中国動画ミームの隆盛と「高市政権ルネサンス」/京都の歴史的繁栄を地球科学で解く/火の用心の確認漏れによる帰宅とワイヤレスイヤホンの紛失未遂

Posted at 25/11/24

11月24日(月・振替休日)薄曇り

昨日はブログを書いてから準備して出かけたのだが、思ったより遅くなって出かける前に指さし確認をするのを忘れ、車で高速に乗ってから火を消したかとか冷蔵庫の扉がちゃんと閉まっているかが気になってしまい、PAに入って占ってみたら大丈夫だとは出たのだが、やはり気になると次のインターで降りてすぐ逆戻りし、再び高速で地元に戻って家まで帰って確認したのだが、結局何事もなかった。高速代940円と1時間を無駄にしたが、出かけている間中気になっているよりはましだ、と割り切ればいいかなとは思った。

さてこれでは時間的に遅くなって高速が混むと嫌だなと思ったのだが、昨日は基本的に順調で、八ヶ岳PAでトイレ休憩、次に釈迦堂PAでトイレに行ってすき焼き弁当を買ったのだが、どうもトイレが近くなって笹子トンネルを越えた初狩PAでもう一度トイレに行き、石川PAでもやはりトイレに行って、かなり早く家についた。たまりにたまった郵便物を整理し、お昼のタイミングは逃したが、家で弁当を食べて少しゆっくりして、銀座に出かけることにした。

4時ごろ出かけ、もう暗くなりかけていて、結構寒い気がしていたので長野県と同じ服装で出たが結構気温が高かったのか、少しウザったい感じがした。地下鉄に乗ってそれなりに混んでいたのでマスクをし、ワイヤレスイヤホンで「ふつうの軽音部」に出てくる曲のリストを聞いていた。

日本橋に乗り換えで降りたとき、もうマスクはいいやと思って外したら、左のイヤホンが引っ掛かって飛んで落としてしまった。慌ててあたりを探すが見つからない。若い男性が声をかけてくれて、一緒に探してくれたのだが見つからず、お役に立てなくてすみませんと言われたがいやありがとうございます、と言って分れた。そのあとも少し探したのだが見つからず、かばんの中に落ちたかもと思って椅子に座ってさぐってみたら、小ポケットの中にイヤピースが外れた状態であるのを見つけて一安心。さらに探るとイヤピースも出てきて、いやいやほっとした。ワイヤレスというのはこういうことがあるから怖いな、と再認識して、「曇天」を聞いた。

銀座線で銀座に出て、地上に出たがちょうど歩行者天国が終わる時間で、歩道が混み始めていた。教文館へ行って少し本を見たが、店内が混んでいる。3階のキリスト教書も混雑していたし、4階のエインカレムに行ってみたらそこも大混雑、カフェは開いていたが順番待ちの人たちが座っていて、これはダメだと思って外に出た。中国人は確かに少なめだったかもしれないが、聞きなれない外国語を話す人たちが結構多く、また欧米人も多い感じがしたが、何より圧倒的に日本人の人出が多く、三連休の中日の夕方にくるところじゃないなと思うなど。紅葉の高尾山の混雑も大概だったようだが。

https://x.com/aki_523kyy/status/1992463272763904352

人ごみをかき分けて有楽町駅まで歩き、山手線で神田に出て、中央線に乗り換えて御茶ノ水で降りた。聖橋の方に出たつもりだったのに御茶ノ水橋の方に出たので丸善にはよらず、駿河台の坂を下って行った。

神保町に出て最初に東京堂へ行き、ちょっと気になる本があったので他を見てから買おうと思って書泉グランデでマンガを見たが、とりあえず買いたいと思うのはないなと思い、東京堂へ戻って藤岡換太郎・原田憲一「扇状地の都」(小さ子社、2024)を買った。

https://amzn.to/3KiUw3C

京都はなぜ1000年の都になったのか、ということを地球科学から読み解く、という発想は面白いと思った。四神相応とか風水に叶った土地だというのは以前から読んだことがあったが、鴨川・高野川・桂川の複合扇状地であるから、という発想はしたことがなかったのでこれは興味深いなと思った。逆に言えば江戸・東京や大阪は三角州に発達した都市だということになるし、世界の各都市もいろいろな分析ができる気がした。

扇状地である利点は水はけがよいということと地下水が豊富であるという二点があって、この二つが両立するというのは確かに利点だなと思う。大阪は水がまずいというし、江戸・東京もわざわざ多摩川の上流から水道を引いたわけで、この点に関して言えば京都は優れている。ほかに利点がいくつも挙げられていて、この観点の話は面白いなと思った。

こういう地球科学的な話が文化に影響している例として、黒土地帯(チェルノーゼム)の分布というものもあるなと思う。

https://x.com/nobuyo5696/status/1992585086148206724

グルジアの料理はあまり知らないが、確かにアルメニアは料理が豊富だしワインも有名だ。それの背景に肥沃な土地があるというのはあるのかもしれない。グルジアは国土の空白地帯だというのは確かに指摘されないと気が付かないなと思う。そういう意味で恵まれた国、恵まれた場所というのは確かにあるなと思ったし、今日ともまたその観点から見てみるのは面白いだろうなと思った。

***

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/5a2b098afb76c05cdb514bc58e2cf599b141b9ed

高市首相の台湾有事発言をめぐって中国が威圧を強める中、日本人がどのように反応したか、をめぐる論考が面白かった。

https://x.com/KS_1013/status/1992616985801511281

「会談後に公開された映像には、劉局長がポケットに手を入れたまま日本側代表団と向き合う動画が含まれていた。当初、この映像は外交儀礼上の振る舞いとして報道されたにすぎなかったが、公開後、一般ユーザーが数秒間の場面を切り出し、字幕・加工音声・編集効果を加える形で短尺動画化し、SNS上で急速に流通し始めた。」

「利用者による二次加工を通じ、映像は

外交儀礼上の記録 → ネット文化における素材(ミーム)

へと構造的に転化した。すなわち、元映像に付与された一次的評価である「無礼な態度としての外交行動」という意味付けは、SNS上での編集・流通過程を経て、「嘲笑・風刺の対象として消費される二次的コンテンツ」へと乗り換えられたのである。」

これは私たちにとっては見慣れた風景なので、特に新しいものとして考えてはいなかったが、言われてみると世界的に見ても結構特異性のある文化なのかもしれないとは思った。中国外交部のテンプレ威圧文章を誰でも改変して書けるようにするのもあったが、外交的威圧を無効化しむしろ野暮な奴らだと笑い飛ばす文脈に転換するわけである。


「この反応形式は、日本社会が長い時間をかけて形成してきた「過剰に揺さぶられない情報処理の態度」を反映している。具体的には、次のような行動様式が見られる。

・外部から挑発的・攻撃的な表現が来ても、反射的に応戦しない
・映像の意味を必要以上に大きく受け止めず、距離を置いて処理する
・緊張をそのまま拡大させず、編集という形式で“社会的に中和”する
・政治的対立を不必要に煽らないという共有された文化規範が働く

この態度は、単なる消費的ユーモアではなく、情報を自律的に制御し、社会内部で緊張を均衡化する行動様式と位置づけられる。挑発を挑発として増幅させず、あくまで冷静に再解釈することで、緊張が社会に蓄積せず循環する仕組みが成立している。

国際政治の観点から整理すれば、これは国家の軍事力や政府声明に依存しない形の、「市民による非公式の抑止力」と解釈することができる。」


これはおそらくはかなりさまざまな論点を含んでいると思う。日本における風刺というものの役割とその変遷みたいなものは考えてみるとたくさんあるだろう。

風刺というものはもちろん古くからあるが、それらが歴史的に残っているものとして有名なのは、たとえば「建武の新政」の時の「二条河原の落書」だろう。あれは政府の混乱や身分秩序の紊乱などを風刺したもので、当時の日本人にとっては相当面白く感じられたに違いないと思う。

次に思い出すのは江戸時代の太田蜀山人などの狂歌で、「世の中に蚊ほど煩きものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず」みたいなものである。これも直接的にではなくダブルミーニングで幕政を批判しているわけで、真面目一辺倒の松平定信政権を笑い飛ばそうというものだった。

少なくとも江戸時代には幕府側の政策に対して市民側からそれを表だって批判するのではなく違う話にして笑い飛ばすことでガス抜きをする、という文化はあったわけで、それは戦時中でさえ「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」というポスターの工の字を消して「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」とし、応召や勤労動員などで男が不足した戦時下の社会を笑い飛ばす形で批判したわけである。

外国の風刺は直接的に相手に刺さるような風刺が多く、たとえばリア王の道化の例に見るように風刺は生々しい。しかし特に近年のミーム動画はそのような生々しさを敢えて避けて、外交上の意味を無効化することを面白がっているところがある。

このような考え方の始まりは古くをさかのぼることももちろんできるが、1980年代のいわゆる「面白主義」の影響が非常に大きいように思う。

面白ければ何でもいい、というのは確かにある意味よくないことだし、フジテレビの「面白くなければテレビじゃない」も近年は強く批判されてきているけれども、それはある意味弱者を笑いものにする部分があったということはある気がする。

しかし、こうした外交動画のミーム化においては「中国は理不尽にふるまう横暴な暴君」という前提があり、それを笑い飛ばすことは倫理的に正しい、と考えられているし、それは世界的に見ても進出を強める中国に対する反感や警戒があるからこそ受け入れられているという面はあるだろう。戦後のアメリカ帝国主義があちこちで風刺の対象になっていたのとある意味同じ文脈である。

この局面においては「面白主義」はむしろ正義のバックアップを受けて加速するわけだが、「中国は本当に危険な存在である」という認識も共有されているから、批判を行き過ぎさせる方向に行くのではなく、「政治的対立を不必要に煽らない」という自制が伴うので、より世界的な共感を得やすくなるということもある。

こうした日本社会の柔軟な反応は権威主義国家である中国の硬直した反応をさらに加速させる面はあるが、彼らは「怒り」というものの力を過信しすぎていて、「笑い」の力の恐ろしさを過小評価しているような気がする。

日本の場合は笑って対応し社会を落ち着かせていくが、そうこうしているうちにたまりにたまった怒りのマグマが急に爆発することはあるのだが、そういう文化的文脈は外国から見たらわかりにくいだろうとは思う。ただ、そういうものが高市政権に対する圧倒的支持につながっているわけで、中国の戦術は全く逆効果だとしか言いようがない。

こうした状況になるのは日本の成熟した民主主義環境がある、というのはその通りだと思うのだが、それだけでなく政治的な権力構造の威圧に対して、「笑い」を含む文化の力で市民社会的なバランスを取るという社会構造の強さが古くから形成されていた、ということはあるのではないかと思った。

しかし最近、特に岸田・石破政権下では中国を筆頭とする粗暴にふるまう外国勢力への阿りやフェミニズムやジェンダーなどの「新しい権力」に対して屈従する姿勢が強く、国民の間に不満が鬱積していたということはあるのだろうと思う。それが高市政権になってある意味文化的なルネサンスにもつながっているのではないだろうか。動画ミームの隆盛もその一環ではないかという気がしている。


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by Luke Peterson

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