「全体状況」は視点により変わる/「知」への偏りと「情・意」との付き合い方/「身口意」と呼吸:介在するもの/「ふつうの軽音部」「正反対な君と僕」「豊臣兄弟」/総選挙雑観:高市首相と大阪の自維対立

Posted at 26/01/26

1月26日(月)晴れ

今朝も冷え込んでいるが、雪は降っていない。ただ昨日が結局真冬日だったので、雪かきがなされているところは雪はないがなされていないところで日が当たらないところはそのまま残っている。今朝の最低気温は今のところマイナス9.4度だが、まだ下がる可能性はあるだろう。

朝一度起きたのは4時前だったが、トイレに行ってからもう一度床に入り、頭や目に行気をして少し休め、起きたのは5時ごろだった。それから少し支度して出かけ、ジャンプ・ヤンマガ・スピリッツとボスのカフェオレを近くのセブンで買い、職場にものを取りに行って帰ってきた。

頭の中の整理ができていないなと思ってまず全体状況の把握から、と言うようなことを考えていたのだけど、全体状況というのはとりあえずは今自分を取り巻く「全体」というか、自分がやりたいこと、その他守備範囲のことを捉えるということになるが、その中には世界の全体状況を考える、みたいなこともあるわけで、その意味では「全体状況」と言っても何をテーマに、そしてどこを中心に考えるかによって何が全体かというのが変わってくる。自分の関心領域という意味では関心領域全体の中で世界の全体状況は個別状況になるわけで、その辺をきちんと整理することが大事だなと思う。

自分を取り巻く状況というのを考えても、自分の人生の全体状況と個別状況という問題設定と、自分の今日の全体状況と個別状況というのでは捉え方が変わってくるわけである。この辺は実は自分の中で結構混同されてきたことなので、ちゃんと整理しておかなければならないと思う。

これは例えば日本を主体に考えれば、世界の全体状況というのはある意味個別状況であり、日本の社会問題とある意味並列的に取り扱われる部分がある。もちろん世界の全体状況を主体的に考えれば日本の状況は個別状況になるわけだけど、そこもまた我々は日本にいる日本人なので、それに重点が置かれるのはある意味当然であって、アメリカにいるアメリカ人が考える状況とはもちろん重なる部分は多いにしても違う部分も多くなってくる。世界がデフォルトで存在するわけではある意味なくて、そこにはある意味での自然科学でいう「観測者問題」が起こってくるわけである。

だから当然ながら西欧人が構想する世界史と日本人が構想する世界史は大きく異なってくるし、これは極端に言えば個人によって捉え方が変わることもある意味当然なわけである。そこを共有していくことで世界史の全体像が形作られては行くが、そういう意味で「完璧な世界史」というものは存在しないということになる。

だから自分なりの世界観というものは当然あるわけだけど、それがどの程度客観性があるかとか、他人と共有可能であるかとか、異文化の人と共有し合えるかとかは、そう簡単なことではない。それこそ造物主がこの世界を作ったという世界観と自然発生したという世界観は根本で対立するわけだから、そこにおける「ルール」の考え方もまた変わってくるだろう。その辺はおそらく「例えば自由はリバティか」に書かれているような問題とつながってくるのだろうと思う。

まあ、頭がごちゃごちゃするから現在の自分の全体状況を考えて、ということを考えているうちに全体状況と言っても色々だよなと考え始めてそんなことを考えていた。まあそこはそれなりに整理はできたが、自分の今の全体状況の把握はこれからである。

***

で、自分自身の問題を考えているときに、最近思ったことで割と頭で考えると妥当かどうかかなり迷うことでもこれはこうすべきだ、ないしこうするのが正しいというのが客観的にはわからないが主観的にはそうだ、みたいなことを迷いながら実行してみて結果的にその方向もありになりそうだ、ということがあった。自分は割と知性偏重というか考えて正しいとかこれだと思うことについても、他の面から考えるとこういう可能性もあるしああいう可能性もある、となってしまって踏ん切りが遅い、という部分があったのだが、見切り発車せざるを得ない状況で動いてみた、ということがあり、知性と意思の葛藤、みたいなものだなと思ったわけである。

それで、そういえば「知情意」という言葉があったのを思い出し、知、つまり考えていることと情、つまりそれに対する気持ち、それから意、つまりやりたいこと、というのが一致していると行動はしやすいな、ということを思ったわけである。知情意の一致とでもいえばいいか。

そしてこれは人間のタイプにも当てはまるなと思って、エニアグラムや野口整体の体癖のことなどを思い出していたのだが、例えば知情意のうち知=考えが強いタイプはいろいろ考えて決断が遅れがちになるし、情=気持ちが先に立つタイプは決断が歪みがちになるし、意=やりたいことが先に立つタイプは決断が拙速になったりフェイルセーフが見落とされていたりしがちになる、みたいなことはあるなと思った。

同時に、考えてもよくわからないけどここはやるべきだ、と思ったり、気持ちとしてはやりたくないけどやろう、となったり、やる気は出ないけど合理的に考えたらやるしかない、みたいになったり、知性的には無駄な気はするけど気持ち的にはこれがいいのでは、と思って動いたり、それぞれの判断のバランスが結構ときによって変わったりすることもあるわけである。それは自分の中だけでなく人によって動かされることも多いわけで、そこに人間の社会性というものが関わってくるのだろう。

やりたいと思うことにしても、「あいつには絶対負けたくない」とか「面白いことはやりたいがつまらないことはやりたくない」とか、なるべく平和で穏便な方向性を選びたいとか、面倒くさいからいろいろ考えたくない、考えずに行動したい、みたいないろいろなことがもちろん人間のタイプにもよるけど一人の人間の中でもいろいろ起こるわけである。

そのようなそれぞれの「考え・気持ち・やりたいこと」の方向性によってタイプに分けるのがエニアグラムだが、まあ理想的には考えと気持ちとやる気が一致して行動するのが一番迷いがなく理想ではあるわけである。というか逆にいえば迷いというのは一つの領域の中だけでなくて魂の全体的な不協和音みたいなものとして現れるわけで、迷いながらも実行する、ということ、わからないけどやってみる、ということはまああるわけである。そこに例えば「信頼」あの人の言うことだから、と言うことがあったり、「占い」みたいな超自然のものに対する信頼というか依存というかというものもあったりするわけで、最終的には知情意それぞれを超えたところの「勘」みたいなものが人間にとって重要だったりするわけである。

まあこういう心ないし魂の構造というのは遡ればプラトンの思想に至るのだが、プラトンはこの魂の三分法を「統治者=知性」「防衛者=意志」「生産者=感情」という国家構造から発想したということのようで、あまりそういうふうに考えたことがなかったのでAIというものは整理が上手いなと思った。

それが発展してカントの純粋理性=知性、実践理性=意志、判断力=感情という三つの批判書の哲学に発展したということだから、知情意というのは実際西洋哲学の王道的な考え方なのだなと改めて思った。この辺は知識としてはあったにしてもあまり腑に落ちていなかったので今回考えて調べてみてかなり納得できた感じはある。

で、これはやはり西欧的なものだから、例えば仏教ではこの辺をどう考えていたのかと思って検索してみたら、「身口意」という概念があり、身体的な行動、言葉、心という三分法になっていて、「知情意」の方は結局は心の働きのみについて考えているわけだからつまりは「霊肉二分論」、身体=肉体は心の働きに従うもの、という考え方が強いことがより納得できたりするわけである。

ここで仏教が優れているというか面白いなと思うのは、身体と精神=心の間に口=言葉を入れていることで、つまりこの「言葉」が身体と心を介在するものということになるのだろうと思う。ヨーロッパ的なロゴスというものは介在者というよりはむしろ絶対的な神の言葉みたいなイメージが強いが、仏教的には介在者であり、ということはつまり状況によって変化する方便ということになるわけだから、言葉よりも行動や心根を把握する方が大事だということになり、この辺は日本でもそういう傾向は強いのではないかという気はした。

これは仏教ないしインド的な(つまりヨーガ)修行法においても「呼吸」を重視することが多いわけで、これはつまり呼吸というのは基本的には不随意運動(身体の領域)であるのに意志的にもある程度コントロールできる(心の領域)ということから身体と心の懸け橋になるからだ。心のありようをコントロールするために身体、つまり呼吸を使って整えることができ、また呼吸をうまく整えることで身体のできる領域を広げる、というような介在者としての大きな重要性を持っているということだろう。

おそらくは仏教の無常観とか縁起説、全てのものは実在ではなく関係としてそこにある、みたいな考え方もまた呼吸という介在者を重視することと通底する部分はあるのだろうと思う。

まあAIというのは実際、大まかに大体のことを示すのは結構得意なんだなと思った。40年前にあったらこういう学問に勘が悪い自分であってももっと理解が進んでいただろうなと思うとちょっと残念ではある。まあこれは最初に書いたように自分が「知」に傾きすぎていて、「情」や「意」に関わる問題にうまく対処できないでずっと来ていて、かなりの歳月の間にようやくだんだん少しは掴めてきた、ということが大きくて、勘の悪さを長年の生きてきた過程の中でようやく少しは補えたかな、という感じではあるので、40年前に言葉だけ知っていてもどこまで理解できたかはわからないかも、とは思ったのだが。

***

昨日読んだ「ふつうの軽音部」96話、アニメ「正反対な君と僕」3話、「豊臣兄弟!」第4回についてもいろいろ感想を書きたいのだが、少しずつ簡単に。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094913779623046

「ふつうの軽音部」96話「大嘘を歌う」はついに主人公鳩野たちのバンド「はーとぶれいく」のライブ場面なのだが、とても良かった。感想欄に「歌うたびに最高を更新してくる」というのがあったけど、本当にそうだと思った。歌われたのは「忘れらんねえよ」というバンドの「あいらぶ言う」と言う曲だったのだが、MVを見るとドルオタの男たちが推しをニコニコしながら語る場面から始まり、人を好きになると言うのがどう言うことなのか、男があまりニコニコしすぎるのは気持ち悪い、みたいな感じもやはり本質であって、それでも思い余って男が泣いてしまうくらいの気持ちというのが恋なんだな、最高で最低だな、と思うわけである。

https://www.youtube.com/watch?v=uU-Ui0aPT3c

歌唱の場面は圧巻なのだが、そう言う意味で「恋するキモい男の代表例」みたいなヨンスの表情がすごく良かった。歌を聞かせたい相手としてはまず第一に片思いをしている水尾と、呼び止めてまで聞いてもらっているレイハなのだが、はーとぶれいくのメンバーもその歌声をすごいと感じていて、軽音部の他のメンバー、特にトゲトゲピーナッツのメンツに届いている感じがよく、鶴先輩と七道の凄腕ベーシスト二楷堂まわりに届いているのも良かった。ラストはメンバー二人の反応がキモなのだが、それは読んでのお楽しみということだろうか。七道高校の上手そうなメンツや鶴先輩に引き止められた彩目に絡んできた草壁がどういう反応をするのかは来週のお楽しみということだろう。

https://sh-anime.shochiku.co.jp/seihantai_anime/

「正反対な君と僕」では平が中心の原作4話と図書館での二人を描いた原作5話だった。両方ともかなりモノローグが長いのだけど、割とうまく処理していたと思う。「ふつうの軽音部」でもそうだけど、最初はモブだと思っていたキャラクターが後になると彼らが中心の話が作られていく群像劇的な描き方が良いなと思う。私は絡んでくるようになったネアカな山田と常に変な想像をしている図書委員の西さんが好きなので、彼らの絡みも早くみたいなと思う。

https://www.nhk.jp/g/ts/P52L88MYXY/blog/bl/pwWYoeNnb2/bp/pzn4lv1Jl0/

「豊臣兄弟!」では桶狭間回だったが、普通なら信長の妻・濃姫とのやりとりになりそうなところに
妹の市がいるのが割と不思議だったのだが、実は史実の上ではこの時期には濃姫が生存していたのかどうかさえ不明確なのだそうで、彼女は子供は産んでいないと思われるので子供の出生年代からも特定できないということのようだ。そう考えてみると秀吉の姉や妹がどういう人だったのかかなり詳しい記録が残っているのはすごいことで、もちろん彼が天下人になったからこそではある。逆に彼や秀長(小一郎)が誰の息子だったのかは研究史的には不確かなようで、今回の大河では弥右衛門=筑阿弥説(つまり母なか=大政所は再婚していない)をとっているようだ。先日読んでいた新書では父方の親戚から秀吉の家来になった人も結構いるようなので、この時代の兄弟夫婦関係というのも興味深いなとは思った。

あと、桶狭間の後、計略を実行した家来を労った後、畳に大の字になって「勝った」と何度も繰り返す信長が描かれていて、この大河は基本的には怪物は出てこない(というか一番怪物っぽいのは秀吉だが)、要は「人間ドラマ」としての大河なんだなと思った。

そうそう、書き忘れていたが、桶狭間の殺陣はよかったなと思う。こういうのが丁寧に描かれていると楽しい。ただ刀より槍の方が実際には多く使われていたのではないかという気はするけれども。

***

国民民主党の玉木さん、政策について語っているときはかっこいいのに政局になるとグラグラして残念な感じになる、というツイートを見たのだが、まあそうだなと思う。この辺は旧民主党から希望の党、国民民主党の流れがあるからある意味仕方ないのかもしれないが、今回の選挙で議席を伸ばしてより主体的に連合などに対しての主導権を取るような存在になってくれると良いなと思う。

参政党は「高市さんを応援したかったら参政党へ」などとちょっとこすい手を使っていてどうかと思うし、今回は私のタイムラインの右寄りの人たちも参政党を見限った人たちが多いように思う。とはいえ、中道改革連合や参政党の力が侮れないものがあるのは確かなので、高市さんには頑張ってもらいたいと思う。

https://mainichi.jp/articles/20260125/k00/00m/010/167000c

ただ、今回の解散後の土日には街頭演説に立たなかったようで、ちょっとその辺はどうなのという気はする。何をやっていたのか明らかになると良いとは思うが、選挙戦術の分析をしていたのか、それとも引っ越しの片付けなどをしていたということなんだろうか。

https://mainichi.jp/articles/20260123/k00/00m/010/064000c

また、一つ問題になるのは維新と連立したことで、自民党が維新に惨敗している大阪でどう応援演説の日程を入れるかということが問題だということがある。お互いに今回は選挙協力はしない、ということで話がついたらしいが、他の都道府県はともかく大阪に関しては維新と自民は激突するわけだから自民候補側も高市さんの応援は欲しいだろうし、維新側も高市さんが自民議員の応援に入ったら感情的なしこりは残る可能性はある。その辺をどううまくやるか、差配が必要だという気はするがどうなるか。


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