ロシアにとってのウクライナ、中国にとっての台湾、アメリカにとってのカリフォルニア

Posted at 25/06/10

6月10日(火)雨

今日は時の記念日。あっという間に時間が経っていく。今日は雨。そんなにめちゃくちゃ暑い、という日が来る前にかなり梅雨っぽくなってきた。

昨日はブログを書いた後、「救済」をテーマにした文章を書いていて、久しぶりにブログ以外の志のある文章を書いているのでついずっと書いてしまう感じになり、生活のペースがうまく掴めない感じになった。ブログを書き終わった後一旦出かけて銀行に行き、ファミマで水道代を払ってクリーニング屋に行き、蔦屋に行って少し本を見て帰ってお昼を食べて、その後夕方出かけるまで考えたり書いたりしていた。

夕方岡谷に出かけたのも基本的には気分転換で、少し本だけ見て帰ってきて、その後また少し書いて今日は終了ということにし、本を少し読んだが気がついたら寝ていた。

***

https://www.ukrinform.jp/rubric-society/3989375-moshiroshiagaukurainawo-zhi-peidekinakerebaroshiahamosukuwa-guoni-chengri-xiagarusuueden-yan-jiu-zhe.html

ロシアとウクライナの関係について、これは以前書いたのかもしれないけど、なぜプーチンまたはロシア政府はウクライナを自分の影響下、というよりも支配下に置いておきたいのか、ということについて、かなり本質的な話だと思ったので書いておきたいと思う。

現代ではロシアと言われる地域は古くはルーシと言われていたけれども、そのルーシの中心は今のキエフ(キーウ)にあったキエフ公国で、その王朝だったリューリク朝の子孫が全土に領地を持って自立していき、ポーランドやリトアニア、あるいはハザールやモンゴルの侵攻もある中でキエフの力が弱まり、モンゴルに従属していた辺境のモスクワ公国が自立して勢力を拡大し、ツァーリを称するようになったわけである。実際にはその後も「モスクワ大公位」も保ち続けた。

17世紀にウクライナを支配していたのはリトアニア・ポーランド王国だったが、そこから独立を図ったのがコサックのフメリニツキーで、独立を勝ち取った後モスクワの傘下に入ったが、北方戦争の際にはコサックのマゼッパがピョートル1世に対し自治を要求したものの叶えられなかったのでスウェーデン側に転じて戦ったもののポルダヴァの戦いで大敗し、モスクワ国家に併合されることになったわけである。

正式に国号をロシア帝国とし自らを皇帝と称するようになるのは1721年のこのピョートル1世の時で、これはスウェーデンとの大北方戦争に勝利してキエフを取り戻し、完全に支配下においてからのことなわけである。ロシア皇帝とは全ルーシの支配者という意味であり、ルーシの起源であるキエフおよびウクライナを失って仕舞えば、もはやロシアではなくモスクワ国家に逆戻りであるから、ロシアは自らがロシアであり帝国であることを守るためにはキエフとウクライナが必要だ、というわけである。

プーチンは基本的に大国主義であり、アメリカの核の傘の下にある日本などは半ば主権国家として認めていないような姿勢すらあるから、自らが大国であるための条件と考えるウクライナを失うわけにはいかない、ということになるのだろうと思う。ベラルーシはルカシェンコがうまくプーチンと付き合っているので心配はあまりしていないようだが、ロシア側としては衛星国家であると考えているだろうと思う。

こうした感覚は清朝の後継国家を自認する中国でも同様で、チベットやウイグルは当然自らの版図と考えているし、台湾やモンゴル、外興安嶺山脈以南の極東ロシア、及び琉球も本来的には中国の領土であるという本質的な帝国国家思想は保ち続けているように思われる。逆に言えば台湾を取り戻したらそれで終わり、ではないだろうということである。

カリフォルニアの移民取締政策に対する抵抗運動、あるいは暴動の中でメキシコ国旗を掲げたケースがあったようだが、歴史的に見ればカリフォルニアはもともとメキシコ領であり、テキサスをめぐる米墨戦争にアメリカが勝利したために得た領土であるから、そこには政治的な意味合いがないわけではない、あるいはなくても発生してしまうだろうと思う。

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