「ジークアクス」を初めて見てレベルのめちゃくちゃな高さに驚いた/トランプ状況におけるEUと日本の状況の違い/人文学は「役に立つ」か/日本のコンテンツが世界でウケる理由/小冊子を作っている

Posted at 25/05/27

5月27日(火)曇り

毎日このブログ/noteを書いているわけだが、前の日のうちに書くことが結構ある場合もあるし、朝になってから書くことを探すこともあるのだけど、今朝は昨日から書こうと思っていたことがいくつかあって、それについて少し深めたり幅を広げたりするためにネットの情報を読んだりするわけだけど、それをどこで打ち切って書き始めるかと言うのはいつも結構難しい。今朝起きたのは3時半頃だったが、朝いろいろゴミを処理したり歩いたり車で出かけて気分転換したりしながらいろいろ考えていて、遅くても7時ごろには書き始めるつもりだったのだが、それについて書こうと思っていた文章のうち読み切っていないものがあったのでそれを読んでいたりしたらどんどん時間が経ち、ご飯を食べたりしてついに9時を過ぎてしまった。と言うようなことがここのところ続いている。

そうなると書くのに午前中いっぱいかかる、みたいなことになってしまい、他のやることができなくなってしまうのだが、実際のところ読んだり書いたりするだけで生活できるなら書きたいことは山のようにある、と言うことは言えるかなとは思う。実際にはなかなかそうはいかないので仕事をしたり家事をしたり母を病院に連れて行ったりしながら生活をしているわけだが、そろそろこのサイクルも変えていかないといけないなと言う感じはある。

昨日はそう言うわけで今まで書いたものをまとめて小冊子みたいな人に物理的に渡せるものを作ろうといろいろやっていたのだけど、普段やってない作業をやると頭がめちゃくちゃ疲れると言うことがわかった。まあそれは仕方ないのでとりあえずコピー本みたいなものでも何種類か作ろうと思っている。noteなどで稼いでいる人もいるが、どうも私は物理的にものがないと何かを作っている気持ちにならないなと言うのがあり、自分の実感とか手応えみたいなものもある程度大事にしないと生きていく上でいろいろ大変だよなと思ったり。

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https://www.gundam.info/feature/gquuuuuux/

書こうと思っていたことを書きやすい順に書くと、今まで食わず嫌いできたガンダムシリーズの「ジークアクス」、先々週から録画をすることにし、5月14日・21日放送分があるので、昨日夕食を食べながら2回分を見た。途中からだしガンダムに関しては造詣がないからわからないことが多いのだけど、2回見た上での最も強い印象は、「このアニメはアニメとしてめちゃくちゃレベルが高いな」と言うことだった。ガンダムだから、庵野秀明さんのスタジオカラーが絡んでいるから、とかいろいろそう言う情報だけは聞いていても実感を持てないでいたのだけど、見てみればこれがどんなすごいアニメかと言うことはよくわかった。話題になるのも当然だなと思う。

人物設定や状況設定もちゃんと読んでないで書いている、というかまずそう言うものなしにこの作品の「凄さ」を味わいたい、と言うのが先に立っているので情報は極力入れないようにはしているのだけど、ニャアンとマチュとシュウちゃんの設定だけは(少し読んで)わかった。と言うかここがわからないと流石にこの三人の関係がわからない。居場所を探すニャアンと、「ここではないどこか」へ行きたいマチュと、不思議少女の男子版みたいなシュウちゃんと言う設定は、マチュの我の強さとかニャアンの諦めの早さとか少年少女ってこうだよなと思うのだが、男女置き換えて考えてみるとファムファタルのような赤いガンダムの声を聞くシュウちゃんと言う存在をめぐって振り回される2人の存在というのはよくわかる。

そんなことをTwitterに書いていたらいろいろな方からアドバイスをいただいて、なるほどこれがガンダムシリーズの威力かと思ったのだが、少なくともこのジークアクスという作品はすごいなと思う。前回の水星の魔女の時は1度くらい見たことはあるのだけど正直そんなに面白いと思わなかったのだけど、ジークアクスはすごい。設定とか状況とかをいろいろなキャラが立て板に水式に語るのは「シン・ゴジラ」を思い起こさせて可笑しかったが、おそらく庵野さんらしさがああいうところに出てるんだろうなと思う。

私が特に好きなのはエンディングで、あのごちゃごちゃした女の子の部屋の風景というのをポップに軽やかに描いているのがとてもいいなと思った。また劇中出てきたニャアンのうらぶれた団地の中の殺風景な部屋の中で入浴している場面なども、なんというか「センスがいい」としか言いようがない。こういうのは伝聞で聞いてもわからないことだから自分で見るしかないのだけど、食わず嫌いをして随分損したなと思う。私はサブスクをやっていないので過去回を見る機会は今のところないのだけど、何かで見られたら第1話から見直してみたいなと思った。

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国際政治に関する「トランプ・プーチン状況」をめぐる遠藤乾さんのインタビュー。

https://gendainoriron.jp/vol.41/feature/endo.php

印象に残ったところをいくつか挙げる。

「EUは成り立ちからして、アメリカがNATOという枠を通じて、ヨーロッパに軍事的な関与をするという前提のもとで統合を進めてきた。」

これはその通りだと思う。よくEUは米ソ対立に対する第三極だ、みたいに言われてきているけど、軍事面で考えればNATOとその背後にいるアメリカがあってこその体制だったわけだ。第二次大戦はナチス・ドイツという悪役がいて、それが出てきたのが第一次大戦でのフランスによる復讐的なドイツいじめだった、という問題意識から独仏の対立を包み込むような全ヨーロッパ的な体制が必要だということになってできたのがEUだったと思うのだが、この時点ではすでに軍事的にはアメリカの支援なしにソ連に対抗できないようになっていて、独仏対立が世界大戦になることよりも西ドイツがソ連に取られないことの方が重要になっていた。

共産圏の崩壊以後はソ連に支配されていた東欧圏が独立し、「ヨーロッパ」という単位が全面に出てバルト三国をはじめ東欧圏はEU圏に組み込まれていった。最初はロシアもG8などの形で「先進国」に取り込む方向性もあったのだが、アメリカが「唯一の超大国」として振る舞うことにプーチンは納得のいかないものを感じたのだろうと思う。NATOの拡大がロシアを追い詰めたということを遠藤さんは否定していて、イラク戦争や旧共産圏のカラー革命の頃からアメリカ主導のグローバル化には対立するようになっていたという。

NATO拡大の方向はその決定打になったということはあるかもしれないけどそれだけではない、ということだろうか。

「冷戦時代には、例えばドイツだと50万人近くの徴兵制による軍隊が配備され、また80年代の再冷戦の場合には、中距離ミサイル核配備とかも含めて、戦えるNATOという前提があった」

「アメリカ軍の救援、それから核、そういったものがやはり戦争計画の中で想定されていた・・・西ドイツ単独で東側の軍隊を止められたと私にはとても思えません。」

これも当然そうだと思う。東アジアでも韓国軍が50万、自衛隊と台湾軍が20万ずついると言ってもこれだけでロシア・中国・北朝鮮を止められると思っている人はいないだろう。ドイツの再軍備だけでソ連・ロシアに対抗できると思っている人はいなかっただろう。

「ドイツ国民の79%はもうトランプ政権の元でNATOは自分たちのことをいざという時に助けに来ないだろうと思っている」

これもなるほどと思った。そして、トランプはプーチンのことを信じてるとか裏ぎられたとかJKみたいなことを言っているが、習近平にはそういうメッセージはない。それは、アメリカの対中シフトはまだ残っているのでそこはヨーロッパと日本とは安全保障状況は多少違う、ということはあるかもしれない。

しかしEUの中にはハンガリーのように親露的な傾向の国もあるけれども全体として団結してロシアの脅威に備えるということに各論はともかく異論は少ないようには思うが、東アジアでは日韓台の連合軍などどう考えても難しいから、よりややこしいという面もあるとは思う。

経済面での問題は、貿易よりもむしろ「資本の自由化」にある、という指摘。

「資本移動の自由化は、レーガン、サッチャー以来ある種パンドラの箱を開けてしまったところがあって、ナショナルな民主政から乖離した国際金融の世界が出来上がってしまっていて、グローバル化がもたらす政治経済上の問題の本質はそっちにあるんじゃないかと私は思っています。このもうひとつのグローバル化みたいなところは、アメリカがこの領域では競争力があることもあって、同時に語らないと世界経済構造の話はできないのではないでしょうか。」

これは資本が国際的に移動することによるマクロ経済への影響とか金融システムの不安定化とかそういう問題だろうか。典型的なものが1990年台後半のアジア通貨危機だということになるが。

現在の日本でも一昨年あたりSP500とかオールカントリーとかに投資しないとバカ、みたいな風潮はあった。日本の資金が日本に投資されるより、アメリカを中心とした外国に出て行っている傾向はある。逆に日本の市場は「外人」が大きな顔をして市場を左右しているというのもある。アメリカの資本力は当然ながら今でも圧倒的だから、この指摘はわからなくはない。

アメリカには製造業を復活させる力はない、という見方はこの方も持っていて、だから少数の金持ちが多数の低所得者に再分配する仕組みを作る必要があった、ということを言っているが、USAIDの廃止などが行われている政権でそれは難しいだろうなとは思った。

経済政策についてはトランプ政権は朝令暮改の状態なのでまだ先は読めないということで、まあそれはそうだろうなと思った。ただ、日本としても何は受け入れて何を撤廃してもらっていくのかなどは戦略的に考えた方がよくて、今まで全面的に市場を開いてきたアメリカが持っている不満の全てを否定するのではうまくいかないのではないかという気はした。

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読書猿さんの「人文系学問はいかに「役に立つ」か」という連続ツイートが面白かった。

https://x.com/kurubushi_rm/status/1926454956690636974

説得力を感じたところをいくつかあげると、まず人文系の学問はすぐには成果が出ないものが多く、ある時急に役に立つようになるケースがままある、という話。それをスリーピングビューティー(放題では「眠れる森の美女」)というのだそうだが、この感じはよくわかる。

「たとえば1417年ルネサンス期の書籍収集家ポッジョ・ブラッチョリーニがドイツの修道院で本書の写本を発見したルクレティウス『物の本質について』。この発見が「王子」役となり約1400年の眠りから蘇ったこの古代詩は原子論や無神論的世界観は、近代科学と世俗的価値観の台頭に実質的影響を与えました。彼の原子論的自然観はガリレオやニュートンらによる科学的宇宙観の思想的素地となり、また「迷信ではなく自然法則を信じよ」というメッセージは啓蒙思想家や政策立案者に影響を及ぼしました。」

という例が挙げられているが、人文学というのはつまりは「考え方」「ものの見方」の話だから、新たな発見というものが既にローマ時代にはその(少なくともそれに通じる)見方があった、みたいなことはあってもおかしくないわけである。

「人文知は単に「役に立つ」のではなく、“役立つ舞台”そのものを組み立て直す装置でもあります。意味生成・規範設定・存在論的アンカーが欠落すれば、どれほど精密な技術も政策も 根拠なき計算 に堕し、リスク統治は機能不全に陥るでしょう。人文学を削ぐことは、社会がもつ自己修復・自己調整メカニズムを同時に削ぎ落とすことに他なりません。」

https://x.com/kurubushi_rm/status/1926454995760640491

「役に立つ舞台を組み立て直す」と言っているけれども、それ以前にその舞台を組み立ててきたのも人文学だ、ということは大事だと思う。私自身としては人文系学問の1番大きな意味は「森羅万象のものの見方」を提供することだと思うのは、自然科学も社会科学もそういう認識論的次元に還元されたら人文学的な言葉でしか説明できない部分はあるからである。コンピュータでさえブール代数という論理演算、つまりは人文学である論理学が基礎になっているわけだし。

読書猿さんの広範な知識や網羅主義的なものの考え方というのはすごいなと思うし、なるほどこういう説明もありかと思い、自分が知らないもっと知った方がいいこともたくさんあるなと再認識させられたのは大変ありがたかった。

しかし、まあその問いの根本のところで、「学問とは(全ての科学的営為も含めて)果たして「役に立つ」ものなのか?」ということもあるよなと思う。つまり、「役に立つ」というのは何らかの「目的」があって、その「目的」を満たす、達成するために貢献する、ということだと思う。「役に立つ」というのはこの文脈では圧倒的に正しいことのように言われているけれども、果たして「役に立つ」というのは常に良いことなのだろうか。例えば小説の中で「あいつは役に立つ」という言葉が出てきたとき、必ずしも褒め言葉でないことは明白だろう。「あいつは日本人だが役に立つから生かしておけ」みたいな感じで、ある種の蔑みの裏返し、役に立たなくなったら価値はない、という文意があるのは明らかだ。「役に立つ」というのはある意味「大人の論理」である。

「学問は役に立つか」という問いに対しては、例えば「学問はためになる」という答えはあるかもしれない。講談社の昔のキャッチフレーズに「面白くて、ためになる」というのがあり、効用重視の大衆出版の面目躍如という言葉ではあるが、「ためになる」というのは「役に立つ」よりはもう少し幅が広く含蓄がある。

実際、学問にとって大事なのは「役に立つ」以前に「それが好きだ」とか「これは面白い」というようなことだろう。やりはじめたらどんどん面白くなって世界を変えるような大発明や大発見につながったり、みたいなことはよくある。大人であるためには「ためになる」ことも「役に立つ」ことも大事だしそれがなければ世の中が回らないけれども、「これが好きだ」とか「これは面白い」ということもまた子供だけではなく大人も大切にして行っていいのではないかと思う。

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それにも関連するのだが、「アメリカでポップカルチャーが衰退する中、なぜ日本のポップカルチャーは大盛況なのか」という話も面白かった。

https://econ101.jp/matt-alt_japanese-popculture/

簡単に言えば、日本のアーティストは全然世界のことなど考えず、自分たちがいいと思い自分たちが面白いと思うものを作っているからだ、というのが答えになるわけである。

逆に言えば、例えばアメリカの映画は観客の反応を気にしすぎていて、「ウケそう」なものしか作れなくなっているけれども、日本のポップカルチャー、特にマンガはそういうことも関係しなくはないが(ジャンプのアンケート至上主義など)を気にせず自分たちがいいと思うものを作っている、というわけである。

これはウケるだろう、と思うものを作ろうとすると失敗する、というのはものを作ったことがある人なら大体わかると思うけれども、自分自身が本当にいいと思うものを作らなければ普通はうまくいかないわけである。

日本は日本の中でウケればいいということでものを作っていて、それが結果的にアメリカを含む世界で受け入れられているのだ、というのは本当にそうだと思う。

今もそうなのかは知らないが、少年ジャンプの編集者になれるのは男性だけなのだそうだ。(「バクマン」で読んだ覚えがある)つまり、ジャンプというのは男による少年のためのマンガ雑誌であって、これは「鬼滅の刃」の吾峠呼世晴さんなど女性作家が書いていても男の子に受けるか、という目で見られている、ということである。これはある意味すごいことで、実際には多くの女性がジャンプやジャンプ漫画を読んでいて、その視線からの注文などはしょっちゅうネットでも見るわけだけど、「女性の目線を入れる」ということを頑なに拒んでいるということで、それによってジャンプ漫画の質を担保している、というところは絶対にあると思う。

つまり男性が自分たちにとって面白いものを作ったらそれを女性もいいと思った、というのが結果であって、女性の目線が入っているから女性にも受け入れられているわけではないということである。逆に女性の目線を入れることで廃れてしまった男性向けのものなどもいろいろあるように思う。

これは作家は女性でもいいというのがミソで、実際のところアダルトものだとか男性向けエロコンテンツなどはかなりの部分女性作家が描いている。だからフェミニストなどがこういうコンテンツを攻撃すると女性作家の職を奪うことにつながるというジレンマがあるわけである。

フェミニストやポリティカルコレクトネスを主張する勢力はコンプライアンスを保ち国際的に炎上しないために自分たちを編集に噛ませろというような要求をさまざまなメディアに対してしているけれども、それは滅びの道だろう。

作り手が本当に面白いと思うものこそが他人にも面白いと思われるわけで、他人の意見を取り入れて作った作品がうまくいくということは普通はない。これは編集者と作家の関係にも似ていて、編集者の意見すら聞かない人もいてそれはそれでうまくいかないこともあるわけだけど、例えば「ONE PIECE」の尾田栄一郎さんなどは新人の頃は(今でもそうかもしれないが)編集者の意見をガンとして聞かなかったという話を聞いたことがある。

これは編集者の質や作家との相性ということもあるだろうけど、作家にとってそれは面白いかも、と思えるアイディアやそこは仕方ないかなと思えるような提案ができるかどうかというのが編集者の腕でもあるわけで、ただそれだけ作品内容に干渉する編集者というのは普通は外国にはいないそうなので、そこもまた日本文化なのかもしれないとも思う。

いずれにしても日本は日本の独自性とか独自の文化というものを持っていて、こういう困難な時代にはそれが強みになることも多いと思われるので、そういう意味でも矜持を失わずに自分たちにとって「面白くて、時にためになる」し、「結果的に役にも立つ」ものが作れていけばいいのだと思う。

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