「安倍政権が嫌で自民党を離れたが石破政権になって戻ってきた人たち」と「「歴史の終わり」という幻想」

Posted at 25/08/24

8月24日(日)薄曇り

今朝は寝苦しく、結局朝まで窓を開けたまま寝たのだが、今の気温が24.4度でこれが最低気温になりそうだから、ほとんど熱帯夜だ。こちらは標高780メートルくらいはあるので100メートル1度の更生をしたらはるかに30度を超える超熱帯夜である。残暑の厳しさも本格的になってきた印象。

今朝は「ふつうの軽音部」の更新がないので、落ち着いた朝というか、気になっていたものを色々片付けて、東京に帰る準備などしている。やることも多いし、4時に起きたのにもう5時半を過ぎてようやくブログに取り掛かることができた。

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昨日ネットを見ていて気になったのがこのつぶやき。

https://x.com/muishiki_fun2/status/1959102933284630962

安倍政権になって離れた自民党支持者が、最近岸田ー石破政権になって戻ってきている、という話である。私は最初、そんな人いるのかな、と思ったのだが、このツイートの後に「私もそうだ」という人がこもごもに書き込んでいて、どうやらそういう人はある程度はいるらしい、と思うようになった。

そういう人たちは、野党時代の総裁であった谷垣さんの努力で自民党が回復したのに、安倍さんがその成果をいいとこ取りし、「イデオロギー色の強い」安倍政権を8年も続けさせた、ということについて不満を持っている人たちがいて、その人たちは自民党を離れてしまったが、石破政権になって「安心して」自民党に回帰しつつある、ということらしい。

私が最初、「そんなことあるのかな」と思ったのは、もちろん昨年の衆院選、今年の都議選と参院選という自民党の三連敗、それも過半数を割る大敗があったからで、たとえ少数そういう人たちがいても政権与党であることを半ば運命づけられている自民党にとって、それが如何程のことだろうか、ということを思ったわけである。

しかし、この方々のツイートを読んでいくと、つまりは安倍時代の自民党だけでなく、社民・民主の旧左翼勢、維新・れいわ・参政・保守などの左右のポピュリズム政党のような、「イデオロギー色の強い」政党を忌避する気持ちが自民党を離れた理由であり、是々非々で少数与党の国会を乗り切った石破政権に「自民党の底力を見直した」と感じて自民党支持に復したいという人がいるらしい、ということがわかってきた、というか私はそのように捉えた。

つまり、そのような人々にとっては、自民党の存在意義は「政権与党」であることではなく、「現実的な思考のできる常識ある政党」であることが大きいのであり、そういう党であることが納得できないという人は離れればいい、と考えているらしいということのようだった。

国会議員は「選挙落ちればただの人」と言われているが、政党というものもある意味「選挙で敗れ与党でなくなればただの危ないおっさん(含むおばさん)たち」なわけで、与党は少なくとも死に物狂いで過半数を取るべき、だと思うのだけど、そういう人たちはそのようには考えないのだな、と思った。

まあ現実的にはいまだに石破政権が倒れていないように、過半数が取れなくても少なくとも短期間は綱渡りで政権を維持することは可能だということは石破政権が証明して見せたけれども、それが何年も続くかはわからないし、それが日本の政治や経済、あるいは外交にとっていいことなのかどうかもわからない。こうした不安定さへの批判、特に自民党の左旋回への抗議として特に参政党が躍進したのは事実であろう。

だから、彼らはそうした現実政党である自民党を軸に左右の政党の連立協議で政権が担当されれば良いと思っているようだし、石破氏に近いとされる野田氏の立憲民主と第一党・第二党の大連立で政権が維持されるのもまた良し、と考えているのかもしれない。あるいはそこまで考えていないのかもしれない。

つまり彼らは「自民党がどういう政党であるか」が第一義に重要なのであって、おそらくは安部派や右派が排除された現在のあり方を理想と考えていて、いわば自民党をそうしたイデオロギーに汚染されていない、また政治資金とかのスネに傷を持たない、「いい人たちだけの政党」にしたくて、それで与党が取れないなら仕方ない、と考えているのではないかと思った。

私が考える自民党というのはそういう考えとはある意味似てるかもしれない部分はあるが、「清濁合わせ飲む政党」である。政治というのは綺麗事だけでは済まないから、ある程度やんちゃな人たちもちょっと背後関係が怪しい人たちもいる。そういう人たちを政治家として教育しうまくコントロールしつつ勢力を拡大して「現実的な保守」として日本の政治と経済と民生と外交と安全保障を守っていく、というイメージである。「結果的に現実的な保守」になることができればそれで良いわけで、安倍政権が長期政権になったのも振られている旗はイデオロギー的であっても、出てくる政策が非常に現実的で、それが外交関係でもうまく機能していたから、イデオロギーにかかわらずより多くの人々が支持してきたのだと思う。

中にはその振られているイデオロギーの旗に拒否反応を示して「安倍しね」などと言っていた人たちもいたが、要は今回顕在化した人たちというのは安倍政権の「現実的な保守政治」よりも「振られているイデオロギー的な旗」に拒否反応を示していた人たちだということなのだろうと思う。

自民党支持層にそういう人たちがどれだけいるのかということはやはり思うけれども、しかし「それだけ「戦後民主主義教育」というものは自民党支持層にも浸透していたのだなあ」と改めて思うところもある。

つまり彼らは、フランシス・フクヤマが以前言っていたところの「歴史の終わり」、つまり「冷戦崩壊後の21世紀の安定した自由民主主義社会・世界はこれ以上変化することはなく、そういう意味での変化、つまり「歴史」は終わった」と考える人たちなのではないか、と思った。つまり、「左右のポピュリズムというのは歴史の進化に対する夾雑物」に過ぎず、そうしたものに頼ってきた安倍政権は支持できない、と考えていたのかな、と思ったわけである。

しかし現実にはフクヤマはその考えを撤回しているわけで、その最大の理由はトランプ政権の誕生だろうと思う。トランプ以後のアメリカ政治はバイデン政権時代も激しい左右対立になり、トランプが再び勝利するという結果になった。それは「レッドネック」「ヒルビリー」と言われた貧困白人層がトランプ支持に回ったこと、今まで投票せず政治に後ろ向きだった若年男性層が支持に回ったこと、大きくキャッチーにいえば「アメリカの弱者男性層」がトランプ支持に回ったことによってある種の地殻変動が起こったわけである。

世界の変化においてもう一つ大きいのは、トランプは「世界一の規模と躍動性を持つアメリカの市場の力」を第二次大戦後初めてあからさまに武器に使い、「関税戦争」を仕掛けてきたことである。トランプはアメリカの「生産力の衰退」を明確に危機だと感じ、その回復を主張しているわけで、これ自体は非常に真っ当なことだと思う。日本はアメリカほどの生産力の衰退はなかったし、またアメリカに金融戦争の標的にされたために新自由主義時代は失われた30年となって、氷河期世代などの大きな社会問題も生んでいるので、日本はその解決にこれからしっかり取り組まなければならないということもある。いずれにしても、歴史は終わってなどいない。

そもそも、政治において「日本をどういう国にしたいか」というのは自動的に決まるものではない。それが自動的に決まる、と思っているのは「戦後民主主義」「漸進的リベラル」という基準が今も有効だと思っているからで、それ自体が強くイデオロギー的な思考であるということを、そういう人たちは自覚していない。右派の言う保守思想や左派のいう過激な進歩思想が「変化」を伴うものに見えるので嫌っているだけだろう。しかし我々の現代世界はすでに「技術の「進歩」」によって大きく変化させられてきているわけで、当然ながらそれに対する批判もあるし、また現在の「技術の進歩」は生ぬるい、もっと推進すべきだ、という人たちもいるわけである。それらにどう向き合うのか、というのは今までの戦後民主主義思想だけでは向き合いきれない部分であり、必然的にそれなりの新しい思想が必要になってくる。

イデオロギー=思想を嫌う人たちというのは、思想というものがアプリオリにあって、それを採用するかどうかはホットドッグのトッピングのようなものであり、そんな刺激的なものはいらないから、今まで通りのケチャップとマスタードでいい、と思っているのだろうが、そのケチャップとマスタードの味付けや中身も常に変化しているということに気がついていないように見える。

まあ、人にはそれぞれ「主な関心領域」というものがあるから、そういう意味での政治思想のことなど考えたくない、という人はそれなりに多いだろうし、安倍さんの主張やれいわの主張、参政党の主張やフェミニストの主張などはまああまり付き合いたくない、という人はそれなりに多いとは思う。

ただ、これからは、というより今もそうだが、否応なく社会は変化していくし、その時には当然「主導的な考え方」というのがあって、それが本来の意味での思想でありイデオロギーなのであって、例えば日本国憲法に基づく自由と平等、平和主義と人権、民主主義というものも右からというよりは主に左から脅威に晒されているわけである。共産党が選挙妨害を正当化したり、表現の自由に攻撃的であったりするように、左派の側から民主主義攻撃が始まっていることはもっと深刻に受け止めておいたほうがいい。日本は国民国家であり、日本国民が決めたことを日本国民のために行うのは当たり前、つまり憲法自身が「日本人ファースト」なのであるから、彼ら自身が憲法を否定したい意欲はかなりあるように思う。

岸田氏は外交において有能なので現実的な安倍外交路線を踏襲して、国内政策においては緩やかな左旋回を行なったが、石破氏はもっと決定的に左派寄りに、というよりの冷戦構造的な割とアナクロにスティックな反米になろうとしているように見える。

こうした外交をめぐる考え方は、戦後の「単独講和か全面講和か」の問題から続いていて、吉田茂は全面講和を主張する学者を「曲学阿世の徒」と罵ったわけだが、その後も「自由主義ブロックで米英を中心とした世界」にいるべきか、「中ソを含む共産主義圏とも全方位外交をやっていく」べきか、という路線対立は常にあった。そういう意味では石破政権は日ソ共同宣言の鳩山一郎、中国との講和条約を目指した石橋湛山、日中共同宣言の田中角栄といった党人派の系統の「全方位外交」に親和的な思想の持ち主であり、そこにロシアや中国との関係が深いと思われる人々をブレーンにつけるなどの危険な火遊びに出ている理由があるのだろう。

アフリカ諸国との会議において石破氏は満面の笑みを浮かべていて、おそらくは「これが俺のやりたかったことだ!」と思っているのだろうけど、ヨーロッパや中露に比べてアフリカとの関係づくりに遅れをとっていた日本は安倍政権の時代から準備を進めていて、ようやく一つの形になったのが今回の会議であり、石破さんにはまさに棚からぼたもちであったとは思う。

プアホワイトや弱者男性の問題は、私などは困っている人がいたら白人だろうと男性だろうと必要な援助を行うのは当然だと思うのだけど、これはアメリカにおいても日本においても、イデオロギーの問題になってしまっているのが、フェミニズムや多文化主義の1番の問題点だと思うし、そういうところをあらためていくことが必要だと思うのだけど、なかなか反撃できるそれこそイデオロギー、思想が形成されていないのが残念なところだと思う。

いずれにしても、「自民党は現実政党として左右のイデオロギーにとらわれず常識的な動きをしていけばいい」という考え方は、すでに砂上の楼閣だと思うし、変化のための「戦後民主主義でない」イデオロギーはいずれにしても必要になっているのだと思うし、現状左翼の方がマスコミやアカデミアを押さえている分強いので、このままでは自然な左傾化は進んでいく一方であって、国民の多数はそこで自民党が何もしなければ参政党に流れていく、その大きな流れは止められなくなることは間違い無いと思う。

「歴史はまだ終わっていない」のである。

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