「江藤淳と加藤典洋」:「限りなく透明に近いブルー」と「カンブリア宮殿」の村上龍/「うちの小さな女中さん」:昭和初期の洋食と家事・布団の思い出/「ふつうの軽音部」71話/アメリカのイラン空爆/寝苦しい夜

Posted at 25/06/22

6月22日(日)晴れ

昨日は午前中に図書館で本を返した。呉智英「吉本隆明という共同幻想」、読みきれなかったが金曜日に延長するのを忘れて期限が切れてしまったのでとりあえず返すことにした。他にも読む本があるのでとりあえずそれを優先しようと。そのあと足を伸ばして少し離れたスーパーに出かけ、お昼の買い物。お米のコーナーにパールライス5キロがあったので購入。何年度産か書いてないが、精米はこの間。3000円台前半で最近にしてはかなり安かったので、備蓄米だろうか。パールライスは農協の売っているお米なので。結局前日に買った2キロのお米と合わせて7キロになってしまったが、用心のために一袋余計に買う、みたいになってしまうから流通が回らなくなるということもあるのだろうなと思った。一度信用を失うと取り戻すのに時間がかかるということでもある。

午後は休み休み仕事をして、夕方一本電話を入れてそのことは解決したのでよかった。外に出たらまだかなり明るく、「うちの小さな女中さん」5巻・6巻(コアミックス)を買いにツタヤに行った。新刊の6巻はすぐに見つかったが5巻がコアミックスの棚に見つからず、店員さんに言って持ってきてもらったので少し時間がかかった。帰ってきてからご飯を食べながらブラタモリを見て、六本木通りと青山通りがどう違うかなどなるほどなあと思うところがあって面白かった。

9時ごろ眠くなったので布団に入るが、今年一番寝苦しい感じだった。夏掛けも暑くて布団をはいだりしていたのだが、結局2時過ぎに起きてしまった。お茶を飲んで寝ようかと思ったが、「ふつうの軽音部」の更新が気になったので読んだ。結構どう解釈すべきかわからないところがあって、感想欄などはあまり読まず、もう一度寝床に入ったが、今度は夏掛けだと少し寒い感じがして普通の布団をかぶって少しうつらうつらしていたら明るくなってきていた。

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朝起きてから「うちの小さな女中さん」を5・6巻通して読んだのだが、5巻が出ているのに気づかなかったので、昨日Twitterを見ていて6巻が出たのを知り、検索したら二冊ともツタヤにあるのが分かったから昨日買いに行ったのだが、相変わらずいい感じだった。

最近の話では、一つには「お子さん洋食」や「カスタードプリン」「紅茶」「缶入りクッキー」など昭和初期に年ではそろそろ根付き出したけど一般ではなかなか食べられないような欧米由来のものを14歳の「女中さん」が食べて感動するネタが多い。特にそうかなるほどと思ったのは5巻30話の「夢の缶」で、女流翻訳者の「先生」が亡くなったご主人の実家に帰ってお盆を過ごしたお土産に義姉にもらった「缶入りクッキー」と「紅茶」で二人でお茶をするのだが、本当に美味しそうな顔をして「夢ごこちでございますね」というのだけど、今ではなかなかそこまで感動するのは難しいが、初めて食べる人にはそういうものだったのだろうなというのがよく伝わってきてよかったと思った。

もう一つの柱は当時の「家事」の様子で、晩御飯の献立を考えたりご飯を作ったり、裁縫をしたり洗濯をしたりの様子がしっかり描かれていて、確かに洗濯というものは昔はタライと洗濯板でしたもので、私もやったことがあるけど本当に重労働だったのだよなということを思い出した。そしてそれを干そうと低い物干しに吊るしたあと刺股みたいな器具で高いところにあげようとした時に猫に邪魔されて地面に落として洗い直しになるとか、まあ当時もあるあるだったんだろうなと思ったり。

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特に印象に残ったのは、綿布団の打ち直しをする32話。今ではすっかり羽布団とマットレスが当たり前になっているけれども、私が大学に出る時に母が自分で布団を仕立ててくれたことを思い出した。そんなに家事が得意ではないのにそのくらいのことはやってやろうと思ってくれたんだなとちょっとしみじみする。

布団の大きさの木綿の綿を何枚も重ねていくのだけど、敷布団は20枚、掛け布団は17枚とあって、それは昔の布団は重いはずだなと思った。こんなこともこの作品を読まなければ思い出さなかったことだなと思う。昔の習俗というのは知らないうちに忘れていってしまうけれども、舞台は昭和9年だから91年前、父の生まれた年の東京の山の手というのはこんな感じだったのかなと思ったり。

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アメリカがイランの空爆を始めた。これは本格的にやばい感じになってきた。これでトランプもノーベル平和賞をもらおうとしているのだからどうなってるのかと思うが、昨日にはパキスタンからインドとの調停で仲立ちをしてくれたということで平和賞への推薦が行われたらしい。それが歯止めになるかと思ったらそのまま突き進んでいるので、まあちょっと何を考えているのかわからないのだが、イランもそう簡単に降伏はしないだろう。

イランはある意味中東のさまざまな謀略やテロリスト集団の発進基地みたいなところがあったからシリアの内戦がそれなりに収まった今では最大の不安定要因と言ってもいいのだけど、逆に言えばイランを悪者にすることで湾岸諸国やトルコなどもアメリカと遠くない距離を取れてきたということもあるので、ここがもし状況が変わったらかなり大変なことになるのではないかという気がする。

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「ふつうの軽音部」71話「勝敗を分かつ」読了。いろいろ考えているのだけど、ちょっと寝不足気味なのと繰り返して考えてしまっているせいで、なかなかスパッと感想が出てこない。また改めて書こうと思う。ただ、「勝敗を分つ」要因になったのが、結局「ライブでの盛り上がり」になっていたのがへえっと思った。確かに鳩野たちは自分たちのやりたいことをやってはいるのだが、「ライブを盛り上げる」ことに全力を傾けた鷹見たちに比べるとその点においてはまだ不足がある、というのはその通りだなと思う。これからの「はーとぶれいく」がそちらの方向にも傾いていくのかどうか、メンバーたちの感想がどうなのかはまたこれから明らかになっていくところが多いだろうから、そこら辺は気になるところである。また鷹見が頭の中で「聞きたいこと」を反芻し、それを一体どう質問するのか、というところで今回は終わりになったが、来週は休載ということなので、なかなか気になるところでまた2週間待ちという感じになった。

ハロウィンライブが始まったのが2月16日更新の57話だったからもう4ヶ月やっているわけだけど、途中に休載や番外編が4回入っている。これは、ライブシーンを描くのが結構大変だということらしく、以前からライブが入ると休載になることが多かったのだけど、これはそういう意味では仕方がないので大人しく待ちたいと思うが、毎回読み終えると続きが気になる展開が続いているので、読者の側としてはなかなか辛いものがある。

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與那覇潤「江藤淳と加藤典洋」(文藝春秋)再び読み始めた。昨日までに柴田翔「されど我らが日々」庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」村上龍「限りなく透明に近いブルー」の3本、全体の構成としては「戦後史の峰に登る」と題された部分を読んだ。全体としては129/317ページ読んだことになるからまだ半分弱だが。

前にこの本について書いた時は「左翼リベラルから見た戦後史」になってないか、というところが気になったのだが、まだこうした運動がそんなに大衆から遊離していない時代においてはそれはそれでみる意味はあるのかもしれないとも思い直す部分もあった。

「されど我らが日々」では最終的な女性の自立、みたいなことも描かれ、「赤頭巾ちゃん」では彼の作品を批評した江藤淳とのやりとり、確執とか当てつけみたいなものが結構作品にも描かれているというのは全然知らないことだったのでへえっと思うところがあった。この2作はきちんと読んでいないがなんとなく内容は知っているというものだったのだが、改めて読み直してみたいというほどではないにしても、戦後文学史として取り上げる意味があるんだなということはそれなりに了解した。

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「限りなく透明に近いブルー」は1976年の作品で、私は中2だったが、多分その年のうちに読んでいる。乱交やらドラッグやらが描かれていることは分かったが、どうにも不思議な作品で、この本によると単行本と文庫を合わせて360万部も売れたらしいが、そんなに売れたというのも驚きだった。

私がこの本が何が書かれているのかぴんとこなかった理由の一つはもちろん麻薬、ドラッグのカルチャーとか米軍の基地での米兵たちとの乱交みたいな設定自体が当時中学生の自分にはあまりよくわからず、とはいえその後は当時マリファナ特集ばかりやってた「宝島」なども結構読んだし少し大人の人の家に入り浸ってさまざまなロックムージックなども聴いていたりはしたので雰囲気は全然わからない訳ではなかったのかもしれないが、やはり「米軍基地」という日本の中にある治外法権地域や沖縄という場所の持つ当時の意味みたいな社会的な部分が理解できないところがあったのかもしれないと思う。

しかしこの本を読んで、全体が本当は本当には起こらなかった、幻覚の中で頭の中に想起した出来事であり登場人物たちではなかったか、という與那覇さんの見解を読んで、これはかなり腑に落ちるところがあった。全てが完全な幻覚であるなら、なんというか納得できる。ただそれがこれだけ売れたというのはあまりよくわからないが。

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私はその後「コインロッカーベイビーズ」(1980)年を読んだ時には、これは面白いと思った。今Wikipediaであらすじを読んだが、ほとんど覚えていなかったのだけど、これはまあなんというか今の作品で言えば「天国大魔境」に雰囲気が似てるなと思ったのだけど、コインロッカーに捨てられたことから始まる人生というのはこういうものなのかもしれないな、という感じはした。

その後村上龍作品は読んでないので彼のイメージはこの2作品で完結していて、そういう意味ではドラッグカルチャー的な反社会的な作風の作家、みたいなイメージで固まっていたからその後の資本主義ムーブというかカンブリア宮殿とかに出てくる彼は一体どういう意識であの作品を書き、この番組を作ったのかと思うのだけど、そういうものが1980年から2006年の間に日本に起こったことの何かを体現しているのだろうなとも思う。

「戦後史」というのがいったいどこまでなのか、始まりははっきりしているが終わりははっきりしていない。今現在は「戦後」なのか、というのはよくわからないが、昭和の終わりと冷戦の終わりはほぼ重なっているのでその辺で区切りをつけるという手もなくはないが、まだ亡霊のように終わらない戦後というものがあることも確かで、この辺の面倒臭さが今の日本の桎梏の原因なのかもと思う部分もある。80年というのは現代史において、一つの時代と捉えるには長すぎる。明治維新から敗戦までが78年なのであるから。

ただ維新の精神の形骸化がおそらくは戦争と敗戦の原因になったということを考えると、戦後精神の没落と変容が現在の不如意の原因であることは考えられる。戦後政治の総決算を唱えた政治家が暗殺されたということがやはり大きな事件なのだが、考えるべきことはまだたくさんあるのだろう。

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