めて聞くような捉え方もあったので、大変勉強になった。

コロナが彼らの台頭の重要な要素だとか、彼らを動かしているのはパッションだ、というのは特になるほどと思うところがあった。

私の感じでは、彼ら参政党は急に出てきたわけではなく、「声」として取り上げられてこなかったことを参政党に取り上げてもらえたので、意思表明をするようになり、その結果急速に実体化した「ように見えた」ということなのだと思う。例えていうなら、塩化バリウム溶液に硫酸を加えたら急に沈澱が生じたみたいなもので、もともとあったものが眼に見えるようになっただけという印象が強い。

しかし今の例えで言えば「硫酸」の働きをしたもの(まあそういうふうに化合するものより触媒的に働いた、みたいな方が適切なのかもしれないが)が何かまでは考えてなかったなと思う。それがコロナであり、外国人増加であり、物価高であったのだと言われたらなるほどと思う。

物価高に関して言えば、私などの世代は高校に入った頃が第二次オイルショックで、毎年ガンガン物価が上がるのは当たり前だったから、今のインフレは困るのは確かだけど、このくらいはあることだという感覚なのだが、デフレしか知らない雁琳さんの世代では割と目覚ましい印象を受けているだろうなと思う。

外国人に関して言えば、昔から街で見かけたり観光地で見たりすることは少なくなかったが、わざわざ日本に来たりするのは教養のある人たちが多かったし、上野の山にイラン人のテレカ売りが大勢現れた時はへえっとは思ったが、逆に彼らは文化系のところにはいなかったから自分の生活圏が侵食される感じはなかった。今の外国人の多さは、自分が気分転換に出かけるところや自分の中のある種の聖域みたいなところに土足で踏み込んでくる感じがあるから鬱陶しく感じるのだろうという気はする。

コロナに関しては、「友達と集まることもできない」「仲良くなりかけの異性と付き合う前のデートもできない」みたいなことは、かなり人間の実存にとって深刻な問題だというのは言われてみて自覚した。そうなってくると人間は何のために生きるのか、自分達日本人は一体何なのかというような実存的な不安が出てきて、政治がそれに答えてないと思うようになる、というのはなるほどと思う。この辺りは自分が忙しくてまた田舎に引っ込んでいる時間が長いから友人との交流のようなこともかなり限定的になり、コロナでさらに疎遠になったところもありながら、まあ仕方ないなと思ってしまうような年齢域に自分がいるからということもあり、雁琳さんや参政党支持者の多い30代以下の世代にとっては特に深刻な問題だろうと思う。

パッションということに関し、参政党運動を昭和10年ごろの「天皇機関説問題」に端を発した「国体明徴運動」に例えていたけれども、これは言いたいことはわかるが、語弊がありすぎる気がする。「やはり参政党は危険な右翼運動なんだ」という議論の補強に使われかねないという意味である。

彼らが考える「体制の嘘」、つまり「天皇機関説というフィクションを使うことで天皇大権や日本人の天皇崇敬を蔑ろにしている」という「嘘」、つまり「自分たちが知っている教育勅語に描かれた天皇像や日本国歌像と大きく異なっている嘘」を明確にして、大事なものをはっきりさせたいというのが「国体明徴運動」だとすると、それはある意味での「大衆からの純粋化運動」ではあり、この運動に加われば「日本人にとっての天皇陛下の他に代えられない重要性が明らかになるという思いが、運動を動かしているというのは確かに似ているかもしれない。

この辺りのことは垂加神道以来の日本人の死生観、「死んだ後も(家族や子孫や郷土や国や)天皇陛下をお護りする」という意識こそがアイデンティティと強く感じられた当時の日本人にとって、天皇を機関に例えるなんて罰当たりであり(蒸気機関車と混同していた人もいたという話もある)そのために命をかける価値があるものでないと納得できない、というようなことがあるのだと思う。

今の参政党の人たちが、「天皇陛下のために、海ゆかば水漬く屍に」と考えているかというとそういう人がどれだけいるかはわからないが、「子供達のために日本を素晴らしい国として残したい」という意思はホームページからも伝わってくるから、「生きているうちに(死んだ後も)家族や子孫のために」日本を守る、という意思は伝わる。そして、雁琳さんのいう「戦後レジーム」によって否定されてきたそういう意思は、日本人の底流に、それこそ若い人たちにも、綿々と存在した、ということなのだと思う。そして「家族や郷土や国を守る」ということそれ自体が「生きていても死んだ後にも役割を与えられた」という形での「魂の救済」でもあるわけである。だからそのパッションにはある種の宗教性もある。

だから今起こっているのは、そうした「戦後レジーム」の最終的な崩壊の始まりで、その一つの現れが参政党現象、戦後レジームに抑えられていた日本人の本来持っていた種の開花なのだ、ということなのだろう。

https://sanseito.jp

外国人問題の見解は雁琳さんは積極受け入れ派で、私は「今後は受け入れをセーブしていくべき」だという意見なので必ずしも同じではないと思う。水溶液の例で言えば外国人が日本に溶け込める限界量はあるわけで、ある意味「日本人に溶け込める外国人の実数は飽和し始めてる」のではないかという気はする。

日本は明治維新からずっと革新派の社会だというのはそれはそうで、革命国家ではあった。それはイギリスが名誉革命体制で保守主義者と言われたバークもその大勢の支持者であったわけだし、進歩そのものを否定するわけでないのはバークも日本の保守も同じで、変わらざるをえない社会の中で何を保ち続けるべきなのか、というのが保守派の議論のポイントなのだと思う。この辺りのことは以前Twitterで雁琳さんが主催するスペースを聞いた時もそれなりに同意はして聞いていた。

冷戦に勝利したリベラルが急進化したのは、権威主義の大国として中国やロシアが現れたからだ、というニュアンスが雁琳さんの発言には感じられたが、私はむしろリベラルが急進化したから権威主義が魅力を持ち始めたのだという気はする。ただ両者をそんなにネガポジの関係で考えてなかったからなるほどと思うところはあった。

戦後のGHQ主導で反軍的な思想の強かった吉田政権との妥協によって作られた「リベラルなレジーム」を否定するような形で急に現れたように見える参政党を、戦後レジームの各勢力やその申し子であるマスコミが容認できないというのはまあその通りなんだろうなと思う。

したがって、戦後レジームそのものを相対化して批判できなければ、参政党の本当の姿は捉えられないし有効な批判もできないというのもまあそうなんだと思う。

神谷さんの発言には先に述べたような神道由来の日本人の死生観に通じるものを感じるところがある。これはネット検索ではなかなか出てこない「龍馬プロジェクト以前の神谷宗幣」、神谷さんのルーツとなる思想みたいなところに由来するのだと思うし、ネットで聞いた話ではあるが、大学時代からいわゆる新右翼系の団体で活躍されていたという話も聞いたことがある。それはネットで検索しても出てこないので、ある程度情報はコントロールしているのかなという気もする。

そういう、少し過激に見られる可能性がなくもない部分を、多分あえて明瞭化させてない、少なくともプレス向けにはそういうものを出してないところがあるようには思う。そういう意味で、「まだ全部を見せてはいない」というのが参政党が掴みにくい理由の一つだとは思う。

そういう意味では、もうしばらくは「見て」いかなければ見えてこない「本質」というものもあるのではないかと思う。

ただ私が思うのは、戦前の学生が天皇制の理解について、「教育勅語」や「国史の神話の授業」などを通じて国民大衆に教えられていた部分を「顕教」と呼び、マルクス主義や天皇機関説の背後にある国家有機体説や法人国家論などについて学ぶことを「密教」と読んでいた、つまり大衆レベルの、実際には江戸末期に広がった国学以来の大衆的な認識が「顕教」であり、エリートレベルの認識が「密教」であったわけだけど、今起こっているのは戦後に否定された「顕教」のレベルでの人間理解や国家社会の理解が自然に浮かび上がってきているということなのではないかと思う。

最近の雁琳さんは人口減少社会において「大日本帝国の復活」を唱え、外国人を「皇民化」していくことで日本の日本らしさを維持しよう、という議論を展開しているが、それはまあ言えば「顕教」を再布教するということでもあり、そういう意味でエリート側の政策論ではある。まあ参政党支持者の人たちも、日本に定住する外国人が皇民化が実現した人々であれば特に強くは排除はしないだろうと思うが、現実問題としてはそれこそ戦後レジームを完全に破壊しなければできないから、そう簡単ではないだろうとは思う。しかしもちろんどんなことも「言い出しっぺ」がいないと実現しないことだから、雁琳さんはその言い出しっぺを引き受けようということなのだろうと解釈している。

私としては、基本的には自民党の保守派に期待するところがまだ大きいのが現状なのだけど、参政党もパッションのレベル、つまり普通の日本人の感じている危機感のようなものからあまり離れないようにしつつ、現実的な政策ビジョンや国家ビジョンにどのように導いていくかを考えながら調整している、その過程の中でこのパッションの持つ「勢い」をそがない形で党を大きくし、現実的にしていきたいと考えているのだろうと思う。

エリート主義とポピュリズムという点でいえば、ボードメンバーが議論した内容を党員に提案し、その反応を反映しつつ決定していくという形で「ポピュリズム=草の根主義」だけではないところを最初から構造的に持っているというのは注目すべきポイントなのだろうと思う。

そして具体的な政権構想が出てくる頃にどういう形になっているかは、今後どのような事態が日本に起こるかによってかなり左右されていく、それは上に述べたようなコロナや外国人や物価高の問題と同じなんだろうと思う。

まあつまり、現状の私のスタンスとしては、「まだ支持はできないが、かなり関心は持ってみている」というのが現状だと言える。自民党右派も石破おろしも大事だが、現実主義だけを看板にするのでなく、こうした「理念的な成長」を図っていかないと、後塵を拝する恐れも多分にあるのではないかと思う。

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