睡眠/線後におけるガンダムの新しさと現代日本への影響/「寝坊する男」の八咫烏とまど☆マギのキュゥべえ/所属したいという欲望とその希薄さ

Posted at 25/05/03

5月3日(土・憲法記念日)晴れ

昨日は午後から夕方、かなり雨が降ったが夜から朝にかけてはやんで、気温も少し下がり、今朝の最低気温は8度。ものを考えながら座って過ごすには少し寒く、ストーブをつけている。いろいろやることが多くて夜あまりちゃんと寝られてないのだが、それに加えて寝不足のせいか変なボーンヘッドがあって余計仕事が増えたりしている。昨夜も仕事の帰りに出すはずだった郵便物を出し忘れているのに今朝気がつき、ガソリンを入れにいくついでに郵便局に回る事になった。

目が覚めたのはまだ暗かったのでトイレに行ってからもう一度寝ようとして寝床でうつらうつらし、急に仕事のし忘れに気づいて起きたら4時すぎだったのでどうしようかと思ってもう一度寝床に戻ろうかと思ったが少し仕事を始めたらもう起きてしまった。昨夜は11時には寝床に入っているので5時間は寝られたかなと思うが、なんだかはっきりはわからない。

いろいろやることを書き出して5時半ごろ出かけようとしたら別のことを思い出し、結局出るのが6時ごろになるとか、最近そういうことが多い。車で出かけて郵便物を出し、職場に行って少し仕事をして、隣町まで車を走らせてガソリンを入れに行った。以前はこのスタンドはかなり混んでいたのだが、最近空いているということはもっと安いところが他にあるということなのだろう。私はアプリで7円引きで入れて180円なのだが、もっと安いのはどこだろうか。商工中金の口座の残高照会をしようとしてセブンでキャッシュカードを入れたがすぐ返ってきてしまい、表示を見ると取扱は9時以降とのこと。全てがすぐにうまくいくわけではないなあと思ったり。帰りにデイリーで塩パンなど買って帰った。

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https://shonenjumpplus.com/episode/17106567265435707152

ジャンププラスで土曜日の更新、「寝坊する男」38話を読んだのだが、新展開、というか新しいと思われる設定が入ってきていた。主人公の高橋陽司は元々は物理的にぶん殴ることで霊を成仏させるというギャグ系の設定で、この作品は「ほっこり」と「アクション」を両立させる稀有な作品だなと思っていたのだけど、(こういう方向の作品はダークファンタジー的なものが多くてあまりほっこりはしない)最近は霊の世界の血みどろの争い(?)みたいな感じが出てきてほっこり味がやや薄れてきていた。

担任の女の先生が実は陽司と同じ霊を退治する方向の人だったあたりからダーク味が強くなって呪術廻戦的な雰囲気になってきてしまい、今回、実は彼が一度事故で死んでいて、そこで与えられた能力によって甦り、霊たちと戦っているということが明かされた。

その能力を与えたのがギャグ味の強い「八咫カラス」だったようなのだが、実はこのカラスそのものが大きな黒幕的存在だというのがここ数回で明らかにされてきて、これは一体どういう存在なんだろうかと考えているうちに、そうかつまりこの「八咫カラス」は「魔法少女まどか☆マギカ」のキュゥべえなのだ、という事に気がついた。まどマギには恋愛要素はほとんどなかったし基本的に少女が世界を救う世界系っぽさをひいていたから雰囲気は違うが、実直な陽司が人助けだけでなく霊たちも助けたりしながらかわいい恋人とほんわかデートもするみたいなノリは悪くないなと思っていた。

だから、いきなり戦いの中で先生に「(八咫カラスに与えられた能力で)ラスボスであるオワリを倒したら陽司自身も使命を終えて死ぬ」という話を切り出され、しかもそれを聞いた陽司が動揺していない、というのは驚いた。コメント欄でもこれについてはいろいろ意見が出されているが、私も面白いと思いつつ単行本は買っていなかったので、単行本の売り上げが伸び悩んでいるから打ち切り方向なのではないかという穿った見方をされているのが少し気の毒だなと思った。

確かに方向性が時々迷走しているのは感じないわけではないのだけど、多分今回明かされた設定自体がある種のフラグであるようにも思うので、どういう方向に話が展開していくのかは楽しみにしたいと思う。なかなか感想も書きづらいのだがまだストーリーと絵の魅力を活かしきれてない感じもするので、今後も楽しみにしたいと思う。もう少しのめり込んだら単行本は買うのではないかと思う。

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https://www.gundam.info/feature/gquuuuuux/

機動戦士ガンダムの続編が今でも作られ、タイムライン上で人妻の魔女と呼ばれるキャラが話題を独占するなど、1979年に始まったシリーズが46年後の今日まで続いているのはすごいなと思い、私はずっと興味を持ってこなかったのだが、少し調べてみようと思ってWikipediaを読んでみて、なるほどと思うところがあった。

当時のヒーローものやアニメなどはほとんど明確に「善」と「悪」、或いは「侵略者」と「防衛者」の対立があり、つまりそういう意味で勧善懲悪の倫理性が強い作品だった、ということがある。ガンダムの放映にも強い影響を与えた作品は「宇宙戦艦ヤマト」だったそうで、私も初代ヤマトは本放送も再放送もよくみていたからここに着目するのはいいなと思った。そのヤマトでも基本は「ガミラス星」の「放射能」攻撃に耐えきれず地球が滅びかけているときに「イスカンダル星」から「放射能除去装置・コスモクリーナー」を提供するという申し出があり、10万光年以上離れた大マゼラン雲のイスカンダル星までコスモクリーナーを受け取りに行く、というのがストーリーの基本である。途中ヤマトは侵略者側のガミラス星と何度も戦い、勝利して職務を遂行するわけだが、敵のガミラス星の政治形態はデスラー総統が支配する独裁政治であって、これは明らかにナチス・ドイツをモデルにしているわけである。

その中で、少しあとの「天空の城・ラピュタ」のムスカと同じようにデスラーが「悪の魅力」のようなものを放っているのが一つの魅力になっているわけだが、構造として善悪の対立、究極における勧善懲悪というドラマは変わらなかった。

ガンダムは見ていないのでいろいろな情報を総合して判断するだけなのだが、つまりは「善悪の対立ではない、人間同士の戦いとしての戦争」を客観的にドラマとして展開し、どちらのサイドも圧倒的に倫理的優位には立っていない、というのが新しかったのかなと思う。

ヤマトでナチスを仮託した存在が悪の惑星であったように、第二次世界大戦での「ファシズムvs民主主義」という善悪の構図、いわば「極東軍事裁判・ニュルンベルク裁判」史観に影響されてそれまでの怪獣番組が作られていたところを、いわば「戦争をおこなっている二つの勢力には基本的に善悪はない」という「相対主義」が新しく、自虐史観で覆われた戦争観を相対化する力を持ったということがあるのではないかと思った。

戦争というのは基本的に自分たちが正しく相手が間違っていると考えなければ現場では行いにくいものだから、そういう考えが広がったというのは恐らくは68年革命の一つの影響であって、80年代には特に強くなる価値相対主義の嚆矢の一つの形と考えられるのではないかと思った。

今回も「100人以上も敵を殺した人妻の魔女」が大きくクローズアップされて関心を読んでいるわけで、どちらかだけが正しいわけじゃない、というある種のエクスキューズがその存在を許可している、みたいなところはあるだろうと思う。価値相対主義がそういうアニメを作り、そういうアニメが価値相対主義を守り続けて、日本を良くも悪くもしているのではないかなという気がしたりしなかったり。

まあこういうのはガンダムを見続けてきた人にとっては洒落臭い議論だと思うのであまり展開しないけれども、そんなことを思ったのだった。

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もう一つ今朝考えていたのは、自分は「所属欲」みたいなのが希薄だな、ということ。ただ、この歳になってわかることは、何かに所属することが大きな仕事をするための条件ということはあるのだな、ということ。自分はそういう事に興味がないわけではなかったけど、何かに所属するということがなんというか洒落臭い感じがあり、一度は就職したもののそのあとはそうではない、何かに所属しない形で生きてきた期間が長くなっている。

ただ、同じくらいの力を持ってると思う人が自分より遥かに大きな仕事をできていると、何かに所属する事によって得られる力というのはやはり全然大きいのだなと改めて思う。そんなことは若いうちに知っておけよということではあるのだが、基本的に「何かに所属したい」という欲求があまりなかった、まあそういう人は別に珍しくはないとは思うが、ことがそういうことに対する欲求の希薄さにつながっていたのだなと思う。

ただ単に歳を取ったら再就職がしにくいということももちろんあるが、そこで頑張って所属しなくても違う道がある、みたいな方向に選択が動きがちだったから今もそうなっているわけで、もう少ししっかり「所属することで得られる力」について考えておけばよかったな、ということは今になって思ったりしている。

なんというか、「所属欲」というものは多分明確にあるのではないかという気がするし、どんなに大変でもその仕事にしがみつく、という人の中にはそういうものがある人もいるのだろうと思う。また、これも今朝考えていて思ったのだが、子供を幼稚園や小学校、或いは習い事に通わせているお母さんが「さっちゃんのママ」とか「しゅうじくんのママ」みたいに言われると自分が付属品みたいな感じがする、とよくいうけれども、例えば得意先の人に「○○生命の人」とか「▲▲電気の人」みたいに言われても「名前で呼んでください!」とそこまで強くは思わないだろうと思うのだけど、それは「この会社に所属している」という意識があるからで、「子供の付属品みたい」という感覚とは違う、つまりそこに「所属欲」「所属する事によって満たされる安心感」みたいなものがあるからではないかと思った。

大学院に行っているとき、学会とかに行くと受付で「所属」を書かされるわけだが、これは実は私はすごく大きな抵抗があった。大学で勝負しているわけではなく、研究の内容や業績で勝負するのが学者じゃないのか、という反発感がすごくあり、逆に言えば大学院を修了してどこにも就職しなかったら「所属」がなくなり、その学会への出入りも気が引けるようになるのだとしたら、なんだかフェアではない気がしたのである。

今思ってみれば学者というのも一つの「ムラ」であって、「どの大学のなんとか先生」みたいなことが結構幅を利かす世の中なのだ、ということは理解はできる。また自分が高校教員をやっているときに出版社の仕事で職免で仕事に行ったりしたこともあったが、そのときには下にも置かない感じだったのに教員を辞めたら一切連絡がなくなり、ああ世の中そういうものなんだ、と思ったこともあった。結局人で見ているのではなく所属で見ているのだな、という。

まあもちろん、所属を超えた存在になっていればまた違うのだろうけど、会社を定年で辞めた人が急に人からの扱われ方が変わって憤懣やるかたない感じになる、という話を聞いているとやはり「所属」で見られていたことを「自分という人間の評価」だと勘違いしている人は少なくないのだなとは思う。

まあそんなことは今更なことなのだが、「何かに所属したい」という欲を持っている方が実は生きやすい部分が多いのではないか、ということを思ったのでそれを書いてみたわけである。まあ私の場合は所属したら下で息苦しくなることが多かったからあまりそういう選択はできなかった、ということはあるのだけど、まあそれはそれで頑張るしかない、ということだろう。

まあ何が言いたかったのかといえば、「所属欲」というものがあって、それが希薄な人は「所属することとしないこと」「どこに所属すればより生きやすいか」などをより早い段階で意識して人生の選択をした方がいい、ということかなと思う。この話、まだ先がありそうだが今日はこのくらいで。


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