「2.5次元の誘惑」と「ふつうの軽音部」:夢を実現するための地に足のついた進み方/「吉本隆明という共同幻想」:小林秀雄をどう読むか/宮廷と騎士団/近世君主制国家と戦国大名の類似性
Posted at 25/06/07
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6月7日(土)晴れ
昨日は午前中母を少し離れた街の病院に連れて行き、結構待ったけど診察・治療はスムーズで大体予定通りの時間に帰った。帰りに途中で少し買い物をして差し入れにする。帰ってきて昼食をとって部屋の片付けなど少しして溜まった雑誌を作業場に運んだりし、少し時間が余ったので市立図書館へ行ってマンガ評論関係の本がないかと思って探していたら、呉智英「吉本隆明という共同幻想」(筑摩書房、2012)という本を見つけたので借りてみた。
呉智英さんは私が大学生の頃からほとんどの本を読んでいた評論家なのだが、いつのタイミングだったかは忘れたが新刊を追わなくなった時期があり(2000年くらいだろうか)、そのあとは時々見かけたら立ち読みしたりしていたのだが、自分の感覚が変わったのか文章に入りにくい感じになってきていた。マンガ評論家としても高名で私も何冊かマンガ評論は持っているので、マンガ評論で検索をかけると呉智英さんの他の著書も出てくる、という感じなのだろうと思う。
呉智英さんのスタイルは右にしろ左にしろ権威主義の偉ぶった知識人をこてんこてんに批判する、というものだから若い頃は非常に痛快に感じた。ただそれだけでなく、多分私が最初に読んだのが「読書家の新技術」という本だったのだけど1980年代という(その時の)現時点においてどういうものを読めばいいかという指針を示してくれていたのでかなり参考にさせてもらった。紹介されている本を結構読んだし、また進路を西洋史に定めたときも今考えると結構影響があったなと思う。
脱神話化・脱文化英雄化みたいな感じで読んでいたけれども、逆に言えば自分自身が身につけてきた古典教養や学問の理解を武器にニセモノを斬る、みたいなところがあったから、私が割と読んでいたし影響も受けた渡部昇一などもぶった斬られていて、結果的に「知的教養の生活」を読むのがすごく後になってしまった、みたいなところもあって、まあある種の劇物的なところもあるというか、そういう人でもある。
呉智英さんが吉本隆明を取り上げていたのはいくつか読んでいたが、吉本がなぜすごいか、左翼の知識人たちと渡り合っても論争に連勝するかということを、「吉本がマルクス主義の教義を信じていないからだ」と喝破したのは読んでいたので、呉智英さんにとって吉本はある種の先達なのかなと思っていたのだが、まあ吉本自体が読みにくい人だから、吉本隆明を正面から取り上げたら批判が多いだろうなとは思ったけど、読み始めたらなかなかのものだった。
私自身は吉本に思い入れがあるわけではないので批判を読んでいてもふむふむそんなものかと思うのだけど、それに関連して35ページから42ページまでが小林秀雄に対する鹿島茂さんによる批判が取り上げられていて、そこの小林評について考えていた。
一番最初に飛び込んできたのは吉本隆明を批判する文脈で小林秀雄も批判していて、小林の「アシルと亀の子」という文章のアシルを還暦近くまでアヒルだと思い込んでいたという文に出くわして呉智英さんなんかでもそんな勘違いをするのだなとおかしかった。
私も最初は「アヒルじゃないよな…?」と思っていたのだが全集で読んだのかそれとも白洲正子か誰かの文章で知ったのか、アシルとはアキレウスのことだというのを知ってああそう難しいことを言いたいわけじゃないんだなと思った覚えがあった。つまり、「亀の子に追いつけないアキレウス」という有名なパラドックスの話である。
小林秀雄というの人の文章は難解というイメージがあるし、実際自分が大学受験の頃に読んでいた問題文の小林秀雄の文章は全然わからなかったのだが、あるとき小林秀雄という人はそんなに難しいことを言いたい人なんじゃないんだとどこかの時点で理解したので、常によりシンプルに読もうとしていて、ふうん、こういう内容をこういう風に書くのか、というような感心の仕方をいつもするようになっているのだけど、そう思ったきっかけはおそらく「様々な意匠」を読んだときだったのではないかなと思った。
なんだかわかりにくい書き方をする人だなというところはまあ今でもあるのだが、こういうことをこういう風に言わなければならない必然性みたいなのが小林にはあった、という風に私は思う方なので、小林の文章の難渋さをそんなに批判的には見ないのだけど、世の中にはそういう人は結構いるんだなと思った。
鹿島茂さんが小林の文章を「ドーダの文章」と指摘しているというのは初めて知ったが、まあつまり「ドーダ参ったか!」と常に言ってるということらしい。私はそういう「めんどくさいオヤジ」が割と好きなのでそんなに嫌な気はしないんだけど、イヤな人はイヤかもしれないなとは思う。
小林の場合はそれはある種の「気合」であって、「ぬるぽ」と言われたら「ガッ」と答えればいいだけのことというか(それは気合じゃない)「おおいい気合ですなあ」「何を猪口才なこの生意気な小僧め!」みたいにやれ合えばいいだけなんじゃないかという気がしている。
ただ、そう思っておけばいいというふうに思うのは、おそらくは私にとって呉智英さんたちの世代とは違って小林秀雄は「乗り越えるべき権威」とはすでに感じられていないからだと思う。私はむしろ柄谷行人さんとかを権威として乗り越えなければならないと思う方だから、柄谷さんが批判している小林はむしろ擁護したい気持ちがあるわけだ。冷戦後の左翼ポリコレリベラル批評が権威の色合いを持っている現在としては、小林はむしろ味方だなと思う。花田清輝はあまり読んでないからわからない。吉本隆明についてはこの本でもう少し理解できるといいなとは思っている。
***
夜は「近代イタリアの歴史」を読みながら色々調べたり。近代イタリアのファシズムの由来について知るのが目的で読み出したこの本だが、中世イタリアのコムーネ=都市共和国の時代についての記述が面白くて引っかかっている。昨日も書いたが神聖ローマ帝国のトスカナ辺境伯領だったトスカナ地方でフィレンツェなどの都市国家が有力になっていって領域を広げていき、近世にはトスカナ大公国という近世国家になっていった過程みたいなものを今までちゃんと読んでいなかったのでかなり興味深く読んでしまっている。
トスカナ大公国が成立した時点で、旧フィレンツェ共和国の領域にはまだ20の封建領地が残っていた、というのはへええ、そんなものかと思ったのだが、だからそこには主に神聖ローマ帝国の皇帝によって封土を与えられた封建貴族たちが住んでいたわけだ。彼らは地方貴族としてフィレンツェ共和国の上位支配権を承認しつつその領地を維持していたが、トスカナ大公国が成立すると大公の宮廷に取り込まれて宮廷貴族化していった、という話が面白いなと思った。
この辺り、源頼朝以下の鎌倉幕府によって領地を与えられた御家人たちが室町時代にもその領地を維持して国人領主として残っていたという話に類似しているように思われるし、それが最終的に戦国大名に従っていくことによって領地から切り離されて近世大名の家臣ないし家臣官僚化していく過程に似ているように思った。
また、近世国家においてエリートを君主に結びつける仕組みの一つが「宮廷」であり、もう一つが「王室騎士団」であるというのは、宮廷はともかく騎士団についてはあまり注目して来なかったのでへええと思った。私が大学院で西洋史を勉強していた頃には「民衆史」や「社会運動史」の研究が下火になって「エリート史」が盛んに研究されるようになってきていたけれども、おそらくはその頃から宮廷とか騎士団についての研究はかなり進展しているのだろうなと思う。そういうポイントを絞れていればまだ研究を続けていられたのかなと思わないでもないのだが、宮廷とか騎士団というキーワードにピンと来てなかった時点であまり可能性はなかったということなんだろうなと思う。まあそればかり研究していて自分が満足できたかというとそれも違う感じがするし、とも思う。
騎士団についてはイギリス王室の「ガーター騎士団」というのが有名だが、これは各王室にそういうものがある、つまりそのメンバーになることが貴族にとっての最上の栄誉である、みたいなインナーサークルとしてある、という理解が今までなかった。これはつまり例えばイギリス王室においては「ガーター勲章が受容される」ということと同義であり、それがイコール騎士団メンバーになるということなのだが、同様にオーストリア・ハプスブルク家とスペイン王家は金羊毛騎士団、フランスブルボン家では聖霊騎士団、聖ミカエル騎士団、イタリア王国では聖アヌンツィアータ騎士団があり、ロシアでは聖アンドレイ騎士団、ドイツではホーエンツォレルン家騎士団があった。
そういうふうにエリートのインナーサークルとしての騎士団というものの重要性が理解できると、フリーメーソンのような半ば民衆的というかブルジョア的な秘密結社というものの意味もまた理解できてくるなと思う。ライオンズクラブとかロータリークラブのようなその地域のエリート組織みたいなものもあるし、ハーバードなどの大学のエリートサークルというのも似たような性質があるということだろう。
私はフランス革命史でボルドーの革命について調べていたので商業会議所やアカデミーが貴族やブルジョアのサークルとして重要だったしまた地域のジャコバンクラブに集まった貴族や商人たちがジロンド派(ボルドーはジロンド県の県都)の主流になったみたいな形で歴史を動かしているのは知ってはいたのだが、エリート組織一般とその頂点としての宮廷と王室騎士団という発想がなかったので色々と理解が進んだ感じはあるなと思った。
まあそういうわけで「叙勲」とは本来ヨーロッパにおいては「王朝騎士団のメンバーになること」を意味するのだが(ガーター勲章叙勲はガーター騎士団の一員になること)近代日本に導入されたときには切り離されて単なる栄典になってしまったために日本人にはOrderが勲章とも訳され騎士団とも訳されることが理解しにくくなっているのだよなと思った。旭日大綬章を叙勲されても旭日騎士団に入るわけではない。
また、近世大名や将軍家に仕える武士の仕事として、番方(軍事)・役方(文官)・近侍役(主君に近侍して仕える)があったということは知っていたが、これをヨーロッパの貴族たちに当てはめると軍事貴族・法服貴族・宮廷貴族ということになると考えていいのではないかと思った。当然近代国家においては軍事は徴兵制や士官学校制度によって職業軍人や常備の陸海軍になっていくし、文官においても帝国大学や文官試験(公務員試験・源流は中国の科挙だろう)や国によっては猟官制による官僚制が形成されていくわけだ。
君主の役割が縮小しているから宮廷貴族というものは存在感を減らしているし日本においては宮内庁なども縁故採用というわけではないだろうから民主化は進んでいるわけだが、インナーサークルのエリートとしての貴族的存在というものはやはりいろいろなところに残っているよなと思うし、今槍玉に挙げられているのが学術会議などのアカデミックエリートではあるなと思う。本当に改革すべきはマスメディアなどの情報の旧エリートや司法エリートあたりの三位一体である気もするけれども。現代エリートがリベラル左翼になりがちなのはまだよくわからないところも多いけれども、エリート研究としては割と重要なポイントではないかという気はする。
というようなことを思った。私は基本的にあまりそういうサークルというか集団を作って群れをなす、みたいなことが得意ではないのでそういうことの重要性があまり見えていなかったのだけど、社会史的に見るとかなり重要なことだなと再認識しているところである。
***
https://shonenjumpplus.com/episode/17106567266289404192
今朝は「2.5次元の誘惑(リリサ)」第188話「凱旋」を読んだ。リリサは2年生の夏コミに向けて渾身のROMを作っていたのが結局はコミケで売ることはなく、自分たちの内輪で配って満足、みたいになっていたのに私はかなり落胆して「上を目指すんじゃなかったのかよ・・・」みたいになっていたのだが、「コスプレやさん(衣裳の制作側)になる」という夢は持っていて、それを実現させる第一段階としてエリの要望を受けてまゆら様の衣裳を作り、夏コミのヤマはそういうところだったのでなんとなく「裏方さんでいくのね〜ハイハイ」みたいな低いテンションでずっと読み続けていた。
文化祭でその夢を親に納得させるために渾身のコスプレを実行する一方、リリサの両親の秘密が明らかにされ、母は元伝説のコスプレイヤーであり、父は「カメラおじさん」としてコスプレ界で有名なカメラマン・コスプレ批評家であったことが判明する。まあいわばコスプレエリートの家庭に育ったということが判明するわけだが、そこで同時にエリカが「案件」を持ってくる。つまり「リリエル外伝」の公式コスプレイヤーにならないか、と持ちかけられるわけである。そして、リリサはそれに乗る。
これはつまり、プロを目指すということなわけで、ROMレイヤーというインディーズorアングラな過程をすっ飛ばしていきなり商業に行くわけだから、ちょっと自分としてはどう受け止めていいのかわからなかった。というのは、リリサの夢は「こすぷれやさん」になることであり、レイヤーとしてプロになるということではない、という認識に変わっていたからである。それがこの話を受けるということはレイヤーとしてプロになるということだから、今までの話はなんだったのか、と思ってしまった。
そして前回ではその話においての最大のライバル・小帝ルルナの優れたパフォーマンスを見せられて、リリサが初めて「自分のリリエルが一番ではないかも」とビビるわけである。
今回は奥村が「本物のリリエルのように動ける衣裳はリリサの専売特許だと思っていました」というのを読んで、なるほど「リリサのリリエル」はリリエル愛=本物のリリエルは自由に動いているのだから動ける衣裳を作る、というもともと相当無理があるマンガキャラの三次元化に自分で挑んでいるからこそできるパフォーマンスだったんだ、ということに思い当たった。そしてルルナがそれをできたのは、エリカがルルナに頼まれてプロに作ってもらったからだ、と答える。逆に言えばリリサはすでに「プロにしかできない仕事をやれる力がある」のだ、ということがここで明らかにされるわけである。
そして「漫研メンバーによる最後のコミケ」に向けて着替えてる間の会話の中で、ののあが「私全力で手伝うから、絶対プロになってね。リリサちゃんがコスプレすることで救われる人がいっぱいいる。これまでも、これからもきっと。リリサちゃんがコスプレできなくなったらこの世界の損失だよ。世界が人が何を言ってもどんな向かい風が吹いても、「天乃リリサ」は一生コスプレしてなきゃダメなんだ」という、そのセリフによって、「そう」なんだな、ということが読者にも納得されるわけである。単に「コスプレやさん」になるだけでなく、自らもコスプレイヤーとして活躍し続けるだろうな、と。そこでようやくそれこそ自分の魂も救われるような感じがした。
まあここでようやく「にごリリ」の今までの展開についても自分の中で決着がつきそうだな、という感じはするのだけど、これはなんというか今までの少年マンガの「夢を実現するためにただひたすら前に向かって突き進む」というパターンとは一線を画し、「高校生の今は高校生の時しかできないことをやる」というところに徹するとともに「しっかり力を蓄えて条件(親の承認とか)を整えてから自然に声がかかるのを待つ」みたいな地に足がついた夢の実現へという新たなパターンの誕生なのかなと思った。
これはつまり、今鬱展開が続いている「ふつうの軽音部」での、鷹見兄と鳩野との比較と同じだなと思った。
今まで「ふつうの軽音部」が、鳩野が失敗したりなかなか上達しなかったりしても読者が気持ちの余裕を持って読めて、「鳩野はいつかすごいやつになる」と思って読めていたのは、鳩野がネガティブ思考で逆に言えばふわふわしたメジャー志向みたいなのがなくて地に足がついているから(校内でロックの申し子と言われるみたいな変な妄想はあっても)だ、というのがあったけれども、鷹見兄はとにかくプロになるんだという切迫した思いとそれについていかない体調、親の「無理解」や「周りが一緒に戦ってくれない」という不満などの中で追い詰められていき、ついには「プロになる程才能がない」と弟に言われてしまうという八方塞がりの中で足掻いている描写がこれでもかと続いていたから鬱展開になっているわけである。
今までのこういう「才能が必要とされる仕事」系のマンガではその「分不相応な願い」をいかに努力で乗り越えていくかみたいなことをやっている間に才能が伸びていく、みたいな感じになっていたわけだが、この話は逆に言えばそういうものをある意味否定しているわけである。
そして鳩野のように逆に言えば「夢を見ないで」頑張っているうちに実力がついてきて、まあどういう展開にこれからなるのかはわからないにしてもまだ「夢や目標が見つかっていない」状態でいるわけだから、プロを目指すという展開もギリなくはない、みたいな感じになっているわけである。
そういう意味では、まだ「ふつうの軽音部」の方は断言はできないが、とにかく「夢に向かって突き進む」よりもしっかり実力を伸ばしていく方がそちらの方に向かっていける可能性がある、という主張が読める点で、「2.5次元の誘惑(リリサ)」と重なるものがあるんだなと思ったわけである。というか、こういう考え方こそが今の「夢を実現するマンガ」系の主流になるかもしれないという感じがしたわけである。
まあそれを面白いと思うかどうかは人によるだろうけれども、自分たちが若い頃にはあまりなかったこの考え方は、社会人経験が長い人が書いているからこそのことなんじゃないかということを思った。まあ私などは従来の少年マンガ脳だなと思うところはあるので、そういう考え方とどう折り合っていこう、みたいなところはあるのだけど、だいぶ納得ができてきた感じもあるなあと思ったわけである。
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