革命という大きな物語の崩壊後の左派の主張と社会維持の矛盾/福祉国家の維持のための国民統合を嫌う左派/少子化は個別最適と全体最適の矛盾から起こる人口問題の一つの局面/軍が不信の念を持たれた理由とそれを乗り越えつつある自衛隊

Posted at 25/05/24

5月24日(土)曇り

頭の中の整理がある程度進んだせいか書きたいこともいろいろ出てくるようになって来たのだが、まとまったものでもないので毎日いろいろなことを書いている感じになっているが、しばらくはそういう出し切る系の書き方でこのnote/ブログも書いてきたが、今朝は書きたいことがありすぎて流石に出し切るのは無理かなという感じになっている。思ったことをいくつか書いておきたい。

左派と言えば基本的には社会主義・共産主義なのだけど、それ以外の流れとしては自由主義的アナーキズムとでもいうべきものもあり、権力というものそのものを嫌う人たちは前者よりは後者の色合いが強い場合が多い。ただ、左派というだけですぐ共産党だとかなんとかいうのは流石に解像度が低すぎるが、共産党は最終的には革命を起こして権力を握りたいわけだけどアナーキストはそういう共産党の体質が嫌いだから反対して来ているわけで、権力やら資本やらに対して対立するときだけは共闘するけどその他の時は内ゲバを繰り返して来たという流れがある。

ただ、革命が現実的でない状況になってきた70年代後半以降は弱者・マイノリティ支援と環境主義にシフトして来ているわけだけど、この方向性には大きな絵、つまり最終的に実現すべき社会ないし世界がどういうものであるべきか、ということについて絵が描けていないというのが弱点がある、ということは抑えておくべきだろう。

それはどういうことかというと、共産主義というのは元々は資本主義社会の「矛盾」、つまり生産力と生産関係の矛盾から資本家と労働者の抗争が激しくなり、最終的に社会主義革命によって資本家の支配体制を崩壊させて労働者が権力を握る共産主義体制を作る、という「理想像」があったわけだけど、今はそれが現実味のあるものとして捉えている人はまあいないわけで、現代の資本主義社会の状況に合わせていろいろ運動をやっているから運動とその狙いが矛盾するようなこともいろいろと起こって来ているわけである。

社会主義・共産主義は基本的に強大な権力集中が必要であり、そのためには国民統合≒国家主義≒ナショナリズムが不可欠であるわけだが、日本のような先進国では反政府的な気分>アナーキズムが左派の基本的な空気になりやすい。戦前のナショナリズムの強大化が「反省」されている日本などではなおさらであり、冷戦の終結後はさらにそれは強まっただろう。

そういう状況では個人的な自由、例えば「麻薬を吸う自由」を求めるアナーキスト的な個人が左派の組織の中に入り込みやすい。本来はそういう個人を排除するために党ないし運動の中央部から強力な統制力・指導力が行使されるわけで、またそれができる個人や集団が権力を握りやすい。フェミニズムの中でも現実的な女性の不便を主張するTERFはどちらかというとアナキスト的な自由主義であり、LGBTという少数者の権利はフェミニストであっても侵害できないという原理原則的なTRAの方が権力的・中央集権的な強さを発揮しているのもそういう状況だろう。

「福祉国家」というものは「国民統合」が成り立っていないと成り立たない、「同じ仲間だから」という意識があるからこそ再配分が成り立つのだ、という議論が新聞やネットなどに現れるようになり、これには全面的に賛成なのだが、これは「福祉国家」というものの起源がスウェーデンのような軍国主義国家にあるということからも明らかなわけで、国家主導的な軍国主義であるからこそ国家に尽くした人は大切にしなければならない、というのが福祉の原点なわけである。この辺り、国家に動員されるからこそ国民は国家によって大切にされるべきだという論理が成り立っているわけで、例えばフコク(富国)生命が徴兵保険から発展したことなどにも「兵役(を含む国民の義務)と福祉のバーター」の例としてあげられるわけである。

だから「現役層の負担」が明らかに大きい現在、負担をしない高齢者に手厚くすることで現役層がこうした政策にそっぽを向くようになったら福祉システムそのものの危機なわけで、そのためには給付よりも減税の方が負担軽減になるのは当然だろう。福祉国家を維持できるか、維持できないならどのように軟着陸させるのか、というのはかなり大きなグランドビジョンが必要で、今の政府にそれが可能なのかは難しいが、負担や不満が一箇所に集中しないようにするのは当然必要なことだと思う。

こうした「福祉国家の維持困難性」が出て来た一番大きな問題は少子高齢化ということになる。高齢化というのは医療技術と医療制度、それに食糧事情の劇的な向上が大きいから、逆に言えば政策の成功が別の問題を生んだ典型的な例ではある。

少子化の問題も、女性の合計特殊出生率が下がっていることがその現れだけれども、それが起こっているのは近代的な制度が整備される以前は「子供が保険」の時代だったわけで、幼児死亡率も高く、子供をたくさん生んで誰かが成功し、その子が自分の老後を面倒を見てくれる、という見通しがあったからこそ人口も増加したわけで、それは近代産業国家の無尽蔵な工場労働者の需要と帝国主義の兵隊需要こそがそれを支えていた、いわば日本の近代国家としての発展と相互関係にあったわけである。

だから産業の発展が第一次産業から第二次産業へと移り変わる時代には莫大な労働力を必要としたが、第3次産業が主流になってくると高給を取れる層は一部に限られてきて、利益を求めた製造業が工場を海外に移し産業が空洞化したために労働力が余り、買い叩かれるようになると「子供を産むメリット」が急速に萎んだ、ということはあるだろう。一部の高給を取れるエリートになるためには莫大な教育投資が必要になったので多くの子供にそれができるすでに裕福な層(あるいは教育に投資しない層)を除いては子供は1人か2人が標準になり、また独身でも肩身が狭い時代で亡くなったこともあり非婚化が進んで子供の出生数はさらに下がったということだろう。

そのことに思想的正当性を与え部分的には促進したのがフェミニズムの出産の自由(pro-choice)の思想だと思う。フェミニズムというのは根本的には個人主義的な自由主義だと思うが、いわば社会を維持するために女性という層全体に暗黙的に課せられていた「出産の義務」に対する反発として現れた面もあるのではないかと思う。当然ながら女性が子供を極めて少ししか生まなくなれば福祉国家はおろか社会そのものが維持できなくなるわけだが、一方では従来女性(と子供)が男性よりも、というか男性に保護されて来たのは社会の再生産ということを前提とした倫理であったわけで、それは「出産の義務」と無言の取引関係にあったわけである。

逆に言えば「個人の自由」というものはある意味幻想なのであって、男性が「労働の義務」や「保護(あるいは兵役)の義務」を「個人の自由だから」と放棄すれば種族としての人間も、人間の生きる場としての社会も成り立たなくなるのと次元としては同じ話である。

ただ、出産が個人の自由であるのもまた事実であって、スパルタのような軍国主義国家で少数のスパルタ人が自らを鍛えて多数の隷属民や奴隷を支配していた社会では人口減少に悩まされていたのは、女性が出産に適した環境が与えられていなかったことがあるのではないかと思う。

実際、人口問題というのは最も個別(部分)最適と全体最適が矛盾しやすい問題であって、食糧問題から人口爆発が問題になったり社会の維持の側面から少子化が問題になったりはしても、子供というものは全体のために生むものでは基本的には(特に現代では)ないから、生む方がプラスになるなら全体が産み始めて人口爆発が起こり、生むのがマイナスになるなら全体が産むのをやめて人口減に悩むことになる。民族の入れ替わりなどもそうしたことから起こったことが多いのではないかと思うが、長期的なビジョンが重要な問題ではあり、日本など政権寿命の短い国にとっては難しい課題なのかもしれないとも思う。

ただ、つまりは出産することが個人の人生にとってもプラス側面が明らかに大きいという状況が生まれるならば流れは自然に変わるということでもあり、不可能に見えてもそういう可能性も考えていく必要はあるかと思う。

思ったことを書いているうちに何を言いたいのかわかりにくくなったが、まとめると「1 左派は共産主義という大きな物語が崩れた後の後退戦でマイノリティ問題などに特化してきたが、その主張を突き詰めると社会の維持が困難になるという問題点がある」という点、「2 福祉国家の維持のためには国民統合が必要だが左派はそれを嫌がる」という点、「3 少子化という個別最適と全体最適が矛盾する問題は流れを変える何かが必要だ」という点とまとめたらいいだろうか。

***

日本で戦後、軍隊や軍人というものが嫌われたのは何故だろうか、ということを考えていたのだけど、一つには戦前に軍が政治を壟断したり軍人が威張ったりしていたということもあるだろうけど、結構大きいのは沖縄戦で軍の作戦を優先して県民保護の面で問題があったこと、満洲や樺太などで敗戦前後に軍が十分に法人保護ができず、一部の部隊は民間人よりも早く撤退してしまって多くの混乱が起こったことなど、「軍人は普段は威張っているくせにいざとなったら国民を守らなかった」という不信感があるのではないかと思う。

これは軍というものがなくなってしまった以上今更名誉回復できない問題ではあるのだが、その後継的な性格を持つ自衛隊もまた国民か不信の目で見られ続けたのも同じような見方からだろうと思う。

ただその流れが変わったのは1985年の日航機墜落事故の現場で、2人の女性を救出するのに成功したあのイメージが劇的に印象を変えた、という面はあるかと思う。

その後も災害救助などに自衛隊が機動的に対応していることに多くの被災者が感謝する場面を何度も見ることで「自衛隊は頼りになる」という印象が強まり、一部の左翼層を除いては多くの国民にその存在が支持されるようになって来たように思う。

警察は「市民を犯罪から守る」からこそある意味強権的な存在が肯定されているのと同じように、自衛隊もまた「いざというときは自衛隊が守ってくれる」という信頼感があるからこそ支持される、ということはだいぶ理解が進んできたのかなという気はする。

警察と市民、自衛隊と市民の間も国民統合的な意味で相互の信頼関係がないと制度としての維持は困難な縁がある。外国人犯罪など左派的な意識では対処が難しい問題でも市民との相互信頼の関係を守れるようにしてもらいたいと思うし、まあ余り強すぎるのもなんだという面はなくはないのだが、政治の立場からも国民統合についての意識をより持ってもらえると良いかなとは思う。

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