「弱者男性論」をめぐる迷走するリベラル思想の現在/「不滅のあなたへ」完結:「火の鳥」や「宝石の国」と並ぶ数千年を超える物語/「謎の10世紀」と「末摘花」という源氏物語のヒロイン

Posted at 25/08/23

8月23日(土)晴れ

今日は朝から蝉が元気よく鳴いている。夏の初め頃はあまり蝉の声を聞かず暑いだけだったのだが、今になって蝉の声が聞こえるともう残暑ではあるが夏なんだなあと感じる。ただ、日のではだんだん遅くなってきていて、気がつかないうちに秋は近づいているとは思うのだけど、春=暑い、夏=すごく暑い、秋=暑い、くらいの季節感になっていくのかなという感じはある。残暑お見舞い申し上げます。

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昨日は午前中に母を病院に連れて行き、午後はツタヤにでかけて「スキップとローファー」12巻を買い、今まで買っていなかった「織田ちゃんと明智くん」の4巻を買った。やはりめちゃくちゃ面白いので3巻までもいずれ買おうと思う。それから、買い忘れていた(お盆直前の12日発売というので忘れてしまった)「不滅のあなたへ」25巻も買った。私は「不滅」目当てでマガジンを買っていたので今は買っていないのだが、「カッコウの許嫁」は面白いので時々マガポケで単話で買っている。

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不滅も長い長い架空の歴史を生きた「火の鳥」の変奏曲のような話だったが、フシが再び1人になり、第1話の世界に戻って人生?2回目を生きる、という話になっていた。この話では死んだ人の姿になれるとか、それをさらに敷衍して死んだ人を蘇らせる能力というのが一つのポイントになっていたけれども、忘れてしまったらその人の姿になれなくなり、その記憶をめぐる争いを「ノッカー」と永遠に続ける、というのが面白かった。結局フシとはなんだったのか、というのはまだよくわからないが、人類未来史を描くという意味では同じような変奏曲である「宝石の国」のラストもまだよくわかっていないので、暇ができたときにまた考えてみたいと思う。

スキローはやはりみつみの顔が「ふつうの軽音部」の鳩野に似てるなと思ってしまうのだが、みつみの方が先なんだよな、と思い直す。やはり週刊連載と月刊連載の密度の違いではとっちの方に引っ張られてしまうが。

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昨日は時間があるときに小山(狂)さんの「弱者男性論」をめぐる動画を二つ見て、とても面白かった。小山さんは元々ゴリゴリの左翼だったと自称しているし、今でも左翼リベラル的な議論(いわゆる左翼リベラルを彼は厳しく批判しているが)をする人なので、私とは考え方は違うけれども、左翼リベラルとして一貫した態度はある人だなと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=CGJPgiC6rA0

https://www.youtube.com/watch?v=Y3qy84IBwIw

この動画の中で「新しい知見」というほでではないにしても「なるほど」と思ったことは結構あって、その中で一番大きいのは「現代のリベラルの教養の中でフェミニズムやジェンダー論の占める重要性は大学入試における英語と同じくらいの比重を占めている」という話だった。私は「いや、京大受験における数学くらいにもっと致命的では」と思ったのだが、まあマイナーすぎて訴求力は小山さんの方があるだろうなと思った。

リベラルな思想の中で、フェミニズムやジェンダー論が正当性を主張できるのはなぜかといえば、それが「男女平等」を主張する思想だったからだ、と私は思っている。今は政治的な力が強くなりすぎてその本質が見失われがちになっているけれども、リベラルの主張する自由や平等をめぐる主張の中で、日常における男女間の待遇の違いなどに対する女性側の不満に正当性があると認められているからこそ、こうした主張がリベラルの中で位置を占めるようになってきたのだろうと思う。

それについて小山さんが主張している「弱者男性論」というのは、男性であるが故にその弱者性が認められない人たちについて取り上げているわけで、私が思う具体例としては離婚したときに子供を奪われて弁護士に阻まれて面会もできなくなっている父親がたくさんいるという例とかが思い浮かぶのだけど、動画で言われていたのは男性が女性から受けるDVが警察に相談しても受理されないという例、合意の上で性行為に及んでも後から女性に不同意だったと訴えられて強制性交罪に問われている例、ジャニーズにおける性被害が告発されたのに被害者側が女性たちから強い非難を受けて自殺者まで出している例、などがあげられていた。

これらは実際のところ「男性が差別されている」例であって、フェミニズムというのが「差別」とりわけ「男女差別」をなくす思想であり運動であるなら、当然フェミ二ストがその救済に乗り出すべき問題だと私は最初は思っていたのだが、フェミニズム側が実にこの問題に冷淡であることに非常に驚いて、「フェミニズム」や「ジェンダー論」の存在に意味があるのか、と考えるようになり、今では「むしろ有害なのではないか」と考えるようになっている。

これは動画で小山さんも言っていたがフェミニズムの提灯を持つリベラル学者たちがそうした男性の受けている性差別についてむしろ男性側に問題があるとか女性側は悪くないと強弁しているのが醜く見える、ということもあるし、司法において女性と男性の同じような事例の量刑に明らかに差がつけられていることとか、特に若い世代がフェミニズムに背を向けるようになった「女子枠」の問題など、明らかに「フェミニズム」やそれを妥当と考えて対処する現在権力を持っている世代に大きな問題があると考えるようになったからである。

これはいろいろな理由が考えられるが、しばらく前に一世を風靡した「消費者主権」というような考え方にも大きな問題があったからだと思う。消費者により多くの権利を認めることで、生産者の側がより不利で窮屈な状況に追い込まれているという問題である。

例えば「表現の自由」というのは「表現の生産者側に与えられた重要な権利」である。これに対し「見たくない権利」というのは表現の消費者側の主張であって、本来そのようなものはない。しかし消費者により多くの権利を認めようという傾向が、一定の妥当性をこの主張に与えてしまっているわけである。

また、少し前に問題になった医科大学において男子受験生の点数が有利になるように女子受験生の点数が改竄されていたという件についても、その裏にあった問題は「大学側=医療界全体」にとって「文句も言わせずこき使える男性医師」をより多く確保するという急務があり、「配慮の必要な女性医師はあまり増やしたくない」という事情であって、いわば「資本の論理」でそれが行われていたという本質が有耶無耶にされてしまい、男子の優遇が廃止されて女性医師が増えたらその分男性医師への夜勤などにおける皺寄せはより大きくなるという実態はきちんとは改善されてないのではないかと思う。働き方改革などでそれは達成できたのか、公立病院で医師が一斉退職したり地域医療が困難になりつつあるという問題がその入試改革で解決につながったのか、ということは考えなければならないだろうと思う。フェミニズムが有害であると考える理由の一つはそうした社会全体に対するシステム設計のようなものを無視して女性の権利のみに固執する例が多いということにはある。

小山さんは左翼リベラルの立場から「完全な男女平等」を主張されているわけで、「特に若い男性の間で女性を忌避したり女性や家族を守るための家族愛や愛国心のようなものも説得力を失ってきている」と言われている。おそらくこれは実態としてそういう面もあるのではないかという気はする。

https://x.com/Taroupho/status/1958899537931903173

しかし、こうした「弱者男性に対するケア」というものがなかなかなされない、その必要性が認められない理由の一つには「男性側のある種のマッチョイズム」という問題もやはりあり、「ケアを受けることを潔しとしない」という考え方が男性側に強い、という問題があるというという主張もある。これは保守的な立場の人により強い傾向、また社会的強者の男性の側により強い傾向はあると思われるし、またこれだけフェミニズムの嵐が吹き荒れてもいわばマイルドヤンキー層ではまだまだ「男は女と子供を守るもの」という考えが根強い、ということはあるだろうと思う。そういう面でこの問題は一筋縄にいくものではないと思うし、個人的には「男であれ女であれたまたま強い立場を得たものは弱い立場のものを守るべき」という考えはあるので(でなければ保守など自称できないだろう)、そうしたいわば平等論とは違う立場の考え方がリベラリズムと相反する部分はある。

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「反近代主義」の福田恒存の序文を読んでいてなるほどと思ったのは、日本の近代主義者たちがろくに自己と対峙しないまま自由や平等を吹聴し、日本の前近代の問題を殊更に取り上げて罵倒しながら、自らの不見識を暴露してしまうということの醜さを書いていたりしたことがある。

これは上に書いたフェミニズムの問題にもまるっきり当てはまることで、先に述べたように「フェミニズムという思想や運動の正当性」はリベラリズムの根幹の一つである「平等主義」という思想に依拠して「男女平等」という理想を実現するための運動であるところにある、というかそこにしかない。しかし、現実のフェミニストの発言をTwitterなどで読んでいると、今主張されている問題で言えば「公園など公共空間の裸婦像は撤去すべき」という主張の根拠として、「障害者が裸婦像の前で腰をヘコヘコしていた」というようなことを書いているわけである。これは普通にいって障害者差別の思想からくる捏造だと思うが、「フェミニズムの正当性」は「差別に反対する」ところにしか「ない」のに、自ら差別者になっているわけである。「女性差別に反対する主張」に酔っているうちに「男性差別が存在する」という事実に向き合わず、「障害者差別の発言をする」というようなことは、福田恒存が指摘した「日本の近代主義者の醜さ」と同じだろう。

福田は、日本は近代を批判する前にまずきちんと近代化しなくてはいけないが、それがわかっているのはうわついた近代主義者ではなく、むしろ小林秀雄らの発言としては近代主義を批判する立場の人たちの方だ、ということを言っていて、この辺りは自称フェミニストの人々とフェミニズムについても深く勉強している小山さんとの対比に似ているようには思った。

保守主義というのは必ずしも反近代主義ではなく漸進主義で、だからこそある種の革命思想である超国家主義とは相容れない面が多いのだけれども、リベラルから見れば全部一緒くたにされて粗雑に議論されていることが多い。ただ参政党現象のように、西部邁や渡部昇一らが唱えてきたような形での保守主義さえ超越して日本人の心象風景の原風景に直接訴えるようなものが出てきたのは保守思想がしっかりした後継者を出せていないということだけではなく、リベラルの側も人々の声を聞く姿勢に欠けてきたことと無縁ではないだろうと思う。れいわ新撰組にはある意味既存の保守やリベラルに不満を持つ人が集まってきた側面はあるが、今回はその中からかなりの部分が参政党に流れたという話もある。大事なのは左右の軸ではもはやない、ということも一面の真実ではあるわけで、その辺りもしっかり見ていく必要はあるだろうと思う。

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「空白の10世紀」をめぐる議論が面白いのだが、源氏物語にそれが現れているという指摘が興味深かった。

https://x.com/aizawa_mio_pd/status/1958699682676580654

源氏物語で一番「センスが悪い」女性として出てくるのが末摘花であるわけだが、「先代の流行の唐風のものを自身が身に付けたり、女房(使用人)に着させたりして、光源氏に「さすがに古すぎてセンスが悪い」とこき下ろされて」いて、逆に言えば「奈良時代には全部あった髪飾り首飾り耳飾り腕輪指輪等アクセサリー」を愛でる当時としてはアナクロな趣味の持ち主だった、ということになる。

つまり、末摘花という女性は「変わりつつあった王朝文化の中で奈良時代的な古いものに執着する人」として描かれているということになるわけである。

これを読んで思ったのは、11世紀に隆盛を極める王朝文化の中にはその前の時代に取材したものもたくさんある、だから10世紀の文化を再構築するためにもその記述は参考になることがあるのではないか、と思ったのだった。

古今和歌集が成立したのは10世紀の初頭なのでそこまでが9世紀の美意識が描かれていて、確かに10世紀の文化的事業というのは「梨壺の5人」による「後撰和歌集」くらいしかすぐに思いつくものがない。しかし「枕草子」に描かれている中宮定子とかとのやりとりはあきらかに10世紀末にあったことなわけで、文学から10世紀を再構築するという考えは面白いのではないかと思ったのだった。

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