安倍晋三という人に「憎しみ/親しみ」を感じる理由/レオという名の教皇の歴史

Posted at 25/05/10

5月10日(土)曇り

昨日も1日天気が悪く、風が時々少し強めに吹いていた。今朝もその傾向が残っていて、ずっと曇っている。午前中は母を連れて病院に行ったが、帰りになって今まで受診者は無料だった駐車場が200円取られることようになっていて、ちょっと驚いた。まあ、これで病院の経営が少しでもよくなればまあ仕方ないかと思う面もある一方、もともと入り口は二つあるのに出口がひとつしかないから混雑しがちだったのが大行列になっていて、その辺ちょっと改善してもらいたいものだとは思う。

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土曜日は仕事は休みではないのだが、世間が休みなので仕事以外の仕事というか用件は少ないということがあり、なんとなくのんびりした気持ちになってついネタ探しも兼ねてネットサーフィン(古代語)をしてしまい、ちょっと書きたいなと思うくらいのネタが山のように出てきて逆に路頭に迷う、みたいな感じになることがよくある。まあ今日もパターンにハマってもう10時をすぎているのにここまでしか書けていないわけだが。

もともと私は特定のネタに限って書くというよりはその時に一番自分にとって面白いと思うもの、関心のあるものについて書こうとここでは思っているのだが、それだと当然ながら読んでもらえる文章ともらいにくい文章にかなり差が出てくるということがある。かなり時間をかけて一生懸命書いた文章があまりいいねがつかずページビューも増えないというのはやはり残念な感じがする。ある程度適当に書いたものが結構読まれたりするとまあそれは嬉しいのではあるが。

だからあまり読まれない日が続くと少し日和って今まで読まれている文章のパターンを考えたりするわけだけど、そうやって書いた文章があまりうまく書けたケースはなくて、余計なことをしない方がいいという気はする。大体のパターンとしては政治に関することやアフリカに関すること、マンガに関すること、出かけて面白かったところ良かったところみたいな基本的に日記という形なのでこういうバラバラなことになるわけだけど、考えたことというのは頭の中にしかないので書いておかないと鮮度が落ちるということもあり、これはなるべくすぐ書くようにはしている。

と書いているうちにだんだん書くものが固まってきたので書きたいと思う。「レオという教皇の歴史」と「安倍晋三という人に親しみを感じる理由」の二つ。あまり読んでもらえなそうな感じもするが、まあそういう日もあると割り切ることにして。

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先日のコンクラーベで教皇レオ14世が選出されたわけだが、ここのところの教皇は先代が「世」のつかないフランシスコ、その前がベネディクトス16世、その前がヨハンネス・パウロ2世、その前がヨハンネス・パウロ1世、その前がパウロ6世、ヨハンネス23世ということになる。この中で考えるとレオと言う名はヨハンネス(洗礼者ヨハネ・使徒ヨハネ・黙示録のヨハネから取られたのだろう)やベネディクトス(同名の修道会の創設者から取られたのだろう)と並んで10人以上の教皇が名乗っている由緒正しい名だと言える。

レオを名乗る教皇の最初の人がレオ1世(位440-461)だが、この人は西ローマ帝国最末期の人で、フン族の王アッチラやヴァンダル王ガイセリックと交渉してローマを破壊から守り、「大教皇」と言われた人だ。彼は451年のカルケドン公会議に書簡を送り、三位一体のカルケドン信条が確立され、単性論とネストリウス派が排斥されてキリスト教はカルケドン派と非カルケドン派に分裂した。キリスト教会のいわゆる正統派の確立に寄与した人でもあるわけだ。

レオ2世(位682-683)は1年足らずで死去、レオ3世(位795-816)はシャルルマーニュ(カール大帝)を西ローマ皇帝として戴冠したことで知られる。ゲルマン・ローマ帝国・カトリックの三要素を一体化し西ヨーロッパ世界の歴史の始まりとなったといわれ、世界史の教科書にも出てくる人である。

レオ4世(位847-855)はイスラム勢力のローマ侵攻との戦いの時期で、ナポリ、ガエータおよびアマルフィの海運都市の軍を召喚し、同盟軍を作ってナポリ公の息子シザーリオに指揮を任せた。シチリアに侵攻したのはアッバース朝の臣下ではあったがチュニジアに本拠のあったアグラブ朝によるものだった。バチカンにも描かれているオスティアの海戦を戦った相手のイスラム教徒はむしろ海賊ともいうべきものらしくアグラブ朝への忠誠心は薄かったという。この海域はのちにヴァイキングが活躍することになるわけで、西ヨーロッパ世界が未だ確立せず外部からの侵攻に耐えていた時期ということになるだろう。

レオ5世(位903)は対抗教皇のクリストフォルスに廃位されて2年後に殺された。レオ6世(位928)も在位半年ほどで殺されたという。レオ7世(位936-939)も実権はなかった。904-932のローマは「ポルノクラシ―」と呼ばれ、教皇の愛人たちが実権を握るなどしていたが、932-954はスポレート公アルベリーコ2世が実権を握っていた。

アルベリーコ2世の息子であた教皇ヨハンネス12世は教皇領拡大を図って失敗し、東フランク王オットー1世の援助を受けた見返りに962年に神聖ローマ皇帝に戴冠したが、オットーと対立して廃位され、レオ8世(位963-965)が選出された。彼はオットーに叙任権を与えたという説もあり、皇帝と教皇の力関係は明らかに皇帝が上の時期だろう。彼には腹上死説もある。

レオ9世(位1049-54)はクリュニー修道院出身者(グレゴリウス7世ら)を登用して教会改革に努め、世俗者の叙任権否定と聖職者の妻帯禁止などを進めてグレゴリウス改革の先駆者となったが、コンスタンティノープル総主教を破門して教会の東西分裂をもたらし、ノルマン人と戦って捕虜になって死んだ。聖レオ9世と呼ばれる。

レオ10世(位1513-1521)は有名なルネサンス教皇、メディチ家の出身である。贖宥状の発行を認め、1517年のルターの宗教改革を招いた。イギリスのヘンリ8世に「信仰擁護者」の称号を与えるなど宗教改革への対抗もある程度はしたが、ヘンリ8世もまた離婚問題をきっかけにローマ教会から離れて国教会を樹立したため、間抜けな感じになってしまった。レオ11世(位1605)もメディチ家の出身。フランス王アンリ4世(2番目の妻がメディチ家出身のマリー・ド・メディシス)の支援を受けて教皇になったが26日後に死亡したという。

レオ12世(位1823-29)はフランス革命後のウィーン体制の時代の教皇、強権政治を行い教皇領の住民は彼の死に喜んだという。この時代は神聖主義・ウルトラモンタニズムなどの言葉に代表されるように、カトリック教会は反革命・保守反動の牙城という感じだった。

そして先代のレオ、レオ13世(位1878-1903)は教皇庁がイタリア王国(教皇領を奪って王国に併合したため)を承認しないなど、ある面では保守的な姿勢は継続したが、フランス共和国は承認するなど変化も見せた。また『レールム・ノヴァールム』という回勅を出し労働者の権利を擁護し、搾取とゆきすぎた資本主義に警告を行い、一方ではマルクス主義や共産主義を批判した。

新教皇がレオ14世(位2025-)を名乗ったのもこうした貧しい人に寄り添う姿勢を継承したいという意思の表れだろう。

こうしてみるとレオと言う教皇名は歴史の節目にたびたび出てくる名前だと言うことになる。トランプ政権の成立、ウクライナ戦争やガザ戦争など困難な時代に、アメリカ合衆国出身者として初めて、新大陸出身として2人目に選ばれた新教皇がどのような教会の舵取りをしていくかは注目されるところだろうと思う。

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安倍晋三元首相が参議院選挙中に暗殺されたのは3年前。その参院選がまた巡ってきたという感じである。私はこの人については小泉内閣の官房副長官時代から注目していたが、官房長官になり、総理大臣になり、辞職し、自民党が下野した後に野党自民党の総裁に復帰し、また吉田茂以来の再任の総理大臣になって、憲政史上の首相在職期間の記録を更新したのち、辞職して清和会を率いたが、菅内閣・岸田内閣と影響力を保った中で奈良県で演説中に暗殺されたという彼の人生自身が、いろいろ注目すべきことが多い事象のように思われた。

今朝ネットでいろいろな文章を読んでいてなるほどと思うことがいろいろあったのだが、そのうちの一つはなぜ彼がいわゆる左翼リベラルからあんなに嫌われていたのか、「あべしね」などと翻訳家の女性がアラレもなくツイートを晒すなど、昔は普通の良識ある大人ならしないようなことをさせたのは、あべさんがどういう存在だったからか、ということについて書かれていた。

彼はニューリーダーと呼ばれた安竹宮の中でただ1人首相になれずに亡くなった安倍晋太郎の息子であり、昭和の妖怪と言われた岸信介の孫であって、政治家として、特に右派政治家としてサラブレッド的な存在であったことは間違いない。

そして森内閣で官房副長官になり、小泉内閣でも引き続きその職を務め、さらには異例の期数・年齢で官房長官になって、石原慎太郎をして「純ちゃん総理は人事の天才だね」と言わしめた。そして小泉政権退陣後は総理大臣になったわけで、官房長官のみを経験しただけで総理大臣になった例は戦後ほとんどなかったと思われる。(政権交代で首相になった細川・村山・鳩山各氏は除く)

総理大臣時代は「美しい国・日本」を掲げて保守政策を進めたが、政権運営に失敗し体調が悪化して退陣、この時は私もショックを受けた。雌伏時代に経済を勉強し直して「アベノミクス」を掲げて野党時代の総裁選に勝利し、総選挙にも勝って政権に復帰した。左派リベラルから悪口雑言を投げつけられるようになったのは特にこの長い第二次政権期だった。

しかし彼のやってきたことでそんなに特別左翼に憎まれるきっかけはない、というか左翼がさまざまな攻撃を見せても闘牛士が牛をかわすようにひらりと飛んで逃げる感じだったからそこにイライラしたということはあるにしても、「あべしね」はないよなあと思っていた。

今日読んでいて思ったのは、そのきっかけはもっと時代を遡り、彼が官房副長官の時代に小泉首相に随行して北朝鮮の平壌を訪れたとき、「拉致被害者は全て死んでいる」とした北朝鮮側が盗聴していることを前提にして「何も出てこないならこのまま帰りましょう」と進言して、それを盗聴していた北朝鮮側、つまり金正日が拉致を認めて謝罪する、という「リベラル左翼にとっては起こってはならないこと」を実現してしまったからだ、という話だったわけである。

あの当時は本当に日本の世論は沸騰して、それまで朝鮮の植民地支配批判に対して黙って耐えているだけだった普通の人たちが一斉に朝鮮批判をはじめ、「嫌韓流」などの右翼ブームが起こり、彼らのいうところのネトウヨがワラワラと現れることになったわけである。その主役は、明らかに首相である小泉さんではなく官房副長官に過ぎない安倍さんだったことは、一層の衝撃だっただろう。逆に言えば安倍さんはあの件で国民的人気を確立し、あの件でリベラル左翼の憎悪を一身に集める存在になったというのは、そんなに誇張ではないようには思う。

私もあの当時は拉致被害者の集会に何度か参加したし、ブルーリボンなども買って身につけたりしていた。日本の雰囲気をそのように一変させてしまった時に、そのホープとなったのが安倍さんだった。

ただその憎悪の本当の理由は右翼ブームを巻き起こしたというより、自民党政治・過去の植民地支配は悪であり中国や朝鮮二国は謝罪一択である、という「戦後リベラル左翼」の教義ともいうべき枠組みを破壊し、「日本国民に危害を加える邪悪な北朝鮮(共産主義国)という」枠組みを打ち立てたことそのものだったということだ、というわけである。そう考えてみると、彼らがこちらが不思議に思うくらいに安倍さんを敵視するのも納得できるなと思ったわけである。

しかしまあ、そんなことは個人的にはどうでもいいことで、私自身としては安倍さんを失ったことが日本にとって本当に損失だったと思うし、今でも彼の死を悼む気持ちが強い、ということであって、なぜ彼に対してそんなに親しみの気持ちを感じるのか、ということが自分にとって少し不思議な部分があった。

そのことについて考えているうちに、彼が官房副長官の時代に就任した小泉首相が就任演説で「小泉内閣メールマガジン」を発行するとぶち上げ、その編集担当の1人として安倍さんが毎号編集後記に(晋)の署名入りで文章を書いていたことを思い出した。あまり意識せずに彼の文章を毎週読んでいたわけで、多分そんなに特別なことを書いていたわけではないのだけれども、文章を読んでいるというそのこと自体によって親しみが湧いていたのだなあと思ったわけである。

政治家が自分の文章を特に支持者でもない有権者に読ませるというのは、そう簡単なことではないだろう。新聞や雑誌に寄稿しても読む人は限られるし、ネットでも今では誰もが読むような文章としてはなかなか取り上げられにくい。

ネット黎明期に内閣が情報発信をするという小泉首相の感度の良さが小泉内閣メルマガを成功させたわけで、それが結果的に安倍ファンも作ったのではないかと思った。

今までも安倍さんについて書かれた本はたくさんあったけれども、このメルマガについて書かれた本は今まで読んだことがない。もしあるならば一度振り返って読んでみたいと思うのだけど、そんなことを考えているうちにまた、トランプ政権との交渉に苦労している日本政府を見るにつけ、今安倍さんがいたらなあと思うなあと思ったのだった。

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