「福音派」を読んでいる:共産主義の脅威と核戦争の恐怖の中で戦後アメリカの市民宗教を確立しアイゼンハワー擁立など政治にも大きな影響を与えたビリー・グラハムという存在/目の疲れ

Posted at 25/11/07

11月7日(金)晴れ

昨日は午前中に松本に整体に出かける。普段は10時に予約しているのだが昨日は10時半だったので30分余裕ができ、道路もやや空いていた。ただ余裕ができると余計なことを突っ込んでしまうので結局忙しなかったことに違いはないのだが。高速も相変わらず反対車線は混んでいる箇所があり、工事はまだ続いているのだなと思う。明日はその渋滞区間を少し通ることになるから、どんなものか。ある程度は早朝なので影響が少ないと良いのだけどなあ、とは思う。

整体では頭がざわざわしていること、お腹の具合は目の疲れの影響があるということなど聞いて、やはり目は休めないといけないなあと思う。暇ができるとスマホを見てしまう現代人としてはなかなか実行できないのが困ったところではあるが。

帰りがけにデリシア(スーパー)で買い物をし、少しショートカットルートを通って帰ってきた。帰りは一般道だが峠の辺りまでは順調でかなり早く帰れるのでは?と思ったが地元近くになって車が混んでいて、結局50分くらいだった。それでも普段よりは10分ほど短縮されているのだが。

帰る途中で当日発売のコミックスがあることに気づき、今寄って行こうかとも思ったがまず帰ってご飯を食べて出直そうと思って帰ってご飯を食べた。

2時半過ぎに出かけて銀行に寄ってツタヤに「パリピ孔明」23巻を買いに行ったのだが無く、時間が厳しかったのだがとりあえず違う書店まで走ったらあったので買ってすぐ引き返してきた。間に合ったのでよかったが、最近ツタヤのマンガの品揃えがイマイチになってきたのはちょっと困る。

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「福音派」読んでいる。第1章の第1節「原理主義者と福音派のはざまで」は戦中から戦後にかけてアメリカ社会に大きな影響力を与えた宗教者・ビリー・グラハム(1918-2018)について書かれているのだが、なんというかこの人についてはどうもよくわからないという印象が強くて、少し考えていたのだが、日本で言えば創価学会の池田大作氏のようなものというより、例えば安岡正篤氏のような存在、と言えばいいのかなという気がした。あるいは思想的な面での松下幸之助氏のようなものというか。アメリカの大衆社会への影響力の強さというのが際立っているが、私のような異国人にとってはどうも捉えにくい人物である。

原理主義から出て福音派を名乗るようになった宗教者・説教師がラジオなどを通じて全米に影響力を持つ、という構造自体が理屈ではわかってもなんか魂が受け入れを拒否すると言ったら変だが、まあそれがアメリカというもので、こちらにとってアメリカというものを受け入れにくい部分の一つだ、ということなのかもしれない。

彼を押し立てた一人が新聞王ウィリアム・ハーストであり、グラハムを原理主義者としてというよりは反共の信念を終末論的に昇華する神のメッセンジャーとすることだったのだという。ハーストが支援した1949年9月から始まる「ロサンゼルス広域のためのキリスト」というイベントがあったが、ちょうどその二日前にソ連の核実験成功をホワイトハウスが伝え、イベント期間中には中国に共産党政権が成立して、全米が共産主義の脅威に動揺していたまさにその時期だった、という歴史感覚は理解できる。

グラハムは「共産主義は単に経済的な理解にとどまらない。共産主義は宗教である。それは全能の神に戦いを挑んだ悪魔自身によって鼓舞され、指導され、動機付けられた宗教なのだ」と演説し、アメリカ国内ではキリスト教や道徳は軽んじられ、国外では無神論的な悪魔の操る共産主義が跋扈している。だから人々はキリストの福音を受け入れ、悪魔との最終戦争に備えなければいけない、という論理である。

まあ我々から見たら荒唐無稽な陰謀論のように見えるが、このイベントは合計35万人が参加し、3000人が信仰を告白し、ハーストの尽力によりタイム・ライフ・ニューズウィーク・ニューヨークタイムズなどに大々的に取り上げられ、グラハムの名声は不動なものになったのだという。

戦後のアメリカ人の危機感、つまり共産主義の脅威と核戦争への不安はアポカリプスや終末論に現実味を与えていたということは、1962年生まれの日本人の私にも理解できるが、それがグラハムの成功に寄与したといわれると理解しやすいかなとは思った。日本では共産主義はともかく核戦争への危機感はあったし、「ノストラダムスの大予言」のようなオカルト的な形でそうした世界の終わりは意識されていたが、そこに宗教がからまずオカルトやスピリチュアルに流れたのが日本の特徴なのかもしれない。この当時に日本の新宗教団体などがこの辺りに関してどういう発言をしていたのかなども気になるところではあるが。

ただ私は子供だったからより核戦争を強く感じたが、日本でも主流の保守的な生活感覚を持った人たちは共産主義の脅威を感じていた人は多かっただろうとは思う。しかし日本ではアメリカと違って共産党が非合法化はされず、公安調査庁の監視対象になったくらいで済んでいるのは、日本がその対立のある種境目あたりに位置したことと関係はあるのだろうと思う。

一つ大きいと思ったのはグラハムなどの主張は宗教的なアイデンティティという点で古き良きアメリカの伝統を守るという「アメリカの市民宗教」の形成に寄与した、ということだろう。日本にも日本教とも呼ばれるある種の市民宗教はあるとは思うが、そういう感じのアナロジーとしては理解しやすい面がある気がした。

グラハムが特に深く関わったのがアイゼンハワー大統領の擁立と宗教面からの支持だ、というのは結構へえっと思ったのだけど、私もアイゼンハワーという人には結構関心を持って調べようと思ったことがあったのでこれは面白い事実だなと思った。アイゼンハワーという人は宗教心はあるのだが特定の教会に意志的には属していないというちょっと変わった人ではあるから、グラハムのようなタイプと相性が良かったのかなという気はした。

この政権下で国旗への誓いの文句にUnder Godという言葉が付け加えられ、紙幣にIn God We Trustという言葉が印刷されるようになり、大統領や上下両院の議員が参加する全米祈祷朝食会が始まった、というのはへえっと思った。

そういう意味ではグラハムは福音派独自の存在にとどまらず、「共産主義の脅威に対する汎プロテスタント的な市民宗教の重要な一部」であるというのはよくわかるし、彼が「アメリカの牧師」と言われ市民宗教の大祭司とみなされた、というのは納得できるものがあると思った。

ということで今日はここまで。33/291ページ。

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