「ジークアクス」8回「月に墜ちる」「月に堕ちる」:テイストの違うキャラ造形の自然な混在/国の仕組みは保守主義と自由主義が基本

Posted at 25/05/28

5月28日(水)曇り

毎日天気がいまいちだが、そのおかげで暑くなってないということはあるのだろうなと思う。昨日は夜半に少し雨が降ったようだが、朝には上がっていた。今(8時40分)は日差しが届いていたが、また陰った。

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https://www.gundam.info/feature/gquuuuuux/

「ジークアクス」の最新回を、朝起きてから録画で見た。番組単位の前半は何か関係ないバラエティになっているのでまずその部分を部分消去することから始めなければならないから、少し手間がかかる。前半が「月に墜ちる」後半が「月に堕ちる」とサブタイを微妙に変えているのがお洒落と言えばお洒落だがお洒落とはもっと違うおたく的なこだわりである気もし、いろいろな要素がぶち込まれているということなのかなと思った。

「月に墜ちる」の方はよくわからなかったが要するに過去パートということか。シャア大佐、というのはガンダムを見ない私でも知っていた。インターネット初期の「Read me!」という巨大サイトリンク集=ランキングサイトに「シャア専用」という文字があった印象が強い。それがガンダムの登場人物であることは後で知った。構造としては連邦軍とジオン軍が戦っていて、ジオン軍の内部ではギレン派とキシリア派が対立しているということか。7話のラストで髭の人が「どちらも死んでもらわないといけない」とか言ってたから第三勢力もあるようだが。

この辺は初代ガンダムの設定でどこかで読んだ覚えがないことはないのだが、やはり続編だから古典を履修しているかどうかで理解度が変わってくるし、古典との「ずらし」がどこでどの程度あるのか、また古典のどの箇所を再解釈するのか、というようなところが古典知識がないと楽しみにくい、ということはあるんだろうなと思った。

ただ、一番見ていて思ったのは、ニャアンとかマチュとかのジークアクス独自のキャラとガンダム世界の構造を作っているキャラクターの間には、キャラ造形の思想がかなり違うものがあるなということだった。ニャアンの大きな切長の目と、七色のマチュの瞳がまん丸で真っ赤になったりする描写は私はすごく好きだなと思うのだけど、下手をしたらバランスを崩す可能性もあるわけで、今回は出てこなかったけど違法賭博の当事者みたいな女社長の髪型の造形とか、かなりお洒落ではあると思うけれども古い要素と新しい要素を融合させるテクニックはすごいなと思った。

私が子供の頃のアニメ、「マジンガーZ」とかは30分1話完結みたいな感じだったからその中での展開はとても早かったけど、最近の「ワンピース」とかは引き伸ばしてるのかと思うくらい展開が遅いことが多い。しかし今回の特に後半の「月に堕ちる」はかなり展開が早く、15分間で2人スパイが見破られて殺されていた。まあこのくらいでも起こっていることがなんだかはわかるので全然OKだとは思ったが。

ガンダムといえばガンプラということのようで、若い女子がガンプラを作っているCMも挿入されていたが、ロボットアニメというのは超合金とかプラモデルとかそういうものの販促という要素もあったなと改めて思い出した。

私はロボットアニメというのは「マジンガーZ」あたりのもの、「鉄人28号」とかの古典ものなどしか見ていなかったので造詣は深くないが、ガンダムやエヴァンゲリオンが長期にわたって映画やテレビアニメになって受け継がれてきたのかなと思う。

それで考えていて、私が一時かなりハマっていた弐瓶勉「シドニアの騎士」もまたこういう流れがなかったら現れなかった作品なのかもしれないとようやく気が付いた。私の印象としては同時期の「進撃の巨人」の印象が強く、それと似た雰囲気を持ったものとして「シドニアの騎士」を見ていたのだけど、確かに宇宙空間で戦う巨大人間型ロボットというのはその伝統を引いているのだなと今更ながらに気付いた。

「ジークアクス」もある意味昭和の雰囲気を醸し出している場面とかが結構あったせいもあり、「シドニアの騎士」のそういう場面を思い出していたのだが、「巨大人型戦闘ロボット」というもの自体の伝統の中に位置付けられる面もあるのだなと思ったし、なかなか通好みの枠から出られなかった弐瓶勉作品がメジャーに出てきたのも「衛人」と呼ばれる人型戦闘ロボットのおかげだったのかもしれないなと思ったりした。

まあ、ジークアクスはそんなに予備知識がなくても面白いので途中から見たけど最後まで見てから機会があったら前半部分も見て全体像を確認してみようかなと思う。

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国の仕組みとかそれに対する考え方の幅について、雁琳さんのツイートなどを読んでいろいろ考えていたのだけど、こういうまとめ方は何度も多分少なくとも頭の中ではしたことがあって、今一番しっくりくるかなという形はこんなものかなというのを少し書いてみる。

社会体制や国家の仕組み、市場の仕組み、個人の自由などについて、なるべく従来のものを変えるべきではないと考えるのが保守派で、より個人が自由に行動できる方に変えようというのが本来の意味でのリベラル派であり、だから「保守党」と「自由党」が二大政党だというのが一番自然であるような気がする。そしてリベラル派のさらに左にはルソー主義やマルクス主義などの設計主義的な理想の仕組みみたいなものを使ってさらに社会の問題をなくしていこうとする一派があって、これが左翼と言われるものだと思う。

日本の場合は本来日本になかった社会契約の概念を日本に持ち込んでそれによって設計主義で国家体制を作るという思想が押し付けられて日本国憲法ができているから、現在の憲法を守るという方向性の人は普通はリベラルと言われるけれども、実際にはかなり左派的なリベラルというべきだと思う。

だからむしろ憲法を改正して日本の国柄≒国体にあったものに変えようという安倍元首相のような人が本来のリベラルだというべきなのではないかと思う。

また、保守の右側には今まで維持されてきた国の仕組みは伝統に反しているから昔に戻すべきだ、という意見があるわけで、それは超保守派などと言われるが熟語で言えば「復古」であり「反動」でいいと思う。ただ日本の場合は反動といっても江戸時代に戻るわけにはいかないので精々明治憲法で、明治憲法は基本的にオールドリベラルな体制だから、戻っても精々保守的リベラルくらいの感じなのだと思う。五箇条の御誓文が近代日本の基本と考えるのが良いのだろうと思う。

そして左翼と同じように体制変革を目指すが、その方向性が民族主義に寄っているのが「右翼」ということだろう。民族主義や国家主義というものは近代の産物なので、これは反動というよりは別の方向の思想であり、左派にしろ右派にしろ全体主義的方向性で平等性を目指すことが多いから、全体主義という別カテゴリーに入れた方がいいのではないかとは思う。

いずれにしても「今・ここ」を重視する保守主義と、「私・親愛」を重視する自由主義、みたいなものが地に足がついた考え方であるだろうと思う。

もちろんこれだけだと「新自由主義」など現実の世界史的現象を網羅するには単純すぎるのだが、新自由主義の基本は経済的自由主義が左翼思想の一部を取り込んで悪魔合体したものなので、リベラリズムの分析の中からそれらも見えてくるのだろうと思う。

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