「カッコいい(上流)」ことと「ちゃんとする(中産階級)」こと:その垣根を破る日本文化に「文化資本ギャップ」はあるか/マンガ家マンガ「かくかまた」と能楽師マンガ「シテの花」/諏訪湖スマートIC開通と観光業

Posted at 25/08/19

8月19日(火)晴れ

いつの間にか8月も19日。先週はお盆期間だったから毎日が溶けていった感じだが、日常に戻さないとと思う。ただ、お盆期間前の日常もいろいろ問題はあったわけで、その辺を立て直さないといけないな、というのはある。今日の最低気温は20.4度で少し涼しめ、やりたいこともあるがやるべきこともあり、涼しいうちにというのはある。昨日の夜は早めに休んだのだけど最近眠りが浅いこともあって、ぐっすりというわけにはいかなかったけど時間だけは6時間くらい寝られたので、左肩の感じもいつもよりは楽な感じがする。結局頭が休まっているかどうかなんだろうなと思ったり。

地元紙(長野日報)の記事。諏訪湖スマートインターチェンジが開通しての人の流れの変化だが、諏訪市の施設は概ねプラスに捉えていて、また15日の湖上花火大会の後も混雑が緩和したとのことで概ね好評。関係はあまりないと思うが富士見町のパノラマスキー場でマウンテンバイクコースが利用者が多かったなど観光は概ね好調だったようだ。

しかし岡谷市の施設はもう一つだったようなのと、茅野市の白樺湖周辺では連日雨が降ったらしく、万博の影響が出たという評価だったようだ。同じ諏訪管内でも明暗はあるのだなと思ったり。また一面コラムの「八面観」では厚木の夏祭りの取材の話から、来年から日程を変えて秋にするとのこと。これは夏の暑さが限界を超えたからとのことで、諏訪の祭りも大体は7月終わりから8月初めなので、日程を考えてもいいのではないかという提案。諏訪大社下社の8月1日のお船祭り(御神体が春宮から秋宮に渡御)のように日程の変更のできないものもある。諏訪は関東と違って夏の日暮れの後はかなりしのぎやすいので、夜の祭りはそんなに神経質にならなくてもいい気はするが、祭りに気候の変化という問題は大きいだろうなとは思った。(しかし長期予報を見るとこれから9月1日まで全て最高気温が30度以上になっていて、これはやめてほしいとは思った)

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昨日はようやくちゃんと疲れが出てきた感じで、本当にあまり何もしていないのだが、午後職場に行って会計関係のことを少しやったくらいで、午後は昨日発売の「かくかまた」1巻と「シテの花」3巻を読んでいた。マガジンは「不滅のあなたへ」が終わって購読するのをやめ、水曜日に買うのはサンデーだけになっているのだが、「葬送のフリーレン」は連載が不定期だし、「龍と苺」しかちゃんとは読んでなかったのだけどこの2作品を読むようになって4作品は読むようになり、他の作品もぼちぼち読んだりはしているので、だいぶ充実してきた感じがある。

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「かくかまた」はマンガ家マンガなのだけど、新しいのは「マンガの専門学校」が取り上げられていることだろうか。専門学校でどういう教育が行われているのかなどは全然知らなかったので、勉強になるなあと思っている。

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マンガ家マンガでは他にはジャンププラスの「モノクロのふたり」が面白いのだけど、主人公が背景描きというのも面白い。アシスタントの仕事のようだけど、迫力ある背景というのはアニメでもそうだけど貴重なものだから、ジブリアニメの背景美術の男鹿和雄さんの画集は多分持っているので、主役のような背景というのは面白いなと思った。そういえば五十嵐大介さんもキャラクターを描くより背景を書いている方が楽しい、ということを言っていたし、背景に注目していくという方向性はあるよなと思った。

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「シテの花」は能楽師を志している元ダンサーの少年が主人公なのだが、少年誌で能楽が取り上げられるのは初めてらしく、いろいろ勉強になるなあと思って読んでいる。モーニングで「ワールドイズダンシング」という少年時代の世阿弥を主人公にしたマンガがあってあれはあれで面白かったのだけど、現代の伝統が確立した時代のお能の世界をいうのは興味深いとは思っていたので、読んでいて引き込まれるものがある。

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Twitterで文化資本の話が展開していくうちに、「ちゃんとする」という価値観は中産階級のもので、「カッコいい/ダサい」というのが上流階級の価値観だ、というのが出てきたのだが、まあこれはわからなくはないなと思った。つまりは「ちゃんとする=型通り」に一生懸命な中産階級やそれを目指すそれより下の階級の倫理は「ダサい≒一般ピーポー」である、ということだろう。そしてその緊張感につけ込むのが「マナー講師」である、という話である。

まあつまり、「ちゃんとする」ということはできて当たり前であって、その上の「破格の美」が達成されなければ「カッコよくない」、ということだろう。まあこういうことができるのはある意味若さの特権であって階級的なものという部分はあまり意識していなかったが、言われてみたらそうかもしれないとは思う。

例えば中産階級でも家に花は飾るかもしれないが、広大な庭を持ってその中で汚い格好をして薔薇の品種改良とかに夢中になってるのが上流階級、みたいな感じである。

しかし日本という国では江戸時代から朝顔を掛け合わせて新しい品種を作るのが庶民の間で大流行、みたいな国であって、そういうことにあまり階級差がないのが特徴だということはあると思う。コミケでもアラブの習慣や食事について異様に詳しい小冊子を売っていたら政府関係の人が来て何冊も買って行ったとか、素人も趣味という無性の努力で専門家も唸らせてしまう、みたいなことはよく聞く話である。アマチュア天文学者が彗星や小惑星を見つけた、という話も以前はよく聞いたが最近はどうなのだろうか。

カッコよくなるためには何か突出した部分が必要で、「ちゃんとする」ことができるだけではダメなわけだが、実際の上流階級にも突出したものを持てない人はいくらでもいるわけで、(逆にピアノも弾けるしラグビーでも大学で主将、みたいな人もいたりする)「普通」の範疇の中にそういう人がいくらでもいるのが日本らしさだろうとは思う。

だから都会の有名大学で感じる「文化資本ギャップ」みたいなことも本質的にはどうかと思うところがあって、確かに私も大学に入ったときのオリエンテーションで集まった時に、初対面の新入生同士がバッハやモーツァルトの演奏について議論していたのを聞いた時には大変なところに来てしまったなと思ったが、いろいろ話してみると自分が普通に知ってることを知らなかったりすることは多いし、また多くのものを持っているからと言って変な威張り方をしないので付き合いやすい、ということがあったりして、そんなに立たないうちに話は普通に合うようになっていく、という部分はあった。まあこれは性格的な問題もあるのだろうとは思うけれども。

ただなんだろう、私が学生時代の80年代というのは人間の評価基準が多様だったというか、好きなことをやっている人たちが評価されたりとか、収入や社会的地位だけで人を測らない(測るのはダサい)という空気があったのだけど、まあこちらが歳をとってきたせいもあるけれども収入や社会的地位しか評価基準がなくなってきている感じもして、そういう方向にあまり努力しなかったことをちょっとしまったなとは思っているところはある。まあ学生時代にそういう自覚をしていたらいい会社に就職して収入を上げる、という選択肢を取ったかといえばどうかなとは思うのだけど、きっと今の人たちは我々の頃よりずっとそういうことが大変なんだろうなと思う。その分、「いいところに就職した若者」は「我が世の春」なんだろうなと思うが。

まあこう書いてみるとやはり自分は文化的多様性をどんどん追求していくしかもうないんじゃないかという気もするのだけど、その基地としての日本及び日本文化というものに対する理解をもっと深めていかなければならないということもあるよなと改めて思ったりしている。


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