「ふつうの軽音部」に対する「問いがない」という批判/「聖典」として読んでいる作品にある日突然「幻滅ポイント」がやってくること/本が見つからない/フロッピディスクの出現

Posted at 25/05/05

5月5日(月)晴れ

昨日帰京。午前中に車で家を出て、午後1時前に到着。実家の方には妹たちと姪が二人来て、母を施設から連れ帰っていろいろやっている。私は今回は彼女らに任せて久しぶりに二泊三日で東京の自宅に帰っている。

昨日は夕方神保町に出かけ、「物語ナイジェリアの歴史」(中公新書)を探したのだが、新刊書店で古書店でも見つけることができなかった。今日丸の内の丸善に出かけて探して来ようと思う。ほかの「物語○○の歴史」は大体見つかるのにナイジェリアがないのは内容がつまらないのでなければ読む人が少ないからだろうとは思うのだけど、差別と闘ってるはずの明石書店の「エリアスタディーズ」にもナイジェリアは入っていないので本当に日本では関心が低いのだなと思ってしまった。

結局買ったのは古書店で高階秀爾「ルネサンスの光と闇」(中公文庫)を100円で買い、ディスクユニオンでブレンデルがベートーベン、シューベルト、リストを演奏したLP、それにフルート名曲集のCDが1枚110円で売っていてしかもディスクユニオンが連休割引として35%弾きをしていたので2枚で143円だった。こちらも本当は椎名林檎か東京事変のCDを探しに行ったのだが、結局なぜかDVDしか見つからなかったために他のを探したのだが。

帰りに地元のスーパーで夕食などを買い、帰宅して食べたら眠くなって、だいぶ早めに寝た。

朝は5時過ぎに起きだして散歩に行った。なんとなく緑道公園を西友まで歩いて牛乳とチューブのわさびとショウガを買う。お茶が急須の穴に詰まらないようにするお茶パックを探したのだが見つからなかった。帰ってきて食器棚奥を探したら出て来たのでよかったのだが。

昨日はやるはずだったことをし損ねたこともあってどうもいろいろ本調子ではないのだが、まあ連休だしゆっくりした方がいいんだろうとも思う。

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メモ。ツイッターを見ていたら、フロッピーディスク時代に「だれのですか」というメモとともにマグネットでホワイトボードに張り付けてあった(当然データは飛ぶだろう)というネタを読み、そういえばそういうことができるなら薄盤の大きいディスクだなと思って何インチか調べようと8インチフロッピーで検索したら、フロッピーディスクの歴史が出て来たので読んでみた。するともともとこのフロッピーディスクというものはパンチカードで入力していた時代にその代替として時期で記録するシステムとして出て来たもので、250kBしか記録できないもののパンチカード1900枚分の容量があったというのがへえっと思った。パンチカードとディスクの間が自分の中で空白地帯だったので、そこが埋められて印象的だったのでちょっとメモしたわけである。

https://www.techno-edge.net/article/2022/10/19/392.html

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「ふつうの軽音部」について、いくつかのnoteを読んでいろいろ考えたのでこちらもメモ。まず読んだのはこちら。

https://note.com/saladhowl/n/nd7c7970e99d4

つまり、「ふつうの軽音部」には「ルリドラゴン」や「サチ録」、「正反対な君と僕」にある「問い」がない、という批判なわけであるが、これは何というかなるほどと思うとともに、そういう作品では確かにないよな、と思った。(「シャーマンキング」についても書かれていたが私は読んでないのでわからない)

つまり、この世の中で正邪とか善悪というものは、何が正しいとか何が間違っているとかいう絶対的なものはなくて、つまりはそれを希求し、答えのない問いを考え続けていくのが人間だ、という見方から見れば、「ふつうの軽音部」には作者の確固とした思想が感じられすぎ、それを求めようとするオープンな姿勢がない、という批判なのだと思う。

まあこれは分からなくはない、というか私が「僕のヒーローアカデミア」や「2.5次元の誘惑(リリサ)」を読んでいて感じた幻滅みたいなものと基本的には同じなんだろうと思う。まあ今上げた作品はどれも好きで、「サチ録」をのぞいてはすべて単行本も持っているのだが。

「ルリドラゴン」はドラゴンと人間のハーフという少女を廻って本人も大人たちもどのような対し方をしていくべきなのかそこを手探りしている感じが確かに面白い。そんな非実在のものに対するルールなど確立しようはないわけだが、現実に我々は今まで日本にいなかった文化の人たちと接触することによってどのようなルールをつくるべきなのか手探りになっているわけで、そこに共鳴する人はいてもわかるなとは思う。まあ、私としては非実在だから面白く読んでいられる、ということはあるなと思うのだけど。「サチ録」にしても天使と悪魔との同居という非実在性があるからそういうテーマが成り立っているわけである。

「正反対な君と僕」も、孤高のまじめ男子と一軍女子・男子連、ちょっとひねくれた男子やヤバいところに行きかけている女子、みたいな「異文化の接触」の中で、何が最適な解なのかをその時その時で計りながら見つけていく話ではあるから、同じような問いを生きるという意味はあるだろうと思う。「スキップとローファー」もそういうところはある。

「僕のヒーローアカデミア」では「資格のない学生がヒーローの仕事をしようとした」ことに対して厳しく批判されていて、なんだ結局世の中のルールは守るべき、みたいな話なのかとがっかりしたことがあり、また「2.5次元の誘惑(リリサ)」や「恋は雨上がりのように」も結局「高校生の今を大事にして生きるのが正しくて、コミケで無差別に頒布したり、中年の店長との恋愛を成就することはそれに反していてよくない」みたいな話になっていてシラケた部分があった。特に「にごリリ」に関してはそこまでかなり入れ込んでいたので、そのあとはちょっと距離がある感じになってしまっている。「妻、小学生になる。」もそういうところはあった。

それに比べると「少女と社畜の1800日」などは「どうにかしてこの恋愛を成就させたい」という強い意志が感じられ、年の差恋愛に対する風当たりの強さという意味不明な現代の現実的な社会的な制約のある中でどうしたらこれを成就させられるかをかなり考えた結果、これなら受け入れられるだろうという線を出してきていて、それが面白かったかどうかはともかく、最後まで当初の設定に殉じた潔さみたいなものを強く感じて、私は好きだった。

「ふつうの軽音部」は確かに暗黙の裡に「これが正しい、これは間違っている」というのが提示されていて、作中人物は当然迷うわけだけど作者は作品の中でいわば神であって読者の側も「公式=神」でありどういうふうに展開させられても甘んじて受け入れます、みたいなところが強く、今回の「芽生える」でも彩目の「殺意の芽生え」はともかく、はとっちの「恋心の芽生え」についてはかなりの衝撃を呼んでいたけれども、「そう展開するなら仕方がない」ということで収まりそうな感じではある。

これはつまり、本当にウェルメイドの作品であって、「高校の軽音部」といういわば「閉じた世界」での話だから、ドラゴンとハーフな少女もいないし突然田舎や海外から転校生が来たりもしない。朝鮮系の人や黒人らしき生徒、性的マイノリティも出てくるがすべてそこに最初から「ふつうに」存在していて、その中で葛藤を感じたり人間関係的にドロドロしている感じである。それらも基本的には作品世界の中での神によって(作中のキャラクターが勝手に動き出して作者も驚いたりすることは文学でもよくあることだが、そういう意味ではこの神は作者ではないのだが)コントロールされている存在である。

レズビアンである(オープンにはされてないが)たまきに対して恋心を抱いていた喜田が自ら身を引くところなど、まあ自分としては「きれい」すぎて不満はあるのだけど、まあそういう世界として描かれているのだなと解釈すればまあ仕方がないとは思う。喜田が引かなければ「性的カスタマーズ」は成り立っていないから、おそらく他に選択肢はなかったのだけど。

ただ、ちょっと露骨だなと思うのはそれくらいで、そういう世界、いわば箱庭の中で人間関係がより細かく描かれていく感じはとても面白くて、そこに意味を見出さないのもちょっと残念だなとは思うわけである。

一方でこういう感想も読んだ。

https://note.com/dai_sekiguchi/n/n3b490cbf7221

こちらは上記のような個人的な思いを感想としてぶつけるのとは逆のスタイルで、「ふつうの軽音部」65話に対して書かれたウェブ上の感想を徹底的に読み込んで「こういう意見もあり、こういう意見もあるが、私はこの作品はこのように読んでいきたい」という書き方で、読んでいてこの調査と引用の徹底ぶりには感心してしまった。

私は以前【推しの子】を読んでいたときには本当に徹底的にウェブ上の感想を読んでいて、ねいろ速報やあにまん掲示板などもほとんど読んでいたのだが、「ふつうの軽音部」に関してはジャンプラの感想欄とツイッター上で掘り起こせる範囲の感想、また自分で作ったリストにひょ辞される内容やブルースカイで書いている作者さんたちのコメントなどを読んでいるだけである。まあ十分読んでいるような気もするが。

基本的に2ちゃん系の感想まとめというのはこの作品のファンだけでなく批判的な人、あるいはただ悪口を言いたいだけの人なども書きこんでいるからあまりそういうのを読みたくない、というのが今は強い。まあある種の「聖書」として読んでいる部分がわたしにもあるんだろうなと思う。

ただ、そちらの方が何というか多種多様なものが出てくることも確かで、そのなかでなるほどと思えるものも出てくるんだなと今回読んでいて思った。こういう作品の転回点を読むうえではとても参考になるなと思ったわけである。

そういえば、【推しの子】に関してもウェルメイド作品としてとても面白いなと思って読んでいたのだけど、ルビーが闇落ちした後番組で取り上げられたコスプレイヤーに関して問題が起こり、ルビーが阿漕なディレクターに醜いコスプレをさせて問題を収拾するという場面で、かなり吐き気を催すほど幻滅したことがあった。そういう復讐的なやり方が功を奏すという世界観が露わになってしまったということで、まあ本来復讐がテーマなのだからルビーにとっての復讐観がこういうものだったと解釈はできなくはないが、やはり醜さしか感じられなかったのが残念だった。

ラストにアクアがカミキを殺して自分も死ぬあたりで読者の不満が爆発していた件に関しては私はまあこういう収め方しかなかっただろうなとは思った。まあこれもまたそれこそそれが一番面白かったのかどうかは分からないが、原作者さんとしてはそれしかなかったのだろうという気はすごくした。

そういうわけで、「ふつうの軽音部」に関しても、「私はこの展開は受け入れられない」という幻滅ポイントがこれから来る可能性はゼロではないわけで、そこはオープンな問いがある「ルリドラゴン」のような作品群とは自分自身としての受け入れ方が違うわけである。そういえば展開に対する不満というのは「嵐が丘」や「ファウスト」、あるいは「ナルニア国物語」に関しても感じたことはある(そんなに決定的なものではなかったが)ので、こういう聖典的な読まれ方をする作品には付き物の現象なんじゃないかという気はする。

ただまあ、「光のあるうちは光の中を歩め」とトルストイも言っているので、「ふつうの軽音部」が自分にとって面白いうちは徹底的に期待して何度も読み返したいとは思っているわけである。重いな、とは我ながら思うが、こういう聖典的に読まれる作品は、そういう宿命があるのだろうとは思う。

***

上野千鶴子氏が成功したのにオープンレター学派が嫌われているのは上野さんが権力を握るまでは「可愛げ」があったからで、OP学派は最初から権力者であったから嫌われているのだ、ということを通し、「可愛げ」の問題についても書こうと思っていたのだけど、ちょっと疲れてきたのでまた改めて書こうと思う。明日の更新に間に合えばいいのだが。

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