梅ジャムを作った/永井豪派グラマーと松本零士派スレンダー/理想と伝統・信じるに値するものは/批評家の作家性と実作家の断言性

Posted at 25/07/27

7月27日(日)曇り

最近、朝は曇っていることが多くて、その分放射冷却がなくて気温が下がらず、起きた時は24度という表示があってほぼ熱帯夜だなと思ったのだが、今いつも使っている気象アプリをみたらちゃんと更新されてなくて調子が悪く、正確な気温がわからない。

昨日はお中元の手配、業者から届けてもらうものを手配して、あとは直接届ける分だけにした。昔に比べればかなり縮小してはいるが、すでにいただいているものもあり。当地のお盆は8月15日だから割とのんびり構えていたのだが、8月の第1週がめちゃくちゃ忙しいことを忘れていて、来週にできるだけ片付けた方がいいことに気づいたので動かねばという感じになった。

夜は帰宅してから、午前中に煮るだけ煮てあった梅の実を皮を剥がし種を取って果肉だけを集め、砂糖を投入して煮て梅ジャムを作った。量はかなりあったと思うが皮と種を外すと果肉がそちらに持っていかれる部分が多く、多分もっと量を確保できたはずだとは思うのだが、だいぶ少なくなってしまった。その結果砂糖も多分入れすぎで、かき混ぜながら煮たのだがだいぶ色が黒くなってしまったので、次回は気をつけたい。あまりジャムを食べる文化はないのだが自分で作ったものだと気持ちが違うので今朝は食べてみたいと思う。

帰宅前にスーパーに寄って夕食の買い物をしたのだが、「やけばいいだけの調理済みの肉」を買ってきてフライパンで焼き、このくらいでいいかなと思って食べたらもう少し焼いた方がいいかと思って焼き直したら黒焦げになった。まだ半分残っていたので今度は気をつけて「少し焦げた」くらいに焼いたのだが、まあ私の料理の腕前はこの程度である。あとは豆腐とわかめで味噌汁を作り刻みネギを入れ、ご飯が足りなそうだったから買ってきたお稲荷さんで食べたがどうも食べすぎた。しかも今日は東京に行くので残りが出るといけないのだが、味噌汁がかなり残っている。食べきれなかったら冷蔵庫に入れて明日帰ってきてから食べられたら食べようと思う。

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noteの感想を二つ。

https://note.com/yoh160/n/n585c2d51ae6a

この考察はかなり面白かった。ネタかと思ったら深い(かもしれない)。70年代以降の女性描写において「永井豪派のグラマー」と「松本零士派のスレンダー」の両者があり、当時の男の子たちの二大「女性の好み」派閥を作った、という指摘はテーゼとして面白いと思った。(妥当かどうかはよくわからない)

その好みと右派性・左派性を結びつけて論じているのが面白いと思ったのだが、松本零士さんは実は右派的なポジションからの反権力なのだ、という指摘は初めて読んだのでかなりへえっと思った。宮崎駿さんが胸の大きい女性を(少女でも)描くのは知られているが、あれは彼の左派性、その先には原初的な女性信仰というか地母神性みたいなものが垣間見えると思うのだけど、メーテルや森雪がスレンダーなことと右派性の関わりはどうかという気はする。

ただ、そういう信仰を主張されてみると、最近のヤマト作品で森雪がグラマーに描写されていてこれは受け入れられない、というのはかなり説得力があるなと思った。まあ私はそういうことよりも猫娘がアニメ美少女になったことの方がイヤなのだが、まあそれも時代の潮流というものかとは思わなくはない。

しかしそれにしても松本零士さんについてはかなり誤解してるところがあったなと思った。もう少し真面目に見ていこうと思う。

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二つ目は年間読書人さんの福田恒存批判のnote。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n7057707d8ce6

最初に断っておくと年間読書人さんは無神論者で左派リベラルとのことであり、私は右派保守なので立場がかなり違うことは書いておきたい。ただそういう立場だからこそ北村さえさんの強力な批判者であることもできる、ということなのだとも思うし、その立場から筋の通った文章を時々読ませていただいている。

まず、福田恒存は断言口調で教祖的、ということなのだが、あの時代の人たちは右も左も大抵そうだった気がする。断言されてもそれに反発するところから出発しないといけないということには左右のポジションに関係ないと思う。私の周りは左が多かったからそれを否定するのは結構大変だった。だから断言口調を批判すること自体には賛成なのだが、まあそういう人たちはいなくならないので、そういう人たちとどう闘っていくかはテーマにはなるだろうと思う。

特に今回の文章で印象に残ったのは、右翼保守派の論理の立て方自体に対する批判で、そういう批判の仕方はありだよなと思ったのは、左翼が「まだ実現していない理想としての自由」をいうのに対し、保守派が「そんな理想が実現したら大変だ」という批判を行うということである。保守派のリベラル批判というのは基本的に彼らの言説批判である。もちろん、実際のアカデミアの運営や司法においてなどすでに左派リベラルが権力を握っている場で行われていることに対する批判ももちろんある。

「理想としての自由」についての批判については、「そんな実現しない自由を批判されても」となる、というのはわかる。ただそれは左翼の言説が無責任だという気はする。そういう理想は上にも書いたように結構実現しつつあるからだ。

でもこの辺りにおそらく「左翼による石破支持デモ」みたいな珍妙なものに対する見解の根本的なすれ違いがあるのだろうなと思った。「自民党を支持してもいないのに石破続投を求める」というのは民主主義の原理に反すると思うのだが、「左翼リベラル政権が実現しそうもないから高市政権や参政党政権より「よりマシな」石破政権の存続を求める、ということだろう。これはリベラル野党が「自民党は国民の信任を失った」と主張することと矛盾するし、衆参両院で自民単独どころか自公両党でも過半数を切っている現在は野党政権の可能性もあるのにそれを求めないというのは滑稽な敗北主義だと思うのだけど、報道ステーションなどでも割とその立場をとっていた感じなので左派の最大公約数なのだろうという気はする。

あとは「古いものを信じよ」という基本的な保守派の信念に対して「愚者の幸福」としていることだが、保守派から見れば左翼の「実現することのない美しい理想」を信じることの方が「変な宗教」だということになるので、これはお互いの理想に対するうんこのぶつけ合いにすぎないのではないか。ただここまで本質的な議論をする人はあまりいないので、問題提起としては面白かった。

宗教に入信する人も、セクトに入る人も、「この考え方、この教えはちょっといい感じがする、信じきれないところもあるけど、まず信じてみよう」というところから始まるのではないだろうか。だから大事なのはこの「ちょっといい感じ」というものがどこまで信じていいものなのか、というある種の「カン」の問題だと思う。

そして一度信じてみても、ある意味で信仰を深めることはどんな思想においても必要なのだけど、それ自体を批判する視点もどこかに持っておいた方が無難ではある。これは思想の右左や反社会性の濃い薄い(思想というものはどんなものでも常に反社会性がつきまとう)理念の精粗にかかわらず、常にそうだと思う。

また神秘主義的なものに対する強い否定が感じられるわけだけど、その気持ちはわかるないわけではないのだけど、ただ、神秘主義でないと到達できない点もあるのは確かだと私は思う。

神秘主義の問題点というのは、これは宗教の修行というものはなんでもそうなのだけど、失敗すると「魔」に取り込まれるということで、いわゆる「野狐禅」になってしまうということだと思う。

私としては福田恒存の進歩主義に対する批判は日本フェミニズムや平和真理教みたいな「進歩主義の野狐禅」に対する批判として読むべきものだと思う。

結局は「宗教が到達できる深さ」みたいなものを肯定できるか拒絶するかのスタンスの違いなんだろうなということを最終的に思ったのだけど、最後に「無神論者の私」という表現が出てきて、その立場の人が保守を論じたらそうなるだろうなあとは思った。

神にしろ何にしろ、人間には知り得ていない、科学ではまだ説明されていない、その原理すら理解されていないものはたくさんあるわけで、それを科学の方法でなんとか到達できないかというのは一つの方向性なのだが、そうではなくて、先人たちの残した営為の中に科学以外の方法で人間の理解力でも理解できるものもあるのではないか、そしてその積み重ねを信頼していこう、というのが大きな意味での保守主義であり、本来の人文学の姿勢だと思う。ただ、著者さんの批判はそれはそれとしてなるほどと思ったりなるほどそう見えるかと思ったりはするから勉強にはなる。

福田の文章についてのことに戻ると、実際のところ、福田恒存の文章というのは読みにくいなと思う。小林秀雄は高校生の頃には難しかったけど今は普通に読める。福田の文章は著者の指摘のように引っ掛かるところが多くて、解釈をペンディングしながら読み続けるのが面倒になる感じのところがある。まあこれは彼の文章を読み慣れていないから、というところもあるだろう。小林の文章は一時集中的に読んだので、ああここでこういうことを取り上げるのかとかこういうことを言いたいのだろうなとかペンディングにしないで読み進められるから気楽に読めるところがある。

ただ思ったのは、小林が批評家の文章であり、福田が演劇などを通じてより実作者に近い位置にいる人だから、という気もする。結局、創作にしても演劇の翻訳や上演にしても言葉では言い尽くせないところがたくさん出てくる。

批評というものは、文章の中で論理なり世界観なりが一貫してればいいから正直読みやすい。また逆に凡百の批評がつまらないのは世界に広がりがないからだ。実作というものは世界を描くものだから、結局は世界をどう切り取るかという問題になるので、全てを書かなくて良い。描かない先を見せるのが実作というものだ。だから誰が書いてもある程度の世界の広がりというものがあるわけで、商品にもしやすい。ただ彼らに批評的な文章を書かせると異様な偏りがあったり稚拙だったりすることも少なくない。

そういう意味では、実際に演劇に携わった福田が断言口調になるのはある意味当然というか演出というものは「こうかもしれないしああかもしれない、君はどう思うか」ではできない。「この作品はこういう解釈でいくからこう演じてくれ」となるだろう。彼はある意味「私は世界というものをこう解釈している」という世界観を語っているので、当然その内容はある意味「教組の文学」(坂口安吾による小林秀雄論)ではある。

だから結局は読む人がどう読むか、の問題だろうとは思う。教祖というものが世の中に必要かどうか、というのは根本的な問題だが、必要かどうかに関わらず今後ともそういう存在は存在するだろうし、そういう人たちとどう付き合っていくかという問題はある。また人々の参集の結集点となるような人間というのは多かれ少なかれそうした教祖的カリスマは持つだろうとは思う。石破支持デモのような結集点のはっきりしないだらだらした動きだけで社会は変わらない。(と断言的に書いてみた)


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