東大のDEI声明と学術会議問題に共通する懸念/「インテリ病」と「地に足のついた知性」/勢いのある政党に群がる難あり候補者たち/町おこしに必要なもの:中標津モデル/自分の本分を考える

Posted at 25/05/16

5月16日(金)曇り

昨日は時間があったはずなのだが、いろいろとものを考えたりしていたらあまり時間がなくなってしまった。お昼前に急いで車でクリーニング屋に行ってワイシャツを出し、ワイシャツとセーターを引き取って、そのまま西友に走ってお昼の買い物など。買うべきものが結構あるはずなのだが思い出せず、思いついたものだけ買って、ついでに併設の百円ショップを見て付箋を一つ買った。自分の頭の中で103円だなと思っていたのだが無人レジでバーコードを読ませると110円で、そうだ消費税率は10%だった、と思う。頭の中で時々古い税率になっている時があるのだが、5%や8%ではなく3%が出てくるのは、それが最初の消費税率だったからなんだろうなと思う。

帰ってきてお昼を食べて少し横になったら眠ってしまった。どうも最近疲れが出ているのと、少し前にも書いたが低潮期なんだろうと思う。

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東大総長のDEIに対する声明について思ったこと。

https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/articles/z1304_00125.html

DEIというのは最近ポリコレに変わってよく言われるようになってきた言葉で、元々はアサシンクリードシャドウズの問題でフランスのUBIソフトが織田信長に仕えた弥助を黒人侍としてヒーロー化することに日本のゲーマーその他が歴史改変だと異議を唱えたときに、UBIソフトの特徴として挙げられていたのがこの言葉だったから、基本的にあまり印象が良くない。

意味としては「Diversity, Eqity, Inclusion」つまり「多様性・公平性・包摂性」という一見良いことのように見える言葉であるが、ヨーロッパやアメリカが移民政策で失敗して社会が分断化されていることや、性的多様性の問題でフェミニスト内部でも分裂が起こったように、問題の多い概念でもある。これは個人の信念としては必ずしも悪いことではないけれども、それを推進する運動家たちが社会の実態を無視して強引な政策を強要したり社会的な合意が形成される前に社会を変革しようとしていることに大きな問題があるということは言える。

大学など学問の場においても、公平性という観点から見ても女子枠などを設けることによって男子学生や男性研究者の未来を断つような施策が行われており、抗議運動も行われている。少子化に伴う研究予算や大学予算の削減の中で特定の集団を優遇することがそれ以外の人々にどれだけダメージになるかを大学当局は理解していないか理解していても無視しているのだろうと思う。

そのような政治的で不平等なやり方が本当に学問の進展に寄与するものなのか、一度立ち止まって考えるべきだし、声明にもあるように「世界的に行き過ぎに対する見直し」の動きが起こっている中でそれを「逆風」と表現し、あえて強行突破しようという姿勢は評価できないと思う。

これは日本学術会議の問題にも共通するが、こうした学問や大学の問題が無駄に政治的な左右対立に持ち込まれるのは良いことではない。日本学術会議が戦後の創立の時から日本共産党の大きな影響下に置かれていたことは誰でも知っていることであり、そうした政治的な影響を排除することは必要なことだろう。法人化がどのように進められどのように結果するかはまだわからないが、本当の意味で公正中立であり、なおかつ国家と国民の公共の福祉に資するような学術団体に生まれ変わってもらいたいものだと思う。

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これと関連することだが、「インテリ病」という言葉がある。インテリとは知的職業についている人、あるいはその予備軍やワナビーもしくは引退者ということになるだろうが、最近は高齢化の影響で引退者の勢力が強くなっている感じはある。ただこの「インテリ病」というのは概ね「社会の実態(産業的なものや人生の深みなど)に関わることが少ないのに知性万能主義に陥り、社会を評価したり構想したり上から目線で語りまた冷笑するだけで実際には何もできない人々」みたいな感じで言われることが多いように思う。

ネットでこの言葉を検索すると最初に出てくるのが弁護士出身の政治家である橋下徹氏の発言であるのは印象的で、もちろん彼は自分がそうしたインテリ病には陥っていない、と考えているのだろう。彼の政治的な実行力をみてもそういう「本音としての大阪市民・大阪府民の思い」を汲み上げるのが上手だったと思うので、「本音を語れないのがインテリの弱点」ということも指しているのだろうと思う。

これは先に書いた東大とDEIの問題にも関わるが、DEIというのは実質的にはある思想・ある運動として推進されているので非常に政治的なものであり、それを推進するということは「ある種のカルトの主張」を推進することに近いものがあることに注意すべきである。それだけ大学という場所の政治化・特定思想の汚染が進んでしまっているということでもあるが、ウェーバーのいうところの価値中立的な規範が実際には今強く求められているように思う。

逆に言えば、DEIの推進というのはある意味反知性的な行為であり、日本最高の知性の府であるとされる東京大学で反知性的な動きが強くなっているのは憂慮すべきことだろう。東大は「DEI運動」に対しても毅然と「公平・中立」の立場をとるべきだと思う。

インテリ病という言葉との関連で言えば、ある意味「インテリ病にかかったインテリ」というのは「中途半端な知性」であるというべきだろう。フランシス・ベーコンの言うように「知は力なり」であり、知性は本音をも包摂して力強く推進されるべきものだと思うし、それには保守的な意味での「我々が我々自身であることへの愛着」があるべきだと思う。そうした地に足がついた部分がないから、ポピュリスト政治家に罵倒されても言い返せないと言うことになるのだろうと思う。

戦後も80年になり、戦後の歴史にある意味自信を持った層が大学のトップにいる時代ではあるわけだが、戦後もまたある種の歪みを持った時代であることに多くの人々は気づいている。しかしそれはうまく言葉にされないできているから、表面的な戦後の歴史の賞賛に違和感を感じながらもそんなものかと思わされてきた。そこにアンチテーゼとして右派的な思想が投げ込まれたときに多くの人々がそれに飛びついたが、そちらもまたしっかりと足に地がついたものになっていないので圧倒的な支持を得るまでには至っていない。

戦後80年と言う時期に世界的にも大きな動き、特にトランプという異形の超大国の大統領が現れたことを一つの奇貨として、少し深いところから日本社会のあり方を考えてみるのも良いのではないかと思う。

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参議院選挙が近づき、各党の候補者などが発表されているが、「現役世代の負担軽減」を唱えて党勢を一気に拡大しそうな国民民主党の候補者選びが批判されている。今までの政治活動の中でいわば「スネに傷を持つ」候補、不倫問題を起こしたり反ワクチンを唱えて批判されたりした候補が含まれているからである。

政治家というのは世の中を良くしようと思い立って人生をかけてこの世界に飛び込む人が多い世界であるわけだけど、そうした中には当選したり落選したり、その時の勢いで浮き草のように勢いのある政党に飛びついてそこから立候補する人たちがいるように思われる。今回はそういう候補が国民民主党に群がっている感じがあり、この人を公認してもマイナスにしかならないのではないかと思われるような候補が多く感じられるのは、有権者のこの党に対する期待を失望に変えつつあるのは残念なことだと思う。

「現役世代の負担軽減」という主張自体は真っ当な話で、所得減税や社会保険料の引き下げなどは現在の納税者=現役世代にとっては期待に応える施策だろう。それに対し補助金や現金給付というのはどうしても低所得者、特に年金世代などに原理的に偏らざるを得ない面がある。消費税減税はどの世代に手厚いということはないのである意味公平だが、今は一見不公平に見えても現役世代に手厚い施策が行われるべきだと思う。

そういう意味で、国民民主党にはたとえ無名でも志を持った新人を立候補させてほしいと思うのだが、現状あまりうまくいっていないようには思われる。

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私も地方にいる時間が長いので「町おこし」ということには一定の関心があるのだが、一つうまくいっている例として北海道の道東の中標津町が「中標津モデル」と言われて注目されている、というのが興味深かった。

https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_01469/

地方にいろいろ町おこしに成功しているところがあるが、道東といういろいろ不利そうな場所でこれだけできるというのはすごいなと思う。

https://news.yahoo.co.jp/articles/fa40bc692c86cef3ffe458955d7c0422070696a5

中標津がモデル視されているのは「中心部」、つまり行政の中心や商業的中心、交通(中標津空港など)の中心や病院などのある地域が、住民も多く住み、そこで職住接近しているだけでなく、隣接の別海町などの乳業工場や酪農法人などに通うベッドタウンの機能をあわせもっているということのようだ。いわゆるコンパクトシティという面が強調されているようだ。

しかし考えるべきはそうしたことも興味深いとは思われるけれども、そこでは農業(酪農)・製造業という「生産業」がその人口を支えているということだと思った。

私が今いる長野県の周辺でも、若者人口の増大に成功している市町村としては例えば上伊那の南箕輪村がある。ここには信州大学の農学部があるなど若者を集めやすい要素もあるが、大きいのは諏訪湖畔の岡谷市にあった工場が移転先にこの地域を選び、「仕事がある」ということが大きい。また「村」なので地価も安く、家を持ちやすいということも挙げられる。先日この村の図書館に行ったのだが、中学生くらいの子供たちがたくさんいて懐かしい感じがした。中心街である伊那市にも近いので、大規模な小売施設などもあり、そういう面でも困らないようである。こうした点は山梨県の西部の南アルプス市などにも共通している。

町おこしには伝統的な都市文化を再興するということが重要だという意見もそれはそれで必要だと思うのだが、やはり製造業や農業などの「人手を必要とし給料を出せる産業」が必要だろうと思う。それもまたトランプ政権の意図することと同じだろう。

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いろいろと自分自身のことを考えていて、「自分の本分」というものを見定めて取り組む必要があるなと改めて思った。「役割」とか「使命」という言葉でも考えたのだが、どうもどれもあまり地に足がつかない感じなのだけど、「本分」という言葉が自分にとって一番しっくりするような感じがした。それは多分、大きく言えば「文化を伝えていくこと」なのだと思っている。その形がいろいろあり得るということではあるのだが。そしてその中で、自分自身にとって親しみの持てる場所や愛着のあるものを選び、人々との関係を作り、それを守り育てることがやるべきことなのかなと思う。保守主義というのは本来、そういうものなのだろうとも思ったりしている。


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