「ふつうの軽音部」66話「在りし日々を想う」を読んだ:「自分の好きなものに胸を張る」ことと「ダンダダン」/日本政府が中露両国に「他国批判に興じるな」と苦言

Posted at 25/05/11

5月11日(日)晴れ

昨日は仕事が終わった後駅前のスーパーで買い物をして家に帰り、「ダンダダン」の単行本をずっと読んでいた。12時近くなって眠くなったのだが「ふつうの軽音部」の更新を読んでから寝ようと思って第66話「在りし日々を思う」を読んだのだが、ライバルバンドのプロトコルのギターボーカル・鷹見の小学生時代の話だった。彼はバンドをやっている兄に憧れて演奏を聞きに行き、そこのメンバーにも紹介されたりしているのだが、小学校でみんなで演奏動画をYouTubeを見て馬鹿にされてもニコニコしていて、帰り道で悔しくて泣くという展開になっていて、コメント欄などを見るととても共感を呼んでいた。

https://shonenjumpplus.com/episode/17106567265435709184

まあそこは理解できたのだが、自分としてはあまり響いてくるものがないので、どうしてなんだんだろうと考えていた。

考えているうちに、この話は「自分の好きなものを胸を張って好きと言えない高校生たち」の話なのだというところに思い当たった。主人公の鳩野は最初の新入生歓迎会のたまき先輩たちの演奏に内輪ノリで盛り上がる上級生たちをみて、共感性羞恥で死にそうになる。しかし、見ている内にちょっと感動している自分に気づき、「こんなふうに外野がどう思うとか全く気にせずに、好きなようにやれたらどんな気持ちになるんだろう」と思い、軽音部に入ることを決める。それからも何度も失敗を繰り返し、バンドのメンバーに迷惑をかけたと思いながら、それでも歌うんだ、彼女らに答えて歌うんだと決意して公園での弾き語り修行を始めるなど、行動によってそれを克服していく。

そのたまき先輩も同性しか好きになれないという自分の性質を持て余しながら、大事な友達を傷つけたことに気づき、本当に好きな音楽をやろうと開き直ってバンドを組み直したり、引退した後も鳩野の演奏を聞いて大事な友達ともう一度バンドを組みたいと改めて決意したりしているわけである。

好きなものを胸を張って好きと言えなかったのは、鷹見だけではなかったわけである。

だからこの先鷹見がどう変わっていくか、それとも変わっていかないのかはこの物語の中で重要な鍵になるのだ、ということを思った。鷹見は鳩野やたまきに比べてもガードが硬く、自分は変われない、お前は違う、中途半端なままで、自分は何者にもなれないと思い込んで、「適当に」やろうとしている。しかし鳩野を見て「叩き潰してやりたい」と思ったのは、実は自分自身のそういう思い込みを叩き潰したいという気持ちの捻くれた表れだったのではないかという気がする。

前回までのプロトコルの圧倒的なパフォーマンスの描写に対して今回はそういう「中途半端な自分に涙する」みたいな展開だからある意味「盛り下がった」という感想を持ったのは私だけではないと思うのだが、あまりそういう感想は表立っては書かれていない。来週休載だということなら尚更である。しかし、これは書かなければならなかったエピソードであるはずで、これを経たからこそのパフォーマンスが次回以降描かれていくのだろう。いや、後数回はこういう鬱展開になるようなことを原作者さんが予告しているので数回は耐えないといけないかもしれないのだが、まあ「NARUTO」であれ「ワンピース」であれそういう時期はあるのだが。

66話がどうして自分にはあまり響かなかったのかというのを考えていてわかったのは、私は誰がなんと言おうと自分が好きなものに熱中してその話ばかりするタイプの子供だったので、好きなものを馬鹿にされてもニコニコしてて後で泣く、みたいな心理がよく分からなかった、ということに思いあたった。その気持ち自体には鳩野のときもたまきのときもわかりはしたのだが、それはネガティブなままでなく前に進む原動力になっていた。だからそうだよな、と比較的すぐ納得したのだが、今回はそれがない。どちらかというとより迷宮に入っていく感じになっている。そこが響く人には響いたのだと思うし、わからない人間には分からなかったのだなと思う。こういう時に自分がどういう人間なのか、少しわかる。

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「ダンダダン」は誰に仲間外れにされてもひたすら自分の興味のあるところ、信じるところに向かっていくオカルンと、霊媒師の孫で霊に関する知識は誰にも負けないモモの「ラブコメ」だから、「好きなものを肯定できない苦しみ」みたいなものとは比較的無縁で、愛羅や凛にその要素はないわけではないのだけど、超自然的な戦いの中で自分の殻を打ち破っていく。まあこういう話を読んでいたから鷹見の悩みがより入って来にくくなっていたのだろうなと思った。

神が鷹見をどう救うのか、あるいは全然違う展開になるのかはよく分からないけど、鷹見が鳩野に敢えて絡んできたのはそんな自分をどうにかしたいという気持ちの表れであったのではないかという気はする。今後の展開が気になるばかりである。

***

私が子供の頃に熱中していたのは、小学生から中学生にかけては「ナルニア国物語」のシリーズで、これはもう何十回も読み返したと思う。中学3年の頃はテレビでたまたま見た「旅の重さ」という映画にハマり、学校で他の生徒に何度も同じ話をしていて呆れられたことがあった。マグリットやダリが好きになったのも中学生の頃だったし、映画や美術に日常的に触れられる環境、つまり都会に住んでいたらきっと一気にそういうものにのめり込んだのではないかという気がする。

ただたまたまそうはならなかったので高校生の頃は真面目に勉強して東京の大学に出て、それから美術館に行ったりコンサートに行ったり演劇にハマったり恋愛にハマったりしていた。好きなものと縁が切れる生活になるようなことは思っていなかったけれども、社会人時代はやはりなかなかそこまで熱中できるものも見つからなかったし、そういう状況もなく、ただ読んでいたのは諸星大二郎や高野文子などの80年代ニューウェーブのマンガ作品だったなと思う。世紀転換期に白洲正子の作品に出会ってそれからは小林秀雄やその周辺の人の本を読んだりもしたが、同時代作家ではないというのが自分にとっては辛いところだったような気はする。

それからしばらくは好きなものというよりは国家や社会のことの方が関心が強くなって民主主義とは何かとか保守とか右翼とかのことについて読む時期が長かった。2008年ごろに「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」という本にであって自分の好きをもっと大事にした方がいいと思い当たり、いろいろなものを見たり聞いたり読んだりすることを再開したという感じになっている。

結局一番ハマっているのはマンガで「進撃の巨人」や「シドニアの騎士」、「ジャイアントキリング」その他、今は割と「少数派のセンスのいいマンガ」みたいなものよりは「多くの人に受けて売れているマンガ」の方を面白いと感じることが多い。「ふつうの軽音部」はどちらかというとその中間みたいな感じがあるので面白いなと思うのだが、去年から今年にかけて、一番ハマったのはどう考えてもこの作品だった。

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https://www.sankei.com/article/20250510-MBU3KRNDJ5PLLJ7MQP3ZP3G43E/

5月9日はロシアにとっての対独戦勝記念日で、プーチンが主催したこの日の式典の主賓は習近平だったわけだけど、中露両国は例によって日本に対し「第2次大戦の歴史の改竄」は許さないと主張し、日本政府に対して「靖国神社など歴史問題で言動を慎み、軍国主義と決別する」よう求めたというが、それに対し林官房長官は「中国の軍事動向は国際社会の懸念で、ロシアのウクライナ侵攻は国際秩序を揺るがす暴挙だ」と指摘した上で、「他国の批判に興じるのではなく、対応を改めることを強く期待する」と述べたという。

この政府の対応は全く仰る通りで、現在の安全保障上の問題は日本ではなく中露両国にあるということを毅然と述べた点がとても良かったと思う。安倍外交以来の日本の外交方針は堅持されているということに安心感を持った発言だったなと思った。


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