「今はもうAIしか論文を読まない」と「AIは信用できるか」/「コスパ意識」と「教養の意味」/「人の話を聞くこと」と「話の面白さ・わかりやすさ」

Posted at 26/02/25

2月25日(水)雨

今朝は朝から雨が降っていて、気温はそんなに低くない。5時に起きたがその時の気温は10度を超えていた。今は8.6度なのでむしろ下がっているのだが、天気図を見ると前線が通過したということなのかなと思う。前線は停滞前線なのだが、この時期にこんなものが出るということはそんなに珍しくはないのだろうか。

昨日は午前中少し畑で竹を切って入浴してから銀行やスーパーに出かけ、午後は昼食を食べてからまた裏の畑で竹を切っていたのだが、だいぶ見通しが立ってきたので少し安心した感がある。見通しが立ってくるとやる気も出てくるのだが、今日はあいにくの雨で、まあここのところ忙しかったから一休みしろということかなと思う。家の中の仕事とかは結構たくさんあるのだが。

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社会や政治絡みのことで書きたいことが今日はないなあと思いながらTwitterを見ていたのだが、印象に残ったものについて少し書いてみたい。

https://x.com/TJO_datasci/status/2026168795342192725

「コンピュータサイエンスに三角関数は不要か否かという議論がバズっているのを見かけて、「〇〇は無駄だから勉強しなくて良い」という口実で若い人たちが勉強する量を減らそうとする行為自体が浅ましいなと思った。若くて脳が柔軟なうちに沢山勉強して身に付けることの重要さを理解していない議論かと」

若者のコスパ志向はかなり極端に進んでいる感じはする。ただいつの時代でも、そんなに無駄なことを好む人たちはいないわけで、「教養」というバックグラウンドの形成の意味に自覚的なのは経験を積んだ大人の方であり、信用できる大人に感化ないし薫陶・影響を受けてそのように考える一部の若者が深く幅広い実力を身につける、ということが繰り返されてきたのだと思う。

そういう意味では国立大学で5教科を課すことなどが極端に走らない歯止めになっていると思うし、コンピュータサイエンスにおいても今現在必要がなくてもそういう分野を踏まえた新しいジャンルが出てくることなどは日常茶飯事なので、数学や物理などにおいても基本的な教養レベル、そしてその基礎になる高校レベルの内容は全て身につけておいて損はない。

こういうIT技術やAI技術が進展していく過渡期の現在において、「教養」とか「ものを知る」ということの価値は等閑にされがちなのだけど、立ち止まって振り返り、自分自身を検証するときに、そうした教養こそがそれを可能にするということがつまづいたことのない人にはわかりにくいのだろうなと思う。

左翼リベラルの頭のいい、教養もあるはずの人たちが、特定の固定化された教義や「謝ったら破滅だ」という意識に囚われて自分を振り返ることができないでいるのは見ていて痛々しいし気の毒だとは思うのだが、教養を踏まえた上で他者を批判するのと自分の知っている教義だけで相手を攻撃するのとでは自分自身に返ってくるものが違う。寂しい死に方をしたくなければ幅広い教養を持った方が良い死に方ができるような気はする。

https://x.com/Takenoko1080/status/2026214021435900414

「音楽教室から出てきたお母さんが息子くんに「ピアノを弾く弾かないという話ではなく、まず人の話を聞くという姿勢がなってなさすぎる。人から習うということは人の話を聞くということ。これが出来ないのなら習い事の意味はないので改善しないようなら習い事を全てやめる」とお説教をしていてその言葉にとても感銘を受けたので、いつか部下に説教する時が来たら丸パクリしようと思い立ち、ここにメモする。」

こういう「コスパ意識」というものは「人の話を聞くのは無駄」という子供っぽい意識とも重なる部分がある気がする。「人から習うということは人の話を聞くこと」というのはまさにその通りで、私なども子供の頃はかなりそれが苦手だったからこの子供のことを笑えないなと思う。

ただ、私は人の話を聞くのが苦手だったから、いつも「もっと面白くわかりやすく話してくれたらもっと聞く気がするのに」と思っていた。だから自分が話をするときや文章を書くときにはなるべく面白くわかりやすくしよう、というのが習い性になっているところはある。もちろんわざと曖昧にわかりにくくすることもあるのだけど、それはまあそういう作戦の時に限る。これは多分、私だけでなく話が面白い人、文章が面白い人の一つの特徴ではないかと思う。人の話がつまらないから自分は面白くしようと思うわけである。大学の先生などには時々そういう人がいて、なんか同類だなと感じる時がある。

人の話を聞いたり本を読んだりするのは基本的にめんどくささと無縁ではない。読んだら面白いと分かっていても面倒な時はある。だから、コスパ意識やめんどくささに負けないくらいの面白さは持とうと私などは心がけてはいるわけである。

https://x.com/koro485/status/2026371493668507810

「様々なジャーナルで、それまでずっとフラットトレンドだった論文ダウンロード数が2024年9月ごろから激減しているみたいで、要するにAIしか論文読まなくなってるっぽいな。」

そして極め付けはこれである。学者・研究者というのは論文を書くだけでなく読むのが主要な仕事の一つであるわけだけど、その学者ですらAIに論文を読ませて自分では読まなくなっている、というわけである。この方の他のポストも読んでいると「よくないAIの使い方」にもいろいろ言及しているけれども、自分にとってあまり身近でない分野の論文をAIにまとめさせて概要を掴む、という程度ならまあいいかとは思うが、少なくともそれを自分の論文で言及するようなことがあれば原文をあたるべきなのは当然だろう。

自分の考えの先行研究がないかというようなことを調べるにはかなり有効だとは思うし昔はそこで相当労力を使っていたからそこはありがたいとは思うのだが、「AIしか論文を読まない」というのはかなり笑ってしまったけれども、下手をしたらそのうち「AIしか論文を書かない」にもなりかねないわけで、それはどう考えても人類の進歩にとっては弊害なのではないかとは思う。

こうなってしまうのは論文をいちいち読むのは「コスパが良くない」という意識だろう。私も若い頃は新しい分野について知ろうと思ったときに、歯がたたなそうな専門的なものではなく、講談社現代新書などのその分野の概説書を読むことが多く、それだけで済ませてしまうことも多々あった。

こういうのも基本的にはAIに論文を読ませて自分はそのまとめしか読まない、というのと一脈通じるところがあるから自分もそんなに偉そうなことは言えないのだけど、まあ自分がAIにそんなに頼らないのはAI(やそのまとめ)がいまいち信用できないからで、そこは今のところコスパに優先する部分だなとは思う。

AIが言っている営業時間を信用して行ってみたら閉まっていた、みたいなことは実際よくあるし、その情報の誤りに責任を持つ人がいないというのもAI信頼できない根本なのだよなと思う。人間の書いた文章なら苦情を言う相手もいるが、AIだとそれを信じた方が間抜けだった、と言うことにしかならないわけだし。

「AIは信用できる」と言う仮定に基づいて行動するのはおそらくコスパが良く面倒も少ないことだとは思うが、それが自分をどこに連れていくかと考えるとちょっと怖いなと思ってしまうのだけど、そう言う人は今ではもう少数派なのだろうか。そうでもないのだろうか。

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