令和人文主義の新自由主義性と自由に生きるための「法」の重要性/柳田國男の憲法に賭けた思い/ガソリン価格の低下と高市内閣の高支持率

Posted at 25/12/13

12月13日(土)晴れ

いろいろ朝やっていたのとマンガを読んだりしていたのでブログの書き始めが遅くなってしまい、あまり時間がない。いろいろと根本的に考えていたりすることもあって、何を書くかの考えがまとまらないまま考えたりネットでいろいろ探したりする感じになっている。

今朝は寒くて、最低気温はマイナス4.4度だったのだが、予報ではマイナス7度だった。朝起きた時にはそのくらい下がっているかもと思ったのだが、それほどでもなかった。洗濯機でタオルを洗ったのだけど水が出ないということはなかったのでまだ本当の真冬ではないという感じ。

6時ごろに出かけて隣町にガソリンを入れにいくついでに職場に出て少し仕事を片付ける。そのまま国道を走ってセブンイレブン併設のスタンドまで行って給油。5円引きチケットを使って154円。だいぶ下がった。今日は25リットル弱いれたが、例えば170円の時と比べて16円安いから400円違う。週に一度より少し頻度が高いくらいで入れているから、年に60回給油するとすると年で2万4千円違うことになる。ガソリン暫定税率廃止は本当にありがたい。国民民主党や高市内閣の支持が高いのも、こういうことをちゃんとやってくれているということは大きいだろうと思う。

「法と自由」ということを考え始めて、それがなんというか自分の割と深いところを動かしている感じがする。これは「たとえば「自由」はリバティか」を読んでからのことなのだけど、それまでは法というものは個人を縛るものだという固定観念が強く、法が人を自由にし、正義が実行されるなどということはどちらかと言えば綺麗事というか、お為ごかしだとどこかで思っていて、法の研究に自由が深く関わるなどということはまともに考えてこなかったのだなあとこの歳になって反省しきりである。経済についてもまともに考え始めたのはここ10年くらいの話だし、この歳まで生きていてようやくそういうことに思い当たるというのは遅いと言えば遅いのだがまあ生きてきた意味もあったということかもしれないと思う。

それに関連していろいろ考えさせられているのが「令和人文主義」の問題である。いくつかnoteなどを読んで考えたのだけど、主なところをリンクを張っておく。

https://note.com/bungakuplus/n/n7f809eebf081

https://note.com/yonahajun/n/n9f8fac28b86e

https://note.com/yonahajun/n/n82a48bf0755a

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n0a580b532f3f

https://note.com/nenkandokusyojin/n/ne9d96ad49c53

下の三つは令和人文主義とキャンセルカルチャーの問題、またこのワードの炎上に関する話、令和人文主義の軽さについてなのだが、より根本的な批判は一番上の小峰ひずみさんの論考である。

「市民」やその予備軍と考えられた「学生」を対象にするのではなく、「会社員」を受け手と設定するのが令和人文主義の特徴、ということを言っているのだけど、会社員は自立した市民ではなくて「手足」に過ぎないから、令和人文主義というのも結局は資本主義に文化を切り売りする存在になってしまう、ということが批判の中心なのだと思う。

そして、会社員でありながら市民としての法的主体に立つのは労働者として会社と対峙する局面になるから、人文学が労働者の立場に立ってきたという歴史があったのだけど、それを弱めるネットなどの発展がその可能性を弱めてきた、みたいな話はなるほどと思ったし、だから「人文学=左派」にならざるを得なかったのは「国家に代わって統治の主体になりつつある資本主義大企業」と渡りあわなければ主体としての市民性が得られなかったからなのだ、というのはなるほどとは思った。

「『なぜ働』は、新自由主義批判を行いつつも、新自由主義の考え方を無意識のレベルで広める本だと思います。三宅さんは教養主義の歴史から市民的な側面をカットすることで、「会社員」たちに「誰も市民などではなかった」と甘言を弄しているのです。」

私は三宅香帆さんの作品はフェミニズム用語が鼻について途中で挫折したのだが、フェミニズムの本質は市民主義というより新自由主義的な男性差別主義に過ぎないんじゃないかという気が最近してきていて、なるほどそういうことかと思ったりはした。

「もし、強きにおもねらず、長い物には巻かれないという矜持を持つならば、「市民」あるいは「群れ(マルチチュード)」に向けて書くという一線を絶対に揺るがせてはなりません。だから、谷川さんの言う「令和人文主義」を、私は次のように表現したくなります。

正社員様の哲学」

この辺は著者の「左翼としての矜持」みたいなものを感じるが、私は保守の立場ではあるが、こういう言説は全くその通りだと思う。

そうだなと思うのは、確かに自分が一体誰に向けて書いているかと考えてみると、少なくとも「会社員」に向けてではない。書いているものによって違うけれども、やはり基本的に「市民」に向けて書いているのだなと思う。主に「保守的市民」ではあるが。ただちゃんと聞く耳を持つ人であれば左翼的市民であっても読んでもらう意味はあるし、共感をできれば広げたいとは思う。

そしてもう一つの発見が柳田國男。

「創始者である柳田國男は民俗学を日本に「民主主義」を根づかせるために創りました。そして、後続の批評家である大塚英志が、民俗学を「公民の学」であると声高に言い続けなければならなかったのは、まさに民俗学が「知」としてあまりに面白く役に立つために、それが「市民」(公民)を形成するために創られたことを、誰もが忘れてしまうからではないでしょうか。」

民俗学を柳田國男が創始した意味、というのは読んだことはあったが、ここまで彼の「民主主義観」に根ざしたものだということは理解していなかった。

その関連で柳田國男と憲法について少し調べたら、大塚英志さんの文章ができた。

https://book.asahi.com/jinbun/article/13186801

大塚さんの文章というのは必ずしも全て賛成するわけではない(もちろんスタンスが全然違うので)のだが、この辺りは全く腑に落ちるというか読んでいて感動すら覚えた。

特に感動したのは柳田が書いたという次の文章である。

「人々の希望と政治

 たれでも、健康で働けることを、のぞんでいるでしょう。

 みんなの健康をまもってくれるために、保健所、水道、下水など、いろいろなしせつがあります。このようなしせつの費用は、どこから出ているのでしょうか。郷土や国の費用で、まかなわれているのです。

 だから、健康で働けるようにというみんなの希望と、郷土や国の政治とは、きりはなすことのできない関係があります。

 よい政治が行われるようになってから、病気で死ぬ人もだんだんへってきました。伝せん病をふせいだり、赤んぼうの死ぬのをもっと少なくしたりすることなど、医学の進歩ばかりでなく、政治の働きを必要とすることが、まだたくさんあります。

 私たちには、国や県や町や村に、こうしてほしいといういろいろな希望があります。それは、自分のためだけのかってな願いではなく、みんなのためになる希望でなければなりません。クラスの生活をよくするために、郷土の生活をよくするために、国ぜんたいの生活をよくするために、どんなことを希望したらよいでしょうか。

 学校、公民館、図書館、道路、橋、汽車、電車、郵便、電気、ガスなど、私たちの身のまわりのどれ一つをとってみても、郷土や国の政治と関係のないものはありません。

 みんなのえらんだ地方議員、国会議員と、村長、町長、市長、知事などが、みんなの希望をもとにして相談して、これからする仕事をきめます。きまったことは、役場や県庁や官庁が実行します。

 だから、国民の生活がよくなるのも悪くなるのも、おもに政治のよしあしによるのです。選挙と政治(小学校社会科教科書)「4 りっぱな議員をえらぶために」より」

こういうのは、今でもそのまま小学校の教科書に載せてもいい文章だと思う。

小峰さんの文章の終わりに、こういう記述がある。

「そこで最後に、人文学を担う学生のみなさんに訴えます。
 
たしかに人文学は厳しい状況に置かれています。その理由は先に述べました。そこで、もし人文学ではやっていけないなと思ったら、研究歴や業績をすべて投げ捨てて、法律を勉強してください。法の支配を立て直してください。もちろん、マーケティング会社やコンサルティング企業はみなさんの若さと人文知を高値で買い取るでしょう。しかし、安易に企業の側に入らず、ゼロから出発するべきです。そのうちの何人かは法務につくことができるでしょう。こちらは私がいま現在選んでいる道です。」

人文学と法の問題、特に「法の支配」の問題である。つまり、「人間を自由にするものとしての法」というものの根本的な思想に立ち返れ、ということを言っているわけである。

「会社員」にとっての法は「コンプラ」という企業活動を円滑に進めるためのアイテムでしかないが、市民にとっての法は自分たちがより自由に行動するためのものであるわけだから、特に表現の自由の問題など、うかうかしていたら奪われる可能性があるものと常に対峙する必要が出てくる。表現者であろうとすることは、必然的に法的な主体者である「市民」であることが要求されるということである。

その自由を奪おうとするものは左右問わず枚挙にいとまがないが、そこをしっかり考えて対処していくことはこれからを生きる人間にとっては必須になっていくのだろうなと改めて思った。自由を巡る戦いというのは、法をどのように考えていくかの問題になるのだということがはっきりしてくる。柳田國男が想定した未来をディストピアに終わらせないことは、自由を奪う無数の敵と戦っていくということでもあるのだなと思った。

ちょっと時間がないのでやや整合性にかける面もあるが、とりあえず今日はこれで。


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